第416話「ここからパシャンダ軍を逃がしてやる」 ベルリク
薬臭いだろうか、小便臭いだろうか? 床につく弱り老いた、錆びた人間の臭いがする。この地の冬は積雪も無いような冬だが、そういった者の骨身には染みているかもしれない。
厚い毛皮布団を押し上げようとする腕が重苦しい。大きな枕に預けた背中を起こせず、世話係が支えてゆっくりと状態を起こす。肉が落ちて余った皮が緩んで目が大きく見えてしまう。これが今のザシンダル藩王タスーブ。かの国に治安維持目的で入った記憶があり、面会した記憶もあるがこんなやつれた老人のようではなかったはずだ。同年代か少し上くらいだったはずだが、この胸に穴が開いて足一本足りなくて陰毛に白髪が混じってきた自分の二十か三十は上に見える。
「本当に来てくださいましたか」
「”共同体の帝国連邦、戦を厭わず”に嘘はありません」
タスーブ藩王は目を潤ませ顔を隠した。感傷的な年寄りそのもので、これは相手にしている将校達が可哀想なことになっていると想像がつく。機嫌の良し悪しで言うことが変わって矛盾し易い、そのような雰囲気を感じる。
「これからタルメシャのチャラケーを破壊して軍の”復帰”を春までに目指します……」
タスーブ藩王が目線を下げる。”復帰”とは帰還、つまり撤退。このプラブリー西部における一応はジャーヴァル帝国傀儡、保護対象であるヤオ政権がどのように盗聴しているか不明なので隠語はある程度決めてある。
藩王の軍は引き上げなければならない。現地における軍の維持の困難さと、ジャーヴァル国内での不穏な空気、それから魔都から始まる新旧派閥の混乱。何か明確で合理的な目的があって騒乱が起こるのならばまだ理解出来るが、己のお気持ちを伝えるために火薬に火を点け始めるんじゃないかという懸念がある。
「現在プントワク川上流側からこちらの別働軍がナームモンを包囲しに掛かっているという噂が広まっていますね。これに龍朝天政軍が介入して冊封下に入ったナームモン政権を解放しようと動いているという噂も流れて来ています。現魔神代理があちらの南覇巡撫と設定した中立地帯の維持にどれだけ配慮するかは我が軍からの直接の伝令はまだ到着していないので詳細は不明です」
トルボジャ峠始点の陽動作戦、思いもよらぬ大物が釣れてしまっている。あちらの言い分をラシージが送ってきてくれるはずだが、交渉の余地があるか? 伝令が往来している間に決着してしまうのか? 電信線はこのヤオまで繋がっていない。
「先帝陛下には不遜ながら、そこを突けば巻き返せる」
無理! タスーブ藩王は、紙面上ならばまだ理性的だが口を動かせば情動的とあちこちから聞いている。言葉をそのまま受け取ってはならない。
「ナームモンに来る龍朝軍はどのような場合においてもその爪の先です。それへの攻撃が大戦再開の端緒になることはあってもあちらの意志を砕くことにはなり得ません。宿敵であろうとまだ話し合いの段階です。現魔神代理の約束は生きております、でありまして……」
「戦を厭わないのではないのか!?」
落ち込んだと思いきや急な激昂。殴るのが手っ取り早いが、護衛には噂の宮廷格闘家がいる。ちょっと苦戦するかも。
藩王へ顔を近づける。余命の臭いはこれだと分かるぐらい。
「共同体同胞のために認めなさい」
敗北と失敗を認め、国内問題解決を優先し、不採算事業からは撤退する。
「既にこの地で得られる”威光”は尽きて、擦り減らしている。皇帝陛下も臣民揃っての帰還を望むでしょう」
タスーブ藩王、横になってこちらに痩せた背中を向けてしまった。不貞寝である。侍医から”お察しを”との視線を貰って退室する。
■■■
西プラブリーの中心地であるヤオ市。ジャーヴァル、タルメシャ両亜大陸の交流地点であり、ジャーヴァル系商人共同体による人種街がそこそこ見られる。ここには今、実質の南ジャーヴァルというと語弊がかなりある、パシャンダ兵とその家族が多数住居や宿を接収して暮らしている。北方ジャーヴァル人種とは明らかに違う、肌も黒くて言葉も身振り手振りも違う南方パシャンダ人種だ。
パシャンダ兵は昼間から酔っぱらって街の通りの中央を、横隊を組むように歩いている。若い女を見かければニヤついて声を掛けて馬鹿笑いをしている。
パシャンダ将校の家族と見られる”奥様”と使用人が市場で見られるが、買い物というよりは略奪の様相を呈している。商店から品物を籠に詰めながら、警備担当者に公然と賄賂を渡している。
パシャンダの神々を祀る寺院が建っており参拝者が見られる。ザシンダルの石油を焚かれる神像があってそこからは猛烈な黒煙が上がる。元はそこにあった祖猿廟を解体した後の廃材が建物間の小路に転がってそのまま。折れた木材の断面は既に雨風で浸食した後なので年月の経過が分かる。
表通りの一角ですら赤猿頭の”闘猿”賭博が行われ、ヤジやゴミを投げつけられながら二人の獣人が殴ったり噛みついたりして地べたで転がり回って、それを囲む観衆は酒と金に酔っぱらっている。
分かりやすい程にこの”パシャンダ軍”は士気が低い。現地人の恨みが骨髄に達していることも街を歩けば分かる。その割に憲兵による対軍人の治安維持活動もされておらず、市民は厳しく取り締まられて公開拷問は珍しくなく、しかし現地貴族の身形が綺麗なまま悠々と闊歩しているということは上流階級は甘い汁を啜りまくって腐敗していることも分かる。
ここからパシャンダ軍を逃がしてやるためには傀儡であるはずのヤオ軍を一度撃破してやる必要性も感じる。現状を憂う強い意志を持った勇者のような者が立ち上がり、士気の高い国民軍が生まれて復讐戦に移行する可能性が見えてくる。広場の絞首台には治安を乱したとして新しいのから腐ったものまで混じって吊るされている。
基本的にパシャンダ系軍人は話をする気にもなれない雰囲気に包まれている。お家を継げない者達ばかりが選ばれ、何年も故郷から離れ、大義も成果も失われたのではこうなることも不思議ではない。
意外と目立つ程度にロシエ系軍人がいて、彼等は規律を保っているように見える。革命騒動や冒険心、本国での人間関係に失敗したなどの理由でパシャンダ会社の大規模縮小後も退役――脱走、亡命含む――軍人が流れ着いて来ているのだ。親衛隊とまではいかないものの、タスーブ藩王子飼いの顧問団として存在感を放っている。有力パシャンダ人将校が先の大戦より多数死傷して脱落しているのでその穴を埋めている。
話が通じるのは主にロシエ系将校であり”タスーブ藩王は、昔は勇敢で機敏だったが病気で寝込んでからは悪い報告を聞くと怒ってばかりになった。少しでも政治的地位を得ようとパシャンダのお貴族ボンボン共は有ること無いこと、聞き心地の良い報告ばかりして、それを元に攻撃作戦が実行され、現場では作戦通りに進むわけがないので適当な被害者を見繕って襲って殺して首と略奪品――足りなければ横領品を混ぜて――を見せてぬか喜びばかりさせてきた。たまにタルメシャ軍に反撃されて死傷者が多数になったら隠して、奴隷市場から補充するか帳簿上のまま”という言葉から始まる愚痴を聞いている。現状に辟易して話を盛っているにしても良いところは一つも無かった。
愚痴や悪態はいくら聞いても糞にもならないが、タルメシャ全体にはエデルト、ロシエ製火器が複製もされながら広がっているという情報を得た。実際に武器市場にもそのもの物が出品されている。
猿頭の人間蔑視文化から西方人は恐くて軍事顧問としては誰も行きたがらないが武器だけは流していると分かる。銃身が曲がっているような中古から、実戦導入前に型落ちになった新古品まで多数、条を切っていない旧式から前装式施条銃砲まで多数。後装式の最新式小銃は弾薬が工業製品ということもあって大人の高級玩具といった具合に売られている。
龍朝がエデルト技術を導入した武器がこのタルメシャに多く流通しているという話なら素直に分かるが、遥々西方から最新ではない不用品が流れている。資金稼ぎ次いでの魔神代理領に対する嫌がらせだろうか。関税同盟戦争に介入した自分が批判するようなことではないが。
友軍を頼りにすればただ混乱する可能性が高く、敵タルメシャ軍は現地適応の作戦術と現代基準火力を持ち、有利な防衛側であるという前提でチャラケー攻めをしなくてはならない。
作戦会議にてこのことを纏めてから話した。
「腐敗した上流階級の下にいる、放っておけば勝手に生えて来ると思われている者達は恐ろしく安値で取引できます。彼等を被害担当の尖兵にします。彼等には新しい土地、畑を与えると約束しましょう」
我が軍の将官はやることは変わらないと確信を得ていたので安心である。
ゼオルギくんは人に喋らせる割りに表情も口も動かないが落ち着いたものである。生まれた時から特別命を狙われる内戦下にいただけに根性が座っているか?
隻眼のゲチク公が発言した。
「民兵の統制は取れますか? 言葉と文化の違いは相当ですが」
「最低でもヤオ反乱軍候補の殲滅が出来れば、チャラケー軍からの攻撃に対する防御で事足ります。裁兵ということです」
不穏分子の処分方法は数多あるだろうが、攻撃的な我々に適しているのは戦場へ連れ去って真っ先に突撃させて敵に殺させるというものだ。弱さは先祖と子孫への大罪だと分かる。
■■■
チャラケー破壊に向け現地の状況を把握しつつ作戦の最終調整を開始。
ヤオ義勇軍の編制と運用のための最低限の訓練を開始する。
積極的で攻勢的な軍事行動を起こすような雰囲気の中でパシャンダ軍は撤退作業を開始した。
西のアルジャーデュルを経由する後方連絡線には不安があり、対処しているが見通しが良いわけではない。
我が帝国連邦から繋がれる連絡線は、鉄道がハンナヘルで終了し、そこから通常の街道となって今までのように高速で膨大な量の物資を送ることが出来ていない。数多ある鉄道建設計画がそこまで追いついていない。
アルワザン、ジャラマガン、デュルガンの三地域の名前を取って最近一括りの固有名詞が付いたアルジャーデュル地方の一角、デュルガン国を経由して西プラブリー、このヤオへ至る街道はタスーブ藩王が元気な頃に神経質なまでに整備されていて快適。冬季でも氷雪や落石が壁を作って来春まで封鎖してしまう、というような惨状に陥らないように整備員が配置されていて、安心なことにこれはまだ腐らずに機能している。落ちぶれる前に組織が完成されていたので頭が麻痺状態に近くなっても自律稼働している。全く惜しい男を”亡くした”ものだ。
過去を振り返る。今年の秋にはデュルガン国のシャタデルパットへ我々は到着した。
イディル=アッジャール朝残党、イディルの孫に当たる若いデュルガン王は中々に非友好的な態度を取った。まずかの王の亡き父王と知り合いのシレンサルを先遣させて穏当な話し合いから始めようとしたがパシャンダ軍の悪評があってそこから躓いた。
ジャーヴァル帝国からは属領扱いされているデュルガンは比較的弱小で、直接的に反抗出来る力を持たない。その程度の国力の中、西プラブリーに駐留を長年続けるパシャンダ軍に対して多大な軍事支援を――勿論強要――続けて来ており、国内も疲弊の兆候があって正直に”面白くない””南の黒んぼ死ね”という感想が出て来たのだ。ゼオルギくんを臨席させるまでもなく、一字一句取り上げることはしないがそのような言動であったらしい。
帝国連邦としてはデュルガンに同情するようなところは何一つ無い。弱さが罪であるこの世界情勢で泣き言は放屁のように臭くて不快で汚らわしい。そのような弱者が、我々四か国遠征軍の増援として現れたことに対しては、ゼオルギくんを今度は臨席させたところで”お前等の面倒など見てられるか糞が”というような失言を大量に引き出すことに成功。教育的指導を行う名分を得る。
デュルガン宰相を筆頭とする者達から謝罪を受ける中、宮殿から竜跨隊に合図を出し、シャタデルパット郊外に配置した我がジュムガラ軍に包囲陣形を取らせて、非殺傷的に軍楽隊演奏、騎馬砲兵隊による空砲一斉射撃、竜跨隊による低空飛行演技で市民、家畜を大いに恐怖させた。
それでも素直にならないデュルガン王。近衛兵が周りに控えているので”一番強い奴誰だ”と言ったら一際身体のデカい奴が出て来たので”主君のために命を捧げられるか”と言ったら即答で”勿論”と言ったので背負い投げで倒し、アクファルに素手で生きたまま頭皮剥ぎつつ頭蓋骨を開放、露出した脳みその皺を指でなぞって卓上迷路遊びっぽいことを実行して行く末を占った。結果は”じゃーん”とだけ言って終わったので不明だが気持ちは表明出来た。即死せずに涙を流して歯を食い縛って耐えた近衛くんは後で剥き頭を魔術治療で治した。
更にシレンサルへデュルガンの玉座への請求権を持っている者は誰かと尋ねた。十名まで述べた後に被征服者である現地人首長達の名前を挙げた辺りでデュルガン王は降伏。デュルガン国を更に酷使出来る状況に持ち込んだ。
我がジュムガラ軍は機動力重視のため主要な砲兵隊は保持せず、全てトルボジャ軍のラシージに預けてしまって戦力に不安があった。これを現地調達で解決していく。
宮廷で何かを企まないようにデュルガン王を同国協力軍の指揮官に任命し、督戦隊としてキジズくんの骸騎兵隊を配置してアルジャーデュル保安軍を編制。総指揮はシレンサルに執らせて残るアルワザン国、ジャラマガン国を”保安”し”強い協力”を要請させに行かせる。
保安と協力、重視するのは保安。以前から機能はしているはずだが、西のキサール高原経由と南のジャーヴァル北東経由の補給線の状態も確認、維持させる目的がある。末期状態に近いパシャンダ軍の後方支援部隊とそれに応対する忠誠心の怪しい三国が様々な不正を働いている可能性が高いのだ。物資横領案件は想像しやすい。
更にもう一件、タスーブ藩王の弱体化に伴ってまた動きが怪しくなっているので女神党系藩王国の内情を把握するために情報員を派遣した。かつてそのジャーヴァル北東部で遊牧生活を営んでいたプラヌール族の者達だ。二十年越しの帰郷にもなる。これもアルジャーデュル保安軍の管轄にした。
もう一つ過去を振り返る。夏の内にルサレヤ先生からの手紙の配達が遠征先へ間に合った。読まなかった方が良かったかもしれない。敵か敵みたいな相手になら強気になれるが、問題というのはおこがましいか、何と言うか何ともならない。
ベリュデイン前大宰相の一期降任。自ら任期継続審議を申し出ることも無く、精神不安を自白してのこと。これを後押ししたのが何と、もしかしたらザラちゃんかもしれないというのがお父さんを苦しめる。
ザラからの手紙によれば”頑張った分はお休みしないとダメだよね”という内容だった。普通じゃない人に常識的なことを言ってしまったようである。泣いている青野郎をよしよし撫でる姿が見えて来る。糞、娘になんてことを! でも脳溢血でくたばるまで働かないといけない人物もいないことも無いよ、とは返事が出来なかった。これについては確信が無く感情的である。
自発的かどうかはともかく魔神代理領の政治伝統的には一期で大宰相を降りるということは無能や失敗の証明に近い。魔族の種を宿敵神聖教会と取引したという極大の醜聞がついて、その記憶が冷める前、熱いままということが特段に衝撃的。先の大戦で一応勝利宣言が出せたという実績が無ければ暗殺者が群れを成しただろうというぐらい。
色々と批判があって大損害を出したダーハル殿でも、本人の能力より情勢の変化が許さなかったというような”仕方が無いが”という雰囲気が強かった。今回はそれが無い。
汚い無能のベリュデイン、という評判だけで終わればあいつは糞だったと悪態を吐くだけで済むが、魔族大量誕生などという過激な成果を残しての引退が立った跡を濁す。
しかも反動的に魔導評議会元議長のバース=マザタール”先生”が後任というのが、本人には悪いが酷い。他に誰もいないから、お隠れになった二代目魔神代理と直接話してきた回数が多いからとか、ベリュデインの急進改革的な勢いに保守派が不満を強く持っていたからその制御のためにというような、熱湯と氷水を桶に汲んでで浴びせ合って丁度良い温度を探ろうとしているみたいな間抜けぶりである。
魔導評議会自体が偉大に過ぎる二代目魔神代理とその権威を補佐する組織で、御隠れにより組織改編が迫られていて縮小及び若手の採用という流れでバース先生が引退し、仕事が無くなったところで丁度良く大宰相の席が空いた、というような流れは重ねて酷いと言える。そんな軽い席ではない。
大宰相候補にはルサレヤ先生も挙がったが、先の、もう一つ先のアッジャール侵攻の時のような大被害をもたらした遊牧勢力の後継である帝国連邦を制御するという大役を降りるわけにはいかなかった。正直ルサレヤ先生以外の魔法長官が現れても言うこと聞きたくない感は強いのでそうなるかなとは思う。やっぱり俺達のババアである。
更に気になることだが、実質政争に負けて引退に追い込まれたような形になるベリュデイン元大宰相が面倒臭そうなことをやり始める気がしてならない。陰気臭さに比例して大人しく隠居するような人物ではあるまい。まず氷土大陸のグラストに帰郷するのだろうか? グラスト魔術使いを作っているような怪しげな遠隔地である。陰謀を準備するに丁度良さげである。
更に筆頭獣人奴隷のガジートも引退するのだろうか。昨今では引退奴隷が故郷で指導者に収まって周辺の未開蛮族を征服するというのが流行りである。
ガジートは南大陸の黒獅子ヴィラナン族の出である。その故地とグラストの地とは海路にて中距離直通くらいの距離感で遠過ぎるということはない……イバイヤース皇子に続く第二魔王になったりしないよな? 冗談にならない面をしていることを思い出してしまうが。
いっそウチで引き取るか? ルサレヤ先生の神通力と合わせて飼い馴らすのも手である。グラスト魔術戦団を借りている今の状況の解消が有り得てきているので手放さない理由が欲しくなってきているがしかし、引き取ればあの面を眺めて過ごすことになって……キッツいな。こっちがゲロ吐くぞ。
■■■
撤退と攻撃の準備が始まり、十日もせずトルボジャ軍による水陸共同作戦によるナームモン包囲と龍朝軍介入の三軍会敵の状況が伝わって来た。聞いたこともない大きな大砲の音だとか、大オオトカゲコウモリモドキが出たとか、実はプントワク川の上流は海に繋がっていただとか、小人王は地下世界から湧き出て来た地上世界を憎む悪霊だとか、何とも意外に観察眼のある噂が風に乗って来た。
そしてそのような噂が揃ったあたりでラシージが飛ばした竜跨隊による航空伝令が飛んで来た。口伝いの風より素早く現状を告げるものである。
内容は、龍朝軍の使者ヒナオキ・シゲヒロの言説を書き起こしたものにラシージが注釈入れてこちらの最終判断を請うものであった。
まとめると、まず前線指揮官たる特務巡撫の金蓮郡主は政的な場において原則的な物言いぐらいしか出来ないので交渉事はシゲヒロが代表して行うというもの。あいつ偉くなったな!
ナームモン市が龍朝天政の冊封下に入ったのは間違いの無い事実であり、小事とあってもこれを覆すことは大山を一歩分動かすような労血が支払われることとなり双方に益が無い。一度飲み込んだ主従関係を主から覆すことは天政論理上不可能であることも付け加えられる。吐いた唾は飲めないが、しかしその上で”良いように”調整したいとのこと。
現在ナームモン市は城壁、防御設備が破壊されて川を制御され、あとはトルボジャ軍突撃隊の突入によって陥落する直前という状態である。状況はこれからの決断一つで瞬間的に決着する。ラシージとシゲヒロが話し合って”良いような”折衷案は、ナームモン市突撃失敗の体を取ってからの、金蓮郡主の徳ある平和実現の勧告に従っての”反省した”トルボジャ軍の南方、ヤオへの”後退”である。
突撃失敗とは、市内戦力破壊後は占拠せずに退出することにある。この場における戦力破壊の定義は、突入時に抵抗する者の撃破と所持武器弾薬の喪失。ナームモン市の破壊と虐殺はパシャンダ軍撤退に必須ではなく、当該国が冊封下に入って安全が確保され、自領を聖域とした後に即時復讐戦へ移る力を実際に喪失させれば作戦目的が達成される。
勧告による”反省した”という体を取るのはこれもまた天政論理上必要なもので、子供の喧嘩を諫めた後のように水に流してお咎め無しという決着へ導けるものだそうだ。これは通常冊封国同士の紛争調停に使われる論法とのこと。
紛争調停となったら原状復帰するよう諫められた両軍は撤兵しなければならないわけだが、その方角は定められていない。常識的に考えて再戦しない方角、自領側へ退くことが当たり前で、そうであろうと望まれる。単純な解釈だとトルボジャ軍はそのやってきた方角、北方へ退かなくてはならないが、南方のヤオを自領と見做してそちらに”後退”しても問題無い。
加えて冊封下にはないチャラケー政権の自称タルメシャ帝国への侵害行為は天政下に無い化外の地での蛮族同士の争いであるため介入する論理も無く、”後退”中に退路から反れてそのような紛争が起きたとしても威光届く天の下は静謐のままなので良しとされるとのこと。
後は戦力が喪失した後のナームモン市に金蓮郡主軍が入城し、市民を保護して双方の目的が達成される。目立って非武装市民が殺戮、拷問、略奪されていなければ特段に目くじらを立てることは無い。戦って死ぬことが役目の兵士の、通常の死にざまは喧嘩で出来た傷として容認される。容認するかどうかは主が決定することで従に決定権は無いので横槍が無いことは保証される。
やや個人的なこととして、ヒナオキ・シゲヒロは海戦中に龍鯨という霊獣とほぼ相討ちになって瀕死で海中を漂っていたところ龍人により拉致される。この行為が無ければ落命していたので救助に等しい、とも。そして政府中枢外からは存在が霊的で宗教的である黒龍公主の仙術により脳髄を残し。人型を基本とするある種の龍とした”人龍”と化し、現在は同じ”人龍”である金蓮郡主の夫となり、ほぼ対等ながらその副官として任務に就いているという。
加えて二つ。一つは、シゲヒロ個人は帝国連邦やアマナにファスラ艦隊やファイード朝に敵対するような作戦には参加しないか、本件のように交渉役以上の務めは果たさないという約定を交わしているとのこと。
二つは、交配実験という始まりではあったが、可愛い異形の子供がいるとのことである。妻も”あれでも可愛いところがある”らしい。最後に惚気やがって!
相変わらずラシージはこちらが修正するところもない手紙を送って来る。可愛げがない、可愛い。
ラシージの判断を追認するとそのまま返書を出すか? いや、ここは現地を担当するタスーブ藩王の承認を確認する文書も添えるべきだ。
魔神代理領共同体において、先の大戦から続いてタルメシャ側に大きな責任を負っているのはジャーヴァル皇帝である。その皇帝からタルメシャ亜大陸部において全権を委任されているのはタスーブ藩王で、彼の了解が得られれば権威が欠けずに揃う。もし得られなければ現場判断として処理するが、だがやはり説得前提。我々は藩王の要請で出兵し、ここに在るのだ。
この準備中の数日で――自分がとどめを刺した感もあるが――更に老け込んで気弱になったタスーブ藩王に本件を尋ねれば「お任せする」と了解を得て、文書への署名を得る。藩王を自分が傀儡にしていないかと下手に疑われたくはないし、これからの攻撃と撤退がどう行われるかの再説明を兼ねてパシャンダ軍高官等にも説明して了解を得る。幸いであったのは帝国連邦総統の権威と権力と、この場に持って来た軍事力のおかげで面倒くさい横槍が無かったことか。一つ言われたことがあるとすれば「何も閣下がそのような、部下に任せれば良いことを」と言われたことか。
書類が揃ったので後は返事を送るだけ。ここまで速達でやってきた竜跨隊は疲労しているのでお休み。こちらからも速達で航空伝令を出さなければならない。
ここまでタスーブ藩王に署名までして貰って権威を揃えたのだから使者もそれなりの者にして体裁を整えるべきだろう。
「代わりにあいつの顔見て来てくれ」
「はい、お兄様」
それなりの使者の中で今、一番ふさわしいのはアクファル。総統直属秘書、血縁の妹。帝国連邦では秘書の肩書が外務省庁関係者を内包するので更にふさわしい
「もう外国の要人か何かだから”運試し”とかするなよ」
「ふーん、お兄様」
「おいこら」
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準備は整った。ラシージからの返事を待たずに行動開始。あちらで示し合わせが出来ているのなら確認をわざわざ取るような手間は不要。チャラケーのタルメシャ軍が属領兵を搔き集め切る前に動くべきだ。集めきったにせよ防御体制が盤石になる前に仕掛けたい。正確なあちらの状況が分からないのであれば速度が重要。
ヤオからチャラケーまで単純距離でハンナヘルからシャタデルパット間の半分かそれ以下である。結構近いのだがこれが雨季だと実質距離は同じかそれ以上になってしまう。
軍務省が立てた作戦計画が丁度エルバティア征討作戦を夏季に、パシャンダ軍救出作戦を冬季に実行するという理想的な状況に至らしめた。ラシージを馬鹿にするわけではないし今までの経験の積み上げがあるわけだが、ゼクラグが軍務長官になった以前と以後で、報告書の詳細を読んで理解するに兵員物資移送計画とその実行が格段に向上している。
それにしてもそんなことの成功の背景には前線と後方部隊双方の活躍があり、戦時動員されていない国民が負担を受け入れているおかげである。大体このような旨で軍務省は全国に広報を打っているわけだが、今更に良く実感する。こんな丁度に間に合ってしまって、何か運命力でも消費してしまっていないだろうか? そんな運で出来上がっているなどとは努力の積み重ねで物事を実現してきた者達に言えるわけもないのだが、自分の想像出来る範囲を越えて組織が動いてしまっていて実感が沸いていない。
この帝国連邦、自分が間違いなく作ったのだが途中から自己成長を始めて手が届かないような何かに変じた気がする。
チャラケーへの行軍の感想は、一言で荒廃。戦果水増し報告のためにパシャンダ軍が敵と見做した、タルメシャ帝国かその属国かそれすらも良く分からないような者達を殺戮、略奪して荒らした後を進まなくてはならない。
出会う住民は怯え切っているか、復讐に燃えて非正規兵と化しているかのどちらかだった。森林地帯を敵の聖域にしないよう、風向きを考慮して火災を起こしていく。乾季の空っ風が焦土を作っていった。
木々から草原から集落へ赤い影になった炎が黒ずみだけ残して進み、川に遮られても火の粉が飛んで火災が跳躍する。煙が横に広く流れて昼を暗くし灰を降ろし、鳥に獣が逃げ、恐怖も越えて呆然とする現地人が増え、焼けた土を風が巻き上げて埃を上げる。
我が軍は焦土に進む。褪せた跡を踏んで、かむ鼻が黒くなる。火傷した乞食を先導部隊が蹴飛ばす。
敵対勢力か中立勢力の所属かの看破は大変に面倒である。人の心はほぼ分からないように、昼は命乞いしながら夜には復讐に走って来る可能性がある。よって実行するのは東向きへの難民津波。進む方角が東でこちらに背を向けない者はまず敵。
目につく現地人は、全て服従か破滅かをその場で選ばせる。既にヤオ政権かパシャンダ軍に従属しているなどという言葉は聞く必要が無い。
抵抗と混乱という反応には破滅。女、子供、老人のような足弱は首だけにして重量軽減、作業の単純化のために後頭部を雑に破壊し、脳を抜いておおよそ顔だけ、生首ならぬ”生面”状にして――お椀のように重ねると輸送費用が下がって良い。頭一つは大きくて重たい――ヤオに送って現地人に恐怖と戦果をお届けして協力度を増進、パシャンダ軍への支援を忘れない。歩ける男は目玉を抉って東へ追い立てる。
服従したら尖兵とし、道中で度々必要となる現地勢力攻撃、主に都市突撃の先鋒を務めさせる。躊躇しているようだと苛烈な督戦を行って背中へ矢弾を浴びせる。
パシャンダ軍は行っていなかった土地や財産の分配を行って現地勢力の中から都市、村落単位での裏切りを誘発させようとした。エグセンで実行した時程には食いついて来なかった。専門の内務省軍部隊を連れて来ておらず、事前の現地調査から根回しから何からしていないからだ。所詮は他人の戦争だからそんなものだが、我々の戦い方としては落ち度として認められる。
現地での兵力調達の具合だが、全般的に混乱を混乱で混ぜ返した形になったのであまり効率的ではない。少々意外だったのはちゃんと毎日が飯が食えるということで個人単位での尖兵志願者はそこそこ多かったことである。現地の事情を考えれば飢え死にするか野盗になるかのような極限状態が散見されているので、その中でも最大最強の”盗賊軍”である我々に参加して生存を試みようというのは当然のことである。難民の洪水は”大賊軍”を生み出す原動力である。我々の流れに加わろうとしても不自然ではない。
”生面”を発案したハイバルくんはその量産活動に精を出している。エルバティア征討より首だの何だの、処刑人の一生分は切断してきただけあって手つきが洗練されている。彼の手下が処刑対象者を壁に押し付けて固定し、側面から斧を振り下ろして頭頂部から咽喉の方へ若干曲線を描く一撃で仮面を作る。他の者がやる姿を見れば首打ちから、台座に生首を置いて石で挟んで固定、側面割り、顎と喉を短刀で首から細かく筋切って切断と手間の掛かり方が違う。
ハイバルくんはヤオ出発後からお経を唱えっぱなしで涙も、喉も枯れて擦り切れて吐血。軍医から止められた後は鼻歌で何とかしている。例の兄弟子とやらが代わりに声を出しているがこちらは喉を傷める気配が無い。負担を掛けない読経を心得ているのだ。
ハイバルくんに「”生面”は良い発明だから軍務省に手柄だと報告しておいてやるぞ。えらい!」と褒めてやったら久し振りに笑い、何とか絞り出した声――文盲はこういう時に不便だ――を解析するに”苦悩と難題は別ということを悟ってきたと思う”とのこと。修行の成果が出て来たようだ。
■■■
「アクファルいなくてさみしいよー!」
野営地で料理中のナシュカの背中に抱き着いてみた。色々な食材や香辛料の生っぽいにおいがする。
「うるせぇ馬鹿、馬に抱き着け馬鹿」
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