Miserable Maiden

 長身の男と出会ってからしばらく、周辺を散策してわかったことがある。まず一つ、この場所(男によれば、かつての大公国)には、天体の変化がない。つまり、太陽や月が昇り、そして沈むということがない。空は海で満たされているのだから、当然かもしれないが、それに伴う昼夜というものが存在しない。

 次に、遠くに見える白い塔。埃にまみれた廃墟が連なる街並みに反して、その塔はあまりにも「完璧すぎる」。天の海にまで届く高さがありながら、崩れているような箇所は見当たらない(遠すぎて見えないだけという可能性は無論ある)。加えて、私が探した限りでは、あれほどの巨大な建造物は他にない。周辺は鬱陶しいほどの霧が常に漂っているのに、塔の輪郭だけはくっきりと視認できるのも不自然である。どうあっても、あの塔だけが異質なのだ。これについての考察は、現時点では不可能といっていい。私はまだ知らないことが多すぎる。

 それとは別に、人の少なさも異様である。男と会ったのを最後に、誰とも出会わない。すれ違うこともない。いつのまに壊れたのか、愛用の腕時計がとまっているせいで、どれほどの時間を探索に費やしたのか定かではないが、ここはまさしくゴーストタウンと呼ぶに相応しいほど人の気配がない。これに関しては、気になる点がいくつかある。まず、最初に私がいた廃墟(どうもアパルトメントのようで、いくつもの部屋が他にもあった)では、数箇所水道が通っていて、いまなお機能している。ガスのような施設は見当たらない。電気も同様だ。あるのはランタンばかり。

 コイルにより電流を作れるようになったのが、確か一八三〇年頃、発電により送電を可能にしたのが、エジソンの活躍した一八八〇年頃と考えれば、ここの文明は少なくとも一九世紀以前のものと考えられる。もっとも、「この大公国が私の知る歴史に沿って発展した国であるなら」という大前提のもとでの思考である。そして残念ながらこの前提は、覆るかもしれない。というのも、水道設備があまりに近代的すぎた。シャワーがあるのだ。下水自体は古代に発案されたものであるが、浄水施設、および、それを各建造物に分配する仕組みは、そして「シャワー」という概念は、いつの時代のものか(少なくとも一九世紀に入ってからと予想している)。あいにく私はそれに詳しくない。が、比較的軽い金属を部品に用いていたり、撥水性の高いタイルを床に敷き詰めていたりと、限りなく現代的な造りなことに間違いない。

 なぜ、と、考え込むには、まだ判断材料が足りない。廃墟郡を抜けて、大河をまたぐ大橋まで到達したところで、一度背後を振り返る。

 ほとんど霧に隠れて見えないが、白い塔のように飛びぬけて高い建物はない。屋根があればまだいいほうで、たいはんは崩れ落ちている。経年劣化による倒壊とは違う、なにか大きな力がかかったことによる崩落に見えるのは気のせいだろうか。

 現在私が目指しているのは、もっとも謎の多い白い塔だ。道順はわからないから、無策に進んでいるだけである。あわよくば途中で人と遭遇したいという気持ちはある(願わくば、それが「普通の」人間でありますように)。

 大橋を渡りきったさきも、いままでと同じような廃墟の群れである。代わり映えのしない景色に、道を見失うのは時間の問題だった。

 そろそろどこかで休憩をしよう。体感では、すでに数時間はずっと歩いている。屋内は腐った屋根や床板の倒壊の危険があるから、腰を落ち着けるなら開けた場所がいい。地震のときと同じだ。とはいえ、広場は見当たらない。もともとは建物の密集した市街地だったに違いない、周辺の道幅は狭く、路地が入り組んでいる。

 はあ、と、ため息がこぼれた。そのおり。いままで完全な静寂を守り続けていた場所に、耳に馴染みのない破裂音が二つ、立て続けに響いた。ついいましがた私が越えた大橋の向こう側である。あまり遠くはない。

 逃げなければならないと思った。気絶直前に会った、あの名前も知らない男を思い出したせいだ。

 ロートアイアンの柵を持つ建物がすぐ近くにある。腰の高さにある窓は砕けて、暗い屋内が見えていた。乗り越えるのは容易でなかったが、勢いをつけてなかば転がり込むようにすれば不可能ではない。前転しながら右の肩を内側に入れつつ、頭を庇うために背中で地面に着地する。怪我こそないが、目が回るのと手足のさきが痺れるのとで、しばらくその場を動けなくなった。時間にして十秒弱だったように思う。それから、埃をかぶりながら窓際まで這って進む。息を整えるのはそのあと。

 ほどなくして、先刻まで私のいた場所に人が訪れた。無論そとを覗けない以上、それがどんな人物なのかはわからないが、足音が少なくとも一人分聞こえたし、すぐに話し声までした。若い男のようである。「どうした」と、同行者に問いかけるような声色。応じる者はあるが、なにを言っているのかは聞き取れない。なにか口をふさぐものでもあるのか、ひどくくぐもっているし、もともとの声量が少ないような印象だ。

 じっと聞き耳を立てても、得られるものはなかった。長い沈黙が続いただけである。どちらも会話を続けようとしていないらしい。ひとまず隠れられたらしいことに安堵しながら、咄嗟に飛び込んだ室内を見回す。

 狭い部屋だった。壁際の棚がいくつか倒れていて、床が抜けると同時に、一つしかないドアをふさいでいる。黒く汚れ切った大きなラグのうえにある丸テーブルの隣には、足の折れた椅子が三つ転がっていた。調度品から推測するに、ごくありきたりな民家だったようだ。

 ゆっくりと立ち上がる。と、背中を何かに軽く押された。間髪入れずに、低い男の声が告げる。「動くな」

 神経をすり減らして、そとにいる何者かが遠ざかるのを確認しないままだった私の落ち度だ。「両手を頭の後ろで組んで、膝をつけ」と、淡々と言う男におとなしく従う。反抗するのは愚行の上塗りに他ならない。

 だが、と、思うところはある。いっそのこと、死んでしまったほうが楽なのでは? そも、私が生き残らなければならない理由はなんだろうか。若いから、帰りを待つ家族がいるから、あるいは友達がいるから――いずれにせよ、死ねば関係のない理由ばかり。ここで死ぬこと以上の苦痛を得てまで、守るほどのものではない(一部からは顰蹙を買うこと間違いなしの思考だ!)。

 親不孝者、滑稽な愚か者、どう罵られようとも知ったことではない。私はすっくと立ちあがり、勢いそのままに振り向いた。見えたのは、ブロンドの男と、彼の構えるマスケット銃。直後には、銃弾が寸分違わず私の胸を貫いた。

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Garden of Mensis -Dream- さいとういつき @copyJackal

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