第38話

 サーモンピンクに色付く世界の中。

 足を進めたぼくたちは、デートプランのフィナーレの場所。

 最後の目的地である、公園に辿り着いていた。

 アーケード街から、歩いて五分ほどで到着する距離にあるものだ。

「ここが、ラストシーンを飾る舞台なの?」

「そうだよ」

 ぼくが答えると、姫那ひめなはぐるりと公園を眺め見て、不思議そうに声をあげた。

「ここで、いったい何をするのよ? メモには、何も書かれてなかったけど……」

 それは、その通りだ。

 ぼくは『最後は公園で〆』としか書いていない。

 この時間のこの場所を見て、最終的に内容を決定しようと思っていたからだ。

 結果は、問題なし。

 場の雰囲気を含めてバッチリなので、ぼくは、想定していた内容を話すことに決めた。

「ほら、この時間だったら、この公園にはあまり人がいないし、いい雰囲気だし、告白に向いているんじゃないかって思ってさ」

「こ、告白っ!?」

「なんだよ、その反応は。お前、優勝したら告白するって言ってただろ?」

「それは、そうだけど……でも……」

「するかどうかは、その時の状況次第っていうか、空気を読んでって感じでいいんじゃないか? あくまでそういう可能性も考えて、ここに連れてきたってわけだ」

 ともかく、これで予行練習の工程は全て終了だ。

「……ってことで、帰るとするか。母さんに、夕食の準備しておいてくれって言われてるしさ」

 駅前のスーパーで何かを買って帰ろう。

 公園を出るために、姫那に背中を向けたところでのことだ。

「待って!」

 ぼくはぐいっと上着の裾を掴まれ、引っ張られてしまう。

「いったい、なんだってんだよ?」

「まだ、練習してないわ」

 振り返ったぼくに向けて、姫那は言った。

「練習なら、さんざんしたじゃないか」

「してない!」

 全身で叫ぶようにして、姫那は続ける。

「告白の練習! 何を言えばいいか、わたしに教えて!」

 本当にわからないという、真剣そのものの表情だ。

「何って、前にぼくに言ったようなことを、素直に言えばいいんじゃないか? お世話になって、それに感謝してて、好きになった、とかさ」

 マニュアルなんかない。

 ただ、自分の思いの丈をぶつければいい。

 ぼくはそう、姫那に告げていく。

 どうやら姫那は、それに納得してくれたようだ。

「……そ、そうね。それは、確かにそうかも……」

「あとはもう、流れ次第だろ。両思いだとわかって恋人同士になったら、キスとかするかもしれないぞ」

「き、きしゅっ!?」

 からかうように言うと、姫那の顔が、ぼっと赤く染まった。

「き……きしゅって、しょ、しょんな恥ずかしいこと、出来るわけないじゃないっ!」

 動揺しすぎてかみかみだ。

「でもさ、恋人同士になれば、普通にするもんだろ? どんな小説でも、漫画でも、ドラマや、アニメだって――さっき見た映画でも、キスしてたじゃないか」

「そうだけど……ああ、無理! 無理! 絶対無理っ!」

 顔を真っ赤にしてしゃがみ込み、両手で頭を抱える姫那。

 考えるだけで、いっぱいいっぱいのようだ。

「なんにしろ、そういう状態になったら男がリードするものだし、きっとなんとかなるって」

 もちろんぼくは上手くリード出来ないけれど、淳也ならばきっと出来るだろう。

 そう思いながら姫那に手を伸ばし、声を掛ける。

「ほら、立てよ。これで満足しただろ?」

「いや、まだよ」

 差し出していたぼくの手を掴んで立ち上がりながら、じっとぼくの目を見つめて、姫那は続けた。

「練習は、まだ終わっていないわ」

「それって、何の――」

 まさか……と思ったけれど、その、まさかだった。

「何のって、決まってるでしょ! もちろん、キスのよ! どうやってやればいいのかわからないし、初めてなら、パニクって出来ないかもしれないし! 練習して、慣れておかないと!」

「いや、お前、何言って……!」

 逆に、ぼくがパニクってしまった。

「キスなんか、練習でするもんじゃないだろ! それに、ファーストキスって、大切なものなんじゃ……」

「は!?」

 ぼくの反論を聞いた姫那はボッと、顔を赤く染め上げる。

「ちょっとあんた、何言ってるのよっ! 本当にキスするわけないでしょ! あくまで練習。フリよ! フリ!」

 そう言われると同時のこと。

 一瞬で、自分の顔が熱くなるのがわかった。

「もしかしてあんた、勘違いしてたの!? えっち! すげべ! へんたい!」

「ってか、勘違いするようなこと言う、お前が悪いんだろ!」

「念のために言っておくけど、本当に、フリだからね! いい? ってことで、わかったなら、やってみるわよ。あんたとだったら、そんなにドキドキしないだろうし、出来ると思うし……」

「それなら、とりあえず、そこに立ってみてくれ」

「わ、わかったわ……」

 ぼくの前に立つ姫那。

 それで、ぼくと姫那は、向かい合う形になった。

「結構、顔の距離が遠いわね……」

「ぼくと淳也の身長は同じくらいだから、あまり感じはかわらないと思うぞ」

 ほんの少しだけ淳也の方が高いけれど、あくまで誤差に過ぎない程度だ。

「とりあえず、顔を上げてみればどうだ?」

「ん……これでいい?」

 上目になって、見上げてくる姫那。

 その瞬間、どくんと、自分の心臓の音が高鳴るのがわかった。

 息も詰まって、上手く言葉を発することが出来なくなってしまう。

「あ、ああ………それでいいんじゃないか?」

 なんとか出た言葉がそれだ。

 すると、再び姫那が上目で訊ねてきた。

「わたし、小さすぎない? ちゃんと届く? つま先立ちとかしなくていい?」

「たぶん、届くと思うぞ」

 姫那の肩に手を置いて、軽く膝を曲げた。

 前傾体勢になったぼくの顔と、姫那の顔の距離が近付いていく。

「ほら、これなら問題ない――って……」

 気付けば、姫那は目を瞑っていた。

 いわゆる、キスしてのポーズである。

「どう? こんな感じでいいかしら?」

 訊ねてくる姫那。

(いや、待てよ。こんなの――)

 可愛すぎるだろ。

 あまりにも無防備すぎるし、その唇を見ていると、自分の唇が引きつけられそうになってしまう。

 ……キスって、どんな味がするのだろう?

 ファーストキスはレモンの味だなんて、書いている本や漫画を読んだことがある。

 とても甘くて、酸っぱい味。

 それを書いているのは、酸いも甘いも噛み分けた大人だろう。

 本当のところは、どうなのだろう?

 キスって、どんな味がするんだろう?

 その答えが、今、目の前にある。

 ごくりと、迫り上がってきた唾を嚥下する。

 作家としての好奇心が、ぼくの背中を押していた。

 キスを経験することで、ぼくが書ける表現は、間違いなく広がるはずだ。

 ぼくは姫那の唇に、自らの唇を近付けていって――。

「……って、なに本気でキスしようとしてるのよっ! 練習って言ったでしょ!」

 乙女の勘というやつなのだろうか。

 目をつむっていながらも、衝動に突き動かされ、一線を越えてしまいそうになっていたぼくの異変に気付いたようだ。

 ハッと目を開いた姫那の両腕に突き飛ばされて、ぼくは尻餅をつくことになってしまった。

「何言ってるんだよっ! 途中で止めるつもりだったって!」

「ほんとかしら? めちゃくちゃ、息が荒かったんだけど……」

 姫那が、疑いの視線を向けてくる。

「そりゃ、フリとはいえ、緊張してたんだから仕方ないだろ! そもそも、お前が予習したいって言ったんじゃないか!」

「あそこまで顔を近付けろなんて言ってないわよ、バカ!」

 顔を真っ赤に染めて、そうダメ出ししたあとのこと。

 姫那は、ぼくに手を差し出してきた。

「ほら、立って」

 ともかく、これで予行練習は終わりだ。

 立ち上がって、ぼくは言った。

「本番、上手くいけばいいな」

「……うん」

 照れた様子で、頷く姫那。

「それじゃ、帰るか」

 ぼくは、公園の出口に向けて歩き出す。

 すると、ぼくよりも先に公園の出口へと姫那は向かっていった。

 そして、そこで振り返って――。

「今日は、付き合ってくれてありがとう。とっても楽しかった!」

 夕陽に彩られた、姫那の笑顔。

 それは、まるで本物のお姫さまのようで……。

 ドキッとするほどに、魅力的なものだった。

 その姿に見惚れていると、姫那が半眼になって睨み付けてくる。

「なに、ぼーっとしてるのよ? あんたは、楽しくなかったの?」

「そんなことはないよ」

 本当に、楽しかった。

 本番もそうであれば、きっといいだろう。

 たとえ告白出来なくても。

 それが失敗しても。

 最後は笑顔で終われたら、きっといい思い出になる。

 今日という、一日のように。


 ぼくは、心の底からそう思っていた。


 それから一週間が過ぎて――。

 ついに、デート本番の日が訪れた。


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