第356話「転んでも」 アデロ=アンベル
フラルの冬は短く、雪も直ぐに消えて春になり、暖かくなってきた。
激動の事件があって新年を祝うどころではない。それで髭が伸びたが刃物厳禁で剃れず、良い男が台無しである。
今監禁されているその名も城塞修道院は大層頑丈で、飛行船から投下された爆弾の直撃を受けたがほぼ無傷だったそうだ。流石は不朽のエーラン凝固土製である。歴史が違う。
今いる部屋は座敷牢に近いだろうか。隠すところがないよう鉄格子と扉のみで廊下と仕切られているが、絨毯が床にも壁にもかけられていてそれほど寒くない。寝台は修道士が使うような粗末なものだが冬を越すのに苦労する代物ではないし、敷物を衣服と一緒に定期的に洗濯してくれる。
窓は銃眼としても使えないくらいに狭いが、日出没が分かる機能を果たしている。細い陽の筋が出来たらを顔へ当てに行く。
食事は日に二度、これまた粗食だが健康を害するような品目ではない。
お湯は一日に一度、洗面器一杯分がもらえる。水が流れないように口と顔と頭を洗って、残り湯で体を拭けば問題無い。
便所壺は三日に一度交換。臭い消しもくれる。
新聞を要求してみたがこれは叶っていない。
地下牢みたいな汚くて陰鬱なところではないのが救いだ。
面会は禁止で、検閲はあるが手紙を受け取れる。出すことは出来ない。
妻には戦死、見込みのない捕虜になった時の対処法を言い含めてある。銀行の貸金庫には資産譲渡の書類一式、離婚合意書を預けているので手続きを始めているとのこと。義父がいれば何とかなるだろう。
末娘からは”お父様が戻って来るまで結婚式挙げない”などと可愛い手紙。代筆でいいからそんなことは気にするな、と返事してくれと牢番には言ってみたが、沈黙の禁則を守っているような修道士なので話が通ったかどうか全く不明。
聖なる神を信奉する教会本庁がロシエ帝国に降伏した。条項は三つに分けられる。
一つ、ベルシア王国の単独降伏が認められた。後の布石でもあるのだろうか、ロシエのように破門はされない。
占領されたスコルタ島、スペッタ市、ロシエ・ベルシア合同軍の進軍地域には進駐軍も置かずに即時返還。これが講和即決の決め手だろう。革命的な虐殺はされていないらしい。
ベルシア王都トラストニエにあった槍と秘跡探究修道会騎士団本部は解体されないが無期活動自粛。彼等が今後どう活動していくかだが、エスナルに支部があるので内部の者にしか分からない。
ベルシアは聖都を守る盾であり、先の聖戦ではそれを実感させられた。それなのに徹底抗戦の構えを取ることもなかったのはおかしな話である。盾が裏返ると喉元に突き付けられた短剣に早変わりするのが戦略。だがこれを旧体制視点で見ると聖都を守る役目を頼りないベルシアからロシエに委任したような形なのでむしろ安心感がある。具合の程は不明だが密約かそれに近い交渉が見える。
この先自分がどうなるか分からない。衰弱死するまで監禁するのか処刑なのか公開処刑なのか毒入りの杯をくれるのかが分からない。
敗戦責任を取らされる。一国自己責任の戦争ならともかく、面子が否応に複雑に絡んで来る多国籍戦争になると責任問題が乗算で掛かって来る。一件に対して口が五つあれば責任五倍だ。傭兵なら契約通りに負けた時の条項を履行すれば良かったが、正規の軍人となると精神論的に罰が検討される。
罰の量を決める罪を数えよう。
エンブリオ枢機卿誘拐を許し、血塗れのスペッタ作戦失敗。重罪。
聖都爆撃阻止失敗。重罪。
ベルシア奪還作戦へ繋げずに降伏まで諸侯の内輪揉めに手足を取られて無策。重罪。
聖女の陰謀に敗北した無能。お馬鹿。
助かる見込みが無い。
エンブリオ枢機卿は見て分かるお飾りのお子様で、誰もあの子に責任有りなどとは思わない。罰の肩代わりしてくれるわけはないし、良識ある大人としてはさせる気もない。生存本能は……いやいや、理性が勝る。
敗北の言い訳としては聖都爆撃のせいで攻略を急かされたと言いたいが、うーん、軍人がして良い言い訳じゃないな。敵の新兵器が想定外だったんですぅ、なんて言って良いのは素人までだ。
爆撃と言えば天使が聖都を、信徒を絶望の淵から救ったという話がある。自分のところには救いに来てくれなかった。その代わりにやって来たのは悪魔より怖ろしい赤目のミラ・ギスケル卿。昔を思い出しても見ただけであの暴力騎士は怖かったが、敵対して見るともう逃げ足が動くだけで限界だった。黒い天使ハザクくんがいなかったら死んでいたが、結局死にそうである……翼が足りなかったか……そう言えば天使って異教の怪物だよな。何で聖なる教えに取り入れられたみたいになってるんだ?
天使、角馬、翼馬、鯨馬に狼男? 馬三種に関しては聖典というか聖人列伝にもあるような存在で骨格標本――真偽さておき――も残っているので良しとして、天使はサエルの天神教、狼男はベーアの民話である。明らかにおかしい。
神聖教会がおかしくなっている。派閥を割るようなことになりそうだが、その準備は出来ているというのか?
聖皇が休職代わりに”お山”で修行し直して来たという話は聞いたことがある。一体どこの山に行ってきたのだ? 聖なる神がいる御本山とかってあったっけ? 聖典丸暗記しているわけじゃないが記憶に無い。始祖の聖オトマクはエーランの帝都、聖都で活動した人物である。
■■■
牢番修道士以外に、久しぶりに面会者が現れた。少年のあどけなさが見えるエンブリオ枢機卿チタク・ダスティオ・ブレーメラ猊下である。
「懺悔をするならばお聞きします。私に出来ることはこれだけです。それから……これは見つからないようお早めに」
そう言ってチタク猊下が格子に恐れもなく手を入れ、差し出してきたのは飴玉だ。泣きそうだ。
「懺悔をします」
「はい」
聞く聖職者ごとに微妙に違う見解を聞かされてきたが、ようは心の不安の軽減、信徒の精神治療行為である。友人家族にも話せないことはあるものだが、守秘義務のある、他人事に聞いてくれる聖職者相手ならば打ち明けられることもある。
「私は無能である罪を犯しました。先見の明が無く、軍才が足りず謀略に気付けなかった。指揮する者としては恥ずべきことです」
正直にそう思っている。これを言えるような相手はいるか? 顔が、チタク猊下しか思い浮かばない。子供だぞ?
「……無能は私です」
「その若さでは仕方がありません」
こっちが聞いてどうするよ。
「聖女猊下は騙すだけの方ではありません。どちらに転んでも良いようにされます」
謀略と言ったのは癪に障ったか?
「諸侯軍が勝てば約束通りにフェルシッタを教導役にしたでしょう。負けたならば約束は反故にし、神聖公安軍で諸国を制圧して世俗軍を廃し、全て聖なる軍に統合します。もうその段階です」
「今、そうなっているのですか」
「外界の情報は……新聞でも持って来ればよかったですね。諸侯軍の留守に神聖公安軍が突入して全首都掌握しました。地方都市までは、まだ分かりません。フェルシッタのような還俗統領が治めている国では大きな紛争は無かったはずです」
元司教メチオ・エランブレの総督選挙準備が始まる頃にはもうこの国家統合計画は締め括りの段階に入っていただろうから……中央同盟戦争が始められた頃にはもう構想が練られていたと見て良いか。
計画自体は昔から怪しい雰囲気が常に漂っていたものの、我々フラルの諸国は麻痺していた。臭いには慣れる。それでも撃発時点で麻痺も解かれるが、郵便網は戦時を名目に教会が抑えられるので情報封鎖は強固。例え事件が伝わっても聖戦軍指揮下の軍を動かすことは容易ではないし、勝手に動かしても街道を無断で通ることは困難。強行突破しようにも移動のための補給物資は教会が抑えている。軍資金をやり取りする銀行も教会が抑えているので幾ら預金があっても引き出せないし使えない。反乱しようにも単独では弱く、他国軍は当てにならない。頑張って故郷に帰還しても神聖公安軍が家族を人質にして待ち構えている。助けてくれる外国勢力となればロシエ、帝国連邦……論外! 奇跡的に故郷を取り戻したとしても今度はウルロン山脈を越えて別の聖戦軍がやってくる。その前に教会側についた他の軍に攻められる。
完全に詰んでいた。どうにもならない。中央同盟戦争に続いて二度目、聖なる革命が成された。ああ、何でこんなことに! と嘆くのは十年遅い。
十年前か。あの頃は若かった。ヒルドとかあの糞妖精はどこに行ったんだろうな。西ユバールか? 今じゃ戦場に妖精の傭兵に娼婦なんて見ることもない。世界は変わったんだなぁ。
「……私を恨んでおられますか」
年寄り臭く物思いに耽っていたら、機嫌を損ねたと思われたようだ
「エンブリオ枢機卿のお役目通りかと」
旗は立てられるもので、自立するものではない。奪われるのは旗手の責任だ。
「私は、聖女猊下にここへ行くよう言われてきました」
懺悔のため、なんて気を回す女ではないな。もし回すとしたらもっと、義理人情が沸く間の相手だ。自分との間にそんなものは無い。
「このままお飾りになるか、覚悟を決めて聖将として修行に励むか選べということだと思います。あなたにこのような話をするのは筋違いかもしれませんが、私は覚悟を決めました」
自分を踏み台にして成長する覚悟を決めたと宣言するのはまあ、確かにそうだが……こう、何とも言えないところがある。
「一個人としてですが、若者が成長しようとする姿は好ましいと思います」
フェルシッタ将官としては黙ってろクソガキってところか? そんな下品なことは言わない。十年前なら言ってた? うーん、二十年前なら格子越しに胸倉掴んで言っていた。たぶん、その時代だとチタク猊下の親がまだ少年で、猊下もまだ金玉の中にもいない頃だ。
「フラルの弱兵などと呼ばれない聖戦軍にしたいと思います」
「そうなさって下さい。それが我がフェルシッタの守りにも繋がるのであれば陰ながら応援させて頂きます」
棺桶の、いや、無縁墓地の石の。
「約束は出来ませんが、努力はします」
言うことを聞かない、軍規も操典も装備も滅裂な諸侯軍の再編という難事は粛清により処置を終えるようだ。
フラル諸国は軍を取り上げられて事実上解体。これからは神聖公安軍が軍制改革を遂げて純粋な聖戦軍に生まれ変わるだろう。たぶん各騎士団もこれに吸収されて、部隊名に名残を残すような感じだ。
最初から指揮系統が一元化され、素直に言うこと聞く将兵ばかりの神聖公安軍から育てるほうが楽だし強い。当たり前だ。頭数の補充は、解体された軍の中から新兵からやり直しても良いと言う奴等が拾われるだろうか? 元からフェルシッタ軍なぞどこにも用事が無い。何故気付かなかった? 聖女におだてられて舞い上がったのだ。
エデルトは極東の大戦に軍事顧問を派遣しており、フェルシッタが経験したケチな田舎の小競り合いとは違う大規模戦争の軍事研究結果を得ていて比較にならない。
思い上がっていた。田舎の糞雑魚が何の夢を見ていたというのだ。聖戦軍での中核で指導役? アホか。聖女猊下のどう転んでも、という計画はもっと次元が上だ。最初から我々なんか消耗品と勘定されていた。
「死ぬ前に情勢をお聞きしたい。何も分からないままは流石にご免です」
「バルマン王国がロシエ帝国傘下に入ると宣言しました。ヴィスタルム王はそのまま在位されます」
ヴィスタルム・ガンドラコはまだ若いと言えば若い。同い年と言わないが、近いくらい。王子が亡命で継承する男子がいないとか聞いたが、まだ役に立つ歳だろう。それに外国在住の王は珍しいかもしれないが史上例はある。
「エデルト王国のドラグレク王が退位されます。病から政務困難という話ですが、ほぼ同時期なので真偽は置いておきましょう。これに伴うヴィルキレク王太子の即位宣言では、エデルトとセレードの王にしてザーンとユバール及び大ベーアの守護者を名乗られました」
「ベロベロ語のじゃなくて、ベーア人物語の?」
「はい、その大きな人種分類のベーアです」
「バルマンの宣言の後ですか」
「間違いなく後です」
ベーア系とされるのは大別してエデルト、ランマルカ、バルマン、エグセン人。ザーン人は微妙だが大体同じ部類。
エデルト人は中央同盟戦争で南エデルト人が併合されて統一。
ランマルカ人は革命虐殺からの亡命で既にエデルト領内を中心に大陸へ定着。新大陸移民は慮外で良いだろう。
バルマンはロシエ帝国下に入ったが、入った後の大ベーアの守護者宣言で、暗にそれを認めるという解釈が出来る。
ザーン人はロシエ革命時のどさくさにエデルトの属領民と化している。
問題のエグセン人は範囲が広い。
西と南は中央同盟戦争時に教会側、つまり聖女の手下となったのですんなりと保護下に入る土壌がある。
北と中央、あまり区別ないがこれは聖王直轄領のようなもの。素直にエデルト人に従う者達ではない。
東北のマインベルト王領は旧中央同盟を裏切って、今は帝国連邦と接近して教会とも反目する形になりつつあり、素直にエデルト人に従うかは疑問。
東南のブリェヘム王領などのヤガロ人の下にいるエグセン人は良く分からない。ヤガロ人も聖女の手下になっている者が多数いるが、筆頭のブリェヘム王は明確に聖王派。
酩酊女大公マリシア=ヤ-ナを聖王の座から下ろすのにはまだまだ手数がいる。ヴィルキレク聖王を名乗るにはもう一度中央同盟戦争が必要だろうが、今そんな余裕は無いと思う。
フラルとベーアにエデルト式装備と操典が導入される未来が良く見える。フラル人を教導するにあたり、ベロベロ語で行うより、我がフェルシッタが一旦訓練を受けてから仲介してやった方が障りが無いと思うが、そんなことは回りくどい。障りの部分は無垢な神聖公安軍に一本化することで解決された。
「チタク猊下、更に懺悔します。私は傲慢でした。我が軍ならば、私ならば後世にまで残る大業成し遂げられると思っておりました。傭兵に毛が生えた程度のくせに大軍を教導出来るなどと思いあがっていたのです」
「……あなたの心の負担は聖なる神が肩代わりしてくれることでしょう」
チタク猊下が聖なる種の形に指を切って、面会終了。
身の程って失敗する前にどうやれば弁えられるんだろうか。誰も教えてくれないようで、後から思い返すとそれらしい先人、友人、敵の言葉があるが、ただの感情任せの言葉のようにしか思えないし聞こえない。
飴は頂いた。毒入りでもいいかと思った。
■■■
外界の情報からほぼ途絶されている以上、起きる事件は突然である。これに狼狽えるようならば傭兵隊長は務まらない。敵と雇い主と競合他社に遠方で包囲されているのが日常だからだ。
騒ぐ声の後、荒々しく開け放たれる扉の音が段々と近づき、そして直接その音が壁を越さずに聞こえた。
現れたのは芋エグセンのゴツい騎士。平服姿なのに筋肉だけで鎧のようになっている兄弟ヤネス・ツェネンベルクである。顎もゴツくてケツになっている。あなた、そんな顎だったのかと注目してしまった。長くはないが監禁生活で少し呆けていたかもしれない。
「お助けします」
有無を言わさずその剛腕が格子扉の鍵を捩じ切って開錠してしまった。道具があれば破壊出来そうな程度の造りだったが、素手でもげるものではなかったはずだ。
「兄弟、お立場を失うだけで済まされませんよ」
「非道に囚われたのならばこちらも非道にてお助けする。あなたは最善を尽くし、あの勇敢な少年はその命を賭して守った。それを無に帰すなど納得出来ない。男の士道を失うくらいならばこの首不要です」
カッコいい。女だったら胸に飛び込んでいた。
修道の竜騎士、兄弟ヤネス・ツェネンベルクはどう見ても小細工を弄する人物ではない。
城塞修道院を出る時も、武装する修道士達に対して「道を開けよ兄弟!」と太い腕を振って退け退けと怒鳴るだけで裏取引の気配もない。
外に出ればこの事件は突発的であったか包囲も何もされておらず、甲冑飾りではない角が生えている重量種馬、隻眼の角馬が一頭待っていた。そして兄弟ヤネスに脇を抱え上げられ、子供のように乗せられてしまった。馬は背が広くて跨ると股が変だ。鐙に足が届かないし、踏ん張りが浮つく。鞍には剣と拳銃が下がっている。
「行き先はこいつが知っています」
自分はまだ逃げるとも何とも返事していないのにこの行動。迅速さを大事にするならば考える暇も与えないのが有効。あとは誰が手引きしているかだが……わざと脱走させてその咎で処刑? にしては大胆過ぎるし巻き込む人物は連座に惜しい。
疑問は証明される。外界の情報からほぼ途絶されている以上、起きる事件は突然である。
最初は窓から二階へ家具を運び入れるのに失敗したか、砲丸砲弾でも着弾したかと思った。屋根を飛び跳ね、道に着地したのは大聖女ヴァルキリカである。一番に判断も足も手も早い者は誰かとなれば、聖都一は彼女である。大柄なヤネスが子供に見える。
「後悔せぬのが男です」
兄弟ヤネスが角馬の尻を叩いて走り出させると同時、問答無用に聖女が振り上げる拳があのケツ顎を捉えて吹っ飛ばして空中縦回転、道を転がる……人間ってあんな動き出来るのか?
角馬の走り出しは猛烈だった。脆くなっている石畳など割ってしまう力強さで、途轍もなく早く、馬と思えぬ吠え声で進路上の人間に警告して道を開く。
背後、聖女が腕を振り長い脚を振り、跳んで走って追って来る。あちらも人間とは思えない踏み込みの足音から、脆くない石畳すらも割っている。並の馬ならもう捕まっている。
鞍には剣と拳銃が下がっている。鉛弾が通用する生物ではないだろう。ならば……剣で手首を切って銃口に血を詰め、聖女の顔へ発射。目潰し、失敗! 手で防がれた。小便……いや、流石にそんなことは自分には出来ない。
剣を投げる? 掴まれて投げ返されて死にそうだ。
角馬は港に向かっており、早いのでそう思った時にはもう海が見えて港について、揚げられた積み荷を飛び越して助走も十分に、船を目掛けて飛んで乗り込み、着艦の勢いで甲板を馬蹄でぶち抜いた。
行き止まり。これで終わりかと思って岸壁を見やれば、足を止めて踏ん張り制動する聖女の姿だ。
何事であろうかと船の様子を見れば、聖女に向かって恭しく礼をしているのはメルカプール狐であり、掲げた商船旗は帝国連邦の物だった。船上は治外法権である。
自分と角馬の着艦前から出港作業が始まっており、後はもやい綱を離して帆を張るだけだが、その綱は船員が手斧で切断した。岸壁の港湾員の手を借りなかった。
角馬は甲板を走って加速し、仕事は済んだと岸壁に戻った。流石の聖女も馬相手に拳は振り上げない……と思ったら、喉輪にぶち当てて引っ繰り返した。デカい聖女の五倍以上は体重がありそうな重量種を片手で。
「間に合いましたね」
胡散臭い狐野郎の顔は見分けがつかないのでマフルーンか怪しかったが、本人だ。担当地域が違うので別人かと思った。
「部下達はどうなったか知っていますか?」
「希望者は別経路で来て、いえ、戻って頂く予定です。流石に内陸への影響力は限られますが」
「ということは、南大陸行き」
「そうです」
「あなたは南大陸担当と記憶していますが、わざわざこちらまで?」
「これは偶然です。別件で大事な商談があったのでこちらまで来ておりました。事に合わせて出港日時は少し遅らせましたが常識の範囲内です」
運命とでも言うのか。しかし国際運航船と鉢合わせるのは巡り合わせ以外の何物でもない。
船が聖都を離れていく。自由の中大洋へ風に押される。
「あちらが捨てるのであればこちらで拾わせて頂きました。あなたは良く成しました。あのハシュラル川での決戦の後、黒鱗朝は分裂して続々と北部同盟に帰参を始めて最早”北”ではなくなってきております。英雄の帰還をどれほどの者達が待っているか、想像出来るでしょうか。英雄とは大戦の後に邪魔者とされますが、かの地ではまだまだ脅威に晒されております。必要とされる人物がどんな方なのか、お分かりでしょう」
用の済んだゴミだったのが一転、必要とされる英雄? 話が出来すぎだ。でも、それだけのことはしてきた、はずだ。
自信を取り戻せ。ちょっと冬の寒さに頭をやられ、虐められて悲観的になっていただけだ。
命は懸けるが命を捨てる気なんて糞も無いぞ。生贄になる気などない。
南大陸のあの輝ける辺境はどうだ? 真に自分が必要とされている場所だ。偽りなく、確信出来る。手にあった感触は本物だ。むしろこっちの大陸が偽物。
転んでもただで起きてはいけない。泣くも笑うも首が繋がってさえいればの話だ。
「……ですが外交問題に。どうされるんですか?」
「あらゆる事態が想定されます。私の首を送る、から、恥ずかしいから無かったことにする、まで色々です。一つ言えるのはこの機を逃せば手に入らない買い物が出来ました」
「博打」
「そう、黒い奥様、御懐妊されたそうで。到着する頃には生まれているでしょう。男の子だといいですね」
身柄を買った後に心も買うわけだ。人材には忠誠心が無ければ価値が低い。逆にそれがあるなら自爆的な無能でなければ使い道があるというもの。
「しかしどうやってこの企みを?」
「ご紹介しましょう」
マフルーンの耳が少し動く。ちょっと待てば船内から小奇麗な恰好をした可憐な女性が出て来た。シュっとしている。
「お美しい貴女は?」
髭を剃ってお会いしたかった。
「これは初めましてアデロ=アンベル様。私、兄弟ヤネス・ツェネンベルクの知り合いですの。あなたの居場所を教えたら身を捨てて動いてくれましたわ。お熱いですよねぇ」
「彼は男でした」
後から名を尋ねたが彼女は「うふふ」と答えなかった。姉と見られる人物も同様。諜報員か。
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