3-9.恋は病
「おや。グリュテ、あんたこんなところでなにしてるんだい」
甲板の荷物の奥で、隠れるようにしてノーラから借りた本を読んでいたグリュテをめざとく見つけたのは、シプだった。
彼女は足のつけ根近辺からくるぶしまで切りこみが入った、袖のない長衣を風にまとわせながら、グリュテの方に向かってくる。
「本を読んでいたんです」
「本? よく酔わないね。あたしはどうにもだめだ」
快活なほほ笑みに、グリュテも笑う。しゃがみこんだままのグリュテをのぞきこみながら、シプが首をひねった。
「『
「赤の術を教えてくれって頼んだら、これを出されたんです」
それは多分、自分で考え、術を構築しろということなのだろう。
神殿や学術所で
だから、戦うすべを持つノーラに頼んだのだけれど、彼女はいつもの冷たい顔をしてグリュテが今読んでいる本だけを差し出してきた。
赤が弱の自分では、象徴媒体を使ったところでたいした役には立てないだろう。ノーラにいわれた言葉を思い出す。それでも実践でどう使うかはあなた次第、そうもいわれた。
「足手まといにならないようにしたいんです。セルフィオさんの」
一度、中程まで読んだ本を閉じ、樽を使って立ち上がる。波も穏やかで揺れも少ない海を二人、並んで見つめながら潮風に身を委ねる。
「フィオとは話せたかい?」
「はい。いろいろ話してくれました」
「本当、言葉が大事だってあれほどいっておいたのに。あたしらは『
寄りかかり、疲れたようなため息をつくシプに、グリュテはかすかにうなずいた。
「あんたはどうさね、話したのかい?」
「わたし、ですか?」
グリュテはシプの言葉にちょっと考え、苦い笑みを浮かべた。
自覚した想いをぶつけることは、まだ今のグリュテにはできそうにない。はね除けられることを恐れてではなく、セルフィオの重荷になることをグリュテは危惧している。
優しい彼のことだ、すげなく断ることをせず、きっと真摯に受け止めてはくれるだろう。答えを返してくれるかはさておいて。
「シプさんは、セルフィオさんやグナイオスさんと話、したんですか?」
「フィオの名前はわかるけど、どうしてそこにあの筋肉ばかの名前が出てくるんだい」
問いを問いで返され、グリュテはううん、と困った声を出した。グナイオスの気持ちを勝手に暴露するのはよくないことだ、そう理性が止める。
止めてしまったものだから、次に続く言葉が浮かんでこない。しかしシプは、全部お見通し、そんな瞳でグリュテを見た。
「グナイオスがあたしを好きだってことくらい、気づいてるよ。わかった上であたしは奴の好意を避けてるだけさね」
「どうしてですか?」
「あたしは娼婦だ」
自分で選んだ道だけどね、そうつけ加えるシプに、卑下した様子は見当たらない。
「戦って命を張ってる間、恋人が他の男や女に抱かれてるなんて想像したら、あいつの頭がおかしくなっちまうだろうよ」
つぶやくシプの声は、とても寂しそうなものにグリュテには聞こえた。そして思う。きっとシプも、グナイオスのことが好きなのだと。
「だからちょっと、あんたたちが羨ましいさね。そういう境がないんだから」
グリュテはなにもいえぬまま、唇をつり上げて目を閉じるシプの横顔を黙って見つめる。
境なら、ある。
「シプさんは、
「聞いたことならあるよ。琴弾きがたまに歌う、遺志残しの」
そこまでいって、シプはグリュテの方を見てくる。真剣なまなざしに、黙ってうなずいた。はあ、と大きいため息が、男たちのかけ声に溶け消えた。
「あんたも訳ありってことだね。どうにもならない病か」
「セルフィオさんもそれはわかってるんです。だから、その」
いうならきっと、死ぬ間際。続けそうになった言葉を飲みこんで、グリュテは本を抱えるように胸に抱いた。そこにある、どうしようもない慕情をとどまらせるために。
「病には病」
シプの言葉に、少しうつむかせていた顔を上げた。
「琴弾きが、そんなことを話していたことがあったよ」
「はあ」
「どんな詩だったかな」
さしものグリュテも、その意味がわからない。曖昧な返答を返すグリュテに、天を仰いだシプが唇を舐め、手で喉に触れながら朗々と歌い出した。
うすづきの紅に染まる頬は林檎にも似て
心に満ちた 夕星の明かりはまた、宵を裂くがごとくに
はやてのようにうつろいゆく死へのしるべを
打ち消すのはただ 春にも似た優しい調べ
波の音、風の音をかき消して、シプの少し高い、きれいな歌声が響いた。竪琴もない歌声はしかし、一音一音が乱れることなく整っていて、柔らかさすら感じさせる。
「きれいな声ですね」
「ありがと。確か、こんな感じのだったよ。ようは、恋をして、死を退けたっていう男の詩なんだけどさ」
「琴弾きさんたちの話の種になってる?」
「そう、それ。まあ怪しいもんだよ。琴弾きはなんでも、面白おかしく詩にするから」
「その詩のどこが、病なんですか?」
「恋は病。盲目。そういわれてるもんだよ、昔からね」
あまりぴんとこなくて、グリュテはただ、詩の調べのこだまにだけ耳を澄ました。
恋、確かにそれにも似た想いをセルフィオへ自分は抱いているはずだ。でも、それより深い、もっと重い感情なような気もして、グリュテは小さくうなる。
「まあなんにせよ、頭で考えることじゃないからね」
グナイオスさんと同じことをいってる、グリュテはそう思い、ちょっと笑ってうなずく。
その笑みを見てか、シプは風に揺れ、乱れた肩掛けを直しながらグリュテの頭を撫でてくる。その手つきはどこまでも優しかった。
「あんた、この数日で凄くきれいになったよ。元から可愛いけど、なんていうのかね、いい顔をしてる。フィオのおかげかい?」
「きれい……ですか? わたしが?」
「自分じゃわからないか。フィオのことは否定しないんだね」
揶揄するようにいわれて、ちょっと顔を赤らめた。
きれいといえば、シプだってそうだ。シプの美しさはまさに、美を追究した彫刻のような麗しさで、そんな美貌を持つ彼女に褒められても恥ずかしいだけだった。もちろん、恥じ入る気持ちは別にもあるのだけれど。
「ああ、こんなところにいた」
しばらく頭を撫でられるがままにしていたグリュテの耳に、セルフィオの声が届く。下から上がってきたセルフィオは、二人の様子を見るなりその目をまたたかせた。
「二人でなにをしていたんだい?」
「女同士の秘密」
「勉強です」
セルフィオの問いかけに、まったく別々のことをいってしまってシプと二人、吹き出す。まるでまぶしいものを眺めたかのように、セルフィオが瞳を細めてくる。
「それじゃあ、あたしはここらで失礼するよ。船長に話があるからね」
「あ、はい。いろいろ、ありがとうございました」
こちらに来るセルフィオと入れ違うシプが、後ろ姿のままひらひらと手を振る。甲板の下に通ずるはしごに、きっとグナイオスがいたのだろう、彼を叱咤する声が響いた。
全身鎧を着ていないせいなのか、セルフィオの足取りは少し軽く、たどたどしい。まだ慣れていないのだろうか、そんなことを思うグリュテの横に来て、彼は笑みを深めた。
「シプとずいぶん仲良くなったね」
「はい、でも、秘密です」
グリュテのほほ笑みに、セルフィオは困ったように頭を掻こうとして、長布で覆っていることに気づいた手が宙で止まる。その手は迷った末、船の縁におかれた。
「どこに行ったのかと思った」
「ノーラさんから本を借りて、読んでたんです」
「うん、でもそれなら、部屋の中で読んでもいいんじゃあないかな?」
「風に当たりたくて」
「ちょっと心配した」
心配、といわれて、グリュテは首を傾げる。確かに<妖種>がいつ襲ってくるかはわからないけれど、と思いつつ、隣に来たセルフィオを見上げた。
「ほら、海の男というのは結構、その。乱雑だったりするだろう?」
「そうですか? 船で旅をするとき、雑魚寝とか普通にしてましたけど、みなさんいい人ばかりでしたよ」
「……もしかしたらこの中に紛れて、刺客がいるかもしれない」
重々しくいわれ、グリュテの胸は激しく鼓動した。
「と、いうのは冗談だけれど。その可能性だってないわけじゃあない。みんな、昔からのシプの知り合いだから安心しているけれどね」
「心臓に悪いですよ、セルフィオさん」
どこか意地悪い笑みを浮かべて、セルフィオは海の方を見る。
「きれいだね」
「はい。ここら辺の海って、青なんですね。スマトの方は青緑に近い色をしてましたけど」
「海もそうだけれど、世界がきれいに見えるんだ」
セルフィオの言葉は穏やかに満ちていて、でもいつもより熱を帯びているようにも聞こえる。日差しできらめく海を並んで見つめて、潮風を目いっぱい吸う。
「昔は、そんなふうに感じたことはなかった。いつも灰色がかっていたように思う」
「灰色、ですか?」
「なにを見てもきれいだとは思えなくてね。だから灰色の甲冑を着ていたのかもしれない。もちろん哀悼の意もあるけれど。でも、今は違う」
空色の瞳を細めてから、セルフィオ気づいたように懐の隠しから包み紙を取り出す。熟した万寿果を乾燥させたものだ。差し出されて、食べるかい、と聞かれる。
二つあるうちの一つを遠慮なくもらいながら、グリュテはしばし、粘つくような果実の甘みを味わった。
「いろんなことがあったね。旅芸人の一座に天幕を借りたとき、君は確か歌を歌った」
「恥ずかしいです、忘れて下さい」
「あと、水辺に転がり落ちたこともあったっけ」
「そ、それは石を踏んだせいです」
楽しげに、これまであったことを次々と話してくるセルフィオに、グリュテはただ恥じ入った。小さな口を動かして、ただ果実を味わうことだけに専念する。
「いつからかな。君から目を離したくないと思ったのは」
「目が離せない奴、ってよく、キリルさんにいわれてました……」
「そういう意味じゃあないよ。いや、もしかしたら君の兄弟子もそういう意味で使っていたのかもしれないけれど」
「じゃあ、どういう意味ですか?」
万寿果を咀嚼し、飲みこんだグリュテの問いに、セルフィオは答えない。ただグリュテが食べる姿をじっと見、ほほ笑んだままだ。不意に視線が外され、横顔になる。
「俺はもう、逃げはしない」
真剣なまなざしと形のよい輪郭に、グリュテは食べる手を止め、見入った。
「自分の過去からも、ティゲニーからも、君からも」
強い口調でささやかれた言葉は、やけに大きくグリュテには聞こえる。
船が少し傾き、グリュテは一瞬たたらを踏みそうになった。それをセルフィオが優しい力で引き戻し、グリュテの肩がセルフィオの胸付近に触れた。
突然の接近に戸惑うグリュテをよそに、セルフィオはそのまま、肩を抱いたまま離そうとはしない。
ぬくもりが、グリュテの体を痺れさせる。胸が痛み、同時に高鳴る。胃が焼けるような感覚を覚えるけれど、あまりひどくなく、それより心臓が跳ねる音の方が強い。
恋は病、そういったシプの言葉を思い返し、グリュテは縮こまるようにセルフィオへ身を委ねた。
笑えない恋だと誰もがいうだろう。そんな暇あるものか、キリルならそういうかもしれない。頭の中では海に落ちろと、偽りの声がささやくのもやみはしない。
でも、それでもグリュテは今のぬくもりに甘えたかった。死までの短い期間、散るのがわかっていても咲くことをやめぬ花のように、グリュテは甘い痺れに身を任せ、生きていることを実感した。
「君が俺を騎士にしてくれた。守ることもその意味も、全部君が教えてくれた。俺は、君だけの騎士だ」
頭上から降り注ぐやわらな声を、静かに降る雨とするみたいに、グリュテは目を閉じる。
二人はそうしてしばらくの間、共に風と潮騒に包まれ、微動だにしなかった。
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