第515話「不死身の呪い人」 ヴィルキレク

「ハンドくんはもう童貞じゃないよ」

「おっお嫁さんの紹介はいつかな?」

「フィルエリカ方式」

「ひぎょええ! ハンドリク―! ぶぅおぉええ゛!」

 妻ハンナレカ、次男ハンドリクの靴下を鼻に当てて泣き出す。娘達が慰めにかかる。

 いつものデカい声での号泣。壁越しに聞いたら牛馬……いやいや。

 姉の養女リュハンナ=マリスラの魔都土産がこの、この話と洗っていない靴下。足裏面が黒ずんでいる……靴も履かないでどこを歩いたんだ?

 女達の輪にあまり入るつもりは無いのだが、今回は気になる。父として。

「エグセン女性の名のようだが、それはどういう方式なのかな」

「結婚しない、愛人たくさん、子だくさん。全部自分の家の子。ヴィルおじの孫かは成長待ち」

 アルギヴェン家では、節度を保つならば女遊びを許容するというのが方針。だが婿ですらないとは。拉致では飽き足らず。

 ここは聖都。ロシエ皇帝とベーア皇女の結婚式、準備中。

 娘マールリーヴァの花嫁衣裳を仕立てる、準備中。衣装見本を着比べて、基本を決めてから注文を入れて作るその前段階。

 聖都一番の工房が作るので質は元より出来上がりも相当早いらしい。職人の手作りではあるが巧みな分業制が売りだとか。

「お母様?」

 隣の衣装部屋からマールリーヴァが姿を見せる。透かし編みが多用された一品。一瞬裸のように見えて、勿論品はある程度に隠れているが、ややもすれば娼婦。

 これで十四着目。正直どれでもいいが。

「陛下。胸周りまでこれではいかがわしいですが、首回り、袖先、丈先に使うのならば良いかと思われます。夏なので暑苦しくないようにも」

 衣服の指導は家庭教師の女史。君が決めてくれ。

「夏服の要領か。マールリーヴァは恥ずかしくないか?」

「えっと……」

「はっきり仰ってください」

「はい。慣れない服は全部、恥ずかしいです」

「それでも皇族女子ですか。堂々としてください」

「すみません」

 娘達の礼儀作法の家庭教師は目が厳しい。女史は娘の疲労はお構いなしに吟味していて、目線はもう十五着目。

 自分も妻も華やかな衣装には興味が薄いのでこの手の指導役は必須である。

 涙から視力がやや回復したハンナレカ、マールリーヴァを目視。

「それもぎれ゛い゛ぃ」

 感極まった勢いで衣装をめちゃくちゃにしそうな突進。捕まえて腹を抱いて踏ん張り抑える。

「うおっ! くぅ」

 靴が絨毯で滑って削って、股が広がる。腰を落とす。

「どう、どう!」


■■■


 昔から見上げる程大きく、今ではあちらから姿勢を低くして貰わないと目線も合わない姉、ヴァルキリカ。

 昔から超人的で、今の黄金の人狼姿こそが本物と思えて来る。黒の僧衣なんか着て人間の真似をしなくても良いのに、と思うこともある。悪い意味ではなく、それが似合っているだろう。

 もう仕事では筆も持てない巨体。姉の側近達が聖女、聖戦軍指揮官としての言葉を聞いては指令書を代書し、書類を積んでいる聖職官僚、将校達に伝達している様が見られた。

 姉の背丈に丁度良い部屋も中々無い。この聖オトマク寺院は、音が良く響くように天井が高くなっている区画は多いものの大体その辺りには人目がある。結婚式の準備作業で開封前後の荷物も積まれ、今は尚更手狭。

 天気の良い、今日のような日なら寺院の中庭に陣幕が立てられる。横臥姿勢ならば姉でも外から隠れる程度の高さ。

 周囲からは”幕内”を隠して休めるように。姉もあえて昼寝の姿勢を見せ、息を抜けるように率先。

 幕内では茶会が開かれて各部の簡易交流会が定期的に開かれている。どうしても縦割りになる行政組織に風を通すのが目的の一つ。発狂するまで部屋に篭る者達もいれば追い出しの機会。誰かが”虫干し”と揶揄していた。

 その昔、前聖皇の時の寺院は”監獄”と呼ばれていたらしい。彼自身が休むことを許さず、昼夜精勤、睡眠食事も短時間で済ませて元気を怒声で絞り出していたとも。

「私はまるで傍観者のようです」

「玉座の位置が多少高いのはそういうことだ。自覚が出たな」

 姉の声は普段なら太鼓のように巨大で、小さく低く抑えないと周囲に丸聞こえ。小声にしても、それでも杯の一部など共鳴して中の茶を震わせる。

 茶葉もかなり高騰していたな。薬かと思う程。

「宮殿での玉璽は盲判みたいなもの。前線には出られたものではありません」

「昔は良かったな」

 互いに、昔は行政でも音頭を取っていたし、戦場では勇者だった。今では偉くなり過ぎて、保護され過ぎている。

 前線に出た姉など一度心臓が潰れたらしい……それでこの姿。何か変だが、何もおかしくないような。

 それから歳も取った。毒瓦斯で片目が悪くなってから色んな感覚も鈍ってきて良く机の角にぶつかる。足に物を引っかける。何なら腹の贅肉もつまめるようになった。昔は日に五食は食べないと具合が悪くなって痩せるぐらいだったのに。

「ハンドリクが、聞きましたか?」

「父上の嫁選びが適切で良かったな。もう少し増やしておけ」

 死んでも、失敗しても良いように子だくさんが理想。そのために頑丈な女を選ぶのがアルギヴェンの伝統。

 聖なる神の教えでは、妻は一人まで。個人的に不満は無いが、先人の失敗例は肝が冷える。

「……リルツォグト臭いな」

「何か?」

 姉の鼻先が動く。動きが犬の……毛並みを撫でたら怒られそうだ。

 聖オトマク寺院は行政の中核でもあるので普通の寺よりも騒がしい。祈るだけの場ではない。慣れない者なら腹が痛くなりそうな緊張感が常にある。

 子供の遊び場ではない。パタパタ走る足音は稀。見習い小僧達が走りようものなら掴まって鞭で叩かれるだろう。

「乳首つねりましたね!?」

 低俗な発言などしたらどうなるのか。

 陣幕の下を走り、潜って転がって立ち上がったのはリュハンナ。姉の僧衣を掴んで蹴って背中によじ登る。この聖オトマク寺院史上、最も自由な人間。

「イヨフェネは?」

 義母ヴァルキリカの頭に乗った。遠慮なく耳を掴んで手摺りにしている。

「次に会うまで楽しみにしておけ」

「うん」

「そんな悪い子はちょめちょめしちゃいますお゛!?」

 幕下を潜って、両手わしづかみ直前の構えをする修道女が現れ、驚き固まる。

 姉が指先でこっち来いとやる。修道女、緊張した足取りも無く目前に来て、佇まいを直して礼。

「何だ?」

「はい。クロストナ様の使いでございまひゃっ!」

 いつの間にかリュハンナは、修道女の背後に回って両脇に指を立てた。

「驚いた?」

「驚きましたよ! もうさっきから敏感だって言ってるじゃないですか! 舐めますよ!? ぺろぺろ!」

「おい」

「はい。ご親書を」

「ポルジアは潜入工作員なんだよ」

「友達を売るなんていけません」

「夕方前にはおやつ持ってってあげるね」

「お茶とイケメンもください。あそこの皇帝みたいなの。あ、油も下さい! きっとすけべ……」

「おい」

「はい」

 ポルジアとやら、懐から便箋を出して、一度姉を見て、自分を見て、次に手を出した姉の側近に渡す。

「行け」

「はい」

 素早くその、ポルジアなる工作員、リュハンナの耳を噛んで「あ!?」と言わせて走って逃げる。

「へいへーい! 番手交たーい! 捕まえたら”手こき喫茶小さく祈る手”の優待券あげますよ!」

「ヴィルおじっ」

 すぐ追わず、リュハンナが疑問符を浮かべて自分を見て言う。そのいかがわしい店が何なのか答えろというのか。

 直ぐに追って来ないリュハンナを見てポルジアが。

「ヤネス卿にあげるといいですよ」

「待って」

「待たなーい!」

 ポルジア、陣外へ走り抜ける。

 リュハンナ、指笛を長く吹きながら走り出す。

「暴れ馬だ!」

 陣外から衛兵の声。陣幕を捲くり上げて現れたのは角馬、遠目でも筋骨隆々の名馬。

 悲鳴、大声、笑い声も。卓がひっくり返る。

 リュハンナと角馬、互いに足を止めずに正面衝突寸前。彼女はたてがみを掴んで、馬は首を振り上げて背中へ綺麗に乗せる。

 軽業に観声。騎馬民族の血か。やはり奴の娘。

「待ってー」

「卑怯卑怯! それは卑怯でしょー!」

 茶を飲む。大騒ぎだが、いつものあれか、という顔ばかり。窮屈な中の風穴。

 君の父は防衛線に良く穴を開けてくれる。どうにかしてくれないか?

 そう言えば祖父の代まではイェルヴィークでも宮廷道化師がいたな。記憶にあるが、幼過ぎてはっきり覚えていない。面白かった気がする。

「名物のようですね」

「口を開いた歳から言うことを利かないやつだった。いや、糞の垂れ方からして反抗的だったな。手を洗った途端にまた出す」

「あちらの工作員とやらは良いのですか」

「雌犬共なんか潰してもキリが無い……読め」

「は」

 側近が手紙を読み上げる。

「”草案。

 フラル東部軍二百万並びにウステアイデン人民六百万を人質とする。

 魔王軍のみを敵として戦争から離脱せよ。

 ベーア派遣軍の撤兵、ウルロン山脈中の非武装化が確認されるまで保障占領する。

 代償は都市破壊、虐殺移住、異端布教、武装入植。

 以上”。

 と書かれております」

 姉の長い、鼻からの溜息。


■■■


 一七九一年の戦争税、規定値の十割増とすることが議会で可決。去年のことだが、本当にこんなことが? と悪夢のようだった。目が覚める度に嘘だと思いたかった。

 一七九二年の戦争税、規定値の二十三割増とすることが議会で可決。その事後報告が届いている。自分は聖都にいて不在なので、国璽尚書が代行で印を押して発効。

 来年の一七九三年は? 想像もつかない。戦費は戦争税率とほぼ連動。

 皇帝不在で行政が進んでいるなどと、要らぬ悪評が立つ前に声明を電報で送った。手続きは黒人侍従がしている最中。

 皇帝自身から臣民向けに”苦難を乗り越えるために増税は必要””今年の宮廷費は廃兵救済、被災地復興に全て当てる”などという言い訳をした。身銭を切っているという姿勢が無いと悪評が立ちやすい。埃を抑える水撒きみたいなもの。

 玉璽の扱いなど、この手の行事は極端な皇室支持者が貴賤構わずうるさい。実務者達を馬鹿から守らねばいけない。

 しかしこの声明のために、娘の結婚式費用は全てロシエと教会持ちにして貰うことになって情けない。初めての我が子の結婚式なのに。

 個人財産を築くのは、王太子時代にまだ自由に動けた頃にするべきだったか。品位に関わると思って手を出して来なかったのが今になって悔やまれる。投資に失敗して下手の横好き、馬鹿王子などと言われないで済んだから良かったかもしれないが。

 金は怖い。

 増税への反発が怖い。

 戦時に対応するための過重労働は嫌がられる。

 動員による男手の減少は厳しい。

 働けない廃兵への救済措置は足りていない。

 疫病流行による労働力低下は更に厳しい。

 病人の隔離施設の建設と運営は急を要すると言われてしばらく。

 検疫強化による物流遅延、混乱は損失同等。

 洪水と焦土による産業への被害は甚大。

 品不足からの物価高騰には不満。

 金相場の大暴落と反発の不発、どうするんだ?

 対ロシエ貿易赤字が増大。

 全面的に人が足りない。

 フェンドック参謀総長から、マトラ要塞攻略計画の概要を説明する作戦草案が提出された。まだその段階に至っていないので草案だが、現実味を帯びてきている。王都ニェルベジツ陥落、解放の朗報の次に見えて来るのはその山脈要塞線。

 西のブリェヘム側から東のスラーギィへ出るまでに、追加で八十万人の死傷者が見込まれるとのこと。また作戦中、焦土地帯に多数の兵を留め置くだけで戦わずに損失する数は含めない。純粋な要塞攻略行動のみでの試算。

 国境線を突破するだけでそれだけの兵士達を”悪魔の釜の底”に放れというのだ。

 あれを越えなければ未来永劫、一方的に侵略されるだけになるのは分かる。こちらがマトラ要塞を確保し、逆に東からの侵略を防ぐ防壁に変えられたのならば”八十万程度の犠牲はいずれ、安かったと気づかされるでしょう”と言うのだ。

 それから”後方支援要員に女性も動員すべきです。職業婦人の次は従軍婦人です”だと。

 集団罷業が行われてもおかしくはない。

 ベーア解体要求の抗議行進も有り得る。

 反アルギヴェンの叛旗を掲げるのも簡単だ。ベーア帝冠は真新し過ぎる。

 親帝国連邦の革命軍が民衆から支持を得ると最悪。前線の惨状を文字と言葉でしか知らない者達だけが動くのならまだ愚かと一蹴出来るかもしれないが、前線帰りが言い出したら?

 最近、文句の無いような打つ手をほとんど聞けていない。

 一つ。廃兵にはロシエ製の理術式、術の才能が要らない外部動力依存の低出力義肢、義眼を配布して働ける体に戻す試みが進んでいる。

 二つ。医師不足の解消に防疫作業従事者免許を新設。特定作業にだけ従事出来る程度の知識を短期間で学ばせて現場に配するという試みの第一弾。何でも知っているお医者様で揃えるのが理想かもしれないが、そんな時間は無い。

 三つ……マトラ要塞攻略計画? 冗談だと言ってくれ。

 酷い未来があるかもしれない。

 ”ツケが回る”とは聞いた言葉だが、一人の尉官の処分一つでここまで大事になるなんて誰が思った?

「陛下」

 黒人侍従が戻って来た。

「どうした」

「電信所が使えません」

 電報が遅れるのか。

「他に?」

「列車事故があったようです」

「仕掛けてきたな」

 ここでは何の指揮権も無い。

「情報だけ集めてくれ」

「はい」

「帰りの列車の予約……」

「ご家族の安全は勿論ですが、今出られるとなれば警備に混乱が」

 今、皇室関係者が揃って聖都から抜け出すのは外聞が悪い。恐怖に負けたことになり、移動すると警備問題が発生する。

 聞き耳を立てて、新聞記者からの取材には毅然とした態度を取る。そのぐらいしかやることはないか。無い、はずだ。

「その通りだ。そうだった。迷惑が掛からない範囲で情報を集めてくれ」

「畏まりました」


■■■


 続報。

 大規模奇襲攻撃によりフラル東部、ウステアイデン枢機卿管領との連絡途絶。

 東部以外のフラル中で電信線切断事件が多発。健在の電信機能と騎馬伝令を使って連絡網を繋ぐも、情報時差が顕著。偽電報、偽伝令多数確認。

 列車事故の原因複数。線路への置き石、置き”酔っ払い”、枕木抜き、螺子外し、爆薬発破、石炭庫放火、水槽の栓抜き。

 商船の入港遅れで物流に混乱。”黒旗”海賊の目撃、襲撃情報多数。

 井戸や水源への異物混入事件。毒、汚物、病死体。

 耳を丸めた妖精、身元不明の少年少女の死体の回収。服毒、自爆に躊躇無し。

 自殺していない犯人、逮捕者の多くは短期労働を請け負っただけと思い込んでいる学の無い路上生活者ばかり。

 ウステアイデンのフラル東部軍二百万が危機的であるのは分かった。

 ベルリク=カラバザル、イスタメル州を通過してきた。それも無断で。

 魔神代理領がどこまでそれに協力したかでこれからの話が変わるぞ。


■■■


 老いた父ドラグレクが港で夜釣りをしている。戦時中の連続大事件中だが、隠居の身には関係ない。

 自分は釣りに付き合って竿を持ってきてはいない。帰りが遅いなどという話が出たので見に来た。

 父は娘の結婚式のために隠居先から出てきている。母は神経衰弱症状で、その離宮で療養中。

 妻子は良く会っていると聞くが、自分は両親を引退させてからほとんど会っていない。古信仰的な伝統だと親殺しをしていて然るべきとも言われた。

「ほっ!?」

 父が大物を釣り上げて岸壁に揚げる。巨体が曲がりくねってのたうち、口元は牙が鋭く手どころか、頭を抑え付けるのに靴裏で踏みつけるのも躊躇するアブラザメだ。

「大きいと思ったら。迷子かな」

 父は椅子を持ってアブラザメの頭を黙るまで殴って、血を流させる。

「そこの油やってくれ」

 用意があった。火鉢に火を点け、金網を置き、その上に鍋を置いて油壺から中身を注ぐ。

「火加減は」

「出来るだけ」

「衣は」

「面倒臭い、無い」

 父がアブラザメの解体を始め、全部終わらぬ内に、早速切り身を揚げ出した。

「塩は」

「忘れた。水を飛ばしてみるか」

「港のは綺麗じゃないですよ。下水が」

 ここで水とは海水である。

「腹具合が怖くて食えるか」

 父が切り身を食べても、美味いという顔も声も出さない。

「どうです」

「生臭い」

「鍋もう一つ無いですか」

「水に漬けて食うか」

「いや、それは」

「上手く行かないな!」

 油揚げが作られる。調味料無し。食べる。油の温度も微妙に低くて血を洗っていないので生臭い。干して、干物とは言わずとも水気を抜かないと駄目だな。

「ヴァルキリカが産まれた夜は見事な満月。今日は、そうでもないが満潮は同じか。あれは難産も難産、というか臨月ですらなかったようだな。生まれる前からデカくてな、腹が膨れ過ぎて切開だ。その少し前から蹴っただけでのたうち回っていたな。初子からあれで正直ビビった。これは熊でも入ってるのか、極光修羅の呪いかとな。あいつは絶対に女神の生まれ変わりだって言ってな、死ぬまで堕ろさないで粘った。出来るだけ未熟児にならないようにって」

 父の前妻の話。後妻の長男としては他人のような。とりあえず顔は肖像画でしか知らない。

「若かったというか、面倒臭かったかな。あいつの叫び声というか獣みたいな唸り声が嫌でな、宮殿抜け出して夜釣りをしていたらランマルカ人の船が行き着いたんだ。ランマルカの虐殺、革命の難民船到着第一号だ。かなり臭かった。こいつも面倒でな、その辺の奴に風呂焚いて飯炊いて、とか適当に言って回った。手は出さないで、どうだったかな、まるでこれを予想していたみたいな顔をして難民をお出迎えだ。父、祖父には褒められたよ。祖母はなんか、面倒臭いこと言ってたな。覚えてない。とりあえずこれから、全部分かっていると言う顔をしろ」

「心得てますが」

「横から言われないと忘れるぞ。何も出来ない辛さが分かったか?」

 どこで間違ったのか?

 蝶の羽ばたきが遠くで暴風を生むように間違えたか?

 ”あれが悪い”と言う声が大きいのはベルリク降格の裁判。

 弟リシェルの戦死はどうだ? 生きていれば戦友にでもなってあの男を掴んで離さないようなことをしたかもしれない。あれはかなり可愛かったから、絆すぐらいは出来たかもしれない。

 シルヴを差し向けて何とか……結果がセレード独立からのこの戦争。あの女もどうにかする必要があった。あれ以上どうしようも無かったじゃないか。

 自分はまるで後先を考えていなかったか? いや、あいつらがおかしい。

 ベーア帝国を作っただけでも自分は相当、歴史的だぞ。何だあいつらめ。

 夜間に入港してくる船が見えて、灯りに照らされている?

 焦げ臭い。石炭の煤煙の臭いだけではない。

 蒸気船の姿。船影が崩れておかしく、後部の煙突が変形、荷下ろしの起重機が折れているようだ。

 鐘の連打は港、いや船からか。とにかく”まずいことが起こった!”という原始的な警告。信号などと洗練されていない。港湾規則通りに見えない。

 声は聞き取れないが、”おーい!”に近い発声。どこに向けているのだろうか。

「ヴィルキレク、分かっているという顔をしろ」

 父ドラグレク廃王、海に向かって釣り糸を再び垂れた。アブラザメは、料理法が悪いのが第一だが「まずい」と言われて海中へ蹴飛ばされた。

「イワシくらいが丁度良いな」


■■■


 港湾事件の顛末。

 夜間に入港してきたあの蒸気輸送船は後部から砲撃を受けていた。海賊被害の一つだが、撃って来たのは自船より大きいと見られる軍艦とのこと。

 その後、父の夜釣りも引き上げた後に聖都沿岸要塞へ艦砲射撃が一撃加えられる。要塞砲との砲戦を忌避してかその一撃のみ。

 砲撃を受けただけなら幸運の内と言われるようになるくらい海賊被害が多発。撃沈報告は少ない。海の底からの便りは中々届かない。

 被害の一例。一時拿捕され、積み荷を一部奪われる。最低限の操船要員を残して目玉抉り。それから時限爆弾を船内に仕込まれたことを知らず、必死の思いで入港してから爆発、着底。港の出入口を封鎖することもあり、沈没船の引き揚げ作業が終わるまで小船しか出せない。

 船舶保険会社が相次いで破産、撤退しているという噂が流れ、株が売られて底値に落ちる。関連会社も連鎖倒産する前に買い支えの介入が実行される。

 セリン提督の仕業か? 魔神代理領の外交官は”宣戦を布告するとの通知を受け取っていない”と答弁しているらしい。

 帝国連邦にも海軍があり、遥か東洋に極東艦隊がある。ここまで回航して来るぐらいは不可能ではないが、龍朝は、軍事顧問団は何をしているのか。報せも無いぞ。これから届きそうで嫌だな。

 悪い報告ばかり耳にする中、引退した元奴隷の黒人を、斧を担いだリュハンナが手を引いてやって来た。

 職務から解放されて年金暮らし。岩のように険しくて不動だった顔も、今は普通にほころぶ。杖を突かずに持つ老人で、悪かった方の足にはロシエ製の理術式補強具が装着されている。礼の仕方も腰や膝を庇う様子も無い。何という性能。

「陛下」

「ラジャベクール、来ていたのか」

 以前は”奴隷に名などありません”と言っていたが、解放したらそう名乗った。

「マールリーヴァ様の式を見ようと滞在していたのですが、このお嬢さんに連れられまして」

 警備上の問題から聖オトマク寺院は関係者以外立ち入り禁止。観光客などもってのほか。この内院区画となれば更に厳しく、身分証は必携。顔が通行証のリュハンナがいればこそ、今ではただの一般人でも会いに来れたのか。

「黒いじじ、ヴィルおじに必要」

 新しく雇った方の黒人侍従が微妙な顔をしそうになる。こっちは弓馬に秀でてもいない官僚畑の秀才宦官で、ラジャベクールのように前線へ連れて行くことは考えていない。

 王太子、国王時代と必要な傍付きが変わったものだ。

 リュハンナが斧をこちらに差し出した。単純な黒錆の片刃、柄はしっかりした木製で防腐剤が良く染みている。

「これも?」

「ヴィルおじに必要。伐採斧は実用的」

 その斧の柄の端には穴が開けられ、飾りの金狼毛が通されている。噂の金狼毛騎士団と呼ばれる秘密組織か何かの象徴物。姉の抜け毛束。

「これもか」

「不死身の呪い人もたぶん殺せる。ヴィルおじに、勇者の武器は必要」

 なんだと。

「君の父だぞ」

「知ってるよ」


■■■


 フラル東部軍二百万の救援のために聖戦軍指揮官ヴァルキリカは予備兵力を、警察隊まで一部動員する形で差し向けた。だが帝国連邦軍の装備練度を前にどれだけ戦えるかと疑問。

 フラル軍の装備は全般的に悪い。どうにかしてやりたいが、戦況に比してベーア帝国軍は準備不足で助ける余裕が無いまま今日に至っている。

 士官学校では先制攻撃が有利と教えられた。こういう準備不足という不利が受けの側で現れることも。ベルリクも教わったな。

 聖都からは有角重騎兵隊、有翼軽騎兵隊、天使隊、首輪付き人犬騎士団等が武装した姿で出征式に臨んだ。そんな幻想生物軍――能力は知らないが宣伝にはなるだろう――を聖皇が祝詞と聖水で祝福し、広場から大通りを進む姿を見送る。

 観衆が不安と期待と喝采や、帝国連邦への恨み言を叫ぶ。新聞記者が写真を撮り、手帳に筆を走らせる。

 姉も出るかと思った。しかし半島東岸部で帝国連邦海軍によって阻止される。

 一撃離脱だったが、一時港町を上陸占拠して住民の目玉を全て抉ったという件があった。敵海軍にとっては朝飯前に軽い作戦だったかもしれないが、これで聖都最後の最強戦力は動かせなくなった。聖皇を守る最後の盾はもう動かせない。沿岸防衛体制も救出作戦の中で見直しを迫られる。

 我々ベーア帝国は、聖都から近衛連隊を直ぐ出せる。結婚式に備えた儀仗装備の軽歩兵、胸甲騎兵程度で、人狼は不在だがやれんことはない。

 参謀本部には事後報告。フェンドック参謀総長は絶対に了承しない。

 フラル軍の総崩れをこれより防ぐ。自分が直接出る。ベーア帝国は統一フラルを見捨てないことを玉体で示さなくてはならない。大軍を今ここに召喚出来ないならこれしかない。

 これから本土よりフラル派遣軍をどれだけ出せるかは軍部が決めるのだが、それを待っていてはきっと崩壊する。ベルリク=カラバザルは人の心を嫌な時に圧し折る。

 ラジャベクールが抜刀先導。聖皇が祝福する行列に参加する。

 家族が見送る。

 父は、どこかの窓の奥。

 母の加減はあの首が落ちるまで晴れやしないだろう、最低でも。

 長男エルドレクは前線。まさか黒死病など罹っていないだろうな。

 次男ハンドリク。せめて幸福であって欲しいが。

 ハンナレカが帯刀する髑髏騎兵姿で出てきて、姉が掴んで止めた。ガンドラコを片手。任せられる。

 三男ルドリク、幼年士官学校の軍服が似合う。しかも生意気に捧げ刀などしている。

 四男”小”ドラグレクは次女フィーリカが胸に抱いて”あれがお父様よ”などと仕草が見える。何度も抱き直して重そうだ。

 三女デメティア、泣き顔以外が見たいな。

 四女イングリズ。露骨に不機嫌。男は馬鹿だって知っているか?

 五女アンナリーケ。しゃがんだり、部屋の奥へ下がりたがってぐずっている。家庭教師がなんとかあやしている。苦労を掛ける。

 ロシエ皇帝マリュエンスが長女マールリーヴァの手を握りながら一礼。”娘さんは僕が守ります”という紅潮した顔を見せている。本当に良い子なんだな。

「ベーア皇帝、ヴィルキレク陛下のぉ……御出陣!」

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