4-5.薄れゆく死

 見慣れぬ小さい町の中は狂ったような悲鳴と怒号、恐怖の声であふれ、それでも必死に生き延びようと誰もが避難所や家の中に隠れようと躍起だ。手近な宿場はもう人で満員だったし、酒場も一件にはすげなく断られた。住人たちが先、そういわれてはグリュテには反論の余地がない。


 食料のこともあるだろうし、そこまで考えて、意外と冷静な自分にグリュテは苦笑した。


 石造りと木造りの建物が交互に並ぶ建物を見て、やはり石造りの、頑丈な建物には人影が多く覗けることに納得した。地下に掘られたという避難所も満員に達したためか、そこを守る兵士がグリュテたちの姿を見、厳しい顔つきで首を振ってくる。


 だとすれば、今一番空いているのは木造りの建物で、海に近いところだろうか。海の様子を人々も見たはずだ、好んでアーレ島に近い浜辺付近にとどまろうとするものは、そういないだろう。


 頭に響く声は聞こえず、不思議に思いながら後ろを振り返る。シプは消沈しきった顔を隠そうともせず、無言を貫いたままグリュテの後を大人しくついてきている。


「シプさん、一旦海沿いまで行きましょう。空いてる場所があると思いますから」

「あんたは」


 軽くうつむいていた顔が上げられ、影りを帯びた固い、彫像のようなおもてと目が合う。


「怖くないのかい。好きな人と離れて、死ぬかもしれない想像ばかりするなんて。告死病こくしびょうってのはそういうのも平気にしちまうもんなのかい」


 遠くで、兵士たちの声がする。ものが崩れる音も。入り口近くから大分離れたけれど、それでもグリュテの鼻には血潮の臭いが潮風に混じり、入りこむのがわかった。


 ごめん、と小さくシプが謝った。グリュテは小さく頭を振った。


「わたしは、セルフィオさんを信じてるだけです」

「でも、あんな数相手にして、無事だとは思えない」

「声なら、状況ならいつでも聞けます。この指輪で。わたしにできることは、今、シプさんを無事なところに届けることです」


 目的を見誤ってはならない、そうキリルがいっていたことを思いだして、グリュテはいつの間にか離れていた手を、もう一度強く握った。


「グナイオスさんは、迎えに来ます。シプさんを。あの人は約束を破る人なんですか?」


 そんなことない、いって、シプは激しく横に首を振る。こぼれた涙が宙に雫を作る。泣いていたことにようやく気づいたのだろう、シプは乱暴に、あらわになった二の腕で頬を拭った。泣き出しそうな顔が、それでも美しく歪んでいる。


「だめだね、恋をすると弱くなる。あたしみたいに普段勝ち気な女は特にさ。あんたは、どうやら逆みたいだけど」

「そんなことないです。わたしだって」


 不安はある、その言葉を飲みこんで、グリュテは再び前を向き、歩き出した。グナイオスやノーラ、通り過ぎていった兵士たちの死は、いくらでも思い描ける。でも、やっぱりセルフィオの死だけは想像することができない。それを心は許してくれない。


「海も危険じゃないのかい。だってあっちには」


 いわれて、グリュテは眼下に広がる海を見た。十数刻は経ったと体感にはあるが、まだ、黒はアーレ島周辺にしかない。影を帯びた渦を巻く雲も、風にかかわらずアーレ島の真上に集中している。この速さなら、きっと黒がこっちに来るのは明日過ぎになるだろう。


「休むことも必要です。今なら大丈夫だと思いますから」


 そうはいうものの、黒の動きがどんなものか、グリュテは見たことがない。突然海沿いに来られたら一巻の終わりだ。海にある程度近く、それでも走れば上を目指せる中間地点ほどがいい。


 時間は、夕刻過ぎに差しかかったと見るべきか、少しずつ空が夜の帳を下ろし始めている。グリュテはシプを連れ、家を何件か回った後、あきらめたかのように逃げることを放棄した酒場の老いた主人に頼みこみ、その中に入れてもらった。海に少し近い場所だったけれど、それでも休める場所が確保できたのは幸運だった。


 酒場の中には数名の人間がいた。自棄酒にするつもりなのか、蜂蜜酒を主人に請うもの、絶望で顔を染め、ただ机に突っ伏しているもの、様々だ。赤子をあやしつけている母親は、今にも泣き崩れそうな憔悴しきった様子だった。


「足、疲れましたよね、座りましょう」


 蛇がくねったような道をずっとたずねて回って降りてきて、シプの体力は限界に近かったのだろう。しなだれかかるように空いていた椅子に腰かけた。空いていた向かい側の、二人用の席にグリュテも座る。足の裏が少し痛むが、まだ耐えられないほどではない。足の強さに感謝しているところに、主人の奥方と思しき老婆が、水を持ってやってきた。こんなものしか出せないけど、申し訳なさげな老婆に礼をいい、筒盃を一つ、シプの前に押し出した。


 渇いた喉に、少しぬるい水はそれでも心地がよかった。一気に目が覚める。シプものろのろとした動きで、少しずつ水を口に含みはじめた。


 妙な視線を感じたのは、木でできた筒盃を机に置いたときだった。もうすでに、家から酒を飲んでいたと思しき男性数名が、こちらにいやな、粘っこい視線を送ってきている。グリュテと共にいたシプの足にそれは注がれており、でもシプは、疲れているのかその視線に気づいていなさそうだ。


 グリュテは横目で、ちらりと視線の方を見た。下卑た笑いを浮かべてシプを見つめている。いやだな、となんとなく思ったとき、ふらふらとした足取りで、男の一人がグリュテたちの席に近づいてくる。酒精の香りが鼻をつき、グリュテは眉をしかめぬよう必死で顔を澄ましたままにするのがやっとだった。


「あんたら、見ない顔だな」

「はあ」

「あんたに聞いてねえよ、嬢ちゃん。そっちのべっぴんさんに聞いてんだ」


 シプは顔を上げず、机に顔を伏せたままで動こうとはしない。


「疲れてるんです、そっとしてあげて下さい」

「うるせえなあ。おい、べっぴんさん、お前も無視かよ」


 まずい、とにぶいグリュテでも危機感を覚えた。シプがゆっくり顔を上げると、男たちのどよめきは大きくなった。シプの顔は真顔で冷たく、でもそれが逆に美しさを際立たせているように、グリュテでも思う。そっと助けを請うように他の客や主人を見たが、目線を外される。あえてこちらを無視しているのだと理解できた。


「あたしになんか用事かい」

「顔に似て、声まできれいときたもんだ。なあ、あんた、格好からして娼婦だろ? 慰めてくんねえかなあ、おれたちのことさあ」


 男の仲間か、それとも知り合いか、どちらでもないのかもしれない。若い男たちがどっと笑い声を上げた。シプは鼻でそれをせせら笑う。


「誰があんたらの相手なんてするもんか。あたしの恋人はね、今必死で、命張って入り口側で戦ってるんだよ。酒に逃げてるあんたらなんか、目じゃないんだ」


 シプの冷徹な声音はしかし、男たちを煽るだけのものにしかならない。


「娼婦に恋人、こいつはお笑いだ。どんなげてもの好きか見てきてやろうか」

「そんなのどうでもいいじゃあねえか、なあ、いいから夢見させてくれよ」


 グリュテたちが座っている壁側に、男たちがにじり寄ってくる。


「やめて下さい」

「うるせえ、邪魔だ!」


 グリュテがかばうようにシプの前に出たとき、その頬を思い切り、ノーラに叩かれた以上の強さで容赦なくはたかれる。


「グリュテ!」

「姉さんの相手はオレらだっての」


 グリュテが倒れた横で、男たちがシプに押し寄せる。痛い。痛かった。甘美さなんて微塵もなかった。ただ頬が灼熱を帯びて、口の中に血がにじみ、思わず床に吐き出した。それにも甘さを感じない、ただの鉄臭いいやな味としか思えず、グリュテは唖然として、それから慌てて振り返る。


 シプの両手を掴んだ男が、股間に蹴りを食らって悶絶する。しかし他の数人がその足を、腰を押さえ、シプを机の上に貼りつけにするみたいに押し倒していく。大きくはだけた胸近くに手を這われ、シプが嫌悪で顔を歪めているのが見えた。突然の騒ぎに側にいた赤子が泣き出した。


 だめ、とグリュテは両手を握りしめる。夢を見させる。男の言葉に、グリュテはこれ以上ない作り笑いを浮かべ、立ち上がった。


「夢なら、わたしが見させてあげましょうか?」

「あん?」


 わざとこびるような声音でいうと、男たちが胡乱げにこちらを見た。その一人一人の顔を見て、思い描くのは死の瞬間。術を使うまでもない。数人の男たちに向かって手をかざし、集中する。


 水妖馬ケルピンをはじめとする<妖種>に食われ、あるいは斬り伏せられていく瞬間を想起する。男たちの頭の中に直接水を注ぐように、思い描いた場面と死の瞬間を固めた氷で串刺しにするみたいに、男たちの心をグリュテの白が貫いた。


 情けなく悲鳴を上げ、男たちはその場に腰を抜かし、シプから手を離した。這いながら逃げ惑う男たちを、しかしグリュテは容赦せず、指でさしてもう一度、頭蓋の奥に強く濃く、死の瞬間を送りこむ。


 絶叫がとどろき、男たちは酒場の出口に殺到し、外に飛び出していく。シプは呆然と、貼りつけにされたような格好のままグリュテを見てきていた。赤子の泣き声が止まないから、振り返って母子に目をやる。母親の方が恐ろしいものを見ているような目つきでグリュテをにらみ、赤子を抱きかかえる手に力をこめた。


「大丈夫ですよ」


 グリュテは作り笑いをやめ、なんとか人好きのするような、安心させるほほ笑みを浮かべてしゃがみこみ、赤子に手をかざした。


 思い描くのは楽しかったこと、喜びの感情。セルフィオと共に過ごした、優しい日々。


 水のせせらぎや海のさざなみ、森を透かす美しい日差しをしかと思い出し、そっと赤子の額に触れると、すぐに赤子は泣くのをやめ、一瞬惚けたような顔を作って明るいはしゃぎ声を上げた。母親が、驚いたように自分の子供をまじまじと見る。


「怖かったですね、でも、もう大丈夫ですからね」


 そういって、赤子の頭に手を触れる。温かい生の象徴に、グリュテの胃はひくつくことなくしっくりとなじんだ。死が、薄れている。自分の中に確固として存在していた死が、朝もやのように少しずつ消えてなくなるみたいに晴れていく感触を、グリュテはしかと感じた。


「グリュテ、ほっぺた、大丈夫かい?」


 楽しそうに母親の手を掴む赤子から離れて立ち上がると、シプが後ろから、未だ嫌悪を残した声音でたずねてくる。頬はまだじんじんと痛むけれど、それがなんとなく嬉しい。痛みを感じる、生きていることの証に、グリュテは柔らかくほほ笑んだ。


「大丈夫です。シプさんも危なかったですね」

「ありがと。平気だよ、あんたのおかげだ。まったく、ろくでもない奴ばかりがいたね」

「すまんの、お嬢さん方。あいつらはごろつきでの、無理やり押しかけられてしまったんだ。助かったよ、ありがとう」


 酒場の主人が、どこかすまなさそうな様子でいって、安堵の表情を作った。連れ添いの老婆も朗らかな笑みを浮かべながら、隠していたのだろう、薬軟膏が入った貝殻の入れ物を差し出してくる。


「これでここにいるみなさんに、食料が行き渡りますよ。さあお嬢さん、安物ですけどね、これで頬の傷を治して下さいな」

「ありがとうございます、使わせてもらいますね」


 紅色の軟膏をちょっとだけすくい、グリュテは打たれた頬に塗る。冷たい感覚が心地よい。寝息を立て始めた赤子から目を離し、母親もグリュテに感謝の意を告げてくる。みんなから礼をいわれて、グリュテはちょっとむずがゆくなった。今まで白を使い、感謝されたことなんてほとんどなかった。グナイオスたちには、船上での戦いで助かったといわれたけれど。


 白を使うことに、抵抗がないわけではなかった。それでもここにいるシプを、知らないみんなを守ることができたのだと思うと、暖かな感情がグリュテの胸に灯る。もしかしたらもっと、なにか役に立つことができるかもしれない、そう考えたりもする。そのために必要なのは知識で、今のグリュテには一歩、それが足りない。


 白の知識、それを探る方法は今、グリュテには一つしかなかった。


「あの、二階ってお二人のお部屋ですか?」

「そうじゃが、今は交代で休むときなんかに使っておるよ。使うかい?」

「はい。少しの間、お願いします。シプさん、一緒に来てくれますか」

「あたしはいいけど、他の人は大丈夫かね」


 幼子を抱く母親に目線をやると、大丈夫、というようにうなずかれた。老婆も何度も首を縦に振っている。


 主人が案内を兼ねて、二階に招くように先を行く。グリュテとシプはその後に続き、木でできた階段を上がっていく。少し狭い通路に、二つ並んで部屋があった。


 部屋は小さく、机と寝台しかなくて素朴だった。でも窓があり、海が見える。黒は未だその動きを速くしてはおらず、しかしゆっくりと、確実にこちらに近づいてきていた。


 主人が外に出て、グリュテはシプと共に部屋に二人きりになった。


「シプさん、わたし、これから夢を見ます。黒が変な動きを見せたり、なにか問題が起きたらすぐに起こしてくれますか?」

「よくわからないけど、なにかあれば起こせってことだね。わかったよ」


 シプは寝台をグリュテに譲ってくれ、机の側にあった椅子に腰かける。はだけた服はもう元に戻っていて、胸元もきっちり隠れている。窓を真剣に見つめるシプを置いて、グリュテは寝台に寝そべった。


 エコー、おばあちゃん、と胸元から真珠を取り出し、それを両手で握った。わたしに力を貸して。心の中で必死に念じていると、真珠が呼応するかのように、ほのかに光を帯びた。その光はたちまち強くなり、グリュテの意識を夢の中にいざなった。

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