第314話「山の妖怪」 セジン
龍元永平、閏調整の歳調節日時が各地の天文台から発表され、上天節に入った。一年で一番に暑いとされる上天初日は例年より暑い。
今年は始めから暑い。地域によりまちまちであるが、少なくとも朱西道の盆地一帯の低地部は例年以上に厳しく、老人、病人の死亡率が高いそうだ。
この地は汗が出ても直ぐに乾く……無駄に巨大な乳房と胸、尻の隙間はそうでもないが大っぴらに拭けないのが不快。だから日陰にいるのが良い。日傘でもと思ったが、炎天下を歩く――日よけ頭巾はしている――将兵の前ではそうもいかない。優雅な貴婦人気取りは戦場でやるものではない。兵等と同じように頭巾を巻いた。
我が……と言いたいところだが、龍行軍と西克軍の両将軍が保有する軍の統括者という、やや具体性に欠ける立場に自分は特務巡撫として着任した。これはサウ・エルゥ西克巡撫の発案で、今は合同演習を重ねて実戦に備えている。
西克軍司令はサウ・コーエン将軍。サウ・ツェンリーが旧ビジャン藩鎮に正規軍を入れた時からの歴戦。サウ家分家筋で元は縁故採用であったろうが、積んだ戦果は信頼に値しよう。
西克軍軍容。九千人編制の他軍より小規模な山岳師団が五個で約四万五千。全て高地適応した山岳、遊牧民で構成されて待遇が良く、食事も充実して顔色も良い。そして後方連絡線における業務は塞防軍の朱西軍集団に委託するので全兵力を前線へ展開可能である。
龍行軍司令はム・ヤン将軍。勿論のこと黒龍公主が選んだ男。操り人形のように命令を聞く類の家畜のような龍人ではなく、意思が明瞭に有る者、同類だ。旧エン朝でも将軍職にあった者で、龍朝に転じる際の武装蜂起の立役者でもあるそうだ。
龍行軍軍容。三百名編制の中隊が十個で約三千名。全て新式小銃の銃撃を考慮した甲冑を纏う龍甲兵である。また中隊の内一つは全て龍馬に乗る龍騎兵で構成。また各隊には駄獣にも盾にも出来る鉄亀、犬に代わる馴虎、そして伝令の虹雀が配備される。
ジン江南岸よりこの朱西道までの道は神秘の道のりであった。
まず龍行軍と共に龍信仰者の霊地である巨石の前に立ち、サウ・ツェンリーが会得した入道間口を拡大する方術にて、三千兵力と多くの霊獣を引き連れて龍道入りを果たす。
次に龍道へ入ったならば龍脈口と呼ばれる、修練を積まなければ見ることも出来ぬ入脈間口の前に立ち、また同じ要領で広げて龍脈入りを果たす。
入った龍脈だが、不思議そのものであった。
目は眩まぬが明瞭な赤い光を発して影を潰す、蠢くような流れるように見える赤黒い泥のような何かで出来た、全面が泥濘めいた沼の洞穴。混沌の腸であった。
不思議の沼は踏んでも地に足つく感覚を伝えず、手で掬えず、蹴り上げても爪先に乗らず飛び散らずに重さも感じない。発する音は全て吸い込まれ反響しない。そして龍人も龍馬も鉄亀も、その自重に関わりなく、沼は接触している物体を少しずつ飲み込んでいく。竿を試しに突き刺しねじ込んでも自然に沈む速さと変わらない。であるから飲まれぬためには休まず歩き続けなくてはいけない。
洞穴は分岐路が訪れるまで風景に変わり映えが無く、目が疲れておかしくなり、一時的に視力を喪失することもあり、更に時間感覚も失せる。肌感覚も湿っているか乾いているか温い寒いも分からない。あらゆる感覚を奪われ、ふと気を抜けば意識を奪われ、膝まで飲み込まれている程。龍人に霊獣でなければ気が狂う程の幽地の底を割った下に潜む何かであった。尋常の生物が歩む道ではない、正に龍脈。先導役のサウ・ツェンリーがいなければ自分でさえ気が狂うのではないかと思われた。
そして修練を積まねば同じく見ることも出来ぬ出口より脱出し、龍道に出て、そこからまた現実世界へと出るという手順を踏んで朱西道の道都ウェイド近郊、龍信仰の霊地である巨石前に出た。点呼を取れば、龍行軍内では動揺し易い性格だった馴虎を筆頭に、龍人からも行方不明者が多数出てしまった。これが尋常の軍隊であればどれほど損耗するか想像がつかない。
龍脈は危険であるが有用である。到着場所で日時を確認すれば一日しか経っていなかったのだ。これは世界が変わる。
サウ・ツェンリーの方術使いとしての腕前、真に天晴である。どのように頭の中で世界を解釈すればあのような術にたどり着けるのか全く見当もつかない。流行りの符術のような詩文一つで脳裏に情景を描けるものではないのだろう。
龍道、龍脈、双方絵として詳細に残そう。あれを描かぬは筆持つ者の名折れだ。印象で描いたのではなく写実に描いたと、邪道かもしれないが説明書きをしておいた方が良さそうだ。心象を描いた絵ではなく記録として残したい。昼は演習、夜は絵に勤しんだ。
ちなみに忙しいとは言え、ツェンリーは折角兄のエルゥがいるというのに挨拶もせずに帰ってしまった。やはりサウの家の者達は頭が変なのだろう。”サウも水車も同じく回る”だったか。ルオは何だったか? ”ルオの睾丸、石を割る”? 違うな。これは酒宴で聞いた悪い冗談だ。本物はそんなに面白くないはずだ。
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両軍の演習は繰り返し行われ、最低限の連携が成ったところでウェイドから出陣。準備は万端にと行きたいところだが、遅すぎると手遅れになる。ヒチャト回廊に築かれた堤防、溜められた大水は危険極まりない。一つの戦争如きでは発生しえないフォル江大氾濫の被害は常に、歴史に残されて悲惨を極めたとされる。
道中はサウ・エルゥの指示で、朱西軍集団が宿泊所から食事、飼葉まで用意を整えていたので快調。移動それ自体は快適であった。
その快適の中で不快な出来事があった。龍行軍が龍脈入りを果たした数日後に纏軍が叛旗を翻したというのだ。首魁はレン・ソルヒンで、軍名を天軍と改称し、己を天軍大元帥そして復古レン朝の天子、女帝を僭称。そして帝国連邦と結託し、ジン江以北を、沿岸部を除いて陥落させ、今は両金道へ攻め入り、反乱分子を焚き付け、そして以前からにわかに活動が確認されていた、別口でレン朝復古を目指している光復党軍と合流を目指しているとのこと。色々と気に入らないところはあるが、虹雀によって自分のところへその情報が真っ先に飛んで来なかったことが気に入らん。何も知らずに演習を見ていたことになる。
軍は自分が連携して叛旗を翻すとでも思ったか? 仮に復古を目指すにしても遊牧蛮族の手など借りぬ。奴等の傀儡になるくらいなら滅んだ方がマシだ。そうとは思われぬからこそ、このはしたない女の身体に黒龍公主が移し替えたのかと思い至る。
しかし、おのれ、サウツェンツェンめ。澄ました顔をして督戦するはずの纏軍に離反されているではないか。みっともない。もう少し龍道入りが遅かったら龍行軍にて賊軍の中枢へ致命の一撃を加えて頭を潰し、このような事態に陥らせなかったものを。
それにしてもソルヒンめ、帝国連邦の属国になってでもレン朝を復古させようなどとは正当天政を何と心得る。やるならあの約五千歳を暗殺してから王朝阿婆擦れを抱き込んで、とちゃんと段取りがあろうに。ルオ・シランならばババアが死んだ時点でこちらにつく。そして自分が即位すれば天下は一時的に収まり、シャンルとその世継ぎが出来たらこちらが退位すれば良いだけのこと。
加えて女のくせに皇帝、天子を僭称しようなどと身の程を知らん。女帝は前例にあり、院政で実質そのように振舞った歴史も過去にあるが全て悪政の時代とされている。歴史改ざんがあって実は善政凡政であったかもしれないが、そのような評価が固定されていて覆す方法が現在は無い。この時点で官民が疑心暗鬼となって政治が混乱する。客観的に見れば良い政治でも、民心が安らかならぬ時は悪政と見做される。度し難い人民の愚かしさではあるが、古来よりそうなのだから改善出来ぬのだろう。
基本的に天政内外にて政略結婚を行う際には、下位勢力の長の娘を差し出すのが習慣となっている。息子を差し出すことはあるがそれは人質としてであり融和的ではない。その息子が後継者であっても、後継者の予備であっても対立候補に使えるので何れも脅迫的。また女一人に複数の夫というのは伝統的に忌避される。そのような文化も有るが天政的ではなく評判が単純に良くない。これが新しい伝統だ、などと宣言して即日受け入れられるものは伝統ではないのだ。
今、ソルヒンが正式に女帝になったとしよう。しかし夫なる何者かに王朝を乗っ取られる可能性が高い。周囲もそれを望んでしまう可能性が男の場合より恐ろしく高いのだ。それが下手に、レン家の縁戚の者であったらどうだ? 実は自分はレン家の誰それの隠し子だ、身分や名前を偽っていたが、などと言い出したらどうだ。実力が伴った女帝の夫がそう言いだした時、止められる者は多くない。
ソルヒンは弟のシャンルを大層可愛がっていたように思えていたが、見捨てるとはどういうことだろう。元よりどうにでもなる立場だったとはいえ、更に処刑の大義名分を与えてしまったではないか。妥協案として宮刑などと言い出す者が現れてもおかしくはない。黒龍公主の胸先三寸であるとはいえ、政府の者達全てが口を揃えて極刑を、と唱えれば一考にされることは否定できない。あれは東王家最後の、皇族絶え、生き残った王族の中では最後の子を為せる男子である。まず彼を何とか生存させ、どうにかして妻を娶らせ後継者を作らせることが最優先である。
こういったことを直接ソルヒンに言えば、知っている、分かっているなどと答えよう。それは知っているだけで身についておらず、思想信条にまで反映されていないのだ。ううむ、教育がなっていない。戦乱でまともな教師に巡り合っていないのではないか? 巡撫の仕事が無ければ自分が指導するのだが。
どうしたものか? 次にヤンルーに戻ることがあって、シャンルの存命が確認出来たら……攫って送るか。しかし騎馬蛮族共の元に預けるも同然の行為になるな。反乱勢力が盤石な体制を築いたらとも思うが、それは難しい話だ。小娘一人が扇動した勢力など高が知れる。協力する者がいたらそれは腹に一物を抱えている。盤石からは程遠い。
不出来不勉強は平民ならば罪ではないが貴人には罪なのだぞ。
それにしても頭の中で叱咤するしかない自分も情けないな。この身が一つでは蛮族討滅とレン家護持など手に余る。
ええい、考えても両立する方法など分からん! オン・グジンがいればと思ったがあやつはアマナで対ランマルカの戦の最中だ。どうにもならん。
とにかく今はヒチャト回廊を攻めるべし。
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ヒチャト回廊東口へと軍は到達した。日射病で脱落する兵士が多かったが、療養が完了次第前線へ復帰出来るように手筈を整えておいた。
繰り返すようだが今年は暑い。回廊入り口は高地で焼ける暑さからは逃れたが日差しが強いように思える。山の者達は今年のお山は黒いと話し合っている。例年ならば凍結したままの冠雪が解け、岩肌がむき出しなのだ。低地では乾燥と熱で水分が蒸発していたようで察知し辛かったが、蒸発する前の、川の上流の勢いは春の雪解け程には激しくないが強めのままである。
この状態で堤防決壊などされたらどうなるか? それがどうなるか分からないところが苦しい。本当にヒチャト回廊東口でコショル川を捻じ曲げて溜めた大水を放水したらフォル江やその支流に乗るのかが分からないのだ。仮に乗っても途中で全て地面に吸われ、方々に川にもならず水溜まりを作るだけ作って干上がってお終いなのでは? とも思えて来る。この辺りは岩砂漠が続くのでそのまま滑って降りて来る気はしなくもない。また地面が過剰に地下水を含んで良からぬ現象が引き起こされることは可能性としては否定出来ない。そして、危険は少ないと放置を続けたら一体どれ程までに水を溜め続けるのかが知れたものではない。来年春の雪解け水まで貯水を続けたら流石に破滅的な大洪水が起こるのではとも予測される。これがまた再来年、いや終戦後もずっと脅迫的に貯水が続けられたらと考えれば早期に潰すべきだ。
ヒチャト回廊で高地戦を行うことを確認し、装備を整えて訓練を重ねた将兵を犠牲にする価値があると判断し、高級将校間で意志統一を図って迷いが無くなってから具体的に作戦行動に移す。民心ならぬ兵心も、安らかならぬ、死ぬ価値があると高らかにすべきなのだ。
朱西道軍集団が繰り返してヒチャト回廊へ攻撃を行い、失敗してきた教訓を生かす。回廊の底、進み易い道を馬鹿正直に進んでいては撃ち殺されるだけだ。敵の山羊頭獣人を中心にする優れた山岳師団は人ならば登攀も困難な場所、あらゆる高所に山砲陣地を築いており、そして敵部隊を迎えても最大射程では撃たず、身を潜めて十分に引き付けてから十字砲火を浴びせて来ることが分かっている。血気に逸らず忍耐強い敵ということだ。また単純に小銃、大砲の腕が良く、命中率が非常に高いと分かっている。これは強い。
まずこちらは、西克軍を回廊左右の高所だけではなく、底の正面にも配置して全面を抑える。ここは高地では怖ろしい程の大軍である四万五千という数を活かす。
龍行軍は西克軍を補佐する最低限の部隊を残し、片側の高所を集中的に攻める。確実に一翼を圧し折る。山高く谷深く、左右の連携は難いのだから一点集中。山砲陣地を潰していく。
一点集中のために残る片側と底の部隊は敵を拘束する程度に、本格攻撃はせずとも無視できない程度に陽動攻撃を続ける。被害は抑制するように、しかし弱みも見せず、敵が逆に見せたら攻撃する心算で行う。弱きを見透かされては陽動の意味が無い。血を流す覚悟は絶対に必要だ。ただし深追い厳禁。追っても高所攻めの前進位置まで。
全般的にここは既に敵地であると心得る。ヒチャト回廊は元々我々の領土だったから地の利はこちらにあるような気がするという雰囲気は捨てて挑むように指導。ここは敵の縄張り、敵の得意とする要塞。我々が知らぬ土地と心得るのだ。
忘れてならないのは我々の目的は敵山岳師団の撃退ではなく、貯水が終わる前に堤防を穏当に破壊して、水を緩やかに抜いて洪水の計を失敗させることにある。両軍にするべきこととしなくて良いことを示し、後は現場に任せた。これが今の自分の仕事だ。よもや最前線に赴いて武器を振ってなどと、するまい。
後は後方の野戦司令部にて各部隊の戦果を聞いて、指示を出す必要があれば――ほとんど無いが――出し、出す必要が無ければ激励するだけに止め、両軍間で諍いが発生しそうならば仲裁する。そして作戦が成功すれば「良くやった」と、失敗すれば「次に生かせ、もう一度だ」と言うだけである。細かい具体的な指示は両将軍が出すので、残る重大な仕事と言えば撤退の判断を仰がれた時に許可を出すことだけであろう。
戦いは全般的に、迎撃配置にいる敵が有利。射撃の腕も相当な差があり、兵器の差も顕著である。我が軍には山砲に相当する、比較的少人数で絶壁の上へ人力で運べるような非常に軽い大砲が無いのだ。代わりに拠点防衛や水上戦で使う狭間銃に火箭が配備されているが、敵が使う山砲と、威力は低いが速射可能な軽山砲相手には分が悪い。
敵は火器の有効射程距離限界――殺傷威力は保証されても命中率は、勿論のこと遠い程下がる――からでも命中させてくる。小銃だけではなく山砲でも狙撃してくる上に、山砲による曲射でさえ初弾から至近弾を撃ち込んで来る名人が多数いる程。何か詐術幻術でも使っていそうだが、それは単純に腕の差だと分析されている。彼等は歴戦であると同時に平時でも、戦時でさえも暇があれば実弾射撃訓練を重ねていることが調査で判明している。どこからそんな無限の火薬を調達しているかと言えば主にジャーヴァルが抱える豊富な硝石鉱山群。ルオ・シランが南洋経由で何れ――何十年計画か知らないが――絶つか妨害しようとしている。どうやるか知らないが十年前から進めてくれていれば良かったものを……まあ、それは無理だが。
不利を覆せずとも埋めるための山砲はサウ・エルゥが西克軍用に注文したそうだが発注したばかりという状態。威力と射程と山での運用を考慮した筒と砲弾の設計、製作は一朝一夕に出来ない。ただ小さく作れば良いわけではないのだから時間が掛かる。研究が必要で、工場で量産を始めるとなればそれ相応だ。
一方で、一点集中に片翼を圧し折りに行っている龍行軍は、予想以上に被害は大きいものの善戦を続けて山砲陣地を順次潰して前進中。片翼が圧し折られ、左右の高所での連携が崩壊したとなれば敵も、無事な片翼の陣地を敵中孤立の状態になる前に後退させる。
龍甲兵の武器は専用の強弓と槍であるが、今回は更に軽砲を持たせてある。断崖絶壁が続く山で使う大砲ではないのだが、龍人の怪力にて強引に悪地形でも軽快に運用し、敵山砲との対砲兵戦闘では火力と機動力の差で優越して互角に戦えている。
最も活躍しているのは龍騎兵。重装備の龍甲兵を乗せ、岩壁にあるわずかな足がかりでも踏み、跳ねて走って地形を無視するかのように疾駆する。その姿は馬というより羚羊であろうか。この騎兵突撃は強烈で、敵陣地へ飛び込んでは幾つも制圧した。龍馬は勇敢で獰猛、その牙で敵を噛み千切り、前と後ろの脚で蹴り潰し、銃弾を受けても平然としていて怪我の治りも早い。流石に砲弾、散弾を受ければ絶命するが、その間際まで苦しんだり暴れたりしないそうだ。
山の戦い、しかも難所ばかりを通って戦うと補給に苦労するが、そこは鉄亀の出番。こいつは鈍いので急襲を仕掛ける戦いには使えないのだが、どんな大重量物を背負っても平気で進む。平地だけではなく絶壁も、思いのほか強靭な爪で滑らかな岩肌を引っ掻き捉えて登ってしまう。また敵の逆襲が激しい時には盾に使える。砲弾が直撃しても死なない程だ。流石に痛いようで甲羅に手足、頭を引っ込めるが。
一番に活躍したのは中隊単位に配備した虹雀。龍人士官達が相互に緊密に連携し合って、敵が対応出来ないような広い範囲で合同作戦を、状況に対応して変化させながら実行することで成功させた。迅速な長距離、高速連絡は迂回、包囲、陽動、突破の組み合わせを凡将であっても名将のように行えてしまう。龍行軍内だけではなく、西克軍とも連絡を交わして陽動攻撃の時期を調整し、的確に敵を追い詰めて行った。新設された湖の堤防まで前進出来た。
今回は前線に立たぬことで、死傷者が後送されてくる光景を見る以外はあまり戦地の気がしなかった。ニビシュドラでの悲壮な撤退戦、アマナでの敵新兵器による大量殺戮、あれ等と比べるとどうものんびりしてしまう。下手に動いたり口を出せば両軍の邪魔になることは分かるのだがそわそわする。それから、やたらに男共がこちらの乳房に尻に視線を向けて来るのが気持ち悪い。下手糞な恋文を受け取った時は笑ってしまったが……気分を紛らわすために絵を描くような立場と状況でもない。ただ無駄に巨大な尻を椅子に置いて待っているだけなのだ。
人目を忍んで警備犬代わりの馴虎を手招きに呼び寄せ、顎を上げさせ喉を撫でてゴロロと鳴らす。うむ、虎画もいいな。この毛の質感を平面にではなく、奥行きまで完全再現して描いたならば革新的である。
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消耗を抑制するように戦った西克軍の損耗は、前進する過程で二千程度。龍行軍は陣地に対する強襲を繰り返してしまったせいで五百も消耗してしまったが、遂に堤防へと辿り着く。
堤防は岩盤の地形を利用した自然堤防と、その上に盛り上げた人造堤防の二つに分かれている。水嵩は自然堤防の五割を満たすか満たさぬかという程度であるが、これは貯水が始まったばかりでこの程度であるということだから依然として脅威のまま。
人造堤防は石を積んで造られていて、まだ完成には遠いようで隙間を埋めるような工事はされていない。冬に魔術を用いて氷で固めるのではないかと推測された。これを今破壊したところで意味は無い。破壊すべきは自然堤防、溜まる水を食い止めている人造湖の縁である。そこに縦長の切れ込みを入れ、緩やかに水を抜くか、溜まらないようにする。
この堤防の偵察結果が送られて来る前に懸念していた、回廊攻略軍に対する洪水攻撃はほぼ不可能と判断した。敵が行う大規模爆破の術で自然堤防を大きく削って土石流を発生させることも考えられたが、それは湖の水嵩が十割に達したら可能であろうと見積もられた。まだ遠い。
破壊手順だが、全面に西克軍を置いて敵正面全てを牽制する姿勢は変わらず維持する。敵は人造堤防を貯水するためだけではなく、防衛線としても構築しているので単純に攻撃することは困難。
これまでと同じく龍行軍による片翼突破を実行し、人造堤防線の側面を取る。ここまで来ると敵の防御がかなり固まっており、奪取するまでに更に四百の損害を出した。龍騎兵も通算で百騎失われた。敵は龍甲兵を緒戦で確認し、対策するために対重装甲兵器を持ち出して来ている。火炎放射器、喇叭銃に散弾ではなく大きな一粒弾を込めた物、南大陸にて象を撃つための大型狩猟銃、狭間銃、それから打撃爆雷という市街戦で扉を吹き飛ばすための爆弾付き棍棒である。捕虜にしたヒチャト兵から聞き出したそれらは大変に厄介で、これ以上の攻撃を躊躇わせるに十分だ。また毒瓦斯砲弾とそれを撃ち出す山砲ではない通常砲の輸送も砲兵と合わせて軽便鉄道で行われているということも判明。敵の兵力は増加中。
目的を忘れてはならない。
自然堤防破壊作戦を決行した。
全正面で西克軍に総攻撃を仕掛けさせる。龍行軍も側面を取った片翼の高所から攻める。
敵がそれぞれへの攻撃に手を焼いている隙に、集結させた鉄亀に爆薬を惜しまず搭載させて前進。確保した片翼側へ向かい、高所から支援を受けつつ自然堤防となる岩盤に龍人の怪力で、工具を使って全力で掘らせ、孔を穿っては爆薬を詰めて爆破して崩すことを繰り返す。工兵は下賤という風潮が天政には昔からあったが、エデルト軍事顧問団がそれを払拭。旧来なら騎兵以上の花形でお高く留まっていた龍人は、今や工兵としても戦えるように訓練されている。
そして遂に、激流ではないが、岩盤削りを繰り返した隙間から水が流れ出し、貯水妨害に成功し始めた。あとはそこから破孔を繰り返し広げて抜き続ける。
水漏れに気付いた敵は逆襲して来るかと思われたが防衛線の維持に努め、兵力の消耗を抑えることを優先して西克軍の総攻撃の迎撃に専念し、大量出血を強いた。
この破壊作戦における戦いで、西克軍の兵士が一日で三千以上の死傷者を出したところで士気の低下が始まり、これ以上の攻撃は不可能とサウ・コーエン将軍が判断したところで終了した。敵にも相当な損害を与えたが後退を強いるには及ばず、龍行軍も対装甲兵器によってまた百と失い、ム・ヤン将軍も龍行軍はこの作戦以外にも使うとのことで攻撃を諦めざるを得なくなった。予備兵力があって、敵戦線を強引に突き破って長距離追撃するような攻勢を行うわけではない。持久するために、敵が安易に攻撃を仕掛けられないような軍を維持する必要がある。
そこからは更なる陽動攻撃や、貯水妨害の破孔の拡張は行わず、対峙して防衛線を構築して敵に攻撃を、作業をさせない構えを取って水が流れ出るのを見守りつつ、別に進めていた地形調査に基づき、ヒチャト回廊内でも放水路を築いてその水をあちこちに分散させるように工夫する。工事を行うのは怪力の龍人である。龍甲兵ならぬ、龍工兵か。
計画通りではない流水は、岩の窪みを伝ってあちこちに流れ、中途半端な川と湖を作り、やがて強い日差しに乾いていった。コショル川を中心にする注水は常に行われているので流水は、当初の勢いを失うことはあっても止まることは無かった。もし止まることがあれば、それは敵が堤防の位置を一つ後ろに下げた時であろう。そのような大工事、一朝一夕に出来まいが、その時に備えなければならない。
堤防の部分的な破壊で敵の貯水計画を遅らせた。遅らせている間に回廊部にて我々が対策をしてしまう。洪水の直撃を受けるであろうルェン周辺部では朱西軍集団が放水路を構築し、仮に敵に予定通りの洪水を起こさせたとしても大被害に至らぬように対処している。時間が稼げれば稼げる程確実性が高まる。
単純な戦線の押し上げという意味では敗北的かもしれないが、洪水を防ぐという意味では成功、勝利だ。損害の規模から喜びの勝利とはいかないが。
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目的を達成し、両軍揃って堤防を兼ねる敵防御陣地と相対する防御陣地を固める。地面は岩盤で恐ろしく掘り難く、龍人がようやく溝を作れる程度。この周囲一切が岩というわけではないので砂や礫を集め、土嚢に詰めて重ねる。これらの作業を、昼夜通して敵の襲撃を警戒しながら行った。半永久的に守りを固めるわけではないが、地の利は未だに敵方に有り、将兵の不安は募る。夜泣きと言うべきか、不安が極限に達して叫び出す者もいる。
ある夜、上空が光った。見上げて確認すれば、落下傘が炎色反応等で輝いて眩い燃焼物体を吊り下げ、ゆっくり落ちていた。夜に起きて作業中だった者達も気づき、篝火の灯りの外にいた者達の顔も暗闇から浮かび上がる。
「照明弾! 全員伏せろ!」
勘の良い誰かが叫んだ。それから風を切った、この戦い始まって以来聞き慣れたはずの音に続き、遅れて砲声が回廊に反響した。着弾が始まる。
初めの内は防御陣地の手前に砲弾が落ちて炸裂していた。
時間が経つに連れて着弾地点が前進を始め、岩を掘った溝と土嚢を砕き始めた。警戒当番の部隊に被害が出る。
防御陣地がそこそこ破壊された後に砲撃が止む。照明弾の炎が落下傘に移って焼けて落ちた。
強がる兵が「下手糞だったな!」と笑う。釣られて他の者達も笑い始め、また風を切った砲弾の飛ぶ音が聞こえて伏せ出す。次の着弾は、防御陣地後方の野営地の中央。耳と鼻が良い者は直ぐに気付き、砲弾が炸裂する中、更に勇気があれば松明を取って倉庫へ走った。
「毒瓦斯! 毒がーす!」
防毒覆面は両軍で用意してある。ただ今日までヒチャト回廊で使用例が無かったため、防御陣地で当番についている者以外、手元に置いていない。
硫黄臭い毒瓦斯が野営地に広まる。それに苦しみながら防毒覆面を各自装着するが、混乱して暴れ出す、遂に毒効で倒れる者が現れる。龍人に霊獣は冷静に動いて対処するが人間はそうもいかない。訓練で概要は知っていても、実際に毒瓦斯攻撃を受けたのは初めてである者ばかり。加えて、爆発は通常の榴弾より弱いとはいえ、夜間に砲弾を浴びながらというのも初めてだろう。
高地の空気が薄い中、冷静に判断をすれば広域に降る毒瓦斯砲弾は量が少なく、回廊沿いに吹く、峡谷特有の強めの風が流して無毒化が始まる。砲撃中よりも死傷者の救助、整理の方が慌ただしくなった。
各隊より被害、警戒態勢を維持出来ている、敵の夜襲はまだ確認されていない、という報告が届き、兵士の補充の必要があれば両将軍が予備から抽出。
ここで兵士の一人が落下傘の焼けた照明弾を野戦司令部に持って来た。拾った場所は、野営地の中。つまり、風に多少流されたとはいえこちらの陣地に極めて近いところから打ち上げられた可能性があるということ。ただちに、猟犬でもある馴虎を放ち、近辺に潜伏している可能性がある敵を探り、狩りに行かせた。
少し経ち、無用に吠えることなど訓練された猟犬のようにしない馴虎が闇の向こう側から吠え出す。敵を発見したようで、そして獣の悲鳴にも変わる。爆発音も混じる。
更に経ち、馴虎の中には敵位置を把握し、矢を身体に立て、敵小人兵の死体を咥えて帰って来る個体が現れる。それに龍甲兵を率いらせて確実に狩らせる。
怪我をして帰って来る馴虎の中で矢傷、銃創というよりは散弾傷を受けた個体は、再度狩りには出ずにへたり込んで動かなくなる。致命傷には見えぬが次第に泡を吹き、身体を痙攣させ始めることから毒塗りと分かった。
小人兵の死体であるが、身体中に鉛弾が巻かれ、爆薬が仕込んであることも判明した。いざとなれば毒塗り散弾を散らして自爆するようだ。
今夜は長くなる。
単なる夜間砲撃ではないと陣地内に空気が伝わり、将兵が更に不安に駆られて来る。ある兵士が「ウートイマースー!」などと、民間伝承の妖怪? らしい名を錯乱状態で発し始めるなど、良からぬ雰囲気。それに釣られて各将兵も己の土地、山に伝わる怪物の伝承を話し合い始めたらしい。かなり良くない。
陣地全体が、お話し好きの女の集まりのように騒ぎ始めた。
出番であろう。野営地にある広場に設置した、演説用の演台に立つ。そして鼓手に連弾させて注目させる。
「鎮まれ! 無駄話を止めて作業に集中し、警戒を怠るな!」
思いのほか、男の時より声の通りが良かった。直ぐに静かにはならなかったが、正気を取り戻し、噂話の声が仕事の命令伝達にと塗り替わっていった。良し。
しばらく、お前らの仕事ぶりは見ているぞ、という姿勢を示すために演台の上に立ち続けることにした。護衛は傍付きの馴虎である。
演台を置く広場は野営地内の交通の中心なので目立つ。最高司令官が堂々と姿を現していれば将兵も恐慌状態に陥り辛い。実務担当のサウ・コーエン将軍、ム・ヤン将軍には忙しくて出来ない、偶像的な役割だ。
混乱した状態から、段々と将兵達が落ち着きを取り戻し、配置につき、無駄に動き回る者達が減り、落ち着きが取り戻される。再度砲撃が行われ、前線にて敵の襲撃が始まったと報告があっても初めのような慌ただしさは無くなった。
砲弾が降り注ぎ、榴散弾が上空で炸裂。鉛弾の雨の位置が自分の方に向かって来たので、慌てずに優雅に演台を下りて「冷静に戦え! 私は見ているぞ!」と言ってから後退。
自分は這い蹲る気などない。夜空に飛んだ砲弾を見ながら、歩いて下がる。演台が散弾を受けて木片を散らして削れた。
歩いて下がり、野営地の後方、非戦闘地域になっているようなところまで下がると「ウートイマースー!」と奇声を上げて走り回っている者がいた。こいつがお喋り騒動の発端か? 先に聞いた声と大体同じだ。そいつの襟首を掴んで止める。
「おい何を騒いでいるか」
と聞いても、天政官語の分からぬ山の人間なのであれこれ、良く分からぬ田舎の蛮族語でべろべろと答えるだけだ。聞き取れるのは、ウートイマースー?
「おいそこの、ウートイマースーとは何だ?」
「え? 分からないです。そいつはヒチャト人みたいですが」
近くを通りがかった士官に聞いたが駄目だった。
「知っていそうな者はいるか?」
少し気になる。
「うぎゃ」
「うん? お前、それが目上に対する返事か!」
叱った途端、横を何かが通り抜けた。ブオン、グオン、そのような風を切る音。砲弾?
その士官、いなくなった。いや、地面に腰から両断されて転がり、腸を撒いていた。
馴虎が緊張して跳び掛かりに構えた。掴まえた田舎者が腰に抱きついて胸に顔を埋めて「ウートイマースー!」と連呼し始めた。まるで怯えた子供。山の妖怪を前にしたようではないか。
何者かが野営の、天幕の間から進み出て来る。跳び掛かった馴虎が一撃で地面に伏された。大きな虎の頭が跡形も無い。
馴虎を一撃で屠った者、その鴉のごとき覆面の下の目が笑って、こちらを指差し、間抜けそうな女の声を出した。黒装束、身体の線の盛り上がりは甲冑仕込みか?
引かねばと思った。武器も持っていない。一歩下がり、次に下げるべき脚が膝下から縦に潰れ、千切れた。背中から転ぶ。
夜空が見える。岩の塊のような棍棒を振りかぶる姿が見えた。
横に転がる? 田舎者が邪魔だ。
腕で防げるのか? 防御に構える。
「ブットイマルス!」
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