4-2.稀代の遺志残し
弧を描いた箱の蓋が完全に開かれると、中が蝋燭の明かりに暴かれる。中は、空だ。底の隅に小さく折りたたまれた、一枚の紙切れしかなかった。
「これは手紙かな」
「読ませてください」
セルフィオに紙切れを渡され、グリュテはたたまれた手紙のようなものをそっと開く。中には見知った師の文字で、簡潔に一言だけが書かれていた。
――このものの死体は、荷物を含め全て焼却すること。
ああ、とちょっと歪んだ文字をなぞり、グリュテは大きく息を吐く。ティゲニーの言葉こそ真実なのだと思い知らされ、それでも今まで面倒を見てきてくれた恩師を、恨んだりすることがどうしてもできそうにない。
「見てもいいかい?」
セルフィオの声に、グリュテは黙って力なく、紙切れを渡した。中を見たセルフィオの顔がしかめられ、端正な形の顎が引き締まるように首元に近づく。
「やはり、少しおかしい」
「おかしい?」
「そう。真珠だけが問題なら、君が死ぬ必要なんてないはずだ」
「
藁に座り直し、箱を手持ち無沙汰に開閉する自分の声は、思っていたより小さい。だがセルフィオは大きく頭を振った。巻かれた頭の布から、白藍の髪が数本、ほつれて見える。
「もしかしたら君と真珠が共に存在することで、エコーの、君の祖母の再来を彼らは恐れているんじゃあないかな」
「おばあちゃんの、ですか?」
「うん、稀代の遺志残しといわれるエコーがなにをしていたか、君は知っているかい?」
同じく藁に腰を落としたセルフィオの問いに、グリュテは小首を傾げた。少し考える。
グリュテが知っているのは、象徴媒体だと思っていた真珠を形見に残してくれた、セルフィオに頼んで自分を中央島まで逃がしてくれた、くらいのことだ。稀代、とあるのだから、よっぽど凄い遺志残しだったんだろう、その程度までしか推測がつかなかった。
「エコーの能力は遺志残し……というよりも、白の全てを体現したようなものだったと聞いている。夢を使い、相手の心に入りこみ、記憶を読み取ったりするという力だ」
「白で、それは普通じゃないんですか?」
「いいや、違うよ。例え相手が同じ白持ちでも、たやすく入りこめたと。一度心を読んだ相手の記憶なら、夢に見て明確に、時代や時間も関係なく、読めたと……俺はそう聞いた。過去も現在も、もしかしたら未来も見えたかもしれない。白がどんなに強くても、そんな術、どこの国にもないからね。というより、研究が進んでいない」
セルフィオのうなるような言葉に、グリュテもうなった。セルフィオの話を聞く限り、白の
「俺が知っている限り、意思を伝える、夢を見させる、精神的に揺さぶりをかける、その術くらいしか白にはないとされていた。もちろん、相手からの干渉を防ぐ力もあるけれど。あとは、例えば存在をないものにする――いわゆる幻覚だね、その程度かな、あるのは」
「幻覚……あれ、もしかして」
「うん。君と出会ったとき、周りに幻覚をかけて消えたように見せかけた」
どおりで、とスマトでの出来事を思い出す。いくらグリュテが探そうとしても、上手く見つけられなかったわけだ。あのときグリュテは白をちゃんと制御していた。それも含めてキリルが迎えに来たときに、セルフィオの姿を見つけられなかったのは、彼が白の術を使っていたからなのだろう。
「白、使えるんじゃないですか」
「使えるのはこれくらいだよ。しかも弱いからね、
唇を尖らせるグリュテに、セルフィオはほほ笑む。見慣れた、ちょっといたずらっ子のような顔で。そんな顔をすぐ真剣なものにして、セルフィオは人差し指を振った。
「それはさておき、エコーの話に戻そう。夢で相手から情報を抜く、
「凄い人だったんですね、おばあちゃんって」
「血筋、なのかもしれない」
目をまたたかせるグリュテの胸を、セルフィオの人差し指がさす。
「白持ちは白にしかない力を子に宿す。もちろんそれが、子孫に上手く受け継がれるかどうかまではわからないけれど……もしかしたらグリュテ、君がその力を強く持っているのかもしれないよ」
「わたしが、ですか?」
思わずどきりとして、服の上から真珠を握った。でも、と手触りを感じながら思う。さきほど見た夢のようなもの、あれがティゲニーの少し前に起きた過去だとしたら。自分はエコーと同じ力を持っていることになる。
「そう、だから聞いただろう? 夢でどこまで見たかと。君は明確に過去を見た。自分の過去をね。君の力は、血筋だけの術なのかもしれないと俺は思う」
「血筋だけの術……」
「これは俺の憶測だけどね。そう考えると、エコーと同じ力を持っているかもしれない、組合や国が危惧したのはそこからなのかもしれないね」
「でも、どうして国は、おばあちゃんを手放したんでしょう?」
疑問に思って聞いてみる。そんな力を持つ遺志残しなら、国から重要人として保護されてもおかしくはないはずだ。とりわけ、白を保護し、遺志残しを育成している
「そこまで詳しくは知らないけれど、彼女は逃げたらしい。身重のままで。そのあとの消息は不明で、ようやく情報を手に入れた
俺が知っているのはここまで、と揺れる影から水袋を取り出し、口に含むセルフィオを黙って眺めながら、グリュテは唇に手をやった。空いた箱の暗がりを見る。なにもない箱を。
祖母であるエコーは、もしかしたら嫌気がさしたのかもしれない。国の情報とあるのだから、一見美しいこの島国の汚い面をたくさん見てきたことだろう。密かな奴隷の売買、禁止されている薬草や密輸品の取り引き、そんな、グリュテが想像する以上のひどいことを夢で見ることに、耐えられなくなったのかも、そう思う。
セルフィオのいうことが事実であるなら、国もきっとエコーを恐れた。そしてそれらの情報を溜めこんだ真珠を。だからエコーは逃げた。そこまではいい、グリュテも納得できる。問題は、そんな代物をどうしてグリュテに残したか。話を聞いても理解できなかった。
わたしを守るといった真珠が、わたし自身を脅かしている。グリュテは悩みながら石の壁から同じく水袋を取り、飲んだ。喉は思った以上に乾いていて、冷たい水がしみる。
「おばあちゃんは、この真珠がわたしを守るといってました。夢の中で」
「真珠が、かい?」
少し暑くなったのか、セルフィオは頭を織っていた布をほどき、怪訝そうな顔を作る。白藍色の髪は一つに束ねられていて、肩に房のようにかかっている。
「でも、セルフィオさんの話を聞くと、この真珠があるからわたしは、その、死ななくちゃいけないってことになるでしょうし……もしかしたら真珠から、国のお偉いさんに関する悪いことを読み取るんじゃないか、そう考えられてるんですよね」
「多分、そうではないかという俺の推測だよ。違う可能性もある」
どうせ
「なにから守ってくれるんでしょうね。悪い人から? 国から? 『
ため息と共にもれ出た言葉は、思っていた以上に冷たい響きを帯びていた。こんな声、自分でも出せるのかと感じるほどぞっとする声音だった。セルフィオがほんの少し、まなじりを下げたおもてでこちらを見つめてくる。
「黒は全てを食べつくす、お腹が空いた哀しい生き物」
いきなりいわれて、グリュテはうつむかせていた顔を上げた。セルフィオは苦笑した。
「そんなふうにいう琴弾きに会ったことがある」
「お腹が空いた、ですか」
「黒の王は人の
「そう思います」
「あれ、君は黒の王を、『
やけに強く肯定してしまったものだから、セルフィオの問いかけに一瞬、返答を迷った。
グリュテが見たのは夢の中で、しかも出てきたのはティゲニーだ。セルフィオに本当のことをいうべきかあぐねた結果、重荷を吐き出してしまいたいという気持ちが勝った。
「夢の中でだけ、ですけど。さっき、夢見が悪いっていいましたよね。見たことのある人が、その、黒に食べられちゃう夢を見て、それで」
グリュテは視線をさまよわせる。石の壁についた蝋燭が揺れ、薄い壁から潮風の香りがした。どうしよう、とグリュテは悩みに悩んだ。エコーのようにもし、本当に自分が夢で誰かの過去を、起こったことを見ることができる力を持っているなら。もう、ティゲニーはこの世のものではない。
途中で口をつぐんでしまうグリュテに、セルフィオがなにかを言おうとしたそのとき。木の扉が数回叩かれた。びくりとして思わず、グリュテは水袋を床に落としてしまう。
「お客さん、下に人が来てるんだけど。シプリーンっていってるよ」
「ありがとう女将さん。今行くよ」
女将の言葉に棘はないが、どこか気が立っているようにも聞こえ、グリュテは空の箱に急いで手紙をしまった。今更こんなもの、売る以外に必要を感じないのだけれど、とりあえず水袋と一緒に地の術で壁に押しこんだ。
「あの、どうしてシプさんと合流したんですか?」
「国から逃げるなら、シプの力が不可欠だ」
逃げる、と口に出してみた。今まで考えたこともない発想に、グリュテは驚く。そんなこと一度だって、考えたこともなかった。頭に布を巻きはじめるセルフィオをまじまじと見つめ、自分とセルフィオの考えが一致していないことに気づいた。
「誰からであろうとも君を守る。それが例え、国が相手だろうとね」
死を未だ夢見るグリュテには、立ち上がってほほ笑むセルフィオの優しさが、もったいなさすぎるもののように思え、心苦しくなってそっと目を伏せた。
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