Garden of Mensis -Dream-

さいとういつき

Mist to Mist

 ほんの可愛い噂話。ごく小さな地域の、ごく小規模な学校だけでひっそりと囁かれる都市伝説。霧の深い夜、女の泣き声が聞こえたら、どこか遠くの世界へと連れ込まれてしまう。ただそれだけの、質素で粗末な怪談話。

 よもやそんなものが、我が身に降りかかるとは、まさしく露ほども思っていなかった。学校からの帰り道だった。大会前の部活動は活動時間の延長申請を出していて、もはや他の生徒はとうに下校したあとの学校。この日は朝から天気が悪く、夜には霧雨がしとしとと降り注いでいた。傘をさすほどではないが、立っていればいずれ全身がしっとりと濡れるような、静かな雨。部活仲間は当然のように濡れて帰る方法を選んだ。私も同様だった。

 明かりを消した校舎が暗闇に立ちすくむのを背にして、正門で他の生徒と別れた私は、ゆっくりと自転車をこいだ。近くの民家がぽつぽつと光をこぼしているほか、街灯の類はない。ほどなくして暗く沈んだ畦道に出る。見通しはいいが、視界が悪い。畦道を越えるとすぐに農協の正面に出て、ゆるやかな上り坂に差し掛かる。その向こうに静かな線路が横たわる。あまり長い道のりではない。常であれば数分のうちに渡りきる。だがきょうはどうにも様子が違った。

 暗い田畑がいつまでも続く。公道が一向に見えない。足に力を込めても、景色の移り変わりがない。眉を顰めていると、ふいに噂話に聞いた女の泣き声が届いた。しとしとと泣くのではない。喚き散らすように、甲高い叫び声をあげている。その不快さは、軟体動物をつめた壷に手を突っ込むかのよう。温かく湿っていて、独特なぬめりがあった。

 声の発生源は特定できない。そこかしこに反響して、私の耳へとなだれ込んでくる。進めども泣き声は遠のかず、むしろ近づいているのがわかった。不快感を堪えて、声を振り切ろうと急いだ。まだ公道は遠い。

 いい加減息切れがしてきて、ついに足が動かなくなった。ペダルを離れた靴底が、地面へ落ちる。顔を伏せると、汗が顎から滴り落ちる。これほど急げば、すでに自宅の近くにいて然るべきだ。困惑していると、悲鳴じみた泣き声は、目の前に移動していた。顔を上げれば、すぐに充血した真っ赤な目と視線が合った。背の高い女が、まるでオペラ歌手のように口をあけて、赤く輝く涙を流し続けている。

 痩せこけた女の手が目前に迫った。抵抗することは無意味と思った。女の手は私の顔を包み込む。全身が融かされるような心地だった。本当にこの身がぐずぐずに崩れたのかを確認する術もなく、私は目を閉ざす。あるいは、目が失われた。



 目が覚めると(驚くべきことに命があった)、私は見知らぬ場所にいた。廃墟に見えた。崩れかけの天井は屋根裏の梁が見えるし、少し視線をめぐらせてみえる窓などはガラスが砕けて、室内に散っている。壁も傷つき、穴を開けていた。穴のなかには断熱材のようなものは見当たらず、ただ粘土を固めただけに見える。近代的な家屋には到底思えなかった。

 私が寝ていたのは、床のうえだ。木の板は腐っていて、半身を持ち上げただけで軋むほど。埃も積もっているし、黴臭い。

 身を起こしたときに膝に落ちたのは、私が下校のときに来ていたブレザーだ。誰かが脱がせて布団代わりにしたのだということは容易に想像できたが、では誰が、という疑問が残った。あの泣いた女だろうか。

 立ち上がって、白いブラウスやプリーツスカートについた埃を払い落とす。背中は見えないが、ブラウスの正面はひどい汚れ具合だ。薄黒くくすんで、ちょっとやそっとでは落ちそうにない。クリーニング、もしくは新しく買いなおさなければならないだろう。ここから無事に帰ることができれば、の話であるが。

 改めて室内を見回す。窓のあるほうに細い廊下、反対側にドアがある。窓から外を覗くと、この部屋が三階程度の高さにあることがわかった。景色は、やはり見知らぬ街だ。否。街というには荒廃しすぎている。正面の道は石畳が捲れ上がったうえに、ところどころに大きな石の塊が落ちている。対面にある建物は二階部分の中ほどからうえがすっかりなくなっていて、腐った床板をそとから見ることができた。むろん窓にはガラスがない。ドアも外側に倒れている。見える限りの建造物は、どこも似たような状態だった。いま私のいる場所が比較的整っていることは間違いない。さらに、特筆すべきは空だろうか。

 空。本来なら雲や天体があるはずだが(少なくとも私の常識のなかでは)、ここにはそれがない。空、あるいは上空にあるのは、水面だ。海が天地逆さになって浮いているというのが、もっともそれらしい表現かもしれない。とにかく、頭上にはどこまでも水が続いている。果てがない。

 まさしく開いた口が塞がらない私の後ろで、朽ちかけたドアの軋む音がした。振り返ると、背の高い男が立っていた。私が小柄であることを差し引いても、彼が飛びぬけて上背があることがわかる。二メートル近いだろうか。足首まで届くような厚手のロングコートを着ている。腰元を太いベルトでとめて、そこに細剣を下げている。そのせいだろう、サム・ブラウン・ベルト(肩から腰のベルトにかけて斜めにかけるベルト)もあった。手には黒い皮手袋、足元は頑丈なブーツで、一見すると古い国の軍人かと思える出で立ちだが、髪は肩口で切りそろえていて、前髪などは目にかかっている。どこか「作り物くさい」人物だ。

 彼はドアの前に立ったまま、私をじっくりと眺め回して口を開く。

「無事なようでなにより」

 穿った見方をすれば皮肉、素直に受け取るなら心配。そのどちらともとれる声色だった。いずれにせよ、低いが聞き取りやすい声である。人と会話するのに慣れている、あるいは、人前で話すことを日常的に行っているのだろうことは容易に想像できた。声というのは、練習次第で聞き取りやすく変えることができるものだ。

「助けてくれたのはあなたですか?」

 帯剣している相手を刺激しないよう、できるだけおとなしく、そして従順そうに声をかける。

 彼はこくりと顎を引いた。

「結論だけ言うなら、そうなる。恩を感じる必要はない。適応力に自信があるなら、このまま出て行っても構わない」

 まるで私に興味がないような言い方に、少しばかり安堵する。ひとまず彼は安全だ(絶対ではないが、現状大きな危険とはならないだろう)。私はもう少し、不安を抱えて困惑したふうを装う。

「もしよければ、教えてください。ここはどこで、どんな場所ですか」

「かつてイース大公国と呼ばれ、いまは鏡像に沈んだ国だ。もはや国とも呼び難い。すでに大公はなく、ただ娘のダアトのみが塔に眠る」

 大公国とは大層な冠だ。だが、私の知識にはない国である(凡庸な高校生にすぎない私が無智である可能性は大いにあり得る)。でっちあげ、あるいは妄言。目前の男を疑うことはできても、信じることはできなかった。

 彼がゆっくり私へと歩み寄る。抜刀する素振りこそないが、力技で私のからだを窓の外に投げ出すことも、彼には難しくないはずだ(助けておいていきなり殺すのも考えにくいが、彼の言動に信用が置けないので一応の可能性として考えておく)。

「俺は、」彼がわずかに目を伏せた。「お前によく似た背格好の人間がここへ訪れたのを知っている。そのどれも……俺が気づくよりさきに、事切れていた」

 もはや男が一つ踏み込めば私に手が届く距離だ。部屋が狭いせいか、彼の歩幅が広いせいかはこの際どうでもいい。とにかく、私に逃げ場はなく、彼はいつでも私を殺せる位置にいる。

 喉が渇く。口のなかの水分が一瞬にして消え失せたかのようだった。心臓が早鐘を打ち、からだの末端が冷たくなる。一方で、額や背中を汗が伝い、悪寒がとまらない。

 背中を預けた窓枠をちらりと振り返る。この高さに、固い石畳の道だ、飛び降りることはできない。

 背後に気を取られているあいだに、男が細剣を抜いた。私の喉から掠れた息がこぼれる。情けないことに、悲鳴すらまともに出せないのだ。膝が震えて、無策に足を踏み出そうとすると、もつれてからだが転がる。起き上がろうと床に手をついても、腕に力が入らない。半身を引きずるように、しかしどこにも進めないままもがくうちに、男は細剣の切っ先を自らの胸に突き立てていた。

 少し遅れて、水銀のような液体が細剣を伝って床に滴り落ちる。血ではない。水銀なのだ。銀色をした液体なのだ。

 男が細剣を引き抜き、放り捨てる。勢いよく噴き出した鮮血は、到底血には見えまい。とめどなく溢れ出る、惜しげもなくこぼれ落ちる。それを片手で受け止めて、手の平にためる。雨水を受け取るように、ごく自然にやってのける。

 全身が震えて身動きがとれない私の口元に、彼は水銀のような液体を差し出した。「さあ、飲め。ここに根付くのなら、施しを受けるより他ない」空いている手で、私の口を強引に開かせる。抵抗するだけの力はなかった。私の視界は白に黒に鮮やかに点滅を繰り返し、耳鳴りがやまない。この後、男の差し出した液体を飲んだのか、飲んでいないのか、定かではない。次に私の意識が戻ったとき、そこに人はおらず、乾いた目の痛みに一人で苦しんだ(どうも白目を剥いて卒倒していたらしい)。

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