第2話「安らぎに潜む無関心」

 縮小する感情は、大学生活に慣れる頃には諦念ていねんが多くを占めるようになった。

 他者や自身に対するものか、あるいは孤独に対するものか、自分でも判然としなかった。サークルや部活には入らず、学業に没頭することで感情の浪費を避けた。

 

 学業の息抜きとして、時々囲碁を打った。

 高校まではよく碁会所や囲碁教室に足を運び、その甲斐あってアマチュア六段格の棋力となったが、最近はほとんどネット対局しかしなかった。感情が減るにつれ、勝敗にも以前ほど頓着しなくなったが、それでも盤面に向かっている間は一定の安らぎを覚え、孤独を感じにくくなる。私は、だから感情に安定剤を注入するような感覚で囲碁にふれていた。


 大学二年次の冬に、初めて恋人ができた。麻帆まほという女だ。小柄で端正な容姿を持ち、しずく型のイヤリングを常備していた。

 出会いのきっかけは、第二外国語として選択していたフランス語の授業だった。初学者向けコースと銘打っていながら、明らかに規定を超えたペースで講義を進める女講師の授業――私にはちょうど良い進度だったが――には、ついて行けずに脱落する者も多く、カリキュラムの後半に入る頃には受講者は半分以下となっていた。

 

 麻帆の学力は決して高いとは言えず、そのフランス語の授業は言わば「手合い違い」であった。

 熱心に講義を聴き、ノートをとる姿に私は何の関心も示さなかったが、席が近かったのでよく質問を受けた。いつも機械的な返答しかしなかった私に、麻帆はその都度、情感のこもった笑みを付随させて礼を述べた。

 しかし、彼女のフランス語は一向に上達せず、学年末の試験で落第し単位を落とした。


 仕事の後は、いつも路地裏の喫茶店に行く。

 年老いた店主とその寡黙かもくさと、また、彼が好んで吸うキューバ産の葉巻の甘い香りに安らぎを覚える。安らぎは、幾多の感情の中で私が特に価値を見いだすものであった。それが消滅したとき、私は自分自身を消去するだろう。

 寒い日でも、頼むのは決まってアイスティーだ。どこにでもありそうな至ってシンプルな外見のそれは、私を確かに繋ぎ止めている。おもむろにミルクに手を伸ばし、その飲料に一気に注ぐ。この日の液は、やたら寂しげな表情を浮かべている。


 ふと、麻帆のことが脳裏をよぎる。麻帆となんとなく――という言葉をあてるには一年半は長すぎる気もするが――付き合っていたが、今思うと彼女のどこに魅力を抱いてだろうかと、私はアイスミルクティーを飲みながら考える。

 邪気を感じさせない温柔おんじゅうな彼女の笑みは、常人に比べて感情の鈍化した私にも確かに一定の安らぎをもたらし、麻帆と接することが感情の縮小を抑制することにも繋がっていたことは、たぶん間違いないであろう。

 しかし、他にはどうか。彼女という存在や彼女と共有した時間において、これといって印象に残っていることはなかった。


 麻帆は、私に対して大いに興味を抱いていた。些細な事でも何かと質問し、私という存在を味得していた。

 対して、私はどうだったか。穏やかな彼女の笑みを日常的に受け取り、なおかつ彼女が私という不安定な存在に確固たる信頼を寄せている――などと考えるのは今思えば傲慢ごうまんに違いないが――ことで自身の感情が保たれていることに満足し、麻帆について積極的に理解しようという姿勢が欠けていたように思う。


 翌日出社すると、鳩の死骸はなくなっていた。私は、やはり何も感じなかった。

 アスファルトには、黒ずんだ血痕が色濃く残る。その痕に、自らの中の孤独を投影させてみる。感情が摩耗される一方で、孤独は私の心に居座り続けるのだろうか。

 

 曖昧な微笑を僅かに作り、洗濯のし過ぎで色褪せた作業着の入った手提げ袋に視線を落としながら、その場を後にした。

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