第2話 海

ポン太郎と海辺を散歩していると、いつもひとりで音楽を聴きながらチョコレートを食べている女がいる。人の顔を覚えることが人一倍不得意な俺なのに、彼女の顔と存在は一発で覚えてしまっていた。寂しそうなときも泣いているときも見たことがある。面倒くさそうな女。笑っているときも一人小声でノリノリで歌っているときもある。変な女。ポン太郎も俺の気持ちを察してか、最近では彼女の存在に気づくとトイレをしたいそぶりをしたり、なんとなくそこでグズグズしてみたりしている。俺は声をかけるつもりはない。だいたいかかわったら俺の人生まるごと飲み込んでしまいそうなエネルギーが怖い。ポン太郎もそこまで察して行動してくれればいいのに、彼女の前でかわい子ぶって小首をかしげるから彼女はすぐに笑顔を向けてかけよってきた。そうなると飼い主の俺は話しかけるなりお礼を言わなければいけない。と、思ったのに彼女はポン太郎のほうばかり見て俺には目もくれない。ポン太郎とばかりしゃべっていて俺とは目も合わせない。だいたいイヤフォンを外すことすらしない。話しかけることもできないじゃないか、そこは空気読んでイヤフォン外せよと内心思いながらポン太郎を見ていた。想像以上に白い指がポン太郎の頭を繊細に撫でている。ボルドーのマニュキアは少し剥げているけれど、不潔な感じはしない。指ばかり見つめていたら変な気分になって思わず彼女の顔に目をやった。長いまつ毛と優しい笑顔、大きな瞳は光の加減かネイビーに深みがかかった神秘的な色をしていた。キャンプで飛鳥が言っていたきれいな瞳の女ってこの子みたいな女性のことを言うのかもしれない。そんなことをぼんやり考えて彼女の顔を凝視していたから視線の合致は不意打ちだった。それなのに彼女の笑顔はまるで昔から家族だったような自然さだった。こんなふうに冷静に判断できたのも実は帰ってきてからであって、その時はすっかり彼女とポン太郎と馴染んで時間を共有していた。たかだか5分。話す内容もいつもどおりに「ありがとうございます」でよかったのに、「仕事何しているんですか?」と聞いてしまっていた。案の定というか、訝し気な彼女の表情に俺は冷や汗をかいてしまった。目の大きな女は感情が表に出やすいというけど、彼女は非常に感情表現が豊かで不思議そうなときはとても不思議な顔をする。顔の真ん中に「?」が見えるほどだ。たかだか5分。俺は彼女のことを何も知らないのに彼女の人となりを語っている。名前は「久遠 海(ひさとう うみ」、あのエキセントリックさや雰囲気からたぶん年下。仕事はハンドメイド作家らしい。フェイスブックで検索してヒットした彼女は俺よりもひとつ年上だった。「あの女、年上かよ!!痛すぎるだろう!!」それだけで俺は半日笑いころげていた。31歳であんな澄んだ眼を持っているなんて、すげえ!!かわいいなあ!!急に飛鳥の声が聞こえた気がして、俺の気分はそがれた。きっと誠太郎なら、会話に入らず彼女の姿をずっと見ていただろう。「いい匂いだなあ」とかぶつぶつ言いながら。


海は僕のはじめての彼女だ。好きな作家のファンページで知り合った純粋培養の女の人だ。どんな人に対してもお人よしが過ぎて、娘を持つ気持ちってこんなものかと最初はすごくイラつかされた。僕が無職でも「そのうちなんとかなるよ」ってバカにポジティブだし、いつも笑っているし犬みたいに忠実に僕のことを愛している。僕の何がいいかと聞けば海はいつも即答する。「顔とスタイル」。「せいたろうさんのいいところは数えきれないほどあるけれど」と付け加えることも忘れない。敬意をもって僕にさん付けをする。僕が好きすぎて引っ越しまでしてきた、いかれた女だからこそ僕自身が中毒がひどくならないように愛情表現は自制している。彼女と初めて寝た日、ものすごく良い心地がした。具合がいいとかそういうんじゃなくて、五感を楽しませてくれるようなそんなオーラというか匂いがあった。あれがフェロモンというやつなのかもしれない。無職の僕にも笑顔と敬意を忘れない彼女のおかげもあって僕は今まともに働いている。収入もそこそこにあるし、好きな時にインドネシアあたりにならいつでも行ける。昔はオタクの極みみたいな雰囲気だったけど、ヘアアクセサリーをハンドメイドして売っている彼女のファッションセンスを参考にしていたら、いつのまにか雑誌に出てくるような雰囲気だと母親から言われるようになった。フォトグラファーっていう案外体力勝負の仕事をしているから体のラインもきれいになった。仕事のためにランニングをはじめたことも大きい。彼女の作品のモチーフはたいてい惑星だ。金星とか月とか土星とか木星とか彼女の感性の中ではちょっとずつ時々で変わってきて壮大な物語の元デザインされるらしいけれど、僕には別のデザインですねくらいしかわからない。彼女は時々スピリチュアルに傾倒する。最近ではパターンが見えてきて、どうも生理が近づくと凝り始める。つまりはメンタルが不安定だからで、はまりこんで散財しないように手綱を締めるようにはしている。


「美容師さんのお誕生日、あててあげます」。

バカに無口で色っぽい女性客だったあの人が、思いつめたように俺を凝視しして真剣にそう言った。今よく思い出すと二回目の来店の時だったと思う。あまりにも突然で、何がどうなっているのか、例えばストーカーなのか?とか不思議ちゃんかとかそんな感情の整理も、会話の方向性をの決断もできないほど突然だった。俺は微妙に笑い「はい…」と言うのが精いっぱいで、そう言えた自分をほめてやりたいくらいだった。

「本気ですからね!」そう、本気の目をして前置きして、彼女は見事一発で俺の誕生日をあてた。なぜわかったか?と何度も聞いてみたけれど、彼女の答えは「情けはいりません。美容師さんこそ、営業トークじゃないですよね?」と半ば堂々巡りの展開になって俺は仕事中なのに大爆笑してしまった。俺の笑い声ってでかいから、なるべく仕事用のテンションと音量を気にしているけれど、そんなことも吹っ飛んでしまうほどだった。砕いた岩から水がほとばしるように彼女はそれ以来とびっきりの笑顔でいつも会話をしてくれるようになった。この間来た時にうつむく彼女の瞳をよく見ていると俺の好きなネイビーの光を宿していた。不揃いなまつ毛は整えたらもっときれいになると思った。彼女がこれ以上キレイになったら…そう思うと、俺は面倒くせえって言葉を吐き捨てていた。何が面倒なのか、自分の仕事で宣伝になりそうなのに、俺は顔が赤くなった気がした。今日は暖房がきついから、そう思うことにしてその日を忘れるよう努力した。雅伸ならきっと「感情論で語っているうちは自由になれない」ってさっさと寝ようとするだろう。そのくせ、眠れなくて誰よりも遅くまで小さな明かりの下で読書をしているんだ。風の噂なんてものはないのかもしれない。わりと小さなコミュニティで知り合ったふたりなのに、俺は今雅伸も誠太郎も何をしているか知らないから。

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