第512話「アイカフ・リッジボック二等軍曹」 無名兵士達

 黒軍騎兵の出没情報で行ったり来たり、結果的に長い行軍を強いられた途中のこと。騒音と振動を撒き散らしながら走り抜ける列車を恨めしく思っていた時である。

 変な三角帽を道端で拾った。ゴミ山だとか倉庫の一角などではなく、独りポツンと存在した……独り?

 物は黒地で金糸縁。その縁はただ金一色ではなく、白金から茶色までを巧妙に組み合わせ、光が当たっていなくても金に光っているかのように錯視させる。職人芸を感じた。

 これは拾ったのではなく拾わされた、というのが正しいかもしれない。

 初めは目についた瞬間、女の子のにおいがした気がして変な感じだった。そして思わず拾って、脳みそが直接殴られたような眩暈がして捨てた。

 次に気が付いたら手荷物に紛れていて、”何だこれ!?”と驚いて言ったら当時の同期に”落とし物だろ?”と、拾って当然という顔をされた。

 三角帽自体、軍用としては一つ、いや二つ三つ昔の流行り。祖父の世代で被っていた者がいるという印象で、うちの爺さんは外歩きの時に同型を被っていた。

 これは雨を被ると一旦帽子で水を受けて、三角の端から水を落とすようになっていて視界を塞がない。それから家の軒下みたいになるらしい。

 この変な帽子、見れば物は古そうだが何度も修繕され、大事に使われていたと見える。肌触りはやたらに良い。気付いたら撫で続けていて怖い。

 何に近いだろうか? 女学生?

 え、何だ、おかしいぞ。おかしい。病院での演奏は確かに良かったが。違う。

 違う。神経症か? でも自分はあの、お喋りになったり、口が回らなくなったり、手首切ったり、踊って叫んで痙攣して、名も名乗れなくなったような重症の連中とは違うぞ。絶対に違う。

 古風な服装に合うこれをお洒落やおふざけで被る気分にもなれない。一度被ってみようかと両手に持って頭に向けると身体が拒否する。ピタっと、背骨から固まって”お前は違う”と言われた気になる。

 しかしこう、手放せない気がする。捨てるのも贈呈するのも間違っている気がする。

 ……あれは何時のことだっけ? 鞄の中には、ある。本当にあった。夢じゃないのか。

 自分は正規兵として、去年にリビス=マウズ運河西岸へ配置された。そして東岸にいる敵軍からの砲撃に巻き込まれて負傷。病院へ運ばれ、この度負傷から復帰したとして地元の民兵隊に編入された。

 アルツレイン辺境伯領北面郷土防衛隊、独立猟兵中隊所属ステンデン組合小隊。知っている顔がいて、直接知らないがあいつの親父は知っているぞ、という具合。それからお国訛りでの会話が隊内で通用しているのが不思議で、そして安心する。

 戦場を知らない者達――若者に限らない――は、戦場から帰還した兵士が自慢して話す手柄話を聞いて、己も同じかそれ以上のことをしてやろうと鼻息が荒かった。”英雄”の話を良く聞いて来た顔がある。

 そして改めて、そんな者達に戦場の話を「アイカフ・リッジボック二等軍曹、してやれ」と上官になった親戚のおじさん、ステンデン村の猟師組合長の小隊長に言われた。

 戦場での経験?

 塹壕をひたすら掘った。技術もクソも無い。綺麗な内装を仕上げる大工仕事は専門の工兵がしていた。

 塹壕に配置され、砲弾の雨を浴びて、隙間だらけの防毒覆面を被って咳き込みながら亀のように我慢。ただ辛い。

 気付いたら病院に運び込まれていた。そこで傷が癒えるのを待っていたら黒軍に襲撃された。

 そこで戦って、凌いでから追撃に? 何か、別人の記憶が混ざっているみたいに足取りと場面の、頭の中にある絵が合わない。大変だったのは分かる。辛かった。とにかく疲れて、終わって、一瞬だった気もする。

 何か違う。でも一兵卒から二等軍曹になった。

 下士官教育をほぼ省略――講習を聞いて、教科書的な冊子は貰って読んで――したものの階級章を貰って昇進しているから、それなりに働いたはず。たぶん。

 経験者として、同郷の新兵達に戦いの話をしなければならない。この訓練すら省略され、大急ぎの”大”反転攻勢に数合わせされた、道中に小銃の撃ち方を習う予定の連中に。

 おそらく大抵の戦場経験者は、気付いたら砲弾で手足を吹っ飛ばされていた、という経験しかない。良くて鉄条網を前に機関銃で足を撃たれたぐらいか。

 病院で他の兵士から聞いた話や、流れて来る噂を合わせ、勇敢な感じになるよう膨らませて繋ぎ合わせて何とか、それらしいものに仕上げて彼等は創作して披露したと思う。

 せめて家でちやほやされないと割りに合わなさ過ぎる。”頑張ったね”くらい言われるぐらい活躍したフリをしないと親の顔も見られない。敵の姿を見る前に足が無くなったなんて言えるか?

 正直者は話を聞かれても不機嫌になって沈黙する。無視されるようになるまで口を堅く閉じる。

 自分は”頑張った”以上の話を創らないといけない。下士官教育の講習で、新兵から恐怖を除くのが仕事だと教えられている。自分に出来そうなのはこれくらい。きっと、これが限界。

 聞いた話を混ぜて、大きな戦いの話だと嘘がバレるので、誰も知らないような小さな戦いを作って話す。あいつは射撃が上手くて……やつは格闘技の専門家で蹴りの一発で胸の骨を砕いて……爆弾を仕掛けて誘い込んで……。

 敵の捕虜から得た――という体の――話もする。無理矢理戦わされている素人ばかりで兵力は水増し。装備が良い奴はごく一部。馬は小さくて子供みたいで実は鈍い。直ぐ逃げる臆病者ばかりで背中を狙う戦いばかり。などなど。

 後は送られて来る皇帝陛下の激励の言葉があって、今日送られて来たものは広報部が発表しているので、過去に発表されたものを今日発表されたばかりのように話してみる。エデルト人の言葉だからと反応が鈍い時はグランデン大公か、やはり我等のアルツレイン辺境伯の言葉で。

 それから、これは流石に覚え書きを読みながらだが給料が高いとか、三食ついてるとか、年金が漏れなくつくとか、家族に給料や自身の年金とは別に補助金があるとか。

 話をするにも自分の学の無さが浮き彫りになって来るが、過去の帝国連邦軍やその前身との戦勝例も話す。又聞きのうろ覚えみたいな話なので、本当かどうか分からない。あの戦いは実は勝っていたとか、勇敢に戦って撃退したとか、何とか。

 こんないい加減な話を、額に破片が刺さって出来た傷顔と、毒瓦斯で潰れた声で話すと説得力があったようだ。新兵達が自信を得たような顔になっている。

 新兵達。見ていて不安になるくらい体が小さい。細くて手が小さく、女の子みたい。

 生まれつき心臓が弱いと言われてたあの家のぼっちゃんまでいるじゃないか。おばちゃん方の方が動けそうだ。

 予備役は従軍経験がある者ばかりで頼りになる。正規兵より力強かったり、本職で得た技術を持って職人として活躍することも多い。ただ妻子持ちが多くて死にたくないと顔でも口でも言っていて動きがえらく慎重。

 後予備役には年寄りが多い。それこそ三角帽を現役で被っていた連中もいる。動ける年寄りは戦闘経験もあって頼りになるのだが、ただ腰が悪い、膝が悪い、目が耳が悪いとうるさい。

 第一級補充兵役なら、徴兵検査で一級合格していて体格は良い。また三か月の訓練を合格時点で受けることになっている。

 第二級補充兵役は、徴兵検査で二級以下の合格者で訓練は特別に募兵されるまで訓練を受けない。

 この新兵達は俗に言われる”無制限徴兵”で集められた者達だ。徴兵検査不合格の者ばかりで正規訓練を受けず、自治体に任せられている民兵訓練からも外されていそうな奴が混じる。

 体が小さいのはまだ良い。明らかに手足に障害がある者、命令を聞きそうにないチンピラ、身体が大きいのに幼い子供みたいな喋り方しか出来ない知恵遅れ、椅子から立ち上がるだけで苦労している本物の爺さんまでいる。これでも、ここまで行軍してやって来られた”精鋭”らしい。

 心臓発作で落伍はまともな方。泣きわめいてからの自殺は面倒臭い。脱走から行方不明も面倒臭いが、装備に食い物に他人の私物まで持って行く奴がいる。

 自分には、比較してこの新人民兵達を指導する下士官の階級章が似合ってしまった。

 紐つけて引っ張って行きたい奴等を引率し、北アルツレインよりリビス=マウズ運河に掛けられた仮設橋の、脇を通る。

 敵ではなく、ベーア軍が運河水路を調節して川の水位が下がったところ。浅瀬を選んで無限に続くように土嚢を投げ入れて作った膝まで濡れる足場を渡った。

 対岸からの砲撃は無い。

 剥がされた護岸、半ばもぎ取られて沈んだような町、沈んだ船が見える。

 臭い。腐った死体、腐りかけ、白骨、蟹の群れ。

 泥に不発弾が刺さっている。ふざけて石を投げようとした奴をぶん殴る。


■■■


 ”無制限徴兵”で集められた者達に期待はほとんどされていなかった。

 運河を渡った先の旧占領地域で任務に就く。奴等の焦土戦術は”世界観が違う”と聞かされた。目の当たりにした。

 嘘を並べた戦場での活躍を聞かせた新兵達に、初めてさせた仕事は地雷処理。それも、帝国連邦お得意の――初めて見たが――死体を並べた地雷原。

 加えて瓦礫や切れた鉄条網、家具から何からゴミが重ねて積まれた状態。それが街道を中心に並んでいて、軍の進路を著しく妨害している。

 更に加えて、道には車輪が嚙み合わないように溝が縦横に掘られていることもある。

 奴等が焦土化した後に残る”汚染地域”の一形態。

 春先、まだ暑くなり切っていない。死体は腐っていないが、腹が割かれて血と糞の臭いが広がっていて、そこに集るネズミにカラスに野犬に狐に猫もいて小さい糞が散らばっている。虫はまだ積極的に飛んでいないが、小蠅がうるさいか。

 銃撃で鳥獣を追っ払ってから、死体の隙間、糞の中を這いつくばって、地面の下に銃剣を差し込んで手応えから地雷が埋まっていないか確かめる。専門工具は工兵が使っていて余り物など無い。

 地雷は地面の下にある。地面から雨風で露出していることもある。その地面の上に死体や瓦礫がある場合が大半で、国民”様”の遺体には悪戯に傷をつけてはならないとかで、丁重に運び出さないといけない、とされている。鉤縄を投げて、引っかけて引っ張るのはいけないらしい。

 地雷があったら周囲を掘って持ち出すか、遠くから銃で撃って、難しいが起爆する。

 手榴弾で爆破処分するのが手っ取り早いのだが、我々に配られた物など一人一発ぐらい。使えない。

 地雷の手前で土を盛り上げて胸壁を作り、石を上に投げて、落として当たるようにして爆発前に隠れる手法が編み出された。時間は少し掛かるが、弾も爆薬も使わない。

 地雷が二重になっていることがある。上の見えている地雷を持ち上げると下の隠れた地雷が爆発する。

 爆発も種類があってただ爆発するだけではない。

 内蔵の爆弾が飛び上がって空中で炸裂して散弾を撒き散らす型がある。もっと安っぽく、普通の地雷の上に小石が並べられているだけのこともある。

 毒瓦斯を少量撒き散らす型もあった。地雷の下に瓦斯容器があって、穴が開くとしばらく漏れ出し続けることだってある。

 地雷だけに注目していると危なくて、その周りに処理者を意識した小さい落とし穴がある。脛まで落ちる程度に浅くて、金属片や研いだ枝が側面にあって膝下がズタズタになる上、時間が経過して乾いていたりするが糞塗り。

 嫌な仕事もここまでのものは平時に存在しない。墓掘り人だって泣き出す。親戚のおじさんは早くも「母ちゃん帰りてぇよぉ」と泣いている。部下にも泣いている者がいる。悪態が吐ける奴はまだマシ。動けなくなって口も利けない奴がいる。

 這いつくばった目線の先には糞とネズミ。瓦礫を退かすと溢れたように走り出す。

 死人、怪我人は幾らでも出る。脱走兵は幾らでもいて、周囲を監視している憲兵にぶん殴られて、残酷なことに懲罰もされずに現場へ戻される。

 病人が増える。ネズミに噛まれて熱が出たとか、関節が痛くて肌に湿疹が出るとかしても医者から怒られる。「指飛ばすか毒瓦斯吸ってから来い」と言われた部下もいた。

 檻の中で休めたらいいのに。

 工兵みたいに技術も無いからこの、不可触民以下の下働きをして道路を清掃し続ける。

 ちゃんと戦える正規兵達にこんな汚いゴミ山を見せて士気を落とすような真似をしてはいけない、らしい。臭いも嗅がせてはいけないと、死体を運ぶ距離と処分の仕方から察せられる。

 自分の隊は幸運な方で、病気はあっても事故は無い。

 そう思っていたある時、部下の一人が地面の下に空洞を見つけた。空洞から酷い臭いがしていたようで、声も上げられず引っ繰り返るぐらい。毒瓦斯かと思ったが直ぐに起き上がったので一安心だと思ったら、そこから泥と糞塗れの子供が飛び出てその部下に短剣を突き立てて腹を捌いた。その血で顔を洗い、美味そうに一口啜る。

 肌の色も分からない、合った目は充血して真っ赤。何で今日までそこにいたか分からない、耳が尖った、子供じゃなくて妖精兵。

 息が出来なくて。


■■■


 起きた。夜。

 起きられて良かったと本当に感謝している。

 酷い夢で、起きた今になってもう思い出すのも難しいが、耳が痛くなるような凄い声を浴びせられていた。

 髪が濡れている。汗かこれ?

 朝まで、野戦病院の寝台で仕事もしないで寝られると思って、夢を見るのも嫌で、この布団に触っていられるのが惜しくて目を開けたまま朝になる。

 地雷原処理ではネズミが歩き回るところでしか寝れなかった。ちゃんとした戦闘部隊”様”はもっと良いところで寝ていたはず。

 朝食も何処で摂るのか分からないまま、朝の巡回に来た医者が看護婦に液体入りの大瓶を持たせてやって来た。

「栄養剤みたいなものだ。疲れが飛ぶぞ」

 と我々、患者? の肩に、注射器一つで大瓶から液を吸い取っては次々と打ち始めた。針が太くてえらく痛い。

「先生、あの、俺失神して、悪い夢も見て……」

「君も自称神経症かね? 新生活に馴染めない奥様みたいな? ただの気の持ちようだ」

 怒られた。


■■■


 すぐ部隊に復帰。ちょっと見ない内に人が減っている。死傷と脱走。

 地道に死体と地雷を撤去していると士気の低下が酷いと、それから反攻が遅すぎると上層部が判断したらしく、弾幕射撃で丸ごと砲弾で吹き飛ばすという判断が下された後。土と死体がぐちゃぐちゃに混ざっていた。臭い消しのためか石灰が撒かれていて白く化粧されている。

 混ぜ返されて地面に埋まった色々な物の一つ、鉄条網に靴の裏が引っ掻き取られて転びそうになる。こんな風になっても足止めして来るのかこのトゲトゲ針金。

 努力が無駄にされると具合が悪くなってくる……あの栄養剤、何か変だな。暗いところから外に出たみたいに眩しい。

 我が部隊にも戦闘任務が割り当てられることになって、軽機関銃が貸与された。重さは小銃の三倍程度。

 誰に持たせようかと、この基準緩和された新兵達を見回して、一番腕力がありそうなチンピラに持たせた。

 そして行軍も少し進んだところで、途中で「がー!」と咆えて放り投げそうになったので軽機関銃を奪い取る。

 駄目だった。元気に文句を垂れ、売った喧嘩は買ってやると突っかかって来ると思ったら、寝転んで「もうやだー!」と駄々をこね始めた。

 そいつの顔つきと口の悪さは立派だったと思う。体はそこまで細くなかったが、でも筋肉じゃなかった。拳で喧嘩出来ない分、口で何とかする奴だったのだ。

 妙に身体の調子が良いので軽機関銃を自分がそのまま担いで進んだ。

 行軍先は南、モルル川方面。エグセン解放への戦いから外されるらしい。

 川向うのエグセン同胞は……うーん、東の連中は嫌いだから別に、いいか。


■■■


 行軍の途中、ふと体が重くなった。

 疲れた。いや、少し前まで元気過ぎた、これが普通。あの栄養剤が変だった。

 あちこちで、話がしやすい連中と雑談して探ってみたところ”立ち退き剤”と、病院での注射を呼んでいる者がいるらしい、という又聞きの又聞きみたいな話を仕入れた。

 砂糖が入った覚醒剤とかいう薬で、一時的に元気になって痛みにも鈍くなる、という痛み止めらしい。患者にいつまでも病床で寝ていられると困るから一瞬元気にするということか?

 あの地雷原から今日までの道程で、組合小隊では一人、中隊ではその一人を含めて二人、連隊では五人、地雷を踏んで足が飛んだ。空に飛んで散弾を撒き散らすとか、そういう複雑な構造の地雷には出くわさなかった。

 そのくらいの被害で済んでいる時、モルル川へ向かう道中、半焼けになった林道を通る。

 道の脇には地元住民が作った程度の雑な落下防止柵があって、柵が倒れた向こう側、崖下から臭って、まさかと覗き込めば住民が何十人も倒れていた。

 ”いつもの”虐殺後かと思って通り過ぎようとしたが「助けて!」と声。

 丁度、我が小隊が真上にいた時。

 おじさん小隊長が「降りるぞ」と嫌そうな顔をしながら指示したので皆で降りて、顔が動いている目玉無しから救助を始める。

 どうやら目玉無しの者達が一列になって行進している最中に、道を外れて転落してしまったようだ。

 落下で皆が死んだわけではないが、救助も無く、足も折れたりして逃げ出せず泣き喚いていたらしい。

 死体と生存者を選り分けていると、肌に黒い痣だとか、赤い斑点、肌の下の何かが腫れている病人が紛れている。触りたくないが触って、白い膿”だまり”を潰してしまい、手や袖にべとつく。自分の膿なら舐めても平気なのに、他人のものとなるとこうも気味が悪い。

 それから、彼等の服から帝国軍が発行した冊子が落ちる。聞いても「知らない」と言われる。敵に持たされた?

 ”他人にうつすと症状緩和”。

 ”患部を食べると病気の予防になる”。

 ”聖職者の血を飲むと病が治る”。

 ”赤痢になれば高熱と下痢で病気も排泄出来る”。

 などなど、”諸疾病対策心得”と書かれる表紙が立派な割りには、頭の悪い文章が書かれていた。なんだこれ?


■■■


 子供に手を引かれる。爪が食い込む、全力。

 離そうとしても力が入らない。

 あ、これ夢か。どうやって夢から覚める?

 頑張って身震いを夢の中で繰り返す。これで覚められる。

 朝起きたら寒かった。鞄を抱えている。

 朝でも温かくなるぐらいの夏になるのは遠い。

 悪寒がする。汗が凄い、喉が渇いた。怠くて関節が痛い。風邪を引いたみたいだが、休めるか?

 軽機関銃を誰かに、代わりに持たせるか?

 疲れ切って寝込んでいるような部下達を見る。全員顔色が悪いし、細いし、眠れないままの奴は目付きが変。自分が一番、元気なんじゃないか?

 モルル川を、仮設橋工事現場の脇を船で渡って越えた後。

 行軍距離は、食事睡眠も十分な中で辛い方だと思わないが、新兵の疲労は酷い。

 寝ている連中の顔を確認すると一人いない。

 脱走兵が出た。探せば近くで「もう歩けない」と靴を脱ぎ、血塗れの靴下を半分脱いで諦めた状態で泣きべそをかいて座っている始末。

 この脱走兵、昨日顔を見たばかりの知らない奴だ。地元ステンデンの人間ではない。別の部隊が壊滅して流れてきた奴。

 足の皮膚は薄く、靴ずれ程度の表現で済ませられないほどズタズタ。その若くて白かった足に靴下を履かせてやり、手を引っ張って連れ戻す。彼にとってここまで来るだけでも心が折れる強行軍だったのだ。

 ここはモルル川を北から南へ渡った、川を背にするような塹壕。土が薄くてすぐ礫層に当たって水が浸み出して浅い。

 突撃ラッパの音が突如聞こえる。砲声もほとんど背後から響く。前のめりに転びそう。

 我々は地雷なんかではなく、敵陣地を処理することになった。やっと本当の仕事が出来るという顔は、大分前に消え去った。

 慌てて寝ていた者が起き出す。砲兵が静かに動き出していた時点で目が覚めている者は素早い。

 飯食う時間も与えられない。飯炊きの湯気や焚火の数で相手の動きを探れると聞いたことがあるから、今回は敵の探りを飯抜きでどうにか騙したとか、そんな心算かもしれない。

 刀を掲げる連隊長先頭。連隊旗が掲げられ、乾いた喉と空きっ腹で、塹壕を起き掛けに駆け昇る。

 もたもたしている部下達の尻を押し上げ、地上へ送り出す。こいつ、顔どうだっけ?

 自分の班はもう二度消滅している。おじさんは死んだ。

 モルル川を渡った直後、ほとんど砲撃支援も無しで行った突撃が一回目。何があったか爆音に頭を揺らされ、ほとんど記憶に無いが、三度前進と後退をしたようなことまでを、薄く覚えている。

 ”敵を休ませるな! 三度目でも諦めるな! 根性で負けた方が負ける!”と連隊長が演説して回っていた記憶があるからそうだと覚えている。

 砲兵と工兵が北岸に到着したと聞いた時が二回目。その時はヤガロ兵が作った塹壕の中で寝ていたと思う。

 一度前進に成功して、今ここにいるということは失敗して後退したのか?

 その時に新しい靴下が届いて、取り換えようと思ったら足先が黒くなっていたことを思い出してくる。泥かと思ったが、泥水で洗っても色が落ちなかったんだった。

 記憶が飛び飛びだ。疲れ過ぎか? ちょっと腹に力を入れると犬か猫の鳴き声みたいなのが出て来るし、たぶんそう。

 今回で、大きく数えて三回目の突撃。

 向こう側、ヤガロ軍の陣地に砲弾の雨が降る。

 弾着の土埃の向こうから光る点。顔も知らない部下、顔が変わった上官が倒れる。

 銃弾、砲弾は自分に何故か当たらない。足元で土が弾けることは良くある。

 軽機関銃を持って、鉄条網の前で伏せて、銃身についている二脚を広げて置き、敵兵が居そうなところに射撃する。

 連続で撃つと銃口が跳ね上がり、暴れる。これ当たってる?

 他の部隊の兵士が、爆薬筒で鉄条網を破ってその向こう側へ渡って行く。この光景、何度目だったか。

 目の前で泥が波みたいになって迫って被る。たぶん砲弾。

 溺れたかと思って、立ち上がろうとして動けない。引っ張られる。

 誰かが地の底から掴んでる。

「うー!」

 腕立ての姿勢、胸が地面に張り付く。何で!?

 土を被る。重い。砲撃が激しくなってきた? 生き埋め!?


■■■


 妖精が腹を切り開いて内臓を取り出している。笑っている。

 ”何でもするからごめんなさい”って言っても止めない。

「腹!?」

 起き上がって服を破いて腹を見る。黒い痣、引っ掻き傷。

「あんた寝てな」

 おばちゃんの顔、皺、ごつい、下だけ防毒覆面。

「だって!」

「寝てな」

 肩を押された。倒れた先は枕。また病院。

 また夢か?

 咽る、咳。

 おばちゃん看護婦が病室から去る前に、急に「ああ!? うっそ、やだやだ」と叫んで走り出す。何故か手を上げて、何も触らないようにする感じ。

 目が変で、触ると腫れている。

 バン!

 砲撃!?

 寝台の下に隠れる。

「うるせーぞ!」

 隣、廊下側の寝台の奴が怒鳴った。

 顔を寝台の下から出すと、包帯だらけで顔の分からない、その隣の奴が窓に向かってまた「うるさい黙れ!」と怒鳴っている。こっちじゃない。イカれてんのか?

 何とか汗を掻きながら寝台に這い上がった。足が動かしづらい。触っても叩いても折れている感じはしなかった、

 少ししたら食事が運ばれてきた。

 目の前にあるのは、濡れて髪の毛が生えている? パンと容器の半分も入っていない卵か豆汁。蠅が集っている、いや幼虫。自分は腹が掴まれて持って行かれたので食べられない。

「ど、どうぞ、リッジボックさん」

 と若い? 下だけ防毒覆面の看護婦に言われる。何で? 吐き気がする。老けてる、おばさんじゃないか、何で学生じゃない。

 腕で払い除けて、お盆が落ちてバン! と鳴る。

 頭にきた。立とうとしても足に力が入らない。看護婦には手が届かない、自分の足を殴る。

「やっと黙ったか」

 犬か猫みたいな声が出て来る。覆面男がたくさん来て、抑え込まれる。

 針の太い注射。


■■■


 窓から刺す月明りを頼りに、腕についた黒いところを掻いて取る。やっと剥がれた。舐める。昼にやると縛られる。

 寝台の下の鞄を開けるとあの女学生がいる。

 初めて笑った顔が見えた。もしかして許してくれるのか?

 窓を開けようとして、開かない。はめ殺し。

 廊下に出て上の階へ行く。

 蝋燭を持って巡回している、警棒を持った看護婦から隠れる。

 影から足を掴もうとする妖精共を蹴る。

 屋上に出ると夜空が星一杯だった。一粒一粒が全部凄く大きい。見たことが無い形、こう、花びらが散った花? トゲトゲ、鉄条網。

 煙草を吸っている医者がいて、一本貰おうかと思ったが呼ばれた。

「そっち?」

 進むと星が近くなってくる。


■■■


 アルツレイン辺境伯領北面郷土防衛隊独立猟兵中隊所属ステンデン組合小隊

 アイカフ・リッジボック二等軍曹

 オトマク暦一七六九 ~ 一七九二

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