第489話「助教イズマス・ヘルムビル技術中尉」 無名兵士達
胸に火傷を伴う刺し傷のある兵士の死体から、首紐の二つ一組の認識票の片割れを外して集める。名前は……字面だけじゃカラミエ名の発音は分からないな。
「ふふうーんふ、ふふふーふふ? か」
死に方は様々なのか一つと言っていいのか分類が良く分からない。
想像と違ったのは大火傷だけで死んだ者を見ないことだ。絵とか話で聞くと、大砲で死ぬというのは巨大な炎にやられる、みたいに想像していた。大砲は火を噴くと言うじゃないか。
破片に斬殺、刺殺されている。
衝撃で叩き潰されている。
服や帽子、鉄帽が吹っ飛んでいる。長靴を履いて、腰のベルトを残し、脆い生地がどこかに飛び、肌が赤黒く内出血。首紐が顎を半ば切断。
認識票も吹っ飛んでいることがあり、名前が分からなくなった死体がある。顔は判断が難しい場合がある。下の形で特定してくれる娼婦を招聘しようという気配は無い。
多くの行方不明者が眼前にいるというのに出来上がる。これを名誉の戦死と言わなくてはならない将校達は罪の意識に潰れながら仕事をしているのではないか?
この認識票集めをしているとあれこれ変な仕事を押し付けられなくていい……気がする。軍隊の仕事と生活など自分に分かるものか。
早朝だがここはまだ、南に見えるイスィ山地のせいで日の出が完全ではなく、山に後光が射す程度。
あの山の上で気球に乗っていた時は景色が良かった。流れるマウズ川が両断する平野部と地平線から昇る日の出が見えていた。下界の爆発、毒瓦斯の乱痴気騒ぎから隔絶されていた。まあ、最後には大砲で気嚢を撃ち抜かれるという珍事に巻き込まれたが。
うつ伏せになり、崩れた荷車に腰を潰されている兵士がいた。これは死んでいるだろうと思って首元を探ると唸った。
「せっ、生存者!?」
どうしていいか分からず、とりあえず引っ張ってみると思ったより軽い。自分はエーラン式相撲を嗜んでいるので成人男性の重さ、引きずり難さは体感で分かっている。
上半身だけ引けた。何で死んでいないのか分からない。少し足掻きだして、腰の断面から今になって出血が始まった。荷物が丁度、彼に致命傷を与えると同時に血管を潰して止血していたようだ。
「あぁ、中尉さん、そいつ殺してやらないと」
上半身の兵士が自分に話しかけたと一瞬疑い、まさかと周囲を見回して目が合ったのは同じく認識票集めをしていた下士官。火の点いていない咥え煙草をしている。
「銃なんて持ってないが」
「はあ? あー、将校は拳銃自腹でしたっけ」
こいつしょうがない奴だな、という目線でため息を吐かれた。そしてその下士官は背中に背負っていた小銃を、まだ動いている上半身の兵士に向けて引き金を引いて、金属音だけ。舌打ちしてから遊底を引いて銃弾装填、背中から心臓を狙って発砲。
そういえば、砲撃の後で耳が常識を忘れていたが、敵と直接戦っているわけでもないのに銃声がそこかしこから聞こえている。
時間が経って周囲の風景がもう少し明瞭に見えてきた気がする。
はみ出た内臓に泥と木片と草がついた瀕死の兵士が「殺せ!」と叫んで、対峙する若い兵士が殺せないでいたが「臆病者がくそったれ! 役立たず!」と罵られ、意を決したように銃剣を手にして何を思ったか止めを刺すために鎖骨の隙間、首筋を狙って滅多刺しにし始めた。互いに絶叫している。
「あんなんやるかよ」
下士官は小銃にまた銃弾を装填して、銃口を上げるか首を捻ってから背中に担ぎ直した。そしてこちらに認識票を乗せた手の平を向けてきた。
「中尉さんがする仕事じゃないですよ」
「軍人じゃなくて軍属だ。あの、技術士官、将校? とかいってたやつになんか、いきなりなったらしいけど。あ、テオロデン大学工学部助教イズマス・ヘルムビルだ。徴兵拒否じゃないぞ。健康でも免除されている」
「お偉い学者先生ね。じゃあ尚更ですよ」
「家に帰してくれ」
「そんなこと言ってる場合じゃないですよ」
「ちょっと失礼」
急に吐き気が我慢出来なくなったので、下士官に背を向けて人目を気にして物陰へ行って吐く。昨晩飲んだ林檎茶とあまり消化されていない林檎。
銃剣で刺殺を行っている側から新鮮な血の臭いが漂ってきた気がした。それか上半身が分かれた兵士の腹の内臓臭か。良く分からない。
■■■
認識票集めは吐き気の後の、顔が冷めてくるような貧血症状を感じて中断した。
それから食欲は無いが野戦食堂で朝食の冷えた燻製肉と乾燥豆と生煮えの玉葱の汁を自分の鍋に貰い、パンを受け取って手荷物鞄を座布団にして食べる。お湯はどうも負傷者優先で回ってこない。火が上手く焚けない状況にこの部隊は追いやられたらしい。
確かここに配置されている部隊は補給部隊の一つだったと聞いた覚えがあるが、前線なのか後方なのか判断が付かない。正面から小銃で撃たれてないから後方か?
しかし、よりにもよって食堂の待機列の近くに敗北主義者を吊るしておかなくてもいいだろう。せめて生きたまま首も折らずに吊るして失禁させないで、その、道徳的に不純だが十分に死後硬直した死体を吊るせば良かったんだ。
カラミエ軍集団司令のヤズ公子の命令で降伏拒否が選択されたことは軍民から拍手喝采で歓迎された。その中で反対意見を敢えて表明した者は計画されたように憲兵隊に吊るされた。それから民間人が真似をして”敗北主義を粉砕せよ!”を合言葉にし始めた。
勇敢さと愚かしさが合わさると狂気になるらしい。敵と味方からの恐怖に沈黙するのは賢さなのか臆病さなのか分からない。大学に戻ったら精神医学部の先生方に尋ねてみようか。
手帳を取り出して、昨晩の暗がりから筆が使えなかったことを思い出して、今朝までにあった疑問を書いていく。専門外のことでも学ぶのは楽しい。きっと帰れたら寝ないで勉強出来るんじゃないかという気さえしてくる。
遊牧蛮族の文化破壊攻撃に学びの社は屈しない。そのために勉強の準備をしておかねば。
遥か高いところからの風切り音。これは頭上高くを砲弾が通過した音。はっきりわかるくらい狙いは自分より遠い。イスィ山地という高所を取られてからこんな調子。
敵にも気球部隊がいる。空飛ぶ竜もいる。双眼鏡で南の山を見てみると気嚢が点になって見えている。敵の気球はどんな構造か見てみたいな。
遠くに着弾するんだろうと分かって、伏せようか、食べ物が入っている鍋をこの、靴跡が簡単に出来る泥と草の混ぜ物の上に置くかどうか考えてしまった時に着弾。
爆発、若干遅れて小爆発、鍋に手応え、鋭い風切り音、チョバチョバと豆汁が垂れて泥に混じる。全てこぼれないよう鍋を傾けて寄せる。
弾薬集積所に砲弾が一発命中。弾着の煙が上がっている位置上空、花弁のように小爆発の煙が複数浮く。あそこから……鍋の穴の下に出来た穴を鉛筆で穿ってみると銃弾が出てきた。
あんなところから暴発した銃弾がこちらに向かってきたのか。果実が弾けて種を遠くに飛ばす植物があると植物園で何種か見たことがあるが、あんな感じになるのか? まさかな。
もう嫌だ。帰りたい。
砲撃はその一発で終わらなかったが、良く狙った砲撃らしく、弾薬集積所のような重要目標に限って至近弾、着弾が続く。補給物資を管理している兵士達は慌ただしく物を運んで位置替え中。ここにたむろっている者達の仕事ではないようだ。
自分の周りを再確認すると、飯を食っている兵士の群れ、民間人の群れ、腕章付きの民兵の群れ。ここは何の集まりだったか? 敗残兵だとか、召集兵だとか、か?
近くで食べていた中年に見える士官が震え出す。
「あなた、大丈夫か?」
カラミエ語で何か返された。
カラミエ=ククラナ語系統は全く修めていない。テオロデンにカラミエ人はいてもその言葉を聞いたことはほぼない。母語の他にフラル語だけ分かっていれば普通は苦労しない。
彼は恐怖で震えているのだろうか? 砲撃が続いて恐怖というか、神経そのものがおかしくなった兵士も見てきた。ただの臆病者とは様子が違っていたが。
乗っていた気球が撃墜された時、同乗していたあの砲兵所属の観測員は怯えて落下傘を背負うことも出来ずに竦んで、籠の端に掴まるだけでそのまま落ちてしまった。
後で落下した様子を見に行ったら当然のように死んでいた。自分は恐怖よりも先に身体が動いて、声をかけるだけですぐ飛び降りて落下傘を開いて助かったが。
飛び降りる前から、通常の観測任務中から乗り籠は不安定だった。何かと揺れたり流れたりで観測員は大層怖がって神経質になっていた。慣れた自分は得意になって笑って励ましてみたり、観測装置を使った専門的な計算の手伝いをしてみたものだった。
気球の新しい設計思想に過剰安定というものを組み込むのが良さそうじゃないか?
あらゆる人々に鉄の心を求めるのは現場を知らない者がうそぶくこと。今日まで、あまり長くは無いが極限状態におかれた人々を見て確信している。
極限に余剰を削った設計思想は人に失敗をさせる。うん、これはいいぞ。
しかし過剰安定は言葉が良くないか。教授方は言葉に拘ることがある。博識な方々だが、この現場を知っているというわけではないだろう。敢えてうそぶかせに誘導することはない。余剰安定設計と名付けるか。
頭の中で構想。要求能力に対して余剰に大きい構造にして安定させ、なおかつ表面積に対して風に流されないような形に設計しないといけない。
そう考えていると「決死隊を募集する!」と声を上げる募兵官等が憲兵を連れて食事中の兵士の周りを歩き始めた。
このカラミエ軍集団に対する攻撃は苛烈らしい。包囲攻撃されている。
東のマウズ川の向こうからの勢いが激しいらしい。化学の悪用である毒瓦斯まみれだとか。
北のセレード国境地帯では戦争が終わったばかりなのに、むしろであるからこそセレード国境警備隊が近づく帝国兵へ警告もおざなりに容赦無く発砲してくるらしい。
自分がいた南のイスィ山地は敵に奪われた。以来、先ほどの砲撃の通りに我々を高い位置から撃ち下ろしている。この辺りにいる砲兵が反撃している様子は、あまり良く分からないが見られない。蛮族と言われるのに位置の力を計算して有効活用している証拠だ。
西はベルリク=カラバザル直轄の、諸外国を回って残虐非道の限りを尽くした少数精鋭の親衛隊が陣取って我々の退路、補給線を封鎖しているらしい。誰かがそういう風に解釈出来る言葉を漏らしていた。
自分は、乗っていた砲兵所属の気球を撃墜された。
元の部隊が配置されていた要塞が地雷で破壊されてから夜逃げをしてイスィ山地を降りた。
夜の内に見知らぬ部隊に混じってしまった。
原隊復帰の手続きも良く分からないまま、指揮系統から外れた敗残兵、迷子を集めた集成部隊に入った……らしい。
軍事訓練を受けていないと言っても一応中尉は中尉なんだろ、と何か役職を受け取った気はするがまた砲撃を受けてうやむやのまま、たぶん違う集成部隊に紛れ込んでしまい、ここの補給部隊から食事を受け取る今に至る。
こんな経緯を持つ自分で思うのも何だが、苛烈とはどの程度苛烈なのか何だか分からない。
包囲攻撃。小さい丸を描いて大きい丸で囲ってみて眺めても、どのような作用で不利になっているかがいまいちである。大きい丸の一か所に攻撃を集中すれば特に不利ではないのでは? 軍事科学の人達との交流は、記憶を遡っても曖昧。こういう論理を考えている人は軍大学校にいる。
もう嫌だ。帰りたい。
「決死隊を募集する! 我こそという者は帝国旗が掲揚されている広場へ集まれ!」
声掛け以外にも、募兵官は指差しや肩叩きまで始めた。疲れた軍服兵士よりも腕章付き平服民兵の方が元気が良い。
上着を脱いで平服姿へ戻る。市井に戻ったら着ようと取っておいたがもういい。
「それでも軍人か!」
募兵官ではない、知らない通りすがりの兵士に穴空き鍋の豆汁を叩いて落される。
全く野蛮なふるまいだ。言語的に農民を異教徒と呼んで野蛮人扱いしていた時代があったが、残り香があるどころでないな。恐いだろうが。
「テオロデン大学の助教だ。兵士じゃない。あの服は着させられただけだ」
「学者だ!? 男なら国民守れよ」
ここはカラミエ人の土地だろ?
「私は鉄剣で決闘するような輩ではない。得手不得手がある」
「はあ? 何言ってるかわかんねぇ」
「この前結婚したばかりの可愛い年下の妻がいる」
「可愛いだあ?」
「顔赤くして尻でつっついてくるのが合図なんだ」
「なんだそれ! なんだそれ!? なんだそれ!」
「本当はな、大学でロシエみたいな飛行船作るはずだったんだよ! それが気球の整備運用だとかで現場に来たら軍服と階級章渡されて。教授なんかは”君若いんだからいいんじゃないか”といって大学にすぐ帰りやがった。あの腰痛いぼ痔じじいめ! こんな東の田舎まで連れて来られて。ファイルヴァインが戦場になったあとはテオロデンがエグセン一の都会だ! 猟銃どころか俺は包丁だって持ったことは無い! 手紙は定規で開ける派だ! 服のボタンは婆ちゃんが付ける!」
「何言ってるかわかんねぇ」
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決死隊募集の後の夕方、カラミエ軍集団を包囲する西側の退路を、一部兵力と民間人で突破することになった。あの募集はこの作戦のための人員確保が目的だったようだ。
軍と言うのは事前告知が不十分で、突破のために移動を始める時刻は報せとほぼ同時刻。その上で声は掛けていないが察するのが義務のように「急げ急げ! 訓練通り動け!」と声掛けの兵士がやかましい。訓練って何だ?
作戦情報漏洩防止の観点だろうが突然だ。何かの怠慢に思える。
これから砲弾が降ってでも寝ようという夜を迎える前に軍民混ざりながら移動する。向かう先は西、現在地は常に不明。
口々から、死んでも故郷を離れないと決意した者は中々多いらしいと聞こえてくる。カラミエ語が多い中、自分が理解出来るエグセン語で聞こえる範囲でもその様子らしい。全住民の大避難ではないようだ。
また足の弱い老人だけではなく子供も多く残されたらしい。帝国連邦軍は残虐非道で子供にも容赦しないのはわかっているが、それでも何か気紛れがあるかもという期待がされているのか。
期待はそれだけじゃなくて、西へ脱出している間にベーア軍が到着して救出してくれることも含まれている。敵がこの包囲作戦を諦めて撤退してくれることも期待の内かもしれない。
博打とは科学的なのだろうか? 何もしなければ失敗、何かすれば成功するかもしれない、だったら良いのか。
ほぼ日が沈みかけてからその場で天幕も何も張らずに露天、野原で寝るように命令され、手持ちの毛布を湿っぽい草の上に広げて寝る。春の夜はまだ寒く「身を寄せ合って寝ろ!」と兵士に急かされて知らない誰かと肩を寄せ合う。毛布はまだ分かるが手荷物鞄まで引っ張ろうとしてきた奴には「止めないか!」と怒鳴った。
手癖の悪い、油断のならん。
朝になり、朝食も無く、水すら飲めず、道無き道の移動も挟みつつ、幅が広く西へ直進する主街道に入った。カラミエ語は読めないが、現在地と行く先の地名まで距離幾つ、と書かれた立派な看板が見えてくる。鉄道に、立ち並ぶ電信柱、道沿いの町も見えてくる。
主街道に入ってから、他の土地から来た他の軍民集団も合流し、民間人は密集隊形を組まされた。基本は前を進む人の肩を掴んで歩く。一番の先頭は兵士が担当する。
「前の者の肩を右手で掴め! 左利きでも右手だ!」
「死んでも走るな!」
「誰か倒れても助けるな!」
「肩を掴んだ相手が倒れたら次の前の肩を掴め!」
「眠るな!」
「糞と小便は歩いたまま垂れ流せ!」
「飯は助かってから食え!」
というような指導の言葉を、騎乗した士官が何度も繰り返した。
この民間人の密集隊形の先頭に、おそらく中でも精鋭の者達が突破集団という部隊を組む。両側面と後方に”囲い部隊”と呼ばれる正規兵と民兵が混ざった部隊が配置される。
自分は、民間人の密集隊形の中はまずいと思い、囲い部隊の右、北側に加わった。
今度は軍服を着て、銃は持たないで杖を持った。銃は撃ち方を知らないし、刀は思ったより重たいしぶら下げていると歩くのに邪魔。なんか下っ端に見えるとこき使われそうだったからいっそ偉ぶって杖突きをする。高価な双眼鏡も首から下げれば、何か役職持ちの将校に見えてくる。
父は一代貴族の準男爵で自分は貴族ではないが財産はあって教育も良い。付き合う人間も貴族が多く、その中でもそれっぽい者の真似をすれば下っ端兵士達は、あれはそんなもんか、と距離を取る。
運動は好きで色々やった。工学部での仕事も集団行動の側面が多分にある。だがこの軍のやり方は全く気が合わない。煩わしいことばかりだ。改善点が見つからない程に全く合わない。魚は陸に住まない。肺魚みたいな器用さは自分に無いだろう。
早く帰りたい。主街道沿いの鉄道を見るたびに西行きの列車は無いか、飛びつけやしないかと空想する。
現実は、鉄道は途中で寸断されて敵軍に抑えられているらしいし、こちらが掌握している区間で列車は運行されているが全てが戦闘行動に優先されていて旅客運送なんてしてはいない。
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脚が勝手に動いて、ただひたすら頭の中が苦痛に耐える一色になってくる。
軍民揃って、既に小便で股を濡らし、ズボンやスカートから糞が転がり出ている。肩を掴み合って歩くと自意識も奪われてくるらしく、恥というのは置き去りにされた。
自分はあんな渦中に紛れる気は無かった。
主街道両脇からの狙撃の有る無しの合間を縫って、道の茂みに行って自由意志で小便をして、糞をして、温存してきた乾パンを齧り、水筒から水を飲む。歯磨きをして、手鏡で顔を見て、口ひげ以外を剃刀で落とす。肌荒れがあったら鉱物油を塗る。
これでも文明からはいささか遠いが、あの”羊の群れ”の中はごめんだ。住む世界が違う、という前にあの世界に合わせたくない。変えられない世界だと分かるから離れる。
背負われた他人の赤子の泣き声を延々脇で聞く気などない。
自分の赤子なら……その顔を早く見せる努力がまだ足りない。こんな戦争さえなかったら今頃、月のものが来なくなっちゃったのだのなんだのと祝い事をしていたはずだ。
密集隊形は止まらず歩き続けている。
「恐れるな! 敵は少ない兵力でなんとか脱出回廊を塞いでいるにすぎない。こうして道を譲って隠れて攻撃しているのがその証拠だ!」
という定型文を口にする髑髏騎兵が民間人に声をかけて回っている。カラミエの勇士である髑髏騎兵が言うと説得力があるように聞こえる。
森の中、岩と建物の陰から敵が銃弾を飛ばして来ても止まらない。狙いは兵士で民間人には流れ弾という現実があるので割り切られている。
敵が攻撃する時間になった時、自分は密集隊形の傍に寄って歩きを同調させ、なんか暑いな、といった風に帽子を脱いで背景に紛れる。鳥から逃げる蛾も木や葉に羽紋様を似せて、このようにして生存競争を勝ち抜く。
勝利とは戦勝ではなく生存なのだ。戦勝を目的とする軍隊は、あくまで民間人を生存させるための身代わりに過ぎない。自分は決して軍人などではない。息子が出来たら……軍人より良い給料が貰える職に就けるよう勉強させないといけないな。
突破集団が道の先で戦闘を始めたと分かる、猛烈な火薬の臭いがしてきても止まらない。
その戦闘跡地に人が転がっていても歩いて進む。馬は大きくて、乗り越えようとすると隊形が崩れるので一応、優先して撤去している。人も出来るだけ撤去しているが間に合わなければ跨ぐか踏み越えるか。
この密集隊形は効果が良くあるのか、皆は肝が据わっているようになっている。
誰かが撃たれて倒れても無視して歩き続ける。傍にいる兵士が「無視して歩け!」と言っても反論する様子は少ない。
思ったより渋滞しない。肩を掴んだおかげか、躓いて転ばないで歩く余地が生まれている。
それから睡眠不足と疲労があってか、思ったよりも他人に無感情になれる。
この状況、助け合いというより押し合いに感じる。
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夜も密集隊形の行進は止まらない。先頭さえ足元が松明で明瞭なら目を瞑っていても歩ける。
風を切る音と共に矢が誰かに突き刺さる。上からか横からかはよくわからない。銃のように音もしないし、一瞬光ったりもしないからそうだと分かる。
声を上げて「矢が刺さった!」と誰かが自己申告するまで、音が聞こえても攻撃されているとは思わないことがある。
疲労している頭で矢の風切り音を聞いても、何か良くわからないけど自然現象か、と思って頭が理解しない。
小銃で、闇雲に囲い部隊の兵士が撃ち返す。松明の灯りの外、暗闇の向こう側にいる敵に当たっているかどうかなど知らない。時々、岩に当たったのか火花が散ってチュインと鳴るのは何となくわかる。
松明を持った兵士が集中的に狙われ、部分的な闇が出来たところで馬が走る音が聞こえだして投げ縄で兵士、民間人が引きずられて誘拐がされる。そして女と分かる哄笑。
「ホゥファーウォー!」
『ギィーヤッヒャッヒャヒャ!』
敵には女兵士がいる。女性は女性らしくしていればいいのに、あんな野蛮な声を。
その夜が明けると、突破集団側から馬にのった士官が来て歩きを止めるかどうのという話を、民間人に聞こえないようにし始めた。
自分は自分の仕事が始まった、かのように先へ進んで先頭の様子を見に行くと状況は悲惨で、野蛮を越えた。
昨夜連れ去られた人々が、目玉無し、足を折られて足止め柵のように主街道を横断するように並べられていた。それぞれの尻の下には動かすと爆発する爆弾があるようで、既に肉と服が弾けて散った個所が見られる。
爆弾の知識は化学を勉強したついでに多少あるが、胸を張れるほどではないし、あると言ったら解体をやれと言われそうなので黙って対処を眺める。そんな仕事は軍人がやれ。
どうも過去に似たような”戦法”を帝国連邦軍はとったらしく、手馴れてはいないが先例の通りに手早く、非常措置として工業用爆薬を多めに彼等へと放り込んで爆弾毎爆発させて道を開くことが早期に決まった。
その決まったという話を耳にしてから元の囲い部隊の位置へ戻る。
見ていられるものか。
残すなら身分格差を粉砕する共和革命思想の一部だけにして欲しい。ロシエが進んでいる今、未だに貴族特権が残るベーア帝国の思想の一部を。
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今度こそ、突破集団も囲い部隊も密集隊形も停止した。
憑かれたように歩き通しだった人々は座り込んで、もう二度と立ち上がりそうにない姿に見えた。
道の途中で街に入ることもあり、群れの洗脳から抜けて脇に逃げ出す者達が続出する中、それでも歩き続けた者達でもこの停止は辛い。
また何が先頭であったかと見に行けば川を渡す橋が落ちていた。大きい川じゃないが、膝まで濡らした程度で済む深さではない。
戦いでなければ活躍するのはやぶさかではない。
泳ぎが得意なので、平服姿になってその姿を見せてから服を脱いでまずは全身に鉱物油を塗って低体温症対策。船をどうしようかと迷っている工兵から綱の端を掴んで預かって泳いで渡る。勇敢な民間人として働く。
春になって日差しも暖かくなっているが、このカラミエスコ山脈からの雪解け直送の水は冷たいし、何より早い。横断に時間が掛かった。
対岸に渡って綱を張り、次の工兵が渡り出す。一人が渡り切ったら綱を手渡し、自分は凍えたふりをして文弱ぶって「もう無理」と訴えて休む。道具が揃っていたら顔に薄く白化粧でもしてから演技をしたかった。
手伝いはするが殉職する気などない。何度も流水の寒中水泳をさせられたら本当に死んでしまう。今の状況、殉職するのが当たり前という雰囲気だ。
即死ならまだ楽だ。低体温症になって、徐々に弱って歩けなくなって死ぬのは嫌だ。そんなのは税金で働いている職業軍人がすることだ。
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落ちた橋で足止めがされ、四本の仮設橋が作られてからも密集隊形が再び歩き始めるまで時間がかかった。
”水を飲ませてくれ””体や服を洗わせてくれ”という民間人の要望を架橋中に軍が許したのだが、これが統率を失わせた。密集隊形は崩れ、川原に人の群れが殺到。
水を飲む。体と服を一斉に洗って水が濁る。濁った水を飲んで嘔吐者続出。時間が経ってから食中毒者が出る。
準備なく冷たい川に飛び込んで泳げば、水泳達者でも溺れ出す。水を得た喜びで用心も無く飛び込む愚か者が続出。溺者救助に泳ぎに行った者が道連れになることもある。
工兵の仕事を見物の心算で邪魔する馬鹿が出る。手伝おうとして足手まといになったり、助かったり。
嫌な感じがする。突破集団が先行して偵察しに行っていないことも不安になってきた。軍事科学は修めていないが、気球に乗って実感したことは、先が見通せていない時、敵が何をしようとしているか全く分からないこと。
嫌な感じがするから川原から離れ、近くの林の入り口あたりまで行く。
川の方から隠れるように木の幹の傍で、穴の開いた鍋をしっかり被り、横になって丸くなる。膝と足首の線に杖を置いて、側頭部に手荷物鞄を置いてから手を滑り込ませる。落下物が背骨に当たったら死ぬより最低。膝、足首が壊れて歩けなくなっても同じ。
大きな音が高低入り混じった。
水、石、橋、人、馬が西へ向かって高く弾け飛んだ。
川原の丸石が全周を撃った。
初めに弾け飛んだ物の破片が雨になって降って地上を打つ。
頭上の木の枝に当たりながら落ちてきた石が膝に乗せた杖に当たる。大層な衝撃だが分散されて、ひどく痛いとは思わない。
橋が一本消滅。その残骸が飛んでもう一本に当たって倒壊。倒壊した橋が転がって流れてもう一本に絡みついて、重さに耐えきれず曲がる。
攻撃は西から東。砲弾と思われる爆発の影響もそれに準じて多くの民間人を殺傷したと見られた。あれだけ川原に殺到していた人の群れが平らに潰れているのを見ると近寄っても何か出来そうな気がしない。
山地では岩肌に砲弾がぶつかった時の破片が非常に危険だと聞かされていたし、実際のその時の効力を目撃したことがある。あれを、飛び散りやすい石だらけの川原で行ったのならどれだけの規模になるか? 指差して数えていられないというのは分かる。敵はそれを狙った。
砲撃と思われる攻撃はその一回で鳴りを潜めた。西側に多く集結していた突破集団への被害は薄いと思われたが、丁度主街道上に下半身だけ残ったような死体が一直線に残って、その両脇に上半身だったものが細切れが汁物みたいに散っていたのも見えた。負傷兵の中には骨と肉の散弾で撃たれたような者が目立った。
新しい方針が決まったようで、片付けや埋葬はせず、負傷者救助は最低限にとどめて西へ進むことが決まる。残る一本の無事な仮設橋を使って後続の兵士と民間人が進むか留まるか、引き返すかを選択することは「西へ進む!」という声掛けをする程度で後は自由意志に委ねられた。
多くの者が遂に捨て置かれた。全体の統率は諦められた。
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この西へ脱出する目的と行動がどこまで変更されたかは分からないが、突破集団は後続を置き去りにしてまずこの先にあるだろう砲兵陣地へ突撃を仕掛けることになったらしい。
自分は鍋を被ったまま、頭がおかしくなったふりをしてその出撃を見送る。杖だけを持ったこの学者が敵を打ち負かすことなんてできない。
春の山で思い出し、この状況から想定し、頭の鍋から連想して食糧確保のために、主街道の脇で山菜取りを始める。後からやってきた民間人も真似て取り始める。
組織的に食糧は運んでいないので空腹だ。
先の騒動から遠ざかるように、鳥の声が林木間に響く中で土を踏んで、石に座って休む。ため息を吐く。水筒に詰めた川の、綺麗な水を飲む。汚れた水は汲んでいない。良くあんなものを喉が渇いたとはいえ飲めたものだ。
突破集団が開いた道の後を、山に入りながら、一部の集団と山菜や茸を煮て食べながら進むと敵が作ったと見られる陣地に到着。
鉄道駅が中心になり、東へ砲口を向ける列車砲が鎮座している。あれが川原を撃った大量殺戮兵器だろうか。
周囲には塹壕、土嚢や周囲の建物を解体して造った防御壁がある。有刺鉄線が中途半端に撤去されているのは、突破集団が手をかけたというより、敵が回収して去ったという印象。
この陣地に何か残っていないかと兵士が外に集めているが武器弾薬というのはほとんどないようだ。大砲を引っ張った車輪の跡はかなりあるらしい。
「食糧は残っているのかな?」
「無いみたいだよ。腹減ったなぁ……あー腰痛ぇ」
土嚢に座って休んでいた兵士に聞いてみるとその返事。
兵士は山菜取りの余裕も無かっただろう。残りの乾パンを少し分けると喜んでくれた。
爆発音、色付きの煙が上がる。陣地中、至る所で小規模? 誰かが笛を鳴らして「毒瓦斯!」と叫ぶ。
防毒覆面、あ、持ってない。
乾パンを渡した兵士がそれを食べながら、自分を塹壕の中に体当たりをして突き落として、己の分の覆面を顔に被せてきた。
「痛てて」
■■■
毒瓦斯が収まった後、突破集団を先頭にする当初の隊形などは崩壊していたが、それぞれの体力と気力に任せて敵からの妨害が無い西への脱出路を進んだ。
川原での砲撃が最後の一発だったらしい。保証は無いが。
自分は、何かが出来ると思って、銃は持たないが杖を突いて双眼鏡を持って偵察兵の真似事をしながら先頭を進んだ。
分野は違うが、戦争に関する条約を考えている社会学部の連中が人道回廊という言葉を考えていたことを思い出す。
包囲下にある地域から民間人だけを逃がす道、もしくは武器以外の支援物資を運ぶ補給路を、非武装地帯として設定するという考えである。戦争は軍隊だけがするという限定的な戦争形態を作り出す一環。地域住民は占領勢力に応じて掲げる旗を取り換えるだけで日常生活を変わらず送らせるべきだという発想。
神聖教会圏では不文律として、住民には手出ししないで軍同士、連隊旗が立つところだけを狙って銃を撃つべきだとされていたが、両者の思惑が異なって合意が得られない異文化闘争では難しそうだ。ベーア帝国だけではなく、帝国連邦でさえそれが必要と思うぐらい痛い目を見ないと無理そうだ。
カラミエ語の看板は相変わらず読めないが、遂にエグセン語と併記されている看板を見つけるに至った。南カラミエ地方の西部地域に出たと思われる。
そしてその先に兵士の集団が見えた。帝国連邦軍の遊牧民的な服装ではないから味方だ。
今までの苦労が解けた感じがする。
「こーこだーおーい! あっはっはっはぁ!」
双眼鏡で彼等の、西洋の、エグセンの顔立ちを見ながら腕を伸ばして杖を振る。手より長いぞ、見えるだろ!
彼等が驚いたように見えた。そこの指揮官が刀を抜き払って、こちらを示して隊による一斉射撃。動作が随分、素早いな。
自分の体を見下ろす。服が泥やほこり、返り血で汚れている。
返り血にしては濡れてるな?
■■■
メイレンベル大公国テオロデン大学工学部
助教 イズマス・ヘルムビル技術中尉
オトマク暦一七六ニ ~ 一七九一
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