女神のまつげ

紬木もの

女神のまつげ

 彼女の瞳を覗いてはいけない。一度ならまだしも、二度覗いてしまえば、それで最後。

 甘い香りに誘われて、その燃え上がる黒に焼かれて、気づけば身動きが取れなくなってしまう。長い睫毛のまばたきに挟まれ動けなくなる。そして静かに我が身が溶かされていくのを待つだけ。それからたちまち彼女に取り込まれて、その美の一部になる。

 ──何それ。それじゃあ私はまるで、メドゥーサじゃみたいじゃない。

 小さく揺れる蠟燭。その灯りを映した紅い三日月。

 ──ねえ、

 それまでとは種類の違う甘さの声に、僕は思わず顔を上げる。

 ──お願い。あの人を殺して。

 挨拶のような何気なさで彼女の口を出た言葉は、その瞳の奥へと僕を誘い出す。瞳の向こうに灯が揺れて、それは僕を焼き尽くすかのようにだんだん、だんだん大きくなる。


     ***


 孝弘に電話をすると、寝ぼけた声が聞こえてきた。

「お前、寝てたのか?」

 ちらりと腕時計を見ると時刻は十二時十五分。この時間まで寝ているとは、いかにも孝弘らしい。

「お、田丸か。どうした?」寝ぼけているのに加えてトボケている。

「どうしたじゃねえよ。十一時から会議って約束だっただろ」

 会議とは、来月行う予定にしている同窓会の運営会議だ。中学の同窓会で、成人式以来七年振りに大規模に開かれることになった。三クラスあった中学三年当時の学級委員長六名が集まって会議をする。もうこれで五回目の会合だ。仕事の都合で忙しいが、今のところ何とか全てに参加できていた。

「うっそ。カレンダーにそんなメモ……あった」受話器越しに孝弘が慌てる音がする。「ごめんごめん、すぐ行くわ。先に始めといてくれ」

 こちらが説教する隙を与えることなく、電話は一方的に切れた。

「孝弘君、何だって?」正面に座る戸村千絵がストローの袋をいじくりながら訊く。

 電話の内容を伝えると、分かりやすくため息をついた。「孝弘君らしいわね。これだからお金持ちのぼんぼんは。真沙菜、どうして伝えておかなかったのよ?」

「どうしてって。最近会ってないし、最後に連絡取ったのも一週間くらい前だもの」

 戸村の隣、鈴村真沙菜が肩をすくめる。僕と同じ元三年一組の学級委員長で、孝弘の彼女だ。成人式からしばらくして付き合い始めた二人だが、まだ結婚には至っていない。

「えー? あんまりうまくいってないのかい? 大丈夫?」

 身を乗り出し横やりをよこすのは元二組の学級委員、金澤和也。こいつは昔から学年きってのチャラ男だ。全く油断も隙もない。

「金澤君、相変らずね。真沙菜を口説こうとしてるんでしょ?」

 戸村はまだストローの袋をいじっている。それに加えていじけているようにも見えた。そう言えば戸村は昔、金澤のことが好きだった。それで三年の時は学級委員に立候補したとかどうとか。今はどうなのだろうか。

「別に口説こうとしてるわけじゃない。心配してるんだよ。もし鈴村が変な男に付きまとわれたら誰が守ってあげるんだよ、なあ田丸?」

 戸村の指先をぼんやり眺めていると、急にお鉢が回ってきた。僕は取り繕った言葉をひねり出す。

「知らないよ。でもまあ、確かに鈴村は美人になったよな。成人式の時もみんな驚いてた」

 中学生の時にはあまり目立つタイプではなかった真沙菜だったが、十年前の同窓会に現れた彼女は様子が変わっていた。よくある話かもしれない。しかしそれでも真沙菜の豹変ぶりは凄まじかった。

 少年のように短かった髪は背中まで綺麗に伸び、その艶やかさの間から白く華奢な頸が時折覗いた。鮮血のようなルージュと、それと同色のドレスを身に纏って歩く姿は、ハリウッド女優のように美しかった。そして何より、長い睫毛、その妖艶な瞳。全てを吸い込んでしまいそうなその黒。一度捕えられると光でさえ抜け出せないような妖しさ。

 ──典型的な魔性の女だな。

 一緒のテーブルで酒を飲んでいた孝弘がそう呟いていたのを覚えている。まるで谷崎潤一郎の小説にでも出てきそうだ、と。読んだこともないくせに。僕は真沙菜の姿に目を奪われながら、ただただ頷いていた。

「間違ってもあんな女に引っかかるんじゃないぞ。きっと痛い目みる」と僕に向かって笑っていた孝弘が、その後真沙菜と付き合うことになるとは。高校の時から付き合っていた彼女を亡くしてからすぐのことだった。結局あいつの方が真沙菜の魔性に当てられたのだろう。

 だが孝弘には手を引いてもらわなければならない。でなきゃ──

「おい、田丸。見惚れてんじゃねえよ」

 金澤に頭を小突かれて、僕は現在に戻ってきた。

「あ、ごめんごめん……っていや、別に見惚れてたわけじゃない」

 しどろもどろになっている僕を見て、真沙菜の口が緩やかな弧を描く。

 最初の会議の後、初めて二人きりで話した時もこんな風に笑っていた。彼女は単に男に媚びた笑顔を作っているわけではない。彼女は人間のもっと深いところ、暗いところに笑いかけている。その笑顔で相手の何かを呼び起こそうとしている。

 ──私のこと、気にしてるの?

 僕は慌てて視線を外し、水滴だらけのコップを掴んだ。孝弘がやってきたのはそれから十分後のことだった。


「お前、最近鈴村さんと会ってなかったんだって?」

 会議の後、助手席の孝弘に何気なく質問した。後ろの座席では金澤が大口を開けて眠っている。

「そうなんだよな。俺はしょっちゅう会おうって言ってるんだけど、」孝弘は首を縦に振りながら頭を掻いている。「今日もこの後は仕事だって言うし」

「へえ。そろそろフラれちゃうんじゃないか?」

「かもしれない」

「じゃあそうなる前に、お前から別れを切り出してみろよ」

 そうなれば良い。後戻りできなくなる前に別れてくれ。……いっそ孝弘に話してしまおうか。僕の迷いと彼女の本性。

 僕は信号待ちのサイドブレーキを引いて、孝弘の横顔を眺めた。孝弘は依然困り顔で頭を掻いている。

「うーん。それはないな」

「何でだよ?」

「真沙菜は里沙が死んで一番シンドイ時に支えてくれたんだ。どうにか立て直してみせる」

 そうか。それは困った。やはり孝弘も彼女の魔性に当てられている。今のこいつには何を言っても無駄だろう。

「──同窓会の日、サプライズでプロポーズしようと思ってるんだ」

 孝弘が楽しそうに声を潜めた時、信号が青に変わった。


     ***


「ごめんごめん、待った?」

 僕はいつものバーで真沙菜と落ち合った。

「今来たところ」

 薄暗過ぎる店内の雰囲気が、彼女の表情を隠してしまっている。

「それで、覚悟は決めてくれた?」

 席に座るとやっと彼女の顔が見えた。しかしその表情は全く読めない。右手でルビー色のカクテルを遊ばせている。

「覚悟って言ったって、小学生の頃からの友達を──」

「できるわ。あなたは私のためにそうするのよ」

 真沙菜は僕の言葉と思考を遮って、カクテルを口に運ぶ。それを追った僕の視線は、彼女の瞳に吸い寄せられた。

 彼女の瞳を覗いてはいけない。

「孝弘は、同窓会の後、君にプロポーズするそうだよ。会場ホテルの一室を、君に内緒で取ってあるらしい」

 僕はほとんど惚けたように、孝弘の計画を一方的に話し続けた。その間、彼女の瞳は絶え間なく僕を吸い寄せ続けた。

「そう」

 真沙菜は短く、返事とも吐息とも取れる声を漏らした。それでようやく僕は彼女の瞳から離れることができた。

「じゃあ、その日ね」

「え?」僕はせっかく逃れた瞳にまた釘付けになる。「よりによってそんな日に──」

 たじろぐ僕の左手に、真沙菜の手が重なる。細い指が蛇のように絡み付く。蝋人形のように温度がない蛇。

 そんなことを考えている僕の手にもまた、温度はないのかもしれない。

「その方が良い。ホテルの部屋でやるの。部屋が分かれば伝えるから。あなたはただ、私の言うことを聞いて」

 彼女は長い髪を耳にかけ、黒いピアスが鈍く光った。

「──上手くやってくれれば、私は、あなたのものになる」


     ***


 同窓会当日。

「今日はお忙しい中お越しいただき、誠にありがとうございました」

 会場の一番前、ステージの上では戸村が締めの挨拶をしている。度重なる会議の成果もあり、学年の七割が参加する大盛況の同窓会となった。

 ちらと会場の後方に目をやると、孝弘の姿が見えた。声は聞こえないが、真沙菜に何かを渡している。薄い紙か何かのようだ。真沙菜は少し眉を上げて訝しそうな、その一方で喜んでもいるような表情を浮かべている。

 おそらくホテルの部屋番号が書かれたメモでも渡されたのだろう。真沙菜のあの表情は演技。孝弘が気づかなくても、僕には分かった。

 会場の後始末には幹事と、同窓生十名ほどが残ってくれていた。真沙菜は始めの五分くらいはそれに参加していたが、気がつくといなくなっていた。

「ねえ、これ何?」出し抜けに、ゴミ拾いをしていた金澤が声を上げた。

「どうした?」

 近づいてみると、金澤はメモを手にしている。

「909、かな?」

 こちらに向けられたメモには算用数字、横書きで909と書いてあった。そしてその数字の下には横棒。よく6と9を間違えないように付けられる目印だ。

 ここはさっき孝弘と真沙菜が立っていた場所。そして筆跡は間違いなく孝弘のものだ。

「ただのメモだね。捨てよう」僕は平静を装って、手にしていたゴミ袋を広げた。

 会場の後片付けが終わった後、僕は二次会にはすぐ合流すると伝え、ホテルのエレベーターに乗った。一つ息を吐いて、九階のボタンを押す。

 もう後戻りはできないところまで来てしまった。スーツの内ポケットに入れたジャックナイフを確かめる。

 彼女の瞳を思い出す。そして黒い髪、白いうなじ。真っ赤なルージュに、今日は純白のドレスだった。

 エスカレーターは間もなく九階に辿り着き、僕は静かに箱を出る。909の部屋を見つけ、トントンと二回ノックした。

「いらっしゃい、待ってたわ」

 甘美な声が聞こえて、ドアが開いた。


     ***


 僕が部屋についてからしばらくして、ノックの音が聞こえた。僕は真沙菜に頷きかけると、バスルームに身を潜める。あとは計画通りに事を進めるだけ。

「孝弘は?」

「今シャワーを浴びてるわ」

 息を潜めていると、二人の会話が聞こえてくる。

「里沙を殺したのは君だったんだね」

 真沙菜の言う通り、やっぱりあいつは気づいていたんだ。

「何を言ってるの? そんなわけないじゃない」

「僕は気づいてしまったんだ」

 それに気づいているのなら、殺す他ない。

「証拠は?」

「ここにある」

「……」

「始めから、里沙を殺してその彼氏に近づく事が目的だったんだろ? そして最後にはその彼氏も殺してしまおうって考えてたんだろ?」

 そこまで会話が進んだところで、突然真沙菜が叫んだ。

「助けて」

 その言葉を合図に、僕は静かにバスルームを出た。


     ***


「助けて」

 突然、真沙菜が叫んだ。状況に僕の理解が追いつかなかった。誰に、何の助けを求めているんだ?

 思考の整理がつく間もなく、今度は後頭部に強い衝撃を受ける。背後から誰かに殴られた。誰に? まさか、孝弘が?

 僕はそのままうつ伏せに倒れる。お前は誰だ? 力を振り絞って上体を起こしたが、仰向けになるので精一杯だった。

 白い照明が目に入り、後頭部の痛みを刺激した。その痛みは留まることなく頭全体に広がり、それに反して視界が狭くなっていく。後頭部に生温かい感覚が広がる。

 遠のく意識の中、視界の左から真沙菜の顔が現れた。長い睫毛の間、漆黒の瞳がこちらを覗いている。僕はとっさに目を閉じた──が、頬を叩かれて目を開く。

「私を見るのよ。私に消えてゆく光を見せて、新米刑事さん」

 真沙菜の顔はこんな時でも綺麗だった。いや、こんな時だからこそ綺麗なのかもしれなかった。彼女は里沙を殺した時に、この美を手に入れたのかもしれない。そして孝弘は、もしかすると僕でさえ、その美に──


     ***


 またやった。やってしまった。僕は足元で動かなくなった田丸を見下ろしている。田丸の傍らにはジャックナイフ。七年前、僕が里沙を殺した時に使用した凶器だ。真沙菜が持っていたはずだが、田丸はどうやって手に入れたのか。

 それにしてもさすがだ。孝弘のメモに、とっさに線を足すなんて。たまたま909号室が空いていたのも幸運だった。いや、不幸だったかもしれない。真沙菜は計画通り、田丸を殺害し、過去の殺人の証拠品まで取り戻した。田丸も単独行動なんてせず、同僚に助けを求めていれば良かったのに。

 思うに彼もまた、真沙菜に惹かれていたに違いない。

 元彼女を殺した犯人とは露知らず、孝弘は今頃、606号室で呑気に真沙菜を待っていることだろう。婚約指輪でも持って、ドキドキしながら。

 真沙菜は田丸が絶命する瞬間を見届けて、それにしばらく見惚れていた。

 やっと顔を上げた時の、彼女の美しさ。瞳の奥で悪が結晶して、時折綺麗に光を放つ。田丸の命が真沙菜の命を、美を燃やしている。

「私はこの部屋にはいなかった。この人に呼ばれたあなたは、ちょっとしたことで口論になって、思わず殴り殺してしまった」

 僕は何度も頷いた。冷静な真沙菜とは対照的に、僕の心は今にも溶けてしまいそうなほど熱く鼓動を打っている。真沙菜はこの部屋にはいなかった。カッとなった僕が田丸を撲殺した。今度こそ、捕まるだろう。前のようにはいかない。

「ありがとう。愛してるわ、和也」

 どうしてこうなったのだろう。

 彼女の瞳を覗いてはいけない。一度ならまだしも、二度覗いてしまえば、それで最後。

 甘い香りに誘われて、その燃え上がる黒に焼かれて、気づけば身動きが取れなくなってしまう。長い睫毛のまばたきに挟まれて動けなくなる。そして静かに我が身が溶かされていくのを待つだけ。それからたちまち彼女に取り込まれて、その美の一部になる。

「君が里沙を殺してくれって言った時の会話を覚えてる?」

「覚えてる。私がメドゥーサみたいだって話でしょ?」

 彼女は気怠そうにまばたきをした。

「うん。だけど君はメドゥーサじゃない」

 彼女は気怠そうに立ち上がった。そして僕に一歩近づく。

「じゃあ何?」

「きっと君は、ハエトリソウだ。英名をVenus Flytrapと言う」

 真沙菜は可笑しそうに手を口元に当てると、また一歩僕に近づいた。

「知ってる? ハエトリソウは、自分から虫を誘き寄せる能力は持たないのよ」

 僕の肩に腕を回し、耳元で囁く。

「──寄ってくるのは、いつだって虫の方」

 いつか僕も、君の美の一部になるのだろうか。

 そんなことを思いながら、僕は真沙菜とキスをした。

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