3-10.守られるはずなのに

 夕暮れの空は、宵が近づく薄紫色とまばゆい橙に満ち、絹みたいな雲もその二色に染められている。でも、グリュテにはそれよりもカトリヴェ島の惨状が目について離れない。


 浜辺はうめき声を上げるもの、ここから逃げようと小さな船に殺到するもの、欠損した四肢をなんとかうごめかせ、這いつくばりながら助けを請うもの、そんな人間たちであふれ、死の臭いが濃く蔓延している。こときれた人間もいるのだろう、夕陽に殊魂アシュムが坐に還る輝きをいくつも見つけ、グリュテの気はそちらにとられる。


 悲しさや痛みの思念が伝わってきて、グリュテは外套を羽織った上から、自分をかき抱くように両腕を握りしめた。思念は止むことなくグリュテをさいなみ、目と耳と心から薄い寒気のようなものが体内に入ってくる。けれど、どれもやはり美しい。惚ける自分の肩を叩くのは、隣にいたセルフィオだ。


「大丈夫かい? あまりここに、長居しない方がよさそうだね」

「平気です。戦場には少し、慣れもありますから」


 哀しげにほほ笑まれ、グリュテは小さな笑みを返した。この様を美しい、そう思っているとセルフィオへいったら、彼はいったいどんな顔をするだろう。


「シプさんたち、大丈夫でしょうか」


 崖側の道から浜辺を通り過ぎ、階段を上っていく。石造りの町並みは無骨で、カラーナなどとは違い飾り気がほとんどない。活気もなく、あるのは死臭だけ。カトリヴェ島でこうなのだ、最前線たるアーレ島に行ったなら。そう考えると、遺志残しがここいら界隈の島に来ることが許されないのは、なんとなく理解できる気がした。


「カトリヴェ島の中でも裏側にあるからね、シプの店は。それに、護衛の二人がいるんだ。下手な真似は起きないと思うよ」

「そうですね、みなさん、無事だといいです」


 死を描いたこともあるくせに、と偽りの嘲笑が、大きく頭蓋を揺らすように響き渡る。グリュテはもう慣れて、無視をしながら隣にいるセルフィオを見上げた。


 航海中、やはりシプが懸念したように<妖種>は現れたが、セルフィオをはじめグナイオスとノーラが蹴散らした。セルフィオの腕にあった毒の効果は後遺症を残さず、全身鎧を着ていないせいか今まで見た以上に素早く、凄まじい動きを見せた。本当に、彼が無事でよかったと思う。


 シプたちとは、カトリヴェ島の崖側で別れた。アーレ島に向かうには今、グリュテが歩いている小さな宿場街を通らねばならないし、セルフィオのいうとおりシプの店とは逆方向に当たる。共にいたなら、彼女たちも刺客に狙われるかもしれない。


「ここを抜けて、もう一つの宿場街からなんとか小舟を探そう。アーレ島側だから、ここ以上にひどいことになっているかもしれないけれど。持っている金で買えればいいんだけどね」

「あ、やっぱりお金、ないんじゃないですか」

「いや、シプたちに礼金を払うことを忘れていたんだ」


 ごまかすように頬を掻くセルフィオは、困りきった顔をしている。


「シプはつけでいい、といってくれたんだけれど。ノーラ嬢が食い下がってきたんだよ」

「意外と強欲だったんですね、ノーラさん」

「わかりやすくていいさ。金をもらいたがるというのは、傭兵でも戦闘商業士でも変わらない。敵ではないことも示しているし……確かに少し、高かったけれど」


 あの冷たそうな顔で、どんな感じでセルフィオへ金をねだったのか想像できず、グリュテはちょっと小首を傾げた。やはり、あまりうまく思い描けない。


 しばらく二人、無言になる。石畳でできた路上を歩いていると、明らかにごろつきと思しき連中がねめつけるような視線をこちらに送ってくるけれど、セルフィオがそれからかばうように肩をそっと抱き寄せてくれる。見ているごろつきたちから露骨に舌打ちをされたりして、なんとなく面映ゆい。外套から伝わる手甲の感触は冷たく、でも力をこめる指の力は強い。生を感じさせる感触に、グリュテの胃は少し、ひりひりと痛んだ。でも吐き気をもよおすほどではない。慣れたのかな、とグリュテは疑問に感じる。胸の高鳴りは以前、変わらずのままなのだけれど。


 円形に作られた出入り口が見えて、セルフィオがそこでようやく肩から手を外した。


「ここを出たら森がある。ティゲニーが狙ってくるとしたら、多分そこだ」

「はい」


 確かに道のようなものの通りの奥に、木が生い茂っているのが見えた。宵が訪れ、辺りもすっかり暗くなっている。月明かりがまぶしいくらいだ。入り口近くで角灯の準備をし、グリュテとセルフィオがそれぞれ持つ。


「次の宿場までは短いけれど、油断はできない。でも信じてほしい。必ず君を守る」

「わたし、セルフィオさんを疑ったりしません」


 笑って答えると、セルフィオは空色の瞳を数回まばたきさせ、それから強くうなずいた。


 二人並んで町から出る。草場は踏まれていて、かろうじて道のようなものができていたから、そこを通って森に入る。森というより林程度の木の並びだが、そこここに暗がりがあって、グリュテでは人の気配がわかりそうにない。セルフィオをちょっと隠れて見上げると、真剣なまなざしで周囲を警戒していることがうかがえた。


 邪魔になるといけない、そう思ってグリュテは話しかけることをやめた。せめて、足手まといにならないようにすること、それだけが今の自分にできることだ。


 本で覚えた術は二つ。音に関するものと火を飛ばすものだ。でも、やはりいきなり実践で使えるかどうか不安がある。


 無駄にならなければいいけど、そう考えて緊張のため、止めていた息を整える。


 呼気を吐き出したそのとき、セルフィオが不意に角灯を持った左手で、グリュテの前を遮った。遠くから流れる潮風が、梢を鳴らす音が大きく聞こえる。


「二人……いや、一人か」


 草が踏み潰され、少し広まった場所でセルフィオはためらうことなく剣を抜いた。空色の瞳と目が合う。うなずかれ、グリュテはセルフィオの角灯を持ってそっと近くの木に寄り添った。


「出てこい、ティゲニー。お前の臭いは決して忘れない」


 林の中、怒号のようなセルフィオの声がこだました、刹那。


 梢が大きく揺れ、同時にセルフィオの方へ数本の短刀が飛んでくる。セルフィオの体が回転するかのように大きく動き、剣の一閃でそれらをなぎ払う。勢いが死んだ短刀は、グリュテの方に向かうこともなくそのまま地面に落ち、一本は地に刺さる。


 息を切らすこともなく腰を落とし、剣を構えるセルフィオの顔は険しい。軽い音がして、誰かが地面に着地するのがグリュテにもわかる。


「いつから騎士道かぶれのようなものに染まったのか、貴様は」


 暗い藪から姿を現したのは、濃い灰色の衣をまとう赤い双眸を持った男だ。頭巾を外しているのか、その顔もよく見える。茶色の髪よりも瞳が目立つ男の頬はこけ、それでも袖から覗く筋肉はほどよく引き締まり、弱々しくは感じない。


「いや、死に損ないの騎士、だったな。よくも今まで我らの目を欺き続けたものよ」

「ティゲニー、一つ聞く。俺の師を殺したのも、お前たちか」


 男――ティゲニーはまるで鳩が鳴くような、くぐもった笑いで肩を揺らした。


「あの老いぼれはなかなかしぶとかった。貴様のことを一言も口にしなかったほどには」

「なるほど。お前を殺す理由がまた一つ、できた」


 凄惨なほどの笑みを浮かべるセルフィオに、しかしティゲニーは肩をすくめるだけだ。


「なにをむきになっている、貴様は。当然のことだろう、潜密院せんみついんから抜け出して、のうのうと生き長らえると思っていたのか? すべて、貴様自身の行動が招いたこと」

「そういう潜密院せんみついんも、ずいぶん質が落ちたものだね」


 グリュテは、セルフィオの横顔が歪んだのを見た。でも声をかけられないほどの緊張感が周囲に張り詰められ、呼吸をするのがやっとだ。軽く身じろぎした自分を、ティゲニーはあざ笑うかのような目線だけで硬直させてくる。


「その娘を引き渡せ、セルフィオ。それでことが済む」

「断る」

「植えつけられた騎士道とやらで、守って死ぬか。貴様は昔から愚かだったが、それも極まると笑うしかないな。なに一つお前たちは真実を知っていないというのに」

「真実?」


 グリュテのつぶやきに、ティゲニーは哀れみとあざけりを瞳に刻み、グリュテをにらむ。


「娘、貴様が持っている箱を確認したことがあるか? 中を見たことは?」


 明確な殺意に、グリュテはただ、首を振るのがやっとだった。箱には鍵がかかっているし、見たいとも思ったことが一度もなかった、それが本音だ。


「『罪とる手』、またもや我らを欺いたのはまさにそれ。そんなもの、あるものか。我々が今や欲しているのは、娘。稀代の遺志残しにして貴様の祖母、エコーが残した形見の真珠」


 ティゲニーの言葉には凄みがあり、胸をかばったせいで角灯が音を立て、落ちた。呆然とするしかないグリュテを鼻で笑う男は、薄い唇を三日月のようにつり上げる。


「やはり知らなんだか。哀れだな。大体考えてもみよ、術具があったとて、病持ちの遺志残しに大役を務めさせるか? 疑問に思ったりしなかったのか?」

「それは、少し……」

「どういうことだ」


 声を震わせるグリュテの言葉をかき消し、セルフィオが冷たく聞き返す。ティゲニーはおかしそうに、愉快以上のなにものでもないというように笑みを深め、手にしていた曲刀の先を指で撫でた。


「その真珠には、象徴媒体としてと同時に、記憶媒体としての意味合いがある。国づきの遺志残しとして活躍していたエコーが見聞きしたものは、すべてそこに隠されている。様々な国の情報が真珠には秘められているからな。十年前も今も、群島国ダーズエが守りたかったものは最初から、その真珠一つ」

「組合はグリュテを逃がした、そういうことか」

「さかしさは残っていると見えるな、セルフィオ。だが少し、違う」


 曲刀を構え直したティゲニーは、笑う。まるで愛想を浮かべる店の主のような、親しみすら感じさせる笑顔だけれど、発している殺気は濃く、深い。


群島国ダーズエに真珠があれば、我らがまた動くのは必然よ。ゆえにアーレ島で娘を死体の山に埋もれさせ、真珠を死体と娘共々焼いて葬ることこそ、この国が決めたこと。すなわち」


 ティゲニーの声音が少し、柔らかなものに変わる。


「娘、グリュテ。哀れなるもの、貴様はただ死を望まれただけ」


 望まれた死、ティゲニーの言葉に、グリュテは全身から力を抜いた。


 膝が震えて折れ、その場に惚けながら崩れ落ちる。角灯が足にぶつかり、転がる。土に手をつき、片手で外套の上から真珠を握りながら、グリュテは思う。キリルは、そして師は、それを知っていたのだろうか。エコーという名前、それを確かにキリルが発したことがあった。だとすれば、当然二人は知っていた、群島国ダーズエの決定を。そう考えるのが妥当だろう。


 わたしは、死ぬためにアーレ島に向かっていたんだ。


 遠く、遠く、潮騒の音が聞こえる。木の枝がこすれる音にも似た、それでも確かな海の音。学舎であったいろんな出来事が、思い出が、海の音に浮かんでは消える。それでいいじゃないか、偽りの声がささやいて笑う。


 どのみち死ぬのだから、今死のうとも変わらないよ。優しい声が頭の中を占めて、グリュテは声の冷たさに、それでも胸が高鳴った。そう、なにも変わらない。最初から死ぬとわかっている人間に、少し希望を持たせてくれただけ。きっとそれは、むごいまでの優しさだ。キリルと師に罪はない。国にも恨みはない。


「さあ娘。真珠を渡せ。話してやった礼にというわけではないが」


 優しげな言葉に惹きつけられるように、グリュテが胸から真珠を出そうとしたそのとき。


 セルフィオがグリュテの前に出た。思わず顔を上げ、その背中を見つめる。大きく、頼もしい背中を。転がった角灯に照らされたティゲニーの顔が、露骨に歪む。


「説明はさんざ、してやったつもりだが」

「いつから潜密院せんみついんは語り部に落ちたんだい、ティゲニー」

「貴様が守る意味など、その娘にはないだろうに。どこまでいっても愚かな奴。罪悪感か? 師の敵討ちのつもりか? それとも、下らぬ騎士道というものからか?」

「どれでもないさ」


 守られる意味、とグリュテは思い、まだ夢見心地のまま剣を構え、ティゲニーと相対するセルフィオの背中をじっと見つめた。そんなもの、もうわたしにはないのに、と。


「ティゲニー、もうお前から聞くことはなにもない。ここで俺に殺されろ」

「戯れ言!」


 二人が駆け出す。速い。高速で突き出される曲刀を受け止め、ときに長剣を振り下ろすセルフィオもそうだが、ティゲニーの動きもまた、凄まじい嵐のようだ。


 剣風で土埃が舞い、切られた藪から草が舞い散る。二人の動きは鏡のようで、かろうじて垣間見える剣の型はどこまでも似ていた。兄弟のように育った、そうセルフィオがいっていたことを思い出し、グリュテはうずくまりながら小さく首を振る。


 もういい、わたしを守る必要なんてどこにもない。わたしはただ、死ぬだけを望まれた存在だから。怖くない、死ぬことは怖くない。だからもう、戦わなくていいんだと。


 それでもグリュテの嘆きを無視するように、二人の攻防は止まない。二人の体は互いの剣により傷つき、血をこぼし続ける。セルフィオが激しく動くたび、ティゲニーもまた、セルフィオを追いかけ激しく剣をぶつからせる。剣戟の音が大きく林に響き、グリュテの耳に滑りこむ。まるで自分が斬られているかのような感覚を、グリュテは覚えた。


(貴様は必ず)

(お前は必ず)

(殺す!)


 制御ができず、二人が発する強い殺気と想いがグリュテの頭と心を揺さぶる。胸が痛むようにきしむ。グリュテは顔を上げ、二人を見てただ強く、やめてと心の中で叫んだ。


 まるでそれに一瞬、たじろいだようにティゲニーが動きをにぶらせた瞬間だった。動きが乱れた隙を突き、セルフィオはティゲニーの懐に入りこみ、持っていた長剣でティゲニーの脇腹を刺し貫いた。


 ティゲニーの体が折れ曲がる。剣を戻し、下から弧を描くように頭を狙ったセルフィオの一撃はしかし、逸れる。口から血を吐いたティゲニーはたたらを踏み、後ろに下がる。脇腹から血が滴り、地面に血だまりを作る。それでもティゲニーは繰り出される長剣をすんでで避け、閃光を放った。


 直視すれば目がくらむほどの光に、グリュテもセルフィオも怯む。単純に繰り出された曲刀は宙を凪ぎ、力を失ってグリュテの側に投げ出される。


 黄色い閃光がグリュテの目をくらませたと同時に、藪を掻き分ける音が聞こえた。その音は耳にする分には速く、地離れの術を使ったのだとグリュテにはわかる。光は少しの間そこいらをまぶしく照らしていたが、少しずつ力を失い、その明かりを消していく。


「……逃げたか。けれどあの傷なら」


 セルフィオが暗闇の藪を遠く見つめ、それから片膝を突いた。呼気は荒く、体のそこここに無数の傷がついていて、左腕は血を滲ませていた。


 グリュテは立ち上がることもなく、じっとセルフィオを見つめ、それから肌着の外、ほのかに光る真珠を見た。


 守ってくれる、そういったのに。グリュテは祖母の、エコーの言葉を思い出す。いったいなにから? 自分を守ってくれたのは、常にセルフィオだ。ただの象徴媒体ではなく記憶媒体でもある、国すら忌避する形見の真珠を、潰すようにグリュテは強く握った。


「大丈夫かい、グリュテ」

「どうして」


 立ち上がり、こちらに手を差し伸べてくるセルフィオを見上げ、グリュテは首を振った。


「どうして戦ったりしたんですか」

「いったはずだよ、グリュテ。俺は逃げないと」


 それに、と強い力で腕をもたれ、グリュテはようやっとその場に立ちつくす。


「俺は君を守る騎士だ。船で約束した」


 グリュテは泣き出しそうな笑みを浮かべ、守る、とつぶやく。


「わたし、いったいなにから守られるんでしょう」


 グリュテの声に、セルフィオは空色の瞳を細める。彼は答えない。当然だ、答えを持っているのはグリュテなのだから。守られるのではなく、死ぬこと。それが望まれていた事実だ。真珠がある限り、自分を追うものは増えていくだろう。アーレ島に行って、確実に自分が死ななければ、いつか国からも追われることになるかもしれない。


「一度、シプたちと合流しよう」


 なにを考えてるのか知らないが、セルフィオは沈黙の後にそうささやいた。グリュテは答えず、ただ取り出した真珠を見つめた。


 おばあちゃん、とエコーの姿を思い描き、もう一度真珠を片手で握った。


 答えて、教えて。なにからわたしを、守ってくれるの?


 心の中で叫んでも、真珠は変わらず、腹立たしいほど沈黙を守るだけだった。

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