第497話「政治的指導」 ノヴァッカ
カラミエ人民軍総司令官ヤズ・オルタヴァニハ元帥。南カラミエ人――帝国連邦軍支配領域内在住――の完全抹殺を回避する代償がその肩書を全うすること。
ヤズ元帥は逮捕当初、人民軍を率いることを拒絶していた。予想されていたので特別行動隊が準備通りに超法規的な説得を試みた。
まずは缶詰工場にて”カラミエ煮”の製造過程を見学させる。
次に、材料としては不適格、将来の労働者としては健全なカラミエ児童達――英雄ヤズ公子に会えるという話をして盛り上げてから――と個別面談させる。それからハイバル式の”生面”にして眼窩の輪に縄を通して並べていって二百枚程度で抵抗意志を曲げて誓約書に署名したという。
自分はヤズ元帥付きの政治将校となった。前のルサンシェル猊下とは状況も精神状態も違うが、彼が人民軍を率いる上で政治的な間違いを起こさないか監督する。
内務省に連絡を入れたいというのであれば受け付ける。軍務省と物資等のやり取りをする時は、それとは別に軍務官僚が待機中。
カラミエ人民軍は発足したばかりである。予算を人民政府に請求しようにも編制表すら出来上がっていない段階。
先にカラミエ革命防衛隊が編制されていて、そちらに良い人材が吸い上げられている。悪いことばかりではなく、その編制で使った資料がそのまま流用出来る。
高級宿借り上げで、広い舞踏場を改装した人民軍司令部にて、革命防衛隊の資料、新規の補足資料、空欄の人民軍編制表草案をヤズ元帥と幕僚達が睨んで、口に出して、どうするか考える。大机、壁一面に張り出された大紙には、脚立も使い、男不足から女性書記も交えて書いたり消したり、削れたところに新しい紙を貼って補強。補強ではなくその部分だけ本のように捲れるようにするという工夫が生まれたりする。
大規模な、史上最大級の戦闘が終わって誰が生きていて死んでいて、どこに居て居ないかという情報は煩雑極まる。
秘書や伝令が資料や手紙、電報を持ってきては人も連れて来て、去りと繰り返す。準備部隊が各所に設置される度に有能だった人物が指揮官として赴任しては消え、要領を得ない旧軍では古参だった新人が入ってくる。
紙と文字と図面の迷宮。火気厳禁という指導から皆が吸いたい煙草を我慢し、小休憩と外の喫煙所へ出ていく。
出入りが激しく扉の開け閉めも面倒になって楔を嵌めて開放されたまま。
政治将校としてこれらの作業全てを網羅して指導するのは困難なこと。如何に覚えの良さを評価された自分でも、このカラミエの頭脳が集まって右往左往している中を上手に泳ぐことは出来ない。そんな時は分業制で、他の政治将校は己の担当部署を重点的に見ている。自分はヤズ元帥を見る。
具体的には、ヤズ元帥が編制表に書き込む人物、書き込まなかった人物を表にまとめて情報部に提出するのが中心。後は見ながら気になったところを頭に入れておいて、それからは現場判断。総統閣下がおっしゃる通りに内務省とて現場判断優先。
ヤズ元帥が少し唸って筆を止める。後ろから紙面を見る。
「ベロコフ県のワジスラ・チャプツレーカ砲兵大佐でしたら死亡が確認されていますよ」
「あ……うん」
このくらいの助言は出来る。間違った編制表を組まれては軍務に支障が出るというものだ。
我らが帝国連邦軍は、春までにイスィ山地北部方面ではカラミエ軍集団を包囲攻撃して降伏させて武装解除に成功した。民兵を含めると計上困難だが、十数万の敵戦力殲滅に成功する。
殲滅後、ベーア軍は救出作戦を急遽取り止めて住民避難のための遅滞戦術を実行してゼーベ川以西までの撤退を成功させた。黒軍を筆頭する各軍は弾薬不足や疲労からこの撤退作戦を上手く追撃で失敗させられなかったらしい。
ベーア軍が撤退した空間、ゼーベ川上流東岸部である南カラミエ地方の七割、グランデン大公領の最北部地域を帝国連邦は掌握する。しかしゼーベ川は沿岸要塞で固められ、グランデン大公領には無傷無疲労に近く、補給線も確保している軍が展開しており、追撃の失敗と同様の理由で攻めあぐねて今の夏に至る。
一方、イスィ山地南部では、エグセン人民軍が多大な消耗で戦闘能力を喪失してムンガル方面軍も後退を強いられた。渡河地点でもあるレッセル市以外を喪失し、市街地が廃墟になるような激しい攻城戦が行われている最中。北部に送られるべき砲弾が注ぎ込まれており、各軍から分遣された砲兵集団も拘束されて動かせない状態。
総統閣下が次にどんな作戦を実行するか注目されている。あの方ならどうにかしてくれるという希望が我々に行動を躊躇させない。
昼食休憩の時間を予告する予鈴が廊下、広場で鳴らされて聞こえて来る。
手をつけている仕事を一段落させる時間になったわけであるが、元帥、幕僚、秘書、書記、伝令の手と足が止まらない。
自分は報告書を途中まで書いてから別室の金庫に入れてくる。内務省書類は管理が勿論別である。
司令部に戻り、壁掛けの時計が真昼を告げ、からくり仕掛けで鐘が鳴る。屋外からも教会の鐘が鳴り響く。
まだ手と足が止まらない。
手を「はい!」と言って叩く。
「休みの時間は休む時間ですよ! 人民共和国には先進的な労働法が適用されます。これは非常事態以外に適用されます。時間外に給食を食べることは出来ません。時間内に食べて健康状態を維持しましょう」
彼等は時間外でも給食が取れると勘違いして腹が減ったと騒いだことがある。注意してやらないと動かない。全く、幼年教育課程に途中から参加した児童のようだ。
手を叩き続ける。皆腰が重たい。
「はい出て出て! 時間外労働は違法です! 司令部は施錠しますよ! 居残りもさせません!」
ここまで言ってようやく皆が部屋を出始める。他の政治将校も「出ろ出ろ!」と声を掛ける。
始めの頃は逆らう者までいたので拳銃を抜いた。流石に撃たせる程の馬鹿はいなかった。
政治将校達で窓の戸締りを確認して遮幕を閉じ、楔を外して扉を閉めて施錠。鍵の機械が誤作動していないか、開けようとして開かないことを確認。
「よし」
《ノンノ》
「っ!?」
窓硝子が一斉に震える大きな音に全身が一瞬固まった。何かと思えば”拡声”の術で喋った同志メリカだ。政治将校も退室中の人民軍将校もびっくり、身を屈め、中には”砲弾病”患者のように震え出す者も。
「こらぁ! おっきな声出したらびっくりしちゃうでしょぉ!」
同志メリカは司令部に出入りはしないが、身辺警護や各種魔術を使った便利役として待機している。この前は司令部拡張のために、部屋の壁を取り払う工事なんてこともした。ともすれば司令部要員全てを抹殺する時があればその実行者にもなる。
「ノッノ、ノノンノ、ノッノ、ノノンノ」
膝を曲げたまま、鳩のように首を前後して歩くメリカ・ザダラル!
「この馬鹿にしてぇ!」
くらえ、跳躍二重交差手刀! 命中。
「ぐわー」
高級宿敷地内にある別棟の食堂へ移動。
「ヴァ―このおケツ!」
尻を触られる。誰かと見れば特別任務隊としても幼年教育課程者としても同期の女性隊員、同志サマラ・ダフィデストだ。しばらく見てない、着任したばかりか。
「誰がヴァ―こだ、おケツ返し!」
くらえ、跳躍臀部体当たり! 命中。
「ケツっ!」
食堂への道中に中庭の長椅子に、疲れた顔で座っているヤズ元帥を発見した。
「元帥?」
声を掛けても上の空といった様子。ベーア軍では馬上筆頭と謡われたのにこの気の抜けよう。
「ほら、ちゃんと列に並ばないと遅れちゃいますよ! 特権階級みたいに別に用意なんてしてくれないんですからね」
手を掴んで引っ張り、食堂の列に並ぶ。将校も兵卒も同じ列、同じ内容。身体を良く動かす部署よりは内容と種類が少なくなっている。
同志メリカも手を繋いできた。
「私は元帥のお世話で忙しーの!」
「んーん」
「私もだって? あー、ほら、あっち! 同志サマラに遊んで貰いなさい」
同期を指差す。
「ヴァ―こ、メリメリ、でこぼこ」
「ほら遊んでくれるって!」
「マラマラ、変にケツでかい」
「でかくないわ! 普通だわ!」
「ケツ臭い」
「うーるーさーい!」
配膳を受ける前には手洗いをしなければならない。己の健康は元より、感染症に至る場合は他人の健康、引いては全軍事作戦に影響する。それであるのにもかかわらずヤズ元帥は手洗い場を素通りしようとした。
「ほら元帥、手洗いしないと駄目ですよ」
「いや……」
「もう、子供だってちゃんとやるのに。はい手を出して」
濡らした石鹸で自分の手を泡立て、わがまま言う元帥の手汗、脂、墨で汚れた手を掴んで洗う。
「お歌を歌うといいんですよ」
「歌?」
「はい……」
洗いっこしましょ、洗いっこ
お手手を滅菌、病気を予防
指の間に爪の先まで
きれいきれいで大勝利
「勝利万歳!」
『勝利万歳!』
幼年教育課程卒の人間、妖精が斉唱。同志メリカ、サマラも勝利万歳。他は何だという顔をしている。
やはりあの教育を受けていない者達は団結率が低いように思える。社会主義の実現のためには濃度を増やす必要があるように感じる……おっと、領分を過ぎた考え。未教育児童を教育課程に送る仕組みは動いているから他部署の者が考える必要はない。
手を洗ってから配膳を受けて食堂の席へ着く。
「せーの……」
『農民さん、労働者さん、兵隊さん、いたーだきます!』
これも幼年教育課程卒の人間、妖精が斉唱。
パンと芋と豆と野菜の煮物を食べたら、中庭の空いている長椅子に寝転がる。労働時間が始まるまでごろごろするのだ。
身体と背もたれの隙間に同志メリカが入ってくる、同志サマラも捻じ込んで来た。
「サマーは今どこで何してんの?」
「私にもチンポがあったらなあと思ってメリメリの硬いケツ触ってる」
「むー」
おそらく、身辺調査を各部に依頼するあたりの中間管理かと推測する。するだけで口にしない。
「ケツの隙間!」
「んぎゃ!」
同志メリカが体幹で、同志サマラを背もたれへと潰そうと寝ながら跳ねて長椅子が倒れる。三人とも転がる。
爆音、敷地内。揺れが強かった。硝子が砕けて落ちる音が混じる。
「あっ、これ私んとこだたぶん!」
同志サマラが駆け出す。
後に小包爆弾だと判明。郵便とか、検閲やってるのかな?
■■■
小包爆弾のような破壊行為の防止策として、カラミエ人民共和国の各選挙区毎に、にゃんにゃんねこさん一頭の飼育義務が課された。二度目があったら二頭、三頭と増やしていく予定でそのように広報。
過激な反動派には、平穏が欲しい穏健派に恨んでもらうよう仕向けられる。相互監視――私刑による抑止――にも身が入るだろうという見込みだ。どう規制しても厳罰を与えてもやる奴はいるという前提だが、せめて思い止まることが出来る奴を増やすという目的もある。
今日は司令部に、ほとんど顔を出さない同志サマラが手紙を持って来た。格式ある伝令といった風に、ちょっとお邪魔しますという雰囲気ではなく、胸を張って歩いてくる。
「ヤズ・オルタヴァニハ元帥へ総統閣下より親書」
ヤズ元帥は座ったまま片手を伸ばしたが、同志サマラは睨んで親書を渡さない。
「元帥、立って、両手でですよ」
自分が助言して「あ……」と気付いて、ヤズ元帥は立って両手で親書を受け取り、開封して読む。首をやや捻って唸る。一回だけでなく、二回も三回も唸る。
「元帥?」
「分からん、読めない。魔神代理領の言葉のようだが、どう読むんだ?」
同志サマラに目配せ。頷いて返してきた。
「では拝借して……」
あまり良くないが、通訳官として働くのも職分に入るだろう。両手で受け取り代わりに読む。
「帝国連邦文章語ですね。バシィール官語とも国語とも言います。魔神代理領共通文字の縦書き書体で縦読み、左から右へ進めます。文字が繋がっているのは単語毎ですね。エグセン語よりはフラル語の方が通じますね。翻訳して読みますよ」
「静かに!」
同志サマラが声をかけ、司令部を静かにさせる。自分は咳払いで喉の準備。
「”蒼天の神がご照覧ある下、
安堵がため糾合されし地平の上、
弱者を擁護せし魔なる力の腕の中、
秩序立ちたる社会正義を実行する帝国連邦総統の聖旨。
代言者アクファル・レスリャジンの言葉。
南カラミエ人民の安寧は行われし天命が知るものである。
集まりの父たる者はその行く末を憂慮しない日は無い。
心得により生者は死者を妬む。聖なる世界においても同様であろう。
ゼーベ川上流東岸部にて課されし使命を果たされんことを遍く諸大霊へ共に祈る”。
以上です」
妹様の文書だ。出したって話は聞いたことが無いし、初めて読んだ。
「はっきり意味が分からないんだが」
「元帥、これは西の最前線まで早急に派兵しないといけません」
「準備が済んでいないものは出来ない」
胸の前で両手を回してからヤズ元帥を指差す。
「はい、政治的指導!」
「は?」
「総統閣下が今欲しているのだから、今出して下さい。不足も遅延も未達に勝ります。この考え、そもそもエデルト軍の考えじゃないですか。何もかも準備万端なんてことが有り得ないのは専門家のあなたなら分かっているはず。カラミエ人民軍単独で戦っているなら準備がという言い訳はまだ分かりますが、この作戦は単独ではない。人員の不足、配置の調整不足、全て分かった上で前線に行って、前線で順次編制していくしかありません。そして戦闘が始まれば消耗を続けて中核になる人物も死傷疲弊し、常に交代、編制を続けることになるのは、これも痛みを伴って分かっているでしょう。いつも通りの仕事をしてください」
ヤズ元帥が眉間に皺を寄せて黙考。
「電信室に行く」
「はい」
「皆は先遣隊を編制。確実に当てになる者だけ使って一個師団だ!」
『了解』
高級宿の別室に改装して設置された電信室へ移動。
廊下を渡っていると窓硝子が割れる。壁に穴。
「伏せて!」
しかしヤズ元帥、まるで前時代の指揮官のように堂々と立ったまま。狙撃手がいそうな方へ顔を向けているだけ。
「警備! 向かいから狙撃!」
言いながらヤズ元帥の襟首を両手で掴んで跳ねて、その両膝裏へ蹴りを入れ、脚を上げて体重を後ろに掛けてようやく引き倒し、背中を床に強打した。
「うぐ!? もう男の人重たい」
背中から抜け出して、唸って、拳銃抜いて、呆けている元帥の上に覆い被さって周辺警戒。狙撃を囮に潜入した誰かがということもあり得る。
警備隊が動いて走り出している。
同志メリカがやってきて、割れた窓から外に手を出し、向かいの建物に手の平を向ける。
周囲が赤く照らされ、炎が宙で渦巻いて幅広に変形して形はまるで、
「”火の鳥”」
飛翔突進、人や馬が歩く通りの上を空気震わせ建物に衝突。爆発振動、炎と焦げた瓦礫が散って拡散。人と馬の悲鳴、絶叫。巻き添えが数名、街路樹が燃える。
向かいの建物は燃えて、各階に火の手が回る。警備隊がそんな中、包囲しながら内部へ突入。消防隊が鐘を鳴らして水槽車が走り出す。
我々は、民間人への巻き添え被害を差し置いてでも犯人に後悔をさせなければいけない。また民間人達にも、巻き込まれたくなればそういう犯人を通報し、暗にだが突き出さないならせめて私刑にしろと指導している。
「元帥、何ですか突っ立って! 自分だけの身体じゃないんですよ」
「すまん」
逮捕前の評判と今ではやはり別人、気のどこかが抜けている。十万人は優に殺して死なせてきたくせに、今更罪の意識に苛まれて、誰かカラミエの同族にでも裁いて貰いたいと思っているのか?
「あなたが罪を感じているのなら、人民抹殺を防ぐ努力をするだけです。殺して貰えないなら自害したとして、誰にあなたの後を任せる気ですか? 任せられますか?」
「うー」
うー、だ?
「ほら匍匐前進! 狙撃手は一人と限りません。どこか部屋に隠れますよ。はい、いっち、にっ、ほら!」
「ほふく?」
「兵隊が匍匐前進も出来ないとはなんですか!?」
「俺は騎兵だ! 地べたなんぞ這うか!」
「うるさい早く行け!」
元帥のケツを叩く。
■■■
定員一千名のところ百名しか集まっていない連隊を一例として、カラミエ人民共和国各地に後から兵員を充足させて完成させる予定だった準備部隊がコスチェホヴァ市に集結。名前だけは大きかった編制単位を一気に格下げして一個師団内に組み込まれ、一万名の先遣隊が組織された。
カラミエ人民軍先遣隊並びにカラミエ革命防衛隊は隊列を組んで市内を行進し、鉄道駅に向かって歩く。
大通りから鉄道駅までの区間、出征兵士達を見送る住人が集まる。人民意志に沿わない戦争だろうとも、送られる人々は家族、友人、亡き誰かの代わりとして見立てられた者達だ。
ヤズ元帥は鉄道駅にて、車両に乗り、待機している兵士達を見送る位置で立ったまま。彼にはこの一個師団一万を次回出征までに三万に膨らませるという仕事があるので乗車はしない。性格的には最前線で陣頭指揮が似合っているのだが、何分編制作業は奇襲と崩壊と混乱を経た後に行われている。かつてのカラミエ軍集団を編制した資料は全て西の遠く、ベーア帝国軍参謀本部に収められていて参考にすることも出来なかった。
かなり立場は微妙だが、カラミエ人を見捨てないという立ち位置が変わらないヤズ元帥はまだまだ人気がある。将兵の多くからは羨望の眼差しがあり、住民支持者の中でも感情を隠す気も無い若い女達は見るなり黄色い声を出すこともある。貴族将官でベーア騎兵随一の髑髏騎兵で伊達男となればあらゆる要素が合わさって”キャー!”と鳴かせる。
ヤズ元帥の隣には机を手配してあり、花束が積まれては発車する時刻になった車両へ改めて配られる。平時のように植物園で育てたような大輪のものは少ないが。
先の小包爆弾事件、狙撃事件もあって花束と持ってくる人は身体検査を受ける。慎重を期して下腹部を押して”人間爆弾”になっていないかも検査。それから妊婦はお断りした。
机に花束を上げて、ヤズ元帥が「ありがとう」と言ってそれに礼をする婦人という繰り返しがされる。
着飾った婦人の一人が花束を上げて、毎度のように「ありがとう」と礼を言われ、衣装の裾を摘まみ上げて貴人礼で返した途端に呆けた顔をして前のめりに姿勢を崩す。
伊達の騎兵の反射神経か、ヤズ元帥がその身を支えに踏み出したところで婦人が踏ん張って姿勢を取り戻す。
「裏切り者!」
その婦人、なんと右手を立てて指先でヤズ元帥の首を狙う。研いだ爪か!?
拳銃を抜いて右腕を狙って撃つ、命中。腕を下げ、右袖を血で濡らして倒れず踏み留まってこちらを睨む。手仕事をしない貴人風の長い爪を暗器にするとは意表を突かれたが、武器はそれでおしまいか。
警備員がその女を拘束、連行。
「裏切り者は死ねぇ!」
ヤズ元帥は人民を抹殺から救うために苦労しているというのに、暗殺者は短慮な奴ばかりだ。台詞もひたすら感情的。
「元帥、将兵が動揺しています」
「分かっている」
見送りだけで黙っていたヤズ元帥が演説を始める。
「諸君、この世は複雑だ。私が馬に乗っていた時はそこまで考えが及ばなかった……」
■■■
カラミエ人民軍を一万名から三万名に増強させる編制作業が司令部で始まっている。準備部隊が実質解散したせいか、おかげか、人員配置を確実にした頑強な組織を作るという目標がにわかに消失。これからはとにかく一万名で成る各部隊へ、配属先を決めた兵士達を偏り無く送ることだけを意識した作業が始まって、朝から昼、夕方と時間が過ぎる。
夕食後、寝るまで時間があるので同志サマラの寝室にお邪魔する。二人部屋で、サマラと同室の一人はお出かけ中である。気を遣って外してくれた様子があるので、お土産としてその子の寝台の上に飴の缶詰を一個置く。
あまり内容の長い手紙ではないが、我等が幼年教育課程を送った者達には”大母”とも言える内務長官ジルマリア閣下から頂いた手紙を同志サマラが読みたいというので読ませている。
「”私達のノヴァッカへ。あなたの活躍は内務省上層部にも届いています。良く職分を果たしていることを知っています。模範的で一生懸命ですね”だって! どうやったら貰えるの!?」
「ルサンシェル猊下の時も貰ったから、大役だからだと思うよ。だって短いっていったって忙しい中でこんなの、送ってくれるとしたらそういう役目の人ぐらいでしょ。全員に平等なんて偽善の人じゃないって」
「でもいいないいな!」
「ま、教育課程の成績と、部隊配置後の実力と実績です」
「自殺未遂させたのに?」
「それはそれですー。良く持たせた方って言われましたー」
「そうかなぁ? あ、おマンコ使ったんだ!」
「使ってませーん。真面目な聖職者でした。真面目過ぎだからあんなんなるんだよ。手を抜け力を抜けって言ったけど聞かないのね。前任者もそう言ってたから筋金」
ルサンシェル枢機卿は低地マトラでは何度も、優に一万は越える減刑、免除、特赦の嘆願書を書いていた。型通りではなく受刑者の身辺や生い立ちから実行経緯まで調べ上げては情状酌量の余地があると裁判所や警察に訴えていた。
収容所の待遇改善や、フラル諸国にまで声を掛けて寄付を募っての改善資金の調達も積極的に行っていた。自身の財産も捧げ、残しているものは資産運用してその利益を投入。
かつて被差別対象者だったことから取り締まりが厳しく暴力的な補助警察隊員にも慈善と慈愛の心を持つようにと説教をして回っていた。暴言、投石で返事が返ってくることも珍しくない。
エルバティア人には食人は良くないということを伝えようと、混み入った話があまり通じない――言語、生物的に――彼等と会合の場を何度も設けては道徳を説いていた。
そんなことを自分が配属される前から十二年以上手探りで救世主のようなことを続けて、遂にはベーア破壊戦争の先鋒を切って限界に達して人事不詳である。
ヤズ元帥は、ルサンシェル枢機卿に比べれば大した苦労をしていない。何をすべきか分かっている分、何をすれば良いか指示されている分どれだけ楽か。暗殺騒ぎもあるが死ねば楽だし、負傷しても怪我由来で麻酔をするだけ。精神崩壊を防ぐ目的では必要が無い。
「何かぐちゃぐちゃ苦労したっぽいね。あ、じゃあこっちのとっておき、じゃーん!」
同志サマラが出したのは手巾。
「うん?」
「ここの刺繍読んでみそ」
「サニャーキよりサマラちゃんへ……さにゃーき?」
「え!? あんたあのサニツァ・ブットイマルスだよ!」
「えー!? うっそーマジ、えーうっそんマジマジのマジ!? 英雄サニツァ・ブットイマルスの刺繍!? ヤバヤバの超越希少品じゃん何、どうしたらどうするの!?」
「前に頼んだらやって貰ったの、すっごいっしょ」
「どうしてどうして!?」
「ほんと、偶然食堂で、あ、春にね、コスチェホヴァじゃなくて、あっち、キュペリンで居合わせたの。頼んだらちゃちゃっとやってくれたよ。めっちゃ優しいの。あの感じだとね、頼んだら断れない感じの人だったよ。悪い人がつかないように情報部の妖精さんがついてたよ」
「そっかー。うわーいいな。何の任務かな?」
「マウズ川の上流じゃない? 計画洪水」
「あ、それか。楽しみだね。モルル川と合わせてやったらどうなんだろね?」
「ねー」
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