第346話「家に帰る」 アデロ=アンベル

 ハシュラル川を下り、北側河口都市ダンマリマからスライフィール海に出て北上。大陸海峡を抜けて中大洋へ入り、アソリウス島に寄港して補給と休暇。

 島では流刑のように移民させられたと言われるエデルトの人狼兵――法的権利を剥奪される人狼刑とはまた別――にウチの金髪の若い奴が頭の皮を剥がれて儀式殺人に至る事件が発生。島嶼伯でセレード人のヤヌシュフ・ベラスコイ卿に抗議と賠償を求めた結果、即座に犯人を島嶼伯手ずから首輪をつけて、縄で引きずって連れて来た。私刑にしろとのことである。

 だがしかしその犯人は全裸姿で、首輪が嵌められた首は脂肪や筋肉が見えるほどの”擦り傷”で、背中には”僕は雌犬です。尻を攻めて下さい”と焼き印が押され、歯が抜かれた上で口輪が嵌められ、苦し気に定期的に吐血。手足は生爪ニ十個剥がされた上に指の全関節が逆曲げになった状態で革袋に包まれて紐で縛って固められ、去勢された上でその切除した男根が尾のように接着手術された姿だった。

 島嶼伯は笑いながら”島の雌犬がご迷惑をお掛けしました”と、尻の穴へ爪先が埋まる程蹴飛ばしてから引き渡してきたのである。賠償金だが”エデルト法に基づいた賠償額を腹に詰めてますので後で引き出しで下さい。直腸は縛ってあります”とのことだ。しかも、全く事件に関係の無い無傷の人狼兵も縛って連れて来て”遊び足りないようでしたらこの子もお使い下さい”と突き出して来たのでそれは断った。

 昔からセレード人は頭がイカれてるから捕虜になるくらいなら自決しろと言われて来た。噂の先走りかと若い頃は思っていて、昨今の帝国連邦の暴れ振りから本当なんだと思い、その現場を目の当たりにすると思考が麻痺してくる……喉に異物を押し込まれた傷が原因での吐血で失血死した後に船医に腹を裂かせたら胃から防水布に固く包まれた賠償金が出て来た。報復の拷問はやる気も起きなかった。我々は文明人である。

 寄港中は陸の宿に泊まりたがる皆が今回だけは安心出来る船を選んだ後に、予定を切り上げて早めに出港。それから嵐に遭遇してクロトネ島に避泊した。

 嵐に揺られた船に故障が見られ、整備に入らなければ危険ということでしばし待機になったが、島の乾船渠に空きが出るまで待たせられた。島の持ち主はペシュチュリア共和国であり、同じく避泊していたペシュチュリア船籍船が優先された。その船というのが岩礁に腹を擦って入港間際まで排水作業をしていたというのだから同情する。そうして待っている内にまた嵐が到来。今年は暖かいから南の風が強いとか、いやいやそれは違うだのなんだのと神の名は呼ばずに神学論争を船乗りや修道僧がしていた。

 とにかく予定日より一月遅れで北大陸に帰港。そこから歩いて内陸の、懐かしのフェルシッタ市へ、家へ帰る。

 もう暦上の季節はもう冬になっていて、記念行事と同時に総督府へ渡すはずだった投票箱だが、受け取りを拒否された。期日は投票箱の帰還を持ってという決まりだったが、余りに遅く、冬支度で忙しくなるということでもう開票されてしまっていたのだ。実質の任期延長とその前例を作ることを防ぐためである。

 結果は義父の敗北。我々フェルシッタ傭兵団全員が義父に投票したとしても負けになるぐらいに票差があったが、それは仕方が無い。受け取りの拒否に腹が立つのだ。

 敗北は認めよう。それが民主主義の在り方だ。ただ我々の意志を無視しているのが気に入らない。我々の投票分を開票し、再度合わせて広報すべきなのだ。敗北は敗北でもどう敗北したかは重要だ。接戦か大差かで意味が違ってくる。

 自分も怒ったが、それより部下達の怒りようが、この頭に昇った血を冷やすのに十分なほどで、新総督へ活動報告を提出する前に一旦広場に集めた。

「南大陸遠征に出た我々傭兵団の投票受け取り拒否に対する抗議は長である自分が代表して行う。だから諸君等は騒乱など引き起こしてはいけない。これは命令である。規律ある団の一員としての振る舞いを忘れてはならない。投票権のある男子としての怒りは当然だが、それはそのまま持って外に吐き出してはならない。我々は暴徒でもなければ野蛮人でもない。文明人であり、誇り高きフェルシッタ市民である。であるならば節度を持って行動するように。もしこの一件、そしてこの一件以外に関わらず問題が起これば即座に憲兵隊へ通報し、事情を詳らかに報告するように。我々は法に従い、不正をせず、不正を許さないのだ。以上」

 これがまず新総督に対する正しい抗議の一つ目だ。市民達からは拍手と口笛を貰う。

 広場には人が集まり、耳目が集まる。そこで大々的に厳重な規律の維持を名目に集会を行い、市民に我々の正しい姿勢を見せる。見られているとも隊員に自覚させる。そして噂に上らせて新聞に書かせる。隊員達にも市民達にもこの一件で喧嘩などしないようにと釘を刺した。

 新政権発足から面子を潰しに掛ったのは確かに問題だが、我々は犬ではないのだ。法の下に自由な権利を持つ正統な市民である。それに総督は代わったが議員が代わったわけではない。四年に一度の総督選挙の二年後には、四年に一度の議員選挙がある。敗者側は次の選挙で勝利を狙いに動くのが義務である。そうでなければ投票した市民に義理が立たない。

 それに、次の総督が誰なのかということもある。人は物語が好きで、義父の仇討ちをする娘婿という図式が何とも収まりが良い。それも勝者側に卑劣な感じが纏えば、まず敗者側は次こそ絶対勝ってやるぞと復讐を決意するのだ。これからの振る舞い次第だが、まず負けた分の票数、岩盤層として貰うぞ。

 政治活動の後、総督府へ赴いて新総督にフェルシッタ傭兵団の活動報告書類を提出した。

 新総督はメチオ・エランブレという元司教で、今回の選挙のために還俗してきた人物。突然降ってわいた人物ではなく、フェルシッタ出身の市民で、人事異動で故郷を離れることもあったがついこの間までフェルシッタ司教を務めていた間違いのない地元名士である。友達というほどの知り合いではないが知っている。南大陸派遣前には祝福に聖水も掛けて頂いた。

 今回の選挙は貴族対聖職者という図式になっていた。聖女ヴァルキリカによる中央同盟戦争勝利以来、聖職者、アタナクト聖法教会派の伸長は凄まじく、出るどころか貴族達の心臓に打ち込まれる杭だった。強化された教会権威と、目に見えてその辺で活動している神聖公安軍という半修道的憲兵軍――修道自体が聖俗の中間だが――の武力が物を言い、逆らえる状況下ではない。選挙に当たっては教会が後ろについた正しい協力、賄賂、間接的合法的脅迫、直接的脅迫と色々あり、老いて頼りなさが見えてきた義父が勝てる筋道は無かっただろう。そこは問題ではない。

「反乱は起こさないと信じておりました」

 エランブレ新総督、香臭さの抜けぬ顔で言いやがる。

「中大洋の南端に届く程の器があれば当然です」

「不本意ながら。そうせよとのお達しです」

 あえてそう言って、教会を共通の敵に見立てて味方につける心算か? 所詮は末端の中間管理職ということで彼を責めても腹いせになるかどうかだが。

「昨今の情勢、御存じでしょうか?」

「旧西バルリーに条約を破って集結した帝国連邦軍がブリェヘム王国の国境要塞を、国境外から砲撃して破壊。死者十三名、負傷者二十名。注目すべき点はイリサヤルから鉄道で運ばれてきた砲兵が、モルル川と同じ長さの距離を三日も経たずに移動してそれを行ったとの宣伝」

 砲兵隊の積み込みと移送と積み降ろしと砲兵陣地への展開作業全てを合わせて三日という話だ。嘘のような本当だろう。

「同地にイスタメル人が少なくとも三万人以上が移住」

 勿論武装して、である。砲撃を行った軍が何らかの譲歩を教会から引き出して撤兵したとしても武装移民がいなくなるわけではない。

「包囲されたピャズルダ市民五万が人質で安否不明。これは教会が帝国連邦への傭兵代金の支払いが始まるまで危機が続きます」

 元は交渉や交易のための中立地帯として独立が許されたピャズルダ市がこんな形で利用されようとは当初、誰が考えていただろうか。同じ都市国家としてその運命は無視出来るものではない。

「マインベルト王国が好景気、帝国連邦製の鉄道が近々接続する予定と見られる」

 軍事的圧力をかけると同時に、教会側勢力の切り崩しに掛っている。硬軟合わせるのが政策の鉄則だろうが、こうも劇的だと、多少現場から離れた位置にいても不安感が拭えない。

「バルマン西国境沿いにロシエ軍が徐々に集結。その最中にダンファレル王太子が卑賎結婚をした上にランマルカへ駆け落ち亡命したとの醜聞。それが本当なら継承者はバルマン王の娘である、エデルトのヴィルキレクの夫人になる可能性があり、引いてはその息子となる可能性もある」

 この一件があって動きがあるのは確かだろうが、元の”親”であるロシエにつくか、継承者基準でエデルトそして教会につくかが分からない。バルマン貴族法では女領主は合法だが、他家に嫁いだ女が女王になれるかどうかまでは分からない。ガンドラコ家の男子死亡率が高すぎてまともな男子継承者がいないことは有名で知っている。それから王朝が代わっても議会が方針を一切変えない可能性もあって、とにかく当事者でなければ分からないことだらけだ。

「ユバールは変わらず紛争中。ハザーサイールのアレオン紛争も同様。聖なる神が祝福せし地は火の輪の中です」

「ご理解が深いようで助かります。緊急事態に対応するために対策が講じられることはお分かりですね」

 対策……対ロシエ戦で決定的に暴かれた教会の地方分権的で寄せ集めの脆弱な軍事力という弱点……傭兵稼業しか産業の無い中規模都市のフェルシッタにすら教会がわざわざ影響力を行使して支配権を拡充させている状況から見えるのは……国家再編。フラル地方でやるとしたらベルシア=ロベセダの王家主導が妥当か? エグセン地方は聖王領とその外にいる諸侯と分かれるがこっちは……最近騒いでいた大ベーア主義とやらからエデルトが統一ってところか。

「隊長殿には近く、会って頂きたい方がおります。暫くは市内に留まって頂きたい。くれぐれもよろしくお願いします」

「要求は」

「交渉の原則についてお話ししましょうか」

「いえ」

 力が釣り合って始めて、である。大聖女の”聖令”に逆らう力は各国には存在せず、フェルシッタも同様。牙は抜かれて久しい。

 何か具合悪いから高原とかで静養して来ていいかな。

「出家して戻ってきましたが、私だってあなた達の活躍に一喜一憂してきたフェルシッタの息子です。ですが時代が代わりました。せめて埋没せぬようにと考えています。さして産業も無いこの故郷。名誉だけでも無ければ」

 口では何とでも言える。

「もし我々が反乱を起こしたらどうしました?」

「伝記作家にでもなりましょう」


■■■


 総督府の次は、義父のストラニョーラ本家へ出向いた。

 出迎えの執事の「お帰りなさいませ」の声以前に、屋敷周りの人気の無さが選挙敗北を告げている。ただ有力議員の一人であることには未だ変わりがない。権力の葬式が終わった後は再起を図る会合が始まる、はずだ。

 義父に帰還の挨拶と手短な活動報告を終えると、こう切り出された。

「アデロ=アンベル、議員になれ。隊長の代理を決めなさい」

 これは自分も前から考えていたことだが、状況が変わった。

「エランブレ新総督から、後日会って頂きたいという要人がいるそうです。判断はそれから。それどころではないかもしれません」

「誰かは?」

「名は……やんごとなき、とのことのようで」

 義父が、一気に老け込んだように椅子の背に体重を預けて天井を見た。

「聖女猊下がいらっしゃるのだろうな。何をされても何の手も無い。詰んだな」

「国家統合、私は有り得ると考えますが」

「その一環、軍の統合でお前に一役買えと仰るだろう。もしその話が来たらだが、そうだな、判断はそれからにしよう。ああそうだ、議員を兼任でもいいか! 良し!」

 直ぐ若返った義父が立ち上がって、椅子の周りを歩きながら考え始めた。

「お義父様、気が早いですよ」

「早くない。制度が固まる前に特権を作れば、多少否定されようとも幾らか押通せるかもしれん」

「ああ、それもそうで」

「そこは任せておきなさい。まずは休んで、何を言われても理解出来るようにしておくように」

「はいお義父様」

 ああ、喜んでいいのか分からんな。義父が落ち込んでいるよりはいいが。


■■■


 挨拶回りも終わり、家に帰ると門前で出迎えがいない。さて?

 家まで連れて来たハザクが、もしかして強盗でも? と刀の柄に手を掛ける。

「そんなに治安は悪くないよ」

「では馘首すべきです」

「家は気軽なのが好きなんだ」

「失礼しました」

 扉を自分の手で開ければ、汗臭いというよりは生臭い美青年。軽騎兵のズボンを履き、上着と帽子は脱いである。留守中に妻が雇った使用人じゃないな。

「ストラニョーラ隊長、これは、お邪魔しております」

 湯気のにおい。女中は風呂を沸かしているようだ。さて、執事はどこか?

 ハザクが抜刀する。軽騎兵は外した刀の場所に目をやるが遠く、椅子を手にしようかと視線が動いた。

 クジャ人の流儀なら間男を切り殺して妻を殴ってから親元へ突き返し、親族一同から恥さらしと言われて穴に半分埋められた後に石打刑である。場合によるが、大体その流れ。礫地帯を駱駝で引っ張るとか、脇腹に鉤を引っ掛けて吊るすとか色々ある。見せしめにそこまでしないと次からあの一族からは嫁を取るなと噂が広まるので、残虐だが合理であったりする。

「ハザクくん、いいんだ。収めなさい」

「はい」

 階段を下る足音、遅くて重い?

「お客さん……?」

 誰だこいつ? 知らない男が執事の格好で降りて来た。

「ここの持ち主は誰かな」

「この家はアデロ=アン……旦那様で!?」

 あまり教育されてなさそうだな。

「君、新任だね。ああ、そうか。ハザクくんはまた抜かなくていいよ」

 感情を剥き出すのはジェーラの教育ではないので顔も変わらないし声も出さないが、何故この無礼な連中を殺してはいけないのかと収めた刀からハザクくんは手を離さない。主人を裏切っているとも判断出来るので馘首以上の罰もクジャ人なら妥当と考える。

 ぱたぱたと風呂の方から足音。聞き覚えがある。

「ご主人様、これはその……」

 歳は取ったがまだまだ動きが軽い女中。知り合いが一人でもいて良かった。それから女主人は着替えているのか部屋の中で混乱でもしているのか迎えの挨拶にも来ない。

「軽騎兵の君、名を何と言うのかね」

「サトラティニ・オッデ騎兵少尉、第十七軽騎兵中隊です」

 オッデ少尉、踵を合わせて堂々と答える。

「留守の間世話になったな。風呂には入って行きなさい。忘れ物はしないように」

「ありがとうございます」

 流石軽騎兵、肝が据わっている。

 女中に用意は? と首を傾けると「どうぞこちらへ」とオッデ少尉を風呂に連れて行った。

「君、娘のリエルテは?」

「えーと、一番下の娘っ子、あいえ……お嬢様は朝食った後に出掛けまして」

「何処へ?」

「若い女のすることは、ちょっと」

「まあいい」

 動向も把握していないのか。それにしても誰の紹介だ? そもそもこいつ本職か? 庭師じゃないだろうな。

「前は何の仕事をしていたのかね」

「俺はあの庭師で、もう一つ前は第六二歩兵大隊で曹長です。膝を割られてしまいまして、歩けるんですが」

 走れないか。

「出来ることをしていれば構わないよ」

「はい……」

 退役軍人の再就職支援経由か。まあ、家の窓が割れて無ければいいか。

「お茶を淹れてくれ。特に拘りはないよ」

「了解」

 曹長執事は軍隊風にやればいいと敬礼してから動き出した。その方が自然だな。

 座って待つ。ハザクは立って控える。

「ハザクくん、座って構わないよ」

「いえ」

 無理にくつろがせると疲れる教育だったか。好きにさせておくか。

 曹長がお茶を持って来た。飲む、まあ、野戦並ってところか。それからハザクくんに「坊主、林檎食うか?」と皮も剥かないで、袖で擦ってから渡そうとする。食べていいぞ顎でやってから受け取り、懐に入れて口を付けなかった。何というか、気の良いそこらのおっさんって感じだな。

「部屋の方は」

「あー、奥様? 了解、聞いて来ます」

「うん」

 ハザクがまた刀の柄を触り始めた。

「切りたいか」

「何故そのように穏やかでいられるのか分かりません」

「そうだな、私も昔は前総督の奥方様、義母のお相手をしていたものだ」

 ハザクくん、言葉を失う。目がギョロっとなって面白い。

 風呂から出たオッデ少尉にこっちに来て座れと手招き。躊躇い無く座った。

「複雑に考えなくてもいい。お茶やお話、それからお床のお相手。家に閉じ込められて何も出来ない方々の暇潰し、それだけではなく伝言から密偵から。見返りはお小遣いに、要職を持つ夫達への口利き。報酬と見返りがちゃんとある」

「女如きが密偵の真似ですか、何の仕事もしていないのに?」

「中には名目上夫が役職について、強力な助言役として働く御婦人もいる。あとは夫人同士の悪口合戦、まあこれがその真似事だが。ちゃんと需要があって供給があるものだ」

「変です」

「変だよ」

 ハザク少年、後ろ手に組んだ。

「どういったお話でしょうか」

「ああ、すまんな、魔神代理領の共通語は分からなかったな」

 今のハザクくんとの会話をざっと、改めてオッデ少尉にフラル語で話す。

「……隊長は、まさかそれで隊長に?」

 こいつやはり軽騎兵だな。臆しない。

「その前だ。隊長になった後に、まああの時の坊やなのね、と社交界で援護して貰った。結婚が決まったのもそれからだ」

「親子ですよ、喧嘩とかならなかったんですか?」

「分別ある付き合いだ。お義母様はそれが分かる方だった」

「興味深いです」

「どうしたいかを考える。その道の上にいる御婦人がいて、その方が愛を欲しい方だと駄目だ。感情で動いて計算が出来ない方だと心中を強要されるような、駆け落ちを自殺と引き替えに公衆の面前で迫るとか、そんな事態に陥る。最低限覚えておくべきことは失敗をしないこと。復活から再起を図ることも不可能じゃないがとんでもなく疲れる。それには執念が必要で、執念と化す程感情的になっている時点でもう初心を忘れている。運が良ければ行動が実を結んで成功出来るくらいに考えておかないといけない。確率をわずかに上げるだけ、絶対ではない。それで成功出来ると思い込んだらもう終わりだろう。危険を楽しみたいなら別だが」

「なるほど。先輩って呼んでいいですかね」

「構わんよ。ただな、教会にまでは手が回っていなくてこの様だからな」

「教会? 新総督の選挙ですか」

「女子修道院に手を出す方法は無くはないんだが、今回みたいな選挙を左右するまでの影響行使はな。今回の場合は第十六聖女猊下を落すような超級絶技が必要だったが、性別はともかく聖女様の役は完全に”男の中の男”だからどうにもならんし、やはり女子修道院の影響力如きじゃどうにもならなかった。道の上に弁えた院長様がいて落した後でも。だから苦労しても万能鍵が得られるわけでもない」

「それは確かに。ちなみに女子修道院って出来るんですか?」

「これは時勢が絡む。次期院長が誰になるかを予測しないといけない。院長が引退する時期なのが最低条件。この時点で十年に一度あれば良いほう。それから修道院に多大な貢献があり、夫に先立たれた後にその道に進む人、それから相続すべき相手がいないか既に出家して継がせられないとか、細かい条件を備えた候補者になりそうなお方に繋がりを作ることだ。これはいくら腕があっても運が絡む。金で地位が買えるような修道院を選ぶ必要もある。説明し切れんな、とにかく狙ってやるもんじゃない。ただ事前に論理を弁えておかないとその運が降って来ても気付けないから掴めない。まあ、修道誓約をしていてもお茶やお話が出来ないわけではないから、そういう場に出入り出来る立場を掴むのが現実的。ただ、流しの男が院長様と、となると、難し過ぎるな。誘惑出来るか賭けで挑む馬鹿はいるもんだが……」

 修道院落としは流石に馬鹿話過ぎるから止めよう。

「君は見てくれと騎兵服があるから素質はある。妻から何か、見返りは引き出せたか」

「交際費を、多額ではないですよ」

「構わん。出世の口利きなどは?」

「将来の展望を語ったところまでで」

「望んでいるか?」

「鉄砲玉の平騎兵で終わる気はありません」

「妻の紹介で他の、出世に乗れるようなお方のお相手は?」

「そこまでは考えつきません。いえ、出来るんですか?」

「自分の妻だからこそ分からんと言ってしまうが、私は若い頃に出来た。出来る相手を選ぶべきだ」

「はい先輩」

「相手を見て、何もかも程度問題と言ったらそれまでだが、感情で加減を忘れると失敗することだけは覚えておくように。これは私の成功体験と、聞いた話を合わせたことだ。最善かどうかは保証しないぞ。勘が働かない豚は貪っている内に殺される、働く狼は賢く立ち回るが、狩人に集団で狙われたら終わり。狩人も政権には適わない。だから失敗しないことだ。愛すると献じるは混同しないことが重要だ」

 うわぁ、先代隊長と同じこと言っているぞ。歳だなぁ。

「はい先輩」

「君は、私があそこでブチ切れて武器を出す人物かどうか、事前に分かっていたかな。黒い彼に首を落せと言うかどうか」

 ハザクくん、手を腹の前で組む。あれは直ぐに抜ける。

「……ええと」

「軽騎兵だなぁ」

「先輩は?」

「隊付き伝令出身だ。それだけじゃなくて斥候に、地図も書いたし、買い付けもやった」

「全く敵いません」

「やってみるか」

「え、いえ、是非!」

「団司令部へ転属願いを出したまえ。推薦しておく」

「ありがとうございます!」

 ただの鉄砲玉から上級士官への道が開いたのだ。出世したい奴なら喜ぶのも当然だ。

「まず、字は書けるのか?」

「それは問題ありません。地図は、分からないです。買い付けも」

「地図はしょうがないな。数学はどのくらい?」

「足し算引き算は出来ます」

 軽騎兵の割に学はあるほうか。

「最低でも素早く頭の中で十進数と各貨幣と単位での四則演算が出来ないと話にならん。度量衡は昔より大分統一されてきたがまだまだ、中央市場ならともかく地方は古いままだしな。それを商人、両替商は分かっている前提で喋って来るし、頭が回らんと分かれば騙して来ることもある。まともなところは信用があるからしないが、なめられることになるし、第一無礼極まるから絶対に駄目だ。たまたま旅先で会うような胡散臭い輩相手でも当然駄目だ。そして胡散臭い連中とも付き合わなきゃならんのが遠征だ。言葉が通じないから指折り、数字だけ地面に書き合って決めることもある」

「難しいですね……」

「これは慣れと勉強しかない。勉強は今からでも出来る。本屋で買いなさい」

 手鐘を鳴らす。

「はいご主人様」

 女中の方だ。良かった

「本屋に紹介状を送るから準備を。彼には一つ包みなさい」

「かしこまりました」

 オッデ少尉が、そこまでして貰ってどうしよう、という顔になっている。

 こういう強制を伴うような恩着せというか、やらなければならないという逼迫感こそが物を覚えるために必要な後ろ支えだ。ただ親に言われ、鞭を持った家庭教師に無理矢理犬の調教のように教え込まれても中々覚えられない。仕事とはいえ不倫の負い目だとか、そういうものも合わさると一層顕著。そういう意味では、妻に手を出した時点で才能があったとも言える。

 オッデ少尉が帰った後、ようやく妻が部屋から出て来て、ハザクくんの殺意塗れの目にたじろいでいた。

 彼女は年増になっても中々美人だが、昔からその気があった奴で今更驚かない。結婚直前まで恋人が二人くらいいた。それにしても太ったな。黒真珠の方はシュっとしてキュっとなっているんだが。まあ女ばかりとはいえ五人産んでから歳取ればこんなもんか。

「あなた、その、お帰りなさいませ」

「ああ。気にするな、私も向こうに現地妻がいる」

 何ですって!? と怒鳴りそうな顔に反応したハザクが刀の柄に手をかけ、彼女には言葉が通じていないが「閣下が寛容でよかったな」と。

 うーん、ジェーラ将軍の占い師が言った不幸ってこんな下らないことじゃないよな? 不幸なんか要らないからこれで済めばいいんだが。

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