第313話「一年以上」 エルゥ

 龍元永平八年霧咲。ランダン放棄作戦を開始。

 ランダンの地はランダン王とその軍を動かす人質の役目を負っていたが、王が死に軍が崩壊した今は戦略的な価値も失われた。その冬に行うと決断することは尚早であっただろうが、春には放棄作戦を開始すべきだったかもしれない。ルラクル湖の戦いでの大敗北の影響、軍再編による混沌が季節を一つ遅らせた。

 ランダン放棄によって抱えていた五正面を圧縮する。

 一つ、ランダン北部のハヤンガイ盆地北、ハルジン川中流。

 二つ、同ハヤンガイ盆地東、アリダス川上流。

 三つ、ランダン南部のルラクル湖北岸。

 四つ、同ルラクル湖南岸。

 これらを放棄。

 一つ、ランダンと朱西道の境界線東側、シュレ川とその中心都市バルラ。

 二つ、同境界線西側、タムガル砂漠北口。

 放棄する代わりに下がってこの二つへ代える。

 尚、ヒチャト回廊東口は変わらず保持する。

 バルラとタムガル砂漠北口の中間にはキョングウ山脈があり、ここは優秀な登山家でもなければ登頂不能なこの地方一帯には良くある高い山々だ。敵軍の侵入を防ぐ自然の防壁となる。またシュレ川上流も非常に険しい高地であり、これもまた防壁となる。

 この新防衛線整理のために具体的に軍を動かす。

 第一段階は既に動き始めている。

 ハルジン川中流、アリダス川上流にて敵北方総軍を相手取っていた、第十一から十六軍団で構成される北ランダン軍集団はハヤンガイ盆地を放棄。遅滞戦と焦土戦を行いつつ、ランダン中央の王都サルラで敵の追撃を一時防ぐ。防ぐ期間はそこより南部の各軍が大規模機動中であるので、それによる渋滞が凡そ解消されるまで。既に十万以上、一個軍団消滅相当の損害を受けていると聞いているが、情けを掛ける余裕は他軍集団にもない。

 ランダン中央の王都サルラにて強固な防御陣地を構築していた、第十七、十八軍団で構成されるランダン軍集団は北ランダン軍集団にサルラを渡しつつ南下。アインバルの主都ティーツンの北部へ移動し、ルラクル湖北岸より後退してくる友軍の支援に当たる。この無傷の軍は敵軍に塞防軍全体を分断されないよう、サルラ、ティーツン間の街道を切断されないようにするために働く。

 ルラクル湖北岸にて敵ユドルム方面軍及びキサール騎兵軍等を相手取っていた、第四、十九軍団で構成される北岸軍集団は北岸防衛を放棄。遅滞戦と焦土戦を行い、ティーツン北西部、ルラクル湖東岸まで後退。その場でユドルム方面軍等の追撃を一時防ぎ、北ランダン軍集団の到着を待って正面と側面から同時攻撃を行ってその足を止め、可能ならば撃退する。それと同時に、ティーツンへ引き付けられるであろう敵軍を北から側面攻撃する。この軍は酷使する。

 ルラクル湖南岸にてダンランリンを主点に敵南方総軍を相手取っていた、第一、八、二十軍団で構成される南岸軍集団はダンランリン防衛を放棄。遅滞戦と焦土戦を行い、ティーツンまで後退。現在敵の先鋒を務めるザカルジン軍をここで受け止め、北へやってくる北岸軍集団と正面と側面から同時攻撃を行ってその足を止める。深追いは厳禁。あくまでも後退が目的である。

 朱西道西部の都市ルェンを拠点に、ヒチャト回廊東口に巨大堤防を築いて湖を新設している敵第二山岳師団ダグシヴァルを相手取っている第九、十軍団で構成される朱西軍集団は二十万の兵力を有しながらもかの地方では低地出身者ならば誰でも罹る高山病に苛まれ、二万に満たぬ兵力しかない敵山岳師団に手も足も出ない状態。軍内にいる高地出身者による特別編制部隊を作って送り出しても逆に懐柔されて敵に兵力を補充している状態だそうだ。このような失態を隠さず報告しているだけでも良いと見るべきか。

 一個軍団十万名、二十個軍団二百万名を有した塞防軍は大損害を被っている。既に、凍結したルラクル湖の大爆発を始めとする大敗北から第二、三、五から七軍団は解隊して損害著しい他軍団への補充へ回した。北ランダン軍集団も一個軍団解隊相当の損害を受けている。死傷、行方不明者は、調書が出した数値では既に七十万名が喪失されたと記されている。二百万を誇ったこの巨大軍が残り百三十万。これは多いと見るか、少ないと見るか。

 こちらはこのランダン放棄作戦を成功させれば大幅に補給線を短縮出来る。そして作戦正面を減らすことによって今まで以上に効率的に戦えるだろう。

 敵はこの焦土作戦で砂漠のように荒れた大きな土地を手に入れることによって大幅に補給線を延長することになる。建物の屋根は全て崩し、畑に牧草地も焼き、家畜は連れ去り、人は疎開した後で、井戸は全て汚染。橋は全て計画的撤退の後に破壊される。

 今作戦は遅滞戦を常とし、多くの決死を強いる殿部隊を多用することでこちらの兵力がかなり消耗すると見込まれる。だがそれは敵も同じ。広大万博なる天政の地より貧しい地に住む彼等蛮人は、こちらよりも人と金と物の貯蓄に乏しい。削る物がある内は互いに有利不利もあるだろうが、その物が無くなる時、有る方が一方的に有利になる。焦らず、敵を消耗戦に引きずり込めば勝てる戦いだ。

 塞防軍は減少の一途を辿っている。その代わりに、西克巡撫サウ・エルゥ直轄の西克軍を、朱西道の道都ウェイドで再編制中。削れる塞防軍の中から生え抜きを選び、再訓練、最新装備を優先補充。指揮系統も再編。塞防軍の破壊から上澄みを取って作られている。

 兵士は低地の農民よりも、この西の山岳地帯で良く働ける高地出身の山岳、遊牧民から編制している。また給与、待遇、家族への手当は他軍よりかなり厚くして差別化を図って天政への忠義心が足りぬ分を補い、同時に帝国連邦への離反も防ぐ。

 高地民族は人口が少ないからと徴兵人数も少なくしていた画一的な思考が今日のヒチャト回廊作戦での連敗を生み出した。塞防軍将官の、作戦前の編制段階からの落ち度である。山では高地出身の彼等より、不慣れな低地の者が蛮人、田舎者と差別的に扱っていたという件もあり、高地戦での失態はむべなるかなというもの。それらを改善した軍容となっている。

 西克軍は高地戦に優れた軍となる。その編制時間は母体となった塞防軍の血で稼いでる。編制の枠組み、組織構造である骨は自分が用意した。後は訓練を重ねて受肉するのみである。


■■■


 撤退は第二段階へ移行した。各地から続報が入っている。

 北ランダン軍集団は敵北方総軍の追撃を阻止してサルラを防衛中。焦土作戦と遅滞戦時に相手へ与えた損害が相当なものであって、追撃の規模はサルラの防御能力と比較して弱体と推測されるそうだ。

 ランダン軍集団は敵ユドルム方面軍への側面攻撃に失敗するも南下を阻止とのこと。相手を侮らずに分析するならこちらの企てを事前察知して深追いを止めたというところか。最高の結果ではないが順当ではある。

 北岸軍集団はティーツンに突撃した敵ザカルジン軍の北面だけではなく西面も取って完全包囲を行い、それから殲滅するなどと報告してきた。これは朗報のようで朗報ではない。おそらく完全包囲をさせたのは罠だ。後続の敵軍に、その完全包囲したはずのザカルジン軍と挟撃されるだろう。

 南岸軍集団はティーツンで防衛せず、わざとザカルジン軍に明け渡し、入城させて身動きを取れないようにしてその完全包囲を作り上げたと報告してきた。

 帝国連邦軍は情け容赦の無い連中である。それは敵にも味方にも適応される。彼等が情けをかけるような存在でもないザカルジン軍を餌にして行動するとは予測され、各将官には注意しておいたのだが、無視された。あちらの言い分としては現場裁量、目前に転がる好機を逃すまいとした、と言ったところだろう。

 完全包囲の後の報告を待つ。成功の見込みは薄いが無くもない、かもしれない。後から来た、負け続きの最高司令官は肩身が狭いものだ。絶対服従は望めない。

 朱西軍集団にはヒチャト回廊への攻撃を中断させた。その代わりに命じたのは、かの地で作られた堤防が決壊した時、巻き起こされる大洪水に備える放水路を建設することだ。これは重要。フォル江大氾濫となれば戦争継続も危ぶまれる被害が想定されよう。下賤な仕事と卑下するなと訓告しておいた。

 帝国連邦軍がヒチャト回廊のコショル川という大きな川の流れを東へ捻じ曲げるという恐るべき大工事を行い、戦略的な水攻めを企図している。ただコショル川を水壕としているダンランリン攻めを容易にしよう、などという規模ではないことは明白。歴史的にもヒチャト回廊から中原に大水が流れ込んだなどという記録は無いのだが、流れ込むことは決していないなどいう記録というより研究結果も無い。

 敵が大洪水を狙うのならば外西藩のフォル江源流の大水源地を狙うとばかり思っていたが、侮っていた。いや、誰があのような規模の作戦を想定出来ただろうか。出来なかった罪は自分にある。あるから何とかしなければならない。西克軍を使うべきだが、兵力も練度も百戦錬磨の相手となれば不安要素がまだ強い。時間に猶予があれば訓練期間をもう少し取りたいところ。

 これらの作戦第二段階、一撃離脱で終わらせて後退させたかった。出来るだけ兵力を温存して朱西道まで引きたかったが、失敗の見込みが大きい。ルラクル湖での惨敗もあるが、緒戦より続く非人道的な帝国連邦への憎悪、復讐の機会を狙う人情に塞防軍将官達が囚われている。その辺から貴人であるというだけの理由で引っ張られてきた前時代的なお飾り将軍であるのならば簡単に首を切って挿げ替えておくのだが、彼等はそうではない。資質があり、教育訓練され、敗北続きではあるものの経験を積んだ得難い人材なのだ。

 ザリュッケンバーグ将軍がこの場にいてくれたら何か、良い助言をしてくれたような気がするが、いない人物の言葉を求めても仕方が無い。


■■■


 撤退は第三段階に入る。命令違反は無いものとして考えたいが。

 北ランダン軍集団はティーツン周辺の事態を無視してバルラまで後退。シュレ川沿いの防衛線構築へ移らせる。

 ランダン軍集団はティーツン北部で敵ユドルム方面軍に対する防御を、北ランダン軍集団の後退完了まで継続した後にタムガル砂漠北口へ後退。防衛線構築に移る。

 北岸軍集団は、敵ザカルジン軍と後詰に突撃してきた親衛軍第二軍団との間にて死守命令を出した。ランダン軍集団の後退後はユドルム方面軍にも攻撃される。敵全軍に包囲される餌とする。第四、十九軍団は失ったものと考える。

 南岸軍集団は、北ランダン、ランダン軍集団後退完了までティーツン近郊で防御。それから第一軍団が殿を務め、第八軍団はタムガル砂漠北口、第二十軍団はバルラへ後退。第一軍団は失ったものと考える。

 敵軍にも大きな被害が出るだろう。こちらが失ったと感じるよりも多くの兵力を失ったはずだ。また悪戯に三個軍団を失うことになると思われるが、それでもこの後退が成功すればキョングウ山脈とシュレ川による新防衛線の守備兵力は十分に確保される。塞防軍、百万に減じてもだ。

 畜害風の吹いた二つ前の厳冬から戦いが始まり、暖冬を迎え、今の暑夏を迎えて一年以上経つ。既に軍民合わせて数百万が死んだが戦いはまだ終わらない。この夏が過ぎて秋に、冬になれば二年目に突入しよう。更に百万と死ぬだろう。だがこの程度の死者数、天政を時折悩ませる天災疫病に比べたらまだまだなんのことは無いのだ。千万と死んで、内乱が起きて、軍閥が割拠していない。まだ余力がある。人もほとんど住んでいない北の遊牧の土地を失ったが、あれは身体に例えるなら皮膚でもない衣服や装飾類と言った程度。傷つけられて、惜しいと思うが痛いという程ではないのだ。我々はこれからが身を切る本番。彼等は、西の大戦の後にこちらの大戦に間を置かず参加して疲れている。冷静に削り合うのだ。慌てなければ最後に立っているのはこちらだ。

「閣下、お客人が」

「誰ですか」

「それが……」

 衛兵がこちらの断りも無く、言葉だけで司令部に人を通した……というより、押し入られた様子。外がやや騒がしい。押し入りに抵抗出来ぬとあれば相応の身分の客であろうが、わざわざ朱西道のウェイドまで尋ねに来るとなれば黒龍公主殿下か?

 そして衛兵を手で押しのけて入室して来たのは、一言で表現すると宇宙一の美女。角付きの龍人で、しかし殿下に姉ではない。

「どちら様でしょう?」

「私だっ!」

 こんな迫力を持って快活に声を張り上げる知人女性はいない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る