4-3.わたしが死んだ方がいい

 アーレ島が少し、近くに見える。今は交戦状態にないのだろう、空を飛ぶ二脚翼竜ワイバーの姿はなく、ただかもめが鳴き声を上げ、島の周りを飛び交う姿だけは確認できた。薄曇りの中で聞こえる鳴き声はどことなく不思議と心地よい音に聞こえ、グリュテはほとんど山のない島を高台からぼんやり眺めていた。


 あそこが君の死に場所だ。頭の中で偽りの声が聞こえる。アーレ島、自分が行くべき場所、行くことを望まれた島。その島のそこら中から様々な色の輝きが見えて、グリュテは小さく感嘆の声を上げた。立ち上っていく光は雲の中に螺旋を描き、濃淡を描いて消えてゆく。誰もがあそこで死んでいる。また一人、一人と死んでいく様を思い起こしながら、グリュテはしばらく光に見惚れた。


 高台は弩弓の群れの側にあり、それを見張る兵士たちの顔は疲弊の極みにあった。上から望める様子からして、誰もが小さく作られた石の囲いに背を預け、暗い表情をしているのが見て取れる。最前線近くの島だ、緊張もするだろう。


 あの人たちもいつか死ぬのかな、そんな不謹慎にもほどがある感情をとどめて、グリュテは強い風に巻かれた髪をそっと、手で押さえる。


「なにを見てるの」


 背後から突然声をかけられて、でも聞き覚えのある声にグリュテは振り返る。ノーラだ。つまらなさそうな、どこか退屈そうな顔をして、彼女は同じくアーレ島を見ている。


「アーレ島を見てました」

「戦場ね。今日は休んでるみたいだけど。こないだまではまだ、小競り合いしてたみたいよ」

「そうですか」


 高台の縁に背を預け、ノーラはため息をついた。持っていた戦斧は影に隠されているのか、手にはない。白い甲冑がまぶしく見えて、グリュテは目をちょっとだけ細めた。


「まあ、今度の会談で戦いが終わるなら、それに越したことはないんじゃない。無駄に死ぬ意味なんてないし」

「ノーラさん、退屈そうですね」

「暇も暇、シプの護衛も大抵グナイオスがやっちゃってるし。というより、ろくな<妖種>がいなくてうんざりするわ」


 きっとノーラは、生粋の戦闘商業士なのだろう。船上で戦ったときの様子をこっそり見ていたが、セルフィオがあまりに簡単に<妖種>を殺していく姿へ、どこか苦み走った顔をしているのを覚えている。生け捕りにしたいという気持ちが勝っていたはずだ。


 左手で突風に煽られた前髪を押さえたとき、セルフィオからもらった指輪がちらりと見えて、ちょっと疑問に思って聞いてみる。


「あの、ノーラさんは天護国アステールのことに詳しい人だと思うんですけど」

「だったらなに?」

「指輪って、あの国じゃどんな意味があるんでしょう」


 ノーラはこれまた、つまらなさそうに大きく息を吐いた。


「生涯かけて守る相手に送るもの」

「はあ、そうですか」


 騎士の誓いとどう違うんだろう、そう思ってグリュテはつい、軽い返事をしてしまう。ノーラが片目だけを器用に細め、首をひねるようにこちらを見てくる。


「生涯とひとときって、違う意味わかってる?」

「騎士の誓いと同じようなものですよね」

「……まあいいわ、本人に聞けばいいことでしょうし。それよりあなた、シプたちの話に入らなくていいの?」

「シプさんやノーラさんたちには、迷惑かけちゃってると思ってます」


 恥じ入るようにうつむくグリュテへ、ノーラはなにもいわない。


 高台にある食事所を使い、今、セルフィオとシプがなにやら話していることをグリュテは知っている。シプに、そして共にいたグナイオスやノーラに全て、ありのまま伝えたことも。途中の休憩を利用して、グリュテは一人高台の端の方に来たのだ。


「あなたも大変ね。死ぬためにアーレ島に行くなんて」


 そうはいうが、ノーラの言葉に悲壮感なんてものは微塵もなかった。ひとごと、そんな口ぶりはしかし、正しい。彼女はシプの友人であって、グリュテの味方でも敵でもない。


「死ぬのが怖いわけじゃないんですけどね」

「どうして? それが告死病こくしびょうなわけ?」

「多分、そうだと思います」

「報われないわね、あの騎士様も」


 ノーラの言葉は簡潔だが、事実だ。守る、そういってセルフィオが試行錯誤、あれこれ動いてくれることに申し訳なさを感じるのは、多分グリュテが抱く死への渇望が根本にあるからだろう。


 逃げたとして、告死病こくしびょうからはきっと免れない。そも、逃げるといってもどこに逃げればいいのか、グリュテには見当がつかない。話では神権国ガライー辺りが一番よさげだ、そこまでは聞いている。けれどグリュテが生きている限り群島国ダーズエが、天護国アステールがグリュテを追ってくるだろうし、その途中セルフィオになにかあったら、そっちの方がいやだ。だから、とグリュテは真珠を押さえるようにそっと胸に手をやる。わたしが死んだ方がいい。


 グリュテは再度、アーレ島を見た。自分が行くべき場所はあそこであって、神権国ガライーではないはずだ。逃げてもなにも変わらない、それを自分はわかってしまっている。そこがグリュテとセルフィオの意見が食い違うところで、申し訳なく思う。セルフィオの行為を無駄にばかりしているな、と、左手の指輪を撫でるように触る。


 守られる理由なんて、もうグリュテにはない。それでもこの指輪を外したくないのは、やはり慕情がそうさせるからだろうか。セルフィオがくれたものをなに一つ、無駄にはしたくない。そう頭では考えるのだが、実際やっていることといえばなんだろう。


 ため息をついて、横目でノーラを見る。やはり退屈そうで、大きく伸びをする姿はまるで猫のように思えるしなやかさを彼女は持っていた。


「そういえばノーラさん、しむ……黒の王について、なにか知ってますか?」

「突然変なことを聞くのね」

「ノーラさんは戦闘商業士だから、そういうものも見てきたんじゃないかって」

「一度だけ見たことがあるわ。あれは死とか、そんなもの、超越していた」

「黒の王が呪いをかけるとか、そういうことってあるんでしょうか」

「なにそれ。存在自体が呪いよ、いうなれば。汚染された『詞亡くし者いじん』を呪われた存在、そう呼ぶ人もいるみたいだけど」


 なるほど、巧みないいまわしだ。グリュテは納得してうなずく。


「魂を冒されるって、どんな気分なんでしょう」

「私に聞かないでよ。『詞亡くし者いじん』になったことなんて、ないんだから」


 唇を尖らせていうノーラの顔はどこか少女じみていて、顔を覆う凍土に満ちた冷たさが少しだけ、溶けたような気がした。だから素直に、グリュテは心情を吐露した。


「死には憧れますけど、黒は怖いんです」

「普通死にも焦がれないとは思うけど……黒が与えるものは無だから」

「無、ですか?」


 今までにない単語を出されて、そういう考えもあるのか、とグリュテは目を丸くした。ノーラは枝毛を気にするかのように、弧を描く横髪を指先でいじりながら続ける。


「黒についてわかってることなんて、人を襲うこと、生き物の魂をむさぼる存在程度でしかないわ。そんな奴が与えるものは無よ。なにもない、ただそれだけ」

「お腹の空いた、哀しい生き物っていう琴弾きさんがいたらしいんですけど、そうなんでしょうか? だからみんなの殊魂アシュムをほしがるんでしょうか」

「なにその言葉、格好つけすぎの三流もいいところね」


 ノーラは唇を歪めてみせた。辛辣すぎて、グリュテはなにもいい返せない。


「でも、一部分では正解かもね。強い負の感情に呼ばれるらしいし。だから戦場によく出現するっていうのは神殿の見解みたいだけど、迷惑の限りだわ」

「強い、負の感情……」

「妬みとか恨みとか。まあ、本当かどうか怪しい類いの噂話よ」


 ノーラの言葉に、グリュテが思い出すのは夢で見たティゲニーだ。彼の哀しいまでの強い怒り、妬みなどといった感情は、グリュテの頭にこびりつく泥のようだ。乾燥しても落ちない粘着性の泥、それはいやでも夢に現れた黒の王を想起させ、グリュテは少し、身を震わせた。


「寒いの?」

「いえ、少しだけ、怖くなって」


 ノーラの言葉に嘘をつき、グリュテはぎこちない笑みを浮かべた。


 『詞亡王しむおう』、黒の王が与える死は、確かにノーラのいうとおり虚無だ。汚染された殊魂アシュムは砕け散るだけ。決して天に、坐に還ることはない、ただ壊されるだけの存在。それを死と呼べやしない。冥府にもたどりつけない哀れな最期を遂げるものに、美しさなんてこれっぽっちも感じることができなかった。


「ここにいた」


 落ち着かない沈黙を破ったのは、露出した階段の下から登ってきたセルフィオだ。彼は強い風に頭の布を飛ばされないよう頭を押さえながら、グリュテたちの元にやってくる。


「グリュテ、浮かない顔をしているね」

「そうでしょうか」


 浮かない顔といわれて、グリュテは思わず自分の顔に触れた。少しこわばっているのか、笑顔が硬いのが自分でもわかる。


「なにかされた?」

「誰にですか?」

「ちょっと、私のことなんだって思ってるのよ」


 セルフィオが少し厳しく、ノーラをにらむものだからグリュテは慌てて首を振った。


「ノーラさんとは、ちょっとおしゃべりしてただけですよ」

「そうかな? やけに緊張しているみたいだから、空気が」

「そんなの私のせいじゃない。勝手に決めつけないで、気分が悪い」


 にらまれたノーラは怯むことなくセルフィオへ吐き捨て、子守もいいところね、そんな言葉を残してさっさと立ち去ってしまう。セルフィオが申し訳なさげに、振り返りながら頬を掻いた。グリュテはノーラの残した子守という声に、胸が少し痛んだのを感じた。


 子供扱いされている、そう思ったことは一度もない。けれど、守るという立場を崩さないセルフィオがしていることは、妹に対して接する兄のようなものではないか、そんな疑念が浮かんでは消える。気遣いと誠実さ、その二つだけで十分だと考えているのに、心はどこまでも貪欲だ。もっと違うものを欲していている自分が確かにいて、嫌気がさす。


「すまない、いろいろ過敏になっているのかもしれない、俺は」

「ノーラさんには、黒の王について教えてもらってたんです。それだけですよ」


 ノーラを見送ったセルフィオが困ったように笑うものだから、グリュテもまなじりを下げた。確かに慣れないノーラとの間に緊張はあったかもしれないが、それはグリュテが黒の王について考えていたからで、彼女のせいではない。彼女は敵でも味方でもなく、完全な第三者で、でも時折見せる優しさと知識は本物だとグリュテは思っている。


「だめですよ、ノーラさんに当たったら。いろいろ教えてくれるいい人です」

「教えてくれるって、黒の王についてかい?」


 アーレ島を見ることなくまっすぐとした視線で率直にたずねられて、うなずくような、首をひねるような動作をグリュテはとった。


「それなら、俺が教えてあげられるのに。どうして俺に聞かないんだい?」

「違う視点も必要かなって」

「俺だって、違う方向から黒の王を見られるさ」


 なんだかセルフィオの言葉は子供じみていて、拗ねているようないい方だ。気分を悪くさせちゃったかな、そう思い、すみません、と小さく謝ってみる。


「いや、君が謝ることじゃあないよ。それにしても黒の王のことについて話してるなんて、ずいぶんそれを気にするんだね、グリュテ」

「過程を見るものだって、その、キリルさんにいわれてたことを思い出しちゃって」

「君を欺いた兄弟子の言葉を、まだ大切にするのかい?」


 どこか棘のある言葉に、グリュテは目をまたたかせた。ラクセクで聞いた、冷たく厳しい声音にも少し似ている。だがグリュテは笑う。ごまかす笑顔ではなく、素直な笑みを浮かべてセルフィオを見上げた。


「わたし、お師匠様やキリルさんを恨んでません。だって国の決定なら、仕方のないことでしょう?」

「それはそうかもしれないけれど」


 子供がするように顔を背けられ、それでもグリュテは笑みを保つ。セルフィオは長躯を折り曲げて、囲いの端に肘をつきながら遠い目をした。


「考えてみれば、一介の騎士に依頼をすることの方がおかしかったんだ」

「どういうことですか?」

「重要な国の作戦、というなら、放浪の騎士じゃあなくて、国づきの騎士をつけた方がいい。そっちの方が確実に秘密を守れるし、君が告死病こくしびょうを進行させてもお構いなく、任務を遂行するだろう」


 いわれれば、とグリュテもまた、海に目をやりながら唇に指を当てた。視線を感じ、横を見る。セルフィオが優しい目つきで、グリュテを見ていた。


「おかげで俺は君と出会えたわけだけれど。ここはやはり、感謝すべきなのかな」

「わたしも、国仕えの騎士さんとなら、きっと緊張して上手く旅ができなかったかもしれません。セルフィオさんで、本当によかったと思ってます」

「君がそういってくれるなら、それでいいんだ。それだけで俺は報われる」


 報われている、セルフィオの言葉にこちらこそ、そう思って笑みを深める。セルフィオだから恋ができた。死にゆくべき自分が、ほんの少し希望に似たなにかを持てたことに、グリュテは感謝している。過去にあった出来事をさし引いても、自分の騎士はセルフィオだけだと、今ならはっきりいえるだろう。


「君は優しいね、グリュテ」

「そんなことありませんよ。優しいのは、セルフィオさんの方です」

「前にいったろう? 自己満足だよ。自分がそうしたいから、そうしているだけ」

「でもその優しさが、わたしを救ってくれました」


 左手にはめられた指輪をそっとなぞり、刻まれた赤花一華の刻印を見つめる。グリュテが死ぬとき、これも一緒に燃やされるのだろう。共に坐に還ることができる、そう思うと心が落ち着く。


「じゃあ、これもやっぱり自己満足なんだけれど。一緒に逃げることに、君はまだ、反対しているのかな?」


 穏やかな声音で聞かれて、グリュテは素直にうなずいた。


「逃げても病は変わらないと思うんです」

「確かにそうだけれど、もしかしたら治す方法が見つかるかもしれないよ」

「でも、この真珠がある限り、わたしは国に狙われます。傷つくのはセルフィオさんです。わたしはそんなの、いやなんです」


 自分が発する声はどこまでもかたくなで、頑固な自分を新しく発見したような気がして、グリュテは笑みを苦いものに変えた。


 真珠を捨てる、その考えも一瞬浮かんだりもした。でもその方法をとったとして万が一、他の国の諜報機関に拾われたら。それが気になって、どうしても外すことができない。国に殉ずるなんて気持ちはグリュテにはないが、それでも群島国(ダーズエ)のことは好きだ。生まれ育った、大切な土地だ。国が傾くようなことがあるのは避けたい。


 でも、やはり真珠を持って逃げれば、追っ手がかかることくらいグリュテにはわかっている。グリュテでもわかるようなことを、セルフィオが考えていないはずがない。自分を見るセルフィオの顔が陰るのを、グリュテは気づかないふりをする。


 国からも守る、そう強くいい続けるセルフィオの気持ちは、これ以上なくありがたい。しかし真珠も、セルフィオも捨てられないグリュテに残された道は、一つだけだ。


 グリュテは静かに、アーレ島を見た。あそこに行かなくては、そう思って目を細めたとき、とある異変にグリュテは気づいた。


「あれ?」

「どうかしたかい?」

「光が、消えてる」


 身を乗り出すように、グリュテは目をこらした。


 先程まで島中から立ち上っていた光の粒が、消えている。灰色の雲は陰りを強くし、天を覆うように広がりはじめているのだけれど、そこにまたたいていた死者たちの光が、一切見えなくなっていることにグリュテは首を傾げた。


「光というのは、殊魂アシュムの光のことだね」

「そうです。おかしいな、さっきまでいろんなところから見えてたのに」


 ううん、とうなった刹那、下にいた兵士たちがざわめきはじめ、動き出すのをグリュテは見た。彼らはなにごとかをささやきあい、高台を急いで降りていく。向かう先は、町の入り口だ。


「フィオ、グリュテ!」


 下からざわめきを破る声が届く。シプの声で、妙に固い。


「ちょいと来とくれ、入り口の方に誰か、倒れてる」


 シプの言葉に、グリュテはセルフィオと顔を見合わせた。

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