第487話「贅肉を筋肉に」 ヴィルキレク

 蓄音機を使い、録音円盤に昨日封じ込めた音を聞く。これは”親”ではなく”子”である複製品で、各地に同じ物を複数配布することが可能だそうだ。それから摩耗しない限りは何度も繰り返して同じ音を聞くことが出来るらしい。

 まず空雑音、次に帝国国歌の演奏が始まり、途中で音が小さくなって消えていく。演奏録音に覚えが無いので自分が声を吹き込む前に少し入れたらしい。

≪ベーア帝国皇帝ヴィルキレク・アルギヴェン陛下よりお言葉≫

 これは自分の声ではないよな? 黒人侍従の声か。言葉はそのままだが発音が変だ。ぼやけて、途切れているというよりは”小さな穴だらけ”という感じ。炭酸水のような気泡混じりとでも言おうか。例えるとそのよう。

≪帝国は今までにない脅威に陥っている。ベルリク=カラバザルは我々を破壊するという悲惨で理解不能な言説を発信して実現しようとしている。

 バルハギンの遊牧帝国の再来は狼の群れが押し寄せるようにではない。悪魔的に、不幸へ誘う言葉で我々を仲違いさせ、分断し、引き裂こうとしている。これに惑わされてはならない。彼等の行動は全て我々に対する害意で成り立っている。

 彼等が求めているのは戦いの後に訪れる平和や安寧なる秩序ではない。聖なる神がおわす世界の征服、誰にも干渉されずに弱者を殺戮することにある。

 彼等には我々が考えているような罪の意識などなく、道徳的に罰など返ってくるとも考えていない。我々に非道を尽くすことに躊躇しない。する理由も無いのだ。

 この言葉を聞いた国民、あなた自身が今考え付いた非道の限りの数段上を行く非道が敗北の先に待っている。

 ヤガロ人、カラミエ人、東部国境のベーア人は敵の下で明日も知れない過酷な環境に置かれている。不幸と悲劇に両腕を掴まれている。

 征服された下にいるということは何時屠殺されるか分からない家畜であるより、更に悲惨な状態にいることと同義である。家畜は食料、労働力として大事にされ、管理される。あの征服者は気分次第で、楽しみや玩具のように痛めつける。あるいは道を塞ぐ単なる藪のように切り捨てる。枯葉のように掃き捨てる。

 この悲惨な運命を回避することはベーアとフラルの勝利によって実現される。我々が敗北した場合、信仰の友も含めた皆が殺され、気まぐれに生かされても奴隷となり、未来が永久に閉ざされる。我々の文明は閉ざされる。

 我々の足が崖の縁に、すでに追いやられていることを今一度認識して欲しい。全国民は当事者である。人種や身分は関係がない。

 悪魔的な言葉によって、一時は人種や身分が関係あるという素振りをベルリク=カラバザルはするだろう。それは我々を分断し、より容易く殺戮するための技術に過ぎない。その一時が過ぎ去った後、どれだけの約束が果されるだろうか。する必要があるだろうか?

 ただこれからどう料理されるかと待っている厨房の魚に己の運命を左右する力は一切存在しない。己の身を悪魔大王に委ねたその時、もう己は己でどうにか出来なくなっている。そうなるべきではない。

 マウズとリビスの川の傍に住む者達はもう分かっているだろう。戦いの最前線で恐怖を知っている。

 北海とオーボル川の傍に住む者達には分かってほしい。戦いの最前線は、敗北の度に東から西へと迫ってきていることを。

 もう後ろに引くことは出来ない。このベーアという要塞が陥落した時、我々のみならずフラルもロシエでさえも彼等の殺戮と破壊から逃れることは出来なくなる。であるから諸外の人々に同じく告げよう。血塗れのベルリク主義とは戦わなければならない。我々の文明と時代の進歩を阻む化け物と戦うためには帝国の総力を出し尽くさなければならない。

 総力戦を行い、全力をぶつけて侵略者を退けなければならない。愛する者を守るため、家族や友人を守るため、もし己が孤独であるならば己を守るために戦おう。自らの命を守る当然の自衛をしよう。国家においては見知らぬ隣人を守ることは自衛に直結する。戦いは常に集団戦だ。

 逃げ場所はもう無い。新大陸にも南大陸にも無い。帝国のズィーヴァレントは一時的な避難場所になるかもしれないが、ベーア帝国が消滅した後にそこが襲われない保証など一体誰がしてくれるだろうか。私には覚えが無い。

 勝利か絶滅か、帝国と国民の選択は二つに一つとなってしまった。

 ベーア帝国皇帝ヴィルキレク・アルギヴェンは皆の父として勝利以外を目指さない≫

 蓄音機が発する音はまた国歌の演奏になって、後はただの空雑音が続く。そして機械を参謀総長ヴァンス=ホルへット・フェンドックが止めた。録音で皇帝の声を直接民衆に届けて団結を図ろうという試みを考案したのも彼だ。

「これが私の声なのか。おかしくはないか」

「機械が元の声とは少し違う音として記録しますので」

「うん、だが思ったより高いのではないかと思う。弱弱しくないか、それか神経質か。皇帝らしいか?」

「自分の声は、頭の骨に響いたものが聞こえておりますのでその分が」

「そうか。録音をし直した方が良いと思うか? わざと少し低く喋るとか」

「いえ。録音の声は我々が聞く陛下のお声であります」

「ならばいい」

 フェンドック参謀総長が録音円盤を取り換える。

「次にお恥ずかしながら、私の録音をお聞きください」

 空雑音、国歌演奏、そしてこの目の前の痩せた男が出しているにしては威圧感がある声が入る。これが定型か。

「ベーア帝国陸軍参謀総長ヴァンス=ホルへット・フェンドックである。

 セレードの独立戦争はベーア帝国に対する一大警鐘であった。あのベルリク=カラバザルの卑劣な策謀はあの時、既に始まっていたのだ。

 ベルリク主義者の脅威は常より強く、帝国軍は唯一の要塞である。これが敗れ、国民が降伏すれば我々と隣国、神聖教会秩序の世界は混沌に飲まれて無くなってしまうだろう。

 敏速な行動が要求され、わずかな時間たりとも惜しまれる。古代エーラン帝国から始まる文明は今ここで危機に瀕している。今ここで重要なのは東方世界の蛮性を論ずることではなく、今そこにある危機を除くことである。

 方法の良し悪し、法や道徳に沿うかどうかも重要ではなく、あれこれの異議に構うこともなく成功する方法をただちに実行出来るかどうかである。

 帝国軍指導部はあらゆることに決意を固めている。敵からの憎悪は言うに及ばず、勝利のためには国民からのそういった感情をも甘受しようという鉄の決意である。

 我々が直面している困難な状況は甘えを許さず、過酷で無慈悲な生存闘争の階段を上り始めた。帝国は卑賎問わず、民族問わず、貧富問わず、闘争を共にする決意を固めている。

 総力戦を行う!

 固めた決意を実現するためには、我々は進んで高い生活水準を捨て、出来る限り最前線で命を懸ける戦士達に手渡し支えようではないか。

 今後、我ら国民が奴隷以下、家畜以下、どぶねずみのように狩られる害獣として追われるようになるくらいなら、この数年間は聖なる神の教えに立ち返って清貧と勤勉の生活に努めることなど如何程に辛いだろうか?

 総力戦は男達を戦場へ送り、女達を工場へ行かせ、子供達には大人になる時間を短縮するように求めることになる。これら非日常の生活に不安や不満を覚えることは確かだろう。その事実を隠蔽する気は無い。だがそうしなければ恐れと怯えと餓えに追い回される未来が待っている。

 これを恫喝と呼ぶのならば確かに恫喝である。厳しいことを言う理由は一つ、ただひたすらに厳しい状況にあるからだ。

 我々は孤独ではない。帝国はそもそも幾多の国々の集まりで、それぞれに強い友人である。

 畏れ多くも聖皇聖下とその敬虔なるフラルの人々も我々とともに勝利のための道を歩んでくれている。

 遥か極東の帝国、龍朝天政からも数多くの支援物資が届いている。我が国が以前に伝えた良質な武器、弾薬を届けてくれている。

 我々の勝利を確実にする要因は幾らでもある。

 帝国国民、それにフラルとロシエの隣国にも質問してみよう。この質問を聞いている君達は良識と良心に従って答えなければならない。私の言葉を聞いて、己の口で自問し、家族や職場の仲間同士で語って貰いたい。

 国民とは国の主体であり代表である。国民の隣にはかの敵がいるかもしれない。ならば敵にも語ってみせて欲しい。

 一つ問う。

 帝国連邦は我らベーア帝国の東部領土を大きく侵略した。我々はもうこのまま負け続けるのか? 国民は神と皇帝と共に、ベーア帝国の最終勝利を信じているか? 国民は厳しい環境に耐えて凌ぎ、最終勝利のための努力を続ける覚悟があるか?

 もう一つ問う。

 ベーア帝国国民は勝利のための戦いを戦場で工場で続けられるのだろうか? 最終勝利のために銃を取り、工具を取る腕を持っているか? その腕は家族や友人、まだ生まれていない子孫達を守る力の一つであると知っているか?

 更に問う。

 帝国国民は戦場勤務、工場や農場での前線を支える非日常の長時間労働に耐えられるか? 今、苦痛に耐えて走りぬかなければ餓えた獣が、己の体を、手を繋いで連れる子供に噛みつき、血を吸い肉を食らってもか?

 更にもう一つ問う。

 ベルリク=カラバザルは、帝国は口先一つで分裂瓦解し、一度戦えば膝を屈し、奴隷にしたならば傲慢自在に扱えると思っている。国民はそのように団結できず、心根も弱く、一度鞭を打たれただけで自由な人生を諦めるような精神なのか?

 強く問う。

 徹底的に総力を注いで勝利をしなければ何もかもを屈辱的に失う現実に直面している今、それでも総力戦に殉じる覚悟が無い者はいるか? 自分勝手に、己の欲望や怠惰を求めて何もせず、逃げて戦わず、あまつさえベルリク=カラバザルの狗となってかつての同胞に噛みついてその人肉を食らって肥え太ろうと考えている者はいるか?

 更に強く問う。

 戦うか戦わないか。前線で戦い、銃後で戦って前線へ必要な物を全て捧げられるか? 生か死か。前線で戦えば死ぬこともあるだろう。前線で戦わずにいれば生きられるかもしれないが、その前線は一体、いつまで東の位置に留まっているか? 君の家族は今、どこで暮らしているだろうか?

 女性にも問おう。

 男性が戦場に向かっている時、女性にも出来ることがないだろうか? 平和な時は男の仕事とされていることをやってみる気にはならないだろうか?

 兵役拒否者や闇商人、内通者から売国奴、支離滅裂な無抵抗平和希望者にも問おう。今君達が容赦される理由があろうか? 国民が悲痛な試練に耐えている中を利用し、己の利己的で矮小で何も達しえない満足に浸る者の存在が許されると考えているか?

 最後に問う。

 君には何が出来る?

 私は以上の質問をした。国民はそれぞれ、言葉にしたり思考にしたり、様々な答えを出しただろう。形にならないものもあって、それは誰かと語り合えば力強い、明確なものとなって現れると信じる。

 必要なのは鉄の決意である。これから為すべきは総力戦である。

 最終的な答えは国民一人一人の意思が紡ぎ出す、その結合体である国家意志である。意志を決意に変えるのは国民で、決意の表明はただひたすらの総力戦協力に他ならない。

 国民よ、最終勝利へ向かえ。一歩前進!≫

 国歌演奏、空雑音、終了。

 広場や広間で限られた者達に伝える言葉とは仕草が違うだろうか。新聞向けの言説とも違うか?

「私のも少し語調が強いと思ったが、参謀総長のはなかなかだな」

「陛下のお言葉は父としての優しさで、この私の言葉は対をなすようにと厳しくさせて頂きました。台詞を共有させて頂きまして、補完する形にすれば良いと台本を書かせて頂いた次第です」

 一歩前進か……この言葉は皇帝として出てくるものではないな。

「全国に配るのか」

「届けさせて頂きます。新聞にも書き起こしたものを全文掲載します」


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 戦況を確認する。

 計画洪水について。

 モルル川で行われた帝国連邦軍による計画洪水はモルル川上流から下流、リビズ川合流部、サボ川とイーデン川合流部、マウズ川合流部、イーデン川河口部までと順に勢いを減じつつも深刻な被害をもたらした。海と接する程に洪水発生位置から遠い河口部でさえ急激な水位上昇による被害が発生し、沿岸部でも津波に類する水害が発生して港湾施設、船舶にも被害。

 一度目は住宅、商工業施設、農地、道路、橋などの冠水と破壊。船舶の座礁、沈没。それら全てに火災が伴い、伝染病も一部で発生。伝染病の一部は工場からの廃液漏れも疑われる。大量の死傷者と難民が発生。泥が大量流入したことで水源汚染も発生し、川の近くで飲料水不足が発生。河川艦隊は壊滅的被害を受けてしまう。海軍も無傷ではない。

 前線への大量動員作業中にこれら復興作業に従事しなくてはならない。兵器工場の類の多くがエデルト地方に集中していなければ戦争継続も危ぶまれた。

 二度目以降は広大な農地を犠牲にして確保した遊水地で被害を分散。

 冬の到来で洪水は停止されたが、春の雪解け洪水の規模は一度目以上と見込まれて遊水地を更に広く確保。

 カラミエスコ山脈のマウズ川水源地、ウルロン山脈のリビス川水源地を帝国連邦軍に奪取されたと仮定し、更にリビスマウズ運河封鎖までされて洪水効率が工夫された場合の、最悪の三河川同時の計画洪水がされた場合の被害は想定不能。

 化学兵器について……この話題になると火傷跡が痒くなってくる。

 ブランダマウズ西岸部からリビス川上流部まで、敵が糜爛剤と呼ぶ大量の未知の化学兵器が使用されて多数の負傷者が出ており、情報が遮断されている南カラミエ軍集団を除く東部に配置された将兵約百万の内、四万名が中毒症状を訴え、毒によると見られる死者は一千名と被害に対して少ない。ただし中毒の程度により数時間で死亡するので毒性は低くない。

 付け加えると塩素剤と通常砲撃、川越えの地雷発破、その隙をついての渡河攻撃被害を別に受けている。化学攻撃による混乱も手伝って防御の失敗も目立ち、総合的には十万近い死傷者が出ている。更に付け加えると渡河した敵戦力は、南カラミエの事例を除いて全て追い返している

 糜爛剤の症状は主に嘔吐、呼吸困難、肺水腫、火傷で、衣服や靴すら貫通して症状が出る。防毒覆面でも呼吸器への浸透をある程度防ぐが不完全。

 前線のような不衛生な環境にいると火傷の傷口から感染症を起こすので後方へ下げなければならないのだが、その毒はしばらく投射位置、人体や衣服や地面など、諸々に化学的な”汚れ”として残留。無毒化されるまでの間は二次被害の可能性がある。症状を和らげ、被害の伝播を防ぐためには大量の水で洗い落とす必要がある。伝染病ではないので将兵等には正しい知識を伝える必要がある。

 この化学剤がどんな物質であるかは特定中で、化学者等が複数の候補を上げている。化学製品の副産物ではないかと推測されている。我が国でも合成可能であれば量産体制に入ることが検討されている。

 自分はセレード独立戦争勃発時からこれの被害に遭ってしまったわけだ。あの時は気付かず毒に蝕まれてから時間経過後に症状が出た。遅効性の嫌らしさが恐ろしい。その場で怪我とわかるのなら判断も早いが、遅ければ未知の恐怖に襲われる。

 ある任務に就かせて、途中で症状が悪化し始めて人を交代させなければならなくなった時の組織的混乱も脅威。即死しないでしばらく使いものにならなくなるというのなら救護の必要が出てくる。中途半端が一番悪いと言うこともあるが、その中途半端を突いてくる。

 帝国連邦軍がこの特別な化学兵器をどれだけ保有しているのかが分からない。今は糜爛剤砲撃を休止中。今回で一度使い切って、補充を待つのだろうか? 思い出したように使って混乱を煽るのか? ランマルカも生産しているだろうからどれだけ我が国の情報部が優秀であろうとも生産量を知る術は無い。

 尚、我が軍の将兵の名誉のために忘れてはいけないのは、帝国連邦軍砲兵に対して反撃の対砲兵射撃を、毒を浴びながら果敢に実行したこと。糜爛剤被害者の七割以上は砲兵である。

 今回の砲兵戦では我が軍は大砲一千門の撃破、四十余りの弾薬庫の破壊という大記録が上がっている。破壊に限らず損傷に留まったり、数自体も誇張はあるだろうが遅効性の毒をばらまいている間にこちらが砲弾を撃ち込んで破壊してやった結果だ。

 代償としてこちらは教育訓練中の将兵の多くを砲兵として再訓練することになった。こちらも七百門以上の損害が報告されているが生産補充だけは短期で可能。

 竜による航空偵察と、気球を狙撃する特殊砲というあちらの有利があった上でのこの戦果は多少前途を明るくする。

 帝国連邦軍はしばらく南カラミエの戦線以外では砲火力不足に陥ってその攻撃力は鈍っただろう。

 南カラミエの危機について。

 カラミエ軍集団の七割が南カラミエ地方で包囲殲滅の危機下にある。中部集成軍とマウズ軍集団が救援部隊を何度も派遣しているが解囲に至らない。

 主だった道路、通信は途絶状態で、複数放たれた伝書鳩が司令官ヤズ公子の言葉を伝えた。

 ”私、ヤズ・オルタヴァニハは生存している。電信不具合につき所用で司令部を離れていた。降伏か軍民皆殺しをベルリクに迫られ徹底抗戦を選択。次の勝利のため方陣を組み、救援求む。セレード兵が黒軍姿で越境作戦実行。シルヴ・ベラスコイ指揮の可能性大”。

 鳩が運ぶ手紙なので長文ではないが、状況は分かった。ヤガロに引き続き丸ごと寝返っていないことが分かり、最悪の中の最悪は免れた。

 シルヴが……やりかねんが、本当にやったか。だが抗議することすら難しい。今や五国協商の一角となったセレードを再戦すれば苦境に重ねた苦境に至る。帝国連邦片手間などと不可能な戦いは出来ない。

 あんな残虐非道を繰り返してばかりの奴等が何でああも同盟国が多いんだ? ロシエ革命阻止失敗が大きな躓きか? あれが無ければ大同団結の聖戦軍が発動出来たはず。そもそもはバルリー支援をしなかったことがケチの付き始め。中央同盟戦争に招いたのがそもそもの発端? そんなことを言い始めたら死んだカラドスが悪いことになる。

 南カラミエ地方が陥落した場合、マウズ川計画洪水の脅威が始まる。

 東ウルロンの敗退について。

 ウルロン山脈東部のヤガロ人諸邦が占領されてヤガロ王国施政下に入った。現地で抵抗していた東ウルロン軍はフラル側へ逃れたとの報告がある。

 彼等が相手取った山岳兵は妖精、鷹や山羊に箆鹿の獣人、東方の高地民族兵であり、練度と装備もさることながら生物的にまるで敵わなかったそうだ。加えて毛牛、大型の山羊などこちらが扱わないような獣を騎乗、荷駄に使っていてこれも手伝いまるで敵わない。山岳要塞もまるで想定しない経路から攻撃されるから役に立つことはほとんどない。冬山なのに夏の散策みたいに元気。絶望的に勝てない。とも報告がある。

 現在、山中の前線はストレンツ及びカッサルツ司教領まで後退している。リビス川の水源地は同司教領に存在し、ここが陥落するとリビス川計画洪水の脅威が始まる。

 これに重ねて、リビス川における停戦の約束破りに対する抗議声明が総統代理ルサレヤから出ている。

”政治に作法あり、対話に作法がある。刃を向け合う戦場にも作法があると信じる。

それぞれ作法の違いはあれど、交わした約束を守る努力をすることだけは万世万国不動不変であると信じている。ベーア帝国におかれては如何か? ヤガロにおいて同意されたはずのことに対して省みることはないか。代表たるヴィルキレク・アルギヴェンの言を是非聞きたい”。

 寝耳に水か嘘八百。ベルリクならともかく魔神代理領の代表としての役割もあるルサレヤ魔法長官の言となると虚言と決めつけるのは早計だが。

 この約束を交わしたのは下ウルロン軍集団司令である。停戦を結んで両軍の再配置を安全な形で行うという目的は良かったが、経過と予後が間違っていたのだろう。

 約束が文書ではなく口約束で行われたというのは大きな間違いの一つだ。冬の嵐で電信が不通で中央の判断を待てなかったという理由は、現場判断を下した言い訳としては適切だが、文書に起こさず確認しなかった理由にならない。

 ベルリクはこの事態が起こるようにして、口先で下ウルロン軍集団司令を言いくるめて口約束だけで終わらせたに違いない。どう圧力をかけたかは改めて当人に問いたださなければならないが、本人の感情を操るような詐術が使われたのなら聞き出しても夢の話のように思い起こせないだろう。

 シュラージュ女王を寝返らせたとんでもない策を実行するあたり、役者は完全にあちらが粒も揃って上だったはずだ……ブレム王が完全にあちらの味方になっているのが手痛い。

 解決方法がある。この抗議声明、全くのデタラメと決めつけて済ますこと。そもそもこんなことで悩むのがあちらの術中。この件で司令に引責辞任をしろと迫れば我々は、この例の無い現代戦で経験を豊富に積んだ将軍を一人失ってしまうのだ。一万殺してようやく育つ将軍を失う? ありえない。

 各部に彼をこのような詐術で失うべきではないと手紙を出す。彼を庇えるとしたら皇帝である自分しかいないだろう。彼自身には横からの口出しは無視して帝国に尽力してくれと激励しよう。

 まずは代わりに、総統代理の抗議声明への反論を、根拠の無い誹謗中傷と一笑に伏して出すべきと議会に助言しなければ。

 フラル軍から。

 ラーム川で南北対峙している状況を打破する渡河攻勢は春から実施”検討”可能、とのこと。エグセン派遣軍はこれから出発するそうだ。

 夏の終わりに帝国連邦軍は帝国国境を越えてきた。この時点で当事国ではないのだから反応出来ないのは仕方がない。

 秋には帝国連邦軍はモルル川を越えて北進してきた。この時点でラーム川北岸を抑えられており、即応部隊程度では牽制が精々であったのかもしれない。砲弾の集積も遅れていたらしい。同時にイスタメル国境、ベルシア戦争の再来を危惧してロシエ国境、沿岸全域、それぞれ警備体制の見直しと大忙しだったそうだ。中大洋に面していればペセトトの水上都市攻撃も警戒しなければならず、仕方がないかもしれない。

 この冬の始め頃だと、ベーア軍との連携が出来ないからとラーム川渡河作戦は見送られてきた。前線に配置した砲兵が対砲兵射撃で一方的に破壊されたり、化学砲撃で兵士に損害が出て統率が取れないと言われた。また敵の火力が優勢な状況下での冬の敵前渡河方法は全く見当がつかないので研究するとされた。うん。

 冬が終わる今日この頃になってようやく肩を並べた感じがする。

 姉が統一してほぼ一国として振る舞うようになったはずのフラル諸国。馬鹿にするだけなら馬鹿のすること。帝国連邦軍にモルル川やマウズ川が突破されたことで普通、あれくらいはやれるもんだと考えるのがおそらく悪い。

 フラル軍はウルロン山脈とラーム川という障害の南にいて、強引に消耗して北へ突破できたとしても我がベーア軍と共同歩調が取れる位置にはいない。そういうことにしたいが、東ウルロンは山岳兵を出してどうにかできなかったのか?

 どうして山岳兵を出さなかったのかという情報が、資料がそもそも手元に無い。もしかして、救援要請を東ウルロン軍が出さなかったからそうしなかった、という話で終わってしまうのか? 見殺しは余りにもな話。南へ下山脱出しているのだからフラルの山岳兵が手助けしなかったわけはない。

 参謀本部に聞いてみようか? いや、今更指摘してもな。寝ずに働いている彼等に面倒事は……フラル軍との連絡体制はどうなっているかは聞かねばな。

 参謀総長が来た時についでに尋ねるべきだった。新しい機械に浮かれるとは、この間抜けめ。

 皇帝として出来ることを考えていると廊下からドタドタと大きな足音に「通りまーす!」と”そこのけ”と大声がして、この階のことのように聞こえて、階段を上がって更に音が大きくなってから執務室の扉がバン! と開いて見えたのは髑髏騎兵服の我が妻ハンナレカ。女物の服を着た姿は結婚式の時だけ。

「陛下ぁ! ハンドリクから手紙が来ました!」

「隣に来なさい」

 ハンナレカが隣に来て机の上に封蝋された手紙を置く。小刀で開封。

 ”イスタメルのマリオルで書いてます。魔都へ留学することになりました。学生救済同盟を運営する総統の長女ザラ=ソルトミシュ氏のところで下宿します。お元気で”。

「ハンドリクぅ!」

 ハンナレカが自分の肩を掴んで、いや握り込んで嗚咽し出す。痣が出来たと思う。風呂の時に召使いが何か言いそうだな。

 人質の果ては剥製か”にゃんにゃんねこさん”というおぞましいあれかとは覚悟していたが、存外に斜め上の扱いになった。

 しかしあいつめ、手紙の簡素さがハンナレカみたいだな。

「内向な性格も少しはマシになってくるかもな」

「はいぃ!」

 戦後策なのか気紛れなのか押しつけがましい親切なのか、野獣のように分からん奴め。


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「皇帝陛下、おはようございます」

「おはようマールリーヴァ」

 長女十五歳。アルギヴェン家の伝統では長女に古名を付ける。古信仰の巫女にしていた名残で、廃止する理由は見当たらない。

「皇帝陛下、おはようございます」

「おはようルドリク」

 三男十三歳。

「皇帝陛下、おはようございます」

「おはようフィーリカ」

 次女十一歳。

「皇帝陛下、おはようございます」

「おはようデメティア」

 三女九歳。

「皇帝陛下、おはようございます」

「おはようイングリズ」

 四女七歳。

「こーていへーか、おはよーござ、ございます」

「おはようアンナリーケ」

 五女四歳。

「皇帝陛下、おはようございます」

「おはようハンナレカ……」

「うぅ?」

「ドラグレク」

 妻ハンナレカと四男二歳。

 朝の礼拝堂での祈祷の後に家族から一礼の後の挨拶を受けて返す。

 成人した長男エルドレク十八歳は軍務中。次男ハンドリク十七歳は中大洋上か。

 男四人、女五人、皆、事故も無く夭逝せず大病無い。妻は結婚二十年、さして衰えることも無く元気なまま。厨房からは、ハンドリクがいた日まで三日で子牛が一頭消えると言われていた。

「マールリーヴァだけ残りなさい」

 長女以外、出口で一礼をして退室。

 成人一年前。話の橋渡しはハンナレカが実家のガンドラコ家を通じてつけてくれた。

「皇帝陛下」

「良い方を紹介したい。話は具体的に決まっていないが、そうだな、手紙をまず出して挨拶するのが良いと思っている。同い年だからそんなに肩肘を張らなくていい」

「どなたでしょうか?」

「マリシア=ヤーナ殿は知っているね」

「はい、ヤーナちゃ、マリシア=ヤーナ様。お母様と遊びに行ったことがあります」

「その時は楽しかったか?」

「はい! とっても、素敵でした」

「うむ。その良い方は彼女のご子息だ。悪い方ではないと聞いている」

「その、浅学でして、えーと……」

 ちょっと誤魔化せば変に緊張させずに済んだと思ったが、十五歳は流石に完全に子供ではないか。

「まずは個人的に、当然だが誠意をもって書けばいい。奇をてらったことは書かなくていいよ」

「はい、やってみます」

 帝国連邦とロシエによるベーア帝国分割案が疑われている。

 帝国連邦に苦戦している時に、背後からロシエによる戦略的脅迫が帝国連邦との終戦と組みになって出された時に我々は拒否出来るかという問題だ。

 分割なれば、エグセン中部までエグセン人民共和国連邦となり、下ウルロンまでがヤガロ王国に併合される。そしてエグセン西部はロシエに編入。泡沫のベーア主義は破棄され、エデルトは王国に戻り、対等同盟という名目でロシエの下位属国となって魔王軍とペセトト軍との戦いに動員される。

 これが考えられる。こちらが降伏しやすそうな物語で舗装されている。穏健な敗北主義者には甘く聞こえる物語だ。

 長女マールリーヴァをロシエ二代皇帝マリュエンスヘ后として出す。家格は現在、この世界で唯一釣り合っていてあちらにも丁度良かった。私的な親の面から見ても、マリュエンス殿は普通に良い子と聞いている。周りに癖の強いのが多いとも聞いているが。

 結婚は成人の十六歳になってから。それまでは健全な交流で、ということになっている。

 分割案疑惑がこれで消えはしない。むしろ深まる可能性があるが、激しい衝突ではなく柔らかい対応で着地出来る可能性へ発展している。いずれにせよ分割の憂き目に遭うような事態となれば力が物を言うのみ。力を和らげる何かがあれば憂いは少ない。

 しかし、まるで生贄に捧げるような気分だ。古くは巫女をしていたのだから尚更そのような気になってくる。改めて悪い男ではないとは聞いているが。

 ただ極東の龍朝天政へ嫁に出すなどという前代未聞の話が潰れたのは朗報。世界の反対側の異文化で、正室に側室に側仕え? にナントカカントカ色々、と有象無象の女をやたら詰め込んだ後宮を備える化け物の総本山送りは流石に、な。


■■■


 現役百五十万。セレード、ヤガロ、エグセン中部の失陥で元と今の人数差を計算することも難しくなっている。

 予備役百万。現役を終えてから五年以内の者達で、既に正規軍へ組み込み済み。

 義勇兵三十万。平時より休日等に軍事訓練に従事している者。ほぼ貴族私兵の制度化で、貴族士官等が供回りに付けている一万名程度は正規軍に組み込み済み。

 後予備役七十万。予備役期間を終えた者達で四十歳以下。未動員。

 第一級補充兵役百万。徴兵令により三か月の基礎訓練を受けた者達。未動員。

 第二級補充兵役百万。徴兵検査により第一級とは見做されなかった者達。未訓練未動員。

 民兵役。成人男性は全て休日に軍事訓練を受けること。未発令。

 これが最大動員定数五百五十万名のベーア帝国陸軍である。

 対する帝国連邦軍は正規軍八十万、準正規軍二十万程度で百万。これに現地徴兵部隊が常に増減。

 ヤガロ軍が再訓練されて正規軍だけで四十万は後々に動員される見込み。すでに幾つか出動済みか? こちらも後予備役、補充兵役を出せば百万に迫るか。

 革命のエグセン軍が、正規兵だけなら十万以下だろうか。こちらは……百万も動員出来るか分からない。

 現時点で敵は百五十万名程度動員している見込み。そして帝国連邦自体はこれで予備役などは動員していない。動員すれば更に百万追加か。

 遊牧民の動員も事例があって、今より国土が半分近く小さかった時でも遊牧民兵を五十万、国土防衛戦ではなく攻撃作戦に動員した実例がある。今ならこれで百万か?

 更には魔戦軍の風潮があって、東方諸国から義勇兵、傭兵を連れてくる可能性がある。魔戦軍の範囲外でも、属国として後レン朝を抱えている。

 三百五十万兵力に加え、関係の深いジャーヴァルと後レン朝からどれだけ連れて来られるだろうか? 我々が数的優位にあると考えるのは浅はかだ。

 こちらの義勇兵は全動員として前線へ送ることが決定されている。数的優位にあるというまやかしに騙されてはならない。

 後予備役も全動員とし、今まで西方警戒、後方任務に就いていた者達を前線に回す。

 ここまでは良い。国家の仕組みはそういう前提で成り立っている。

 これからが難しい。補充兵役を動員する場合、膨大な労働力が損なわれることになる。予備役動員ですらかなりの損失であるのに、後予備役に続いてとなれば相当な負担。

 今日もフェンドック参謀総長はこの執務室を訪れている。昨日の議会で言い負けてきたところだ。

「補充兵役の動員を議会が拒否しています。時期尚早ではないか、工場が動かなければ戦えないのではないか、という懸念からです。それもまた事実でしょう。そこで私に妙案があります」

「妙案とは」

「国家の軍事化です。全資源、全国民を一個の軍として全てを参謀本部が一括管理して再分配し、平時運営によって生じている”贅肉”を全て削ぎ落して”筋肉”に注入します。戦争遂行に不要な生産を削ぎ、残りを注ぎ込めば二つの補充兵役二百万の訓練と動員も可能です。これは試算資料の簡易表です」

 資料の束が執務机に置かれる。経緯説明を省いた数値の羅列だけで本になる。煩わしい数値の密林を抜けて導かれるように読みやすい最後の一言は”これにて動員と国家運営の両立が可能”という結論。

 病を治すために毒をあおるような所業であると見られている。二つの補充兵役よりもこの軍事化案で反発を議会で食らっている。

 補充兵役は既に法案として通っているので動員令が下ればやむ無し、なのだが、この二百万を動員した結果、労働力不足に繋がり、結果的に国家権益を全て参謀本部が”筋肉”で握らざるを得ない事態に追い込まれると懸念されている。

 国家の軍事化は先例が無いのであらゆる方面に不安があると、最大限の懸念を三宰相、各議員、支持母体、官僚から発せられている。

 このフェンドック参謀総長訪問前に”軍事化を認める勅令だけは出さないで下さい!”と嘆願に有力議員が代表として訪れていた。これに宰相の顔が加わると話がこじれる、という程度の冷静さがあることには安堵はしたが。

 参謀本部に国家の軍事化を行える能力があるのかという疑念を、奴等に支配されたくないという意志が助長している形。軍政の天才という参謀総長への呼び声は国家運営を預ける程に世に響いてはいない。

 分かりやすい要素を上げると、ベーア帝国陸軍参謀総長ヴァンス=ホルへット・フェンドックの階級は陸軍中将。出身は南エデルト地方にある、所領削られて久しい田舎の侘しいエグセン系伯爵家の次男坊である。威信が全く足りないので、この皇帝であり参謀本部を設立させた自分の笠を着なければまともに相手にされないのだ。

 政治的にフェンドック参謀総長は我が子である。この少し年上の男からの泣き言は聞かねばならない。

「宣伝部より、総力戦に必要な宣伝紙の見本も届いております」

 宣伝紙の束が執務机に置かれる。眼力の強い人物が観る者を凝視するような形で啓蒙するというよりは脅迫するように”すべき”ことを訴えている。

 女性労働者の動員。”夫が戦場に行っている間、あなたはどうする?”。

 男が戦場に行って兵士となり、労働者が不足する分は家庭だけで仕事をしていた女性を引っ張ってくるのが手っ取り早い。家事は子供にさせる。

 移民労働者の歓迎。”黒い肌の友人が南大陸からやってきた!”。

 南大陸におけるロシエ領の失陥により、ザーン系植民地やブエルボル経由で難民がベーア帝国領内に流入している。また一旦北大陸から入植した者達が逆流してきてもいる。彼等には行くあてが無く、労働者として引き受けなければ犯罪者集団と化して負債になる。

 質素倹約。”その贅沢を我慢すれば君の父が一日多く戦える”。

 戦争勃発により東方世界を中心に資源輸入が難しくなってきている。隣国ロシエも魔王とぺセトトの戦いで輸出するような余剰資源を失ってきている。龍朝天政からの輸入品は大きいが、何分航路が長すぎる。海賊に備えた船舶保険も対ロシエと比べて馬鹿にならない額だ。

 長時間労働。”戦いは昼夜を問わない。それは塹壕でも工場でも同じだ”。

 武器、弾薬、食糧、石炭、衣服、靴、医薬品、石鹸、天幕、鍬、円匙、鋼線、有刺鉄線、車両、馬の消耗度合が前代未聞。急に工場や農場に牧場は増やせないのなら、一つの稼働率を極限まで高めるしかない。人間の疲労、限界を無視出来るのならこれが最善。

「動員段階を引き上げると武器が足りないと私は記憶している」

「はい。しかし西方警戒部隊には旧式装備を渡せばまず二百万は足ります」

「伊達で置いているわけではないはずだが」

「極端に殺傷能力で劣るわけではありません。旧式といえど施条銃です」

 金属の提出。”あなたの身の回りには再利用出来る金属製品が溢れている”。

 鉛、錫、鉄、銅。今やこれらは金や銀など貴金属より尊い存在となっている。とにかく必要。教会の鐘が外され、代わりに革の太鼓が使われている教区があると聞く。

 戦争税の増額。”硬貨の一枚、血の一滴。兵隊さん達に輸血だ”。

 資金は幾らでも必要だ。貿易相手が制限されたが必要量はどこまでも跳ね上がる。買うためには資金がいる。その資金を保証する金の値段が何時までも下がり続けている。普通、戦争になったら上がるはずが、恐ろしい程の市場流入で下がっている。ペセトト金、イサ金、帝国連邦の金備蓄解放、呪いでも掛かっているように下落が止まらない。手を付ける前に金庫が軽くなるという呪いだ。

 国民志願兵役の募集。”帝国陸軍は君を必要としている”。

 国民志願兵役は第三級補充兵役という名前で計画され、士気を下げるということで改名された経緯がある。ほぼ無制限に志願兵を受け付け、身体検査はそこそこに直ぐに基礎訓練へ入って、休暇や負傷療養が終わった熟練兵を訓練教官にして、そして修了したら教官をそのまま隊長にして送り出す方式が試案されている。この法案は議会を通過していないので発令自体出来ない。

 通過していない理由の一つに、第四級の無制限兵役という恐ろしい計画があるからだ。”人でなし”の参謀本部は権力遊びがしたくて戦後を見据えずこれをやりたがっている、と噂がされている。

 敗北主義者の取り締まり。”敗北の言葉は伝染病。処置しなければならない”。

 これは……。

「国民同士で殺し合いをさせる気かね」

「ヤガロで徹底していればあるいは」

「これは議会が許しても私は許さない」

「これは過激が過ぎたかもしれません。ですが国家運営の軍事化に対する署名は頂きたい。ロシエの革命戦争より危機的な戦いが続く見込みです。貴族、富豪、庶民の顔色を窺いながらの政治では動きが遅すぎます。検討している間に何もかも状況は変化を続けています。あらゆる障害、下らない言い訳は軍令にて解決すべきです」

「参謀総長の言う通りにしたとして、この規模の動員で訓練が間に合うのか? 労働力を損ないつつ帝国連邦軍の挽肉にした、では話にならない」

「今なら何とかなるのです。どこの部隊にも熟練兵が多く存在する今の段階で新兵を彼等に、戦闘片手間に面倒を見られる今が最善なのです。一人の熟練兵が一人の新兵を世話出来る状態である今です。これが一人で四人も五人も見て、その兵が班長、小隊長を兼任などとなれば忙殺されて何も出来ないからです。これはロシエ革命にて正規兵と民兵を混合させることによって質量の不足を改善した実例があります。先例主義を採るにしても有効な策です」

 今は亡き超人ロセアの名策が出てくるか。帝国連邦軍が滅茶苦茶に虐殺しまくって最高司令官である当人を殺した後ですら我々聖戦軍が敵わなかったロシエ革命軍を認めないのは知性に反する。

「理屈は分かった。確かな先例があることも認めよう」

「”ご助言”して頂けますか」

 皇帝の”ご助言”は重い。立場ある者全ては無視することが出来ない。濫用すれば形骸化し、もしもの時に何も為せない。

「”話”をする機会は探ってみよう」

「ありがとうございます」

 ランマルカは言うに及ばず、ロシエと帝国連邦にはこのような内輪揉めが存在するのだろうか。

「この前、聞き忘れたのだがフラル軍との連携はどうなっている。あちらが積極的に動いたという話は聞かないが」

「効果的な連携作戦を取れる機会がありませんでした。仮に陽動目的にでも攻勢を仕掛けた時に失敗し、反撃を受ければ惨事が待っています。それは我々ベーア軍とて同じですが、フラル諸国がエグセン諸邦程に団結して苦境を我慢してくれるとはとても思えません。寝返りの確率は非常に高い。帝国連邦が各都市にかつてのような自治権を返す、という言葉だけで情勢がひっくり返りかねません。今、フラルが統一されているのは神聖教会が武力で掌握しているからで、その枷が外れた占領下で臣民ではない市民達が”縦”ではない”横”で繋がる共和伝統を思い出すことは容易でしょう。彼等は予備騎兵のように持っておくしかないのが現状です」

 姉が彼等を策謀と軍事力で引っ繰り返したように、同じ論理でまた引っ繰り返る可能性が大きいわけだ。姉は”征服者”としてやったが、あちらがやるとなれば”解放者”の称号がつく。

「東ウルロンではどうだった? 報告書には余り書かれていなかったが」

「ウルロン山中のヤガロ系、フラル系山岳民の対立は根深いものです。”谷住まい”の頑固さは沿岸、平野部住みには理解し難いものがあります。東ウルロン軍のフラル脱出は教会主導によるものらしいです。山に住む修道士達が親切で道を教えて、以後の補給は教会経由というものです。山の南側で反撃の機会を窺うか、迂回路からベーア領内に戻るかは現地フラル軍と検討中です。何も決まっていないので報告書の記載が少なかったことをお詫びします」

「そうか。引き続き頼む」

「は。失礼します」

 ベーア帝国成立から四年と半年。未だにこの巨体を持て余している。

 ……贅肉を筋肉にか?

 片眼鏡を外し、視力の落ちた目で壁に掛けた世界地図を見る。反対を閉じて、見える目で見る。

 王子の頃は比較的あちこち行動出来た。動乱中のアソリウス島まで行けたのは例外だが。

 国王の頃から自由行動など不可能になってきた。こと皇帝となれば散歩も覚束ない。ベルリクが宮殿に化学兵器をぶち込んでからは特に……獣が威嚇する吠え声。近衛人狼は躾が届いているのでこんな声は出さない。庭先の番犬もだ。

 来客名簿は覚えている。

「陛下、次のお客様です」

「通してくれ」

 黒人侍従が通したのは羽衣装束姿で身綺麗にした真の人狼。灰毛が多少あったはずだが、最近は徐々に脱色して白に近づけている。染毛剤が少し前に流行ったか? 女中の立ち話に覚えがある。

「皇帝陛下」

「何だ、近いぞ」

 顔、鼻先が近い。においを嗅ぎたいらしく、前に聞いた時もそう言っていた。若い頃から自分の枕とか布団のにおいを嗅いで”たまらん男くさっ!”と騒いでいたので相変わらずと言える。

 エデルト古信仰の巫女頭アースレイル。アルギヴェン家とは海の勇者の代より近く、血縁関係は文字の記録を越えて口伝の伝説の代まで遡る。代々極光修羅信仰の宗教主導者を務める一族で、今代でも敢えて家名を名乗らず、世俗と一線を画す。また国内統制が緩む度に影響力を世俗にも発揮してきた。

 彼女は我が異母姉ヴァルキリカの叔母の娘に当たり、エデルト国内では大きな影響力を持つ。

「出動の許可をください」

「私は軍令を司っていない」

「義勇軍は動員で前線に行くのでしょう。それもカラミエ軍集団救出に」

「お前の部隊の役割はベルリク狩りの一点だ」

「ヤズ公子に降伏勧告を出したのはベルリク本人の声だと言われているじゃありませんか」

 真の人狼と、極光修羅信仰者の中でも術の才能持ちで固めた特務部隊。分類としては皇帝私兵なので義勇軍に類する。この者達は普通の兵士より強く、圧倒的過ぎるということはないが、数倍の敵を相手に多少の無理を通せる。訓練には大量の時間と金が掛かっている上に補充も中々利かないので通常戦闘で消耗させるのは勿体無い。

「絶対に指示に従うのなら予備待機を許す。参謀本部付の連絡将校を付けるから言うことを聞け」

「誰でしょうか」

 アースレイルみたいな奴を指揮出来るのは単純な階級章では足りない。

「エルドレク・アルギヴェン」

「皇太子くんじゃないですか! やだ可愛い」

「私と思って言葉を聞け。なめた真似するなよ」

「ペロペロしちゃいます」

 アースレイルが舌を出して口周り、鼻先を舐めだす。真の人狼になった連中でもこういう仕草はしないから意識的に獣っぽいことをやっている。昔から四つん這いで歩いてたりすることもあった。

「殴るぞ」

「きゃうん。ヴィルくんこわい」

 アースレイルは両手で頭を押さえて怯えたフリ。尻尾まで股下を潜る。

 席を立ってアースレイルの隣へ。他の真の人狼と違って獣風に背中を丸めていて、これでようやく背が同じくらい。

「その機会が無かったら戻れるか?」

 キュウーンと獣にしか出せない声で鳴いた。

「命令は参謀本部が下す。奴が出なければ出れない」

「あいつら嫌いです。この部屋もあの骨筆えんがちょ臭いです。何度通えば気が済むんですかあのしつこいガリ勉うんこ。うんこの細そうな臭いですよこれは」

 フェンドック参謀総長は軍大学校主席で成績は満点を維持した男である。

「良い子だから」

 アースレイルの耳の裏を撫でると、すぐにこちらの脛に背中を擦り付けながら床に転がって腹も喉も見せた。

 そこまでやらんぞ。

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