第3話 夕凪の瞬間

お客さんから彼女が「海ちゃん」になったのは出会ってそう月日が流れたわけではなかった。俺の場合いろんな理由がつけられるからいい職業だと思う。海ちゃんにはモデルをお願いした。人のいい海ちゃんは二つ返事で喜んだ顔と恥ずかしい顔をネイビーの瞳をなるだけ桃色にして頷いた。かわいいその表情に俺はまだ少しだけ疑っていたけれど、たまたまこの間スーパーで買い物をしている彼女を見て笑ってしまった。ああ、杞憂だったって。繋がれている犬の頭をなでようと思って、そのことに集中しすぎて雨あがりの夜なのに真っ白なキャンバス地のトートバッグを地面に置いてしまったのだ。犬をなで終わった後は満足したようにトートバッグをまた肩にかけて半分スキップしながら帰っていったけど、翌週の来店日にはそのトートバッグはもっていなかった。学習したのか、今度のバッグは黒字のトートバッグになっていた。そんな海ちゃんとはじめてのデートは近くの海岸のカフェだった。とにかく海ちゃんは女の子らしくカフェが大好きだった。ショッピングとかディズニーランドとかそんなお金のかかることよりも飛鳥くんとはゆっくりおしゃべりがしたいの。いつもそう言って俺たちはカフェでおしゃべりをしている。

「飛鳥くんの考えていることあてられるようになったの、超能力よ」

海ちゃんはいつも唐突で奇天烈だけどそのどれもが論理だっていて、最後には納得させられてしまうからいつも海ちゃんからの発題が楽しみでならない。

「うん、で、何をあててくれるの?」

海ちゃんはネイビーの瞳を閉じて頬を少しだけ膨らませて考えていた。目を閉じると左右アンバランスなアイシャドウが笑えた。

「飛鳥くんの家の近くに公園があるはず…。どう?すごい?」

一瞬あっけにとられた後俺は大爆笑してしまった。

「海ちゃん、俺も一応客商売だよ?それコールドリーディングでしょう?」

海ちゃんの大きな目は一瞬見開き、またあのアンバランスなアイシャドウが見えるほどに目をつむり口をイーとした。時々こういう「調子が悪い」ことをかます。それがまたバカみたいで面白い。

「確かにね?確かに公園あるよ?」

笑いが止まらない俺を店内の男性客が嫉妬の目で見つめる。嘲笑されても全く気にもならない。そういう雰囲気で包んでくれるのがまた海ちゃんだ。

「飛鳥くんがコールドリーディング知ってるなんて想定外だよ…」

運ばれてきたロイヤルミルクティを口に含む。甘いシナモンの香りと海ちゃんがつけているフリージアの香水の香りが絡み合いながら俺を攻撃する。カップにべったりついたボルドーの口紅を指で拭う一連の動きに俺は見惚れてしまうことを海ちゃんは多分知らない。海ちゃんは基本伏し目がちだから、たぶん俺の渇望に基づいたセクシャルな視線に気づいていないはずだ。

「でも、飛鳥くんの気持ちはエンパスできるよ」

また、唐突なことをと俺は笑いながらコーヒーカップを左手で持った。海ちゃんが右利きだから、海ちゃんと遊ぶようになって俺はカップを左手で持つ癖がついた。

「海が寂しい時、苦しい時、飛鳥くんも同じ気持ちだってわかるよ」

海ちゃんは大きな目がなくなってしまうくらいの笑顔でそう言う。大切なことを言うとき彼女はいつもネイビーの瞳を隠すんだ。


ポン太郎との一件以来あの子とは、土曜日の15時ごろ海岸のベンチで会うことが習慣となっていた。互いに約束もしていないのに毎週、毎週そうなるということは互いに少なからずそういうことなのだと思っている。俺は別に恋愛をするつもりもないし、当の昔に気を許すのはポン太郎だけと決めていたけど、あの子だけはなんだか不思議だった。あの子は女性で俺は異性愛者だから、友達枠や家族枠以外に彼女枠や妻枠なんかにも入ることができるが、彼女はどれにも属さずどれにも属している、そんなことを無意識に思っているような意識になってからというもの、彼女と会う機会が増えたように思う。土曜日以外にも、会社帰りの駅で偶然会ったり、祝日のイベント会場で偶然見かけたりすることも、関係性の無意識を意識するようになってからだった。

「雅伸くんってポンちゃんと何年いっしょにいるの?」

だいたい、彼女は俺をくん付けする。くん付けが非常に繊細な敬称であることを俺は彼女から教わった気がする。近すぎないから嘲笑の対象からもはずれ、遠すぎないから敵であるようにも思えない。どこか家族のような気分でありながら、どこか色気を含んでいる。敬称ひとつでこれだけ考察させる彼女を俺は今では身を焦がすほどに求めていた。恋愛感情ではないというブレーキを必死に引きながら。

「もう10年かな」

「20歳のころからかあ。大学生の雅伸くんも社会人になったばかりの雅伸くんもポンちゃんは知ってるんだね。ポンちゃんが人間だったらいいのにね」

もともと口下手な俺の気持ちを彼女はすべてすくってくれる。俺の単語を文章にしてくれる彼女を感じれば感じるほど、彼女の歩んできた日々を知りたくなる。でも俺はやっぱり口下手だから、彼女の目の色を読むことばかりに気を取られてしまう。目の色にすべてが書いてあるわけじゃないのに。もっと砕けた話もワンナイトラブだって平気な俺なのに、いまだに恥ずかしくて俺は彼女の名前を面と向かって呼んだことがない。そんなこともきっと彼女は察してくれている。彼女の気持ちは俺も察している。彼女は寂しくなると夜の海に行く。偶然出会うたびに「今日はね、月を見に来たの」と言うからすぐにわかる。ああ、「今日は」泣きたいことがあったんだ、と。


世の中にたくさんの恋愛ハウツー本があるけれど「好きな人に好きというとその人はどんな気持ちになるか」を教えてくれる本に俺はいまだに出会ったことがない。だから、俺は海に「好き」と言ってもそれは言葉だけで本当の愛情を示すことにはならないと思っていた。海は愚痴を言わない、海は俺を責めない、そのかわりメルトダウンしたように泣いてしまう。怒ってくれたほうがよほどわかるのに、海は怒らず泣いて発散してしまう。そんな日々に俺はうんざりしていたから、泣くたびに「出ていけ」と心にもないことを言ってしまっていた。好きな女性が泣いて、その気持ちを教えてもらえないなんて俺は男として認知されていないと思ってやるせなかったのだ。俺にもプライドがある。海の彼氏で、海を幸せにできるという男のプライドが。

「せいたろうさん、海がいなくなったらどうする?海が他の男の人と仲良くなったらどうする?」

こんな謎かけもうんざりだったし、海はアホなように見えて実は非常に思慮深くて賢い女性だからこんな他愛ない質問の裏にはとてつもなく深い答えがいくつもあることを俺は経験上よく知っている。だから、海のする謎かけはものすごく怖かった。俺が好きとか嫌いとか、海に新しい恋人ができたとか、その程度の単純さなら俺もこわくない。それよりももっと、この他愛ない質問の裏には俺の性格を価値観を常識をすべて根本的に覆すような理論が眠っているような気がして、その理論が非常に整然と一点の隙も与えないような理論な気がして怖いのだ。一度世界からはみ出た経験がある俺にとって、自分の価値観が間違っていることを突き付けられることは何よりも恐ろしいことだった。そういう意味でも海の謎かけは俺を背水の陣にしてしまう。たった一言「好きだよ、海」と言えばすんだのに、常日頃の海の頭の良さが誤解を生んだんだ。そう、海は頭がいいから男を狂わせるってことも俺は最近わかってきた。

海の化粧も香水も振る舞いも最近妙に色っぽい。涙の回数に比例するように海は日増しに美しくなっている。



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