第308話「八年しか」 ソルヒン
やつれた。鏡を見てはっきり分かる。
纏軍司令レン・ソルヒンとして、自分が白北道で出来た仕事と言えば、戦場にて出発する兵士達を立って見送り、見守り続け、帰ってくれば迎えること。ただそれだけだった。
立っているだけだったのに、それすら出来ずヤンルーにまで運ばれた。眩暈がして倒れて怪我をし、それから食中りである。そんな無様が将兵達に知られれば士気の落ちようは火を見るより明らか。腹を下す中、最前線へと脚を運んで敵の狙撃を受けたフリをして退き、体裁を保った。これを自分で考えたのならまだ賢しらだが、全て将軍達が考え出した。大層困った顔をしていた。
纏軍諸兵は東王の家に縁有り、良く仕えてくれた者達ばかりだ。それが勇ましく前進し、遊牧蛮族の砲弾を受け、爆発でゴミのように放り上げられては死んでいった。
前線から運ばれてくる死体は体中に穴が開き、手足がもげていることよりも、何故か全裸になっている者達が目に付いた。聞けば人間の身体は服より頑丈なので、爆風を受けると服だけ裂けて吹っ飛ぶらしい。火傷だらけで全身打撲を負った全裸の兵士を見てしまった。
大人の男達の死体ならば覚悟もあろうと気分の悪さや吐き気で済んだが、まだあどけなさが残り、顎と鼻の下には産毛しか生えていないような少年達が、目を剥き舌も腸を出した姿で運ばれてきて耐えられなかった。お話に聞く名誉ある戦死者の姿などどこにもない。刀と矢の傷が映えた古典時代ではないのだ。
また生きていても顔や腕を無くした負傷者のみならず、身体が無事でも夏でも凍えるように震えて目を右往左往させている者達がたくさんいた。滑稽踊りでもしているように身体を動かし続け、猿のように叫んでいた。砲弾は身だけではなく心も砕くらしい。
庶民ならず傍系皇族、貴人の家の者達でさえそれらの有様だった。名のあるレン姓の老将は両脚を失って、言葉も失って何かあれば手でどこかを叩いて催促するだけになった。美男と持て囃された貴人は落馬して馬に腹を踏まれて胃が破れ、吐血を繰り返して耐えられず自殺。気丈と謳われた夫人は弓を持って夫の戦場に随行して敵に捕らえられ、鳴き人猫と呼ばれるおぞましい姿に変えられて戻って来た。”頼むから殺して下さい”と泣いて請われた姿は目蓋に焼き付いている。
数百年に渡ったレン家の政権は皇族の増大に繋がり、また儀礼式典も前回より華美にしようという流行から年を重ねる度に皇室費が巨費になっていったという批判が今の龍朝にある。その人民を省みない行為が天命を失う結果になったと云われる。だから今回の戦いでは血を流して人民に対価として支払うべきという論調が作られている。権勢のみならず血が絶えるまで戦わなくてはならない状況にある。
レン家復活の希望の星、セジン様がいた。エン家の乱の時は南王方で英雄として活躍。東王方の内乱で有力者が軒並み倒れた後はあの方が正当な政権を復活させるものだと期待されていて、子供の頃から高貴な女子達の憧れの的だった。一時黒龍公主に政権を明け渡したとしても再奪還出来る方と信じられてきた。それが死んでしまわれた。
セジン様の画房で見た背の高い女があの方であるなどと禁城では吹聴されている。龍人は尋常ではないことから一時は信じてしまったが、あれはどう考えてもおかしい。つまり黒い鴉を無理やり白いと言わされそうになったのだ。あの蛇人は認識さえも卑劣に捻じ曲げ屈服させようとしてきたのだ。その前はどこぞの老人をあのお方などと蛇人共が言っていたことを思い出す。大変な苦労をされて若くても老いたような姿になったと思いこまされ、情けなくも騙されていたのだが違う。偽者を本物と思えと強要されたのだ。蛇女の嘲笑が聞こえてくる。
セジン様のお帰りを待つことは止めた。あの絵の数々も、芸術に明るいと噂のあのお方の作と思ったが今では怪しい。ましてや、技巧に優れていようとも、あのような酷い破廉恥絵を描く者が皇統にある者であるわけがない。そもそも頭に角、肌に鱗がある時点で本人のはずはないだろう。何か怪しい仙術、否、妖術にて、あろうことかあのお方の血肉を使った何かであったとしても。
狙撃の傷も希少な治療術士の手により癒えたということになり、今日、白北道の最前線へと復帰するために発つ。戦闘が開始されたと報告があれば数日後には死傷者数万、小さな都市が壊滅するほどの被害が続報として送られてくる地へ。
禁城から出発する時の、見送りの一団にはレン家当主シャンルがいる。弓と手綱は下々の者が掴むもの、天上人は筆を持つものと教えたせいか白くて細い。その隣には友人か間者か知れぬ、お豆様と呼ばれる小人が、泣いている弟の背中を撫でている。
生贄に捧げられた可愛い、可哀想なシャンル。
「姉上、また戻ってきますよね?」
笑って返す。口を開けば言ってはならぬ言葉が出て来そうだ。
前回ヤンルーを立つ時は、思わず抱きついてしまってしばらく動けなかった。その上でこの子を戦場に送ってなるものかと思っていた。
馬車に乗り、用意させた饅頭を頬張る。やつれた顔は到着までに直さねばならない。
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道中、南からジン江へ近づくまでの風景は長閑であった。農民、牧民が夏の日差しの下でのんびりと仕事をしていた。以前までは考えられなかったが、護衛すらつけないで商人が荷車を牛に曳かせていた。
ジン江南岸に達すれば上流では碧元臥龍禁衛軍旗を掲げる禁衛軍が、下流では白天昇龍北征軍旗を掲げる北征軍が川沿いに長大な防御陣地を築きつつ、纏軍には不足している銃弾砲弾火箭を惜しみなく使用しながら機動的に実弾火力演習を行っている。専門ではないので詳しい様子は分からないが、一つの意志で大軍がうねるように動いている。それだけ動かせる食糧と弾薬が巨大な倉庫群に収められ、兵士や従軍商人が長期間、十分に休めるだけの長い新市街地が出来上がりつつある。
ジン江沿いの主要都市ヘンバンジュにある新式の長い鉄橋を渡って南岸から北岸へ。その頑強な鋼鉄の橋桁は高く、蒸気機関で動く鋼鉄の河川艦が下を通過して排煙で馬車を燻し、馬が動揺して動きが止まってしまった。また走り始めるまでに集結した鋼鉄艦が北岸にある疑似目標への艦砲射撃演習を開始した。
このジン江沿いの北からの攻撃に対する防衛線はおそろしく固いように見える。纏軍将兵が死んでいる間にこれが作られている。この外へ追いやられ、展望の無い攻撃が北の荒野で繰り返されている間に、敵が臨時集団と呼ぶ北陸の天政属国の民と殺し合っている間に。似た境遇同士だが言葉も通じず、同情の念も抱かない。
北岸に到着。道行く風景は南岸とうって変わって寂しい。疎開により一般人民の姿は無く、長期戦を想定して畑を手入れするのは休暇中の纏軍兵士とその家族達の姿。何処の街、村へ行っても忙しい泣き女が、連日勤務で枯らした声を上げ泣いて葬式を演出。戦死者は現地に埋められるので、これらは後送された負傷兵の比べれば幸福な末路。
最前線へ近づく度に緊張の度合いが増す。斥候が確認した騎兵が味方か、浸透してきた敵か確認出来るまで足が止まることがある。味方も、後方から敵が迂回して来たのかとこちらを確認しに来ることがあり、戦線に隙間が空いていることを再度実感させられる。草原、荒野が広がる白北道は遊牧民の独壇場なのだ。
前線の司令部に到着すれば伝令に将校達が慌ただしい。北東部の外北藩軍が帝国連邦軍、ユンハル軍、光復党軍より三方から攻め入られて敗北、そして中原から入植した者達を皆殺しにした上で現地人が寝返ったと言うのだ。
これは決意を固めるのに十分な情報だ。
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纏軍。今の戦争に対して義に発起して纏まった軍という意味で名づけられた。
軍の標語は”規律厳正 忠勇奮発 尽命報効 絶対服従”。何かの冗談になっている。
将兵達には軍事訓練が多少施されているが一軍としてまとまって行われたことは今までなかった。元軍人がいてもそれは前時代式の訓練しか受けていない。彼らはそれまで、土木工事要員として全国各地に部隊毎に、結束して反乱など出来ないように分散して派遣されていた。白北道に集結した時に初めて総員が揃った。
装備は悪い。新式装備への転換で在庫となった旧式装備と、良くて正規軍が訓練で使って摩耗した中古装備。それらも足りず、急造の槍が多い。
そのような、死ぬためだけにいるような彼らが一大攻勢に出るとのことで、激励するために最前線へ赴く。人前に出るのだが、鏡を見るにこの顔はいけない、まるで家猫か愛玩犬。
一大攻勢、これは将軍達の軍事的な観点から行われるわけではなく、中央からの政治的な観点からの指令である。戦争に勝利する気があるのかと疑問になるかもしれないが、我々はそもそもまともな戦力と見做されていない。何か別の目的のために動かされている。肉の長城が主な役割だが、他にもあるかもしれない。今のところ、現状を考えれば大量の死体を燃やせるだけの燃料が確保出来ず土葬するに留まり、この暑い夏に腐敗して疫病の発生源となることが見込まれている。肉と病の長城を築くつもりなのであれば成功の見通しが立っている。どんな大軍でも精鋭でも病気には勝てない。
”レンの激情、雲を焦がす”という諺がある。太祖は大層な激情家で、中原入りをして革命を果たした足掛け二十年の大戦も、緒戦から終戦時間際に憤死するまで激したままだったという。東王の男達が内乱を始めたのも、当時は幼く蚊帳の外であったため朧げだが、その激情から始まったように思える。今はその血を沸き立たせる時だ。
これより攻勢に出る将兵達が整列している。号令が掛かれば帝国連邦軍の陣地へと前進し、死ぬ。
息を吸う、震えている。
息を吐く、まだ震えている。
中央からのお目付け役である、龍人化した――レン家縁の者であるのに――将軍が前座に一説。
「我が纏軍の兵士達よ! 振るって侵略者を打ち倒すように。敵は強大で装備に優れ軍と兵の練度も、史上最強の外敵。バルハギン軍に当時の水準で比較しても勝る。戦いの成否は生死に直帰し、個人だけではなく一族の存続にすら関わる。敵、帝国連邦には民族一掃の前科があり、この中原でも行われないなどという保証は一つとしてない。比喩誇張の表現無く、死力を尽くす必要があるのだ。広い天政、各所より人が集まれば差異有り、諍いもあるだろうがそれは平時に喧嘩するようにしておけば良いこと。今は未曽有の戦時である。何か不平不満があれば生き残った後に、太平の世にて言おう。まずは諸君、生き残れ! 戦わずば背中を追われ、逃げ込んだ先にて死あるのみ! 戦の大義を知る者ならばこれ以上の言葉は不要。知らぬ者なら簡単なこと、生きるために戦え! 以上。龍帝陛下……!」
蛇人将軍が諸手を上げた直後に、拳銃でその頭を壇上で撃ち抜く。
生まれてこの方切ったことの無い髪を切って纏め、中原的な貴人服から東王家の黄色い騎乗服へと着替えた恰好で姿で覚悟を決めた。
「敵は北に有らず、南に有り!」
手振りで将兵達に示す。今死んだ蛇人のような小難しい話は不要だ。
衣装に道具は光復党の諜報員が用意した。
シャンルは見せしめに惨たらしく殺されるか、精神が捻じれるまで操り人形のように矯正されるかするだろう。姉としてはその苦しみを代わってやりたいところだが、女帝としてはそれも皇族の務めであると見放すしかない。むしろ、その悲惨な末路によって復讐心を煽り、皆を奮い立たせて貰うことが正しい。
「レン家による正当天政万ざーい!」
将兵の中に潜む誰かが叫ぶ。それからまばらに万歳の喚声が上がり、纏まる。
『万歳! 万歳! 万々歳!』
龍元永平なる偽りの元号、未だに八年しか数えていないのだ。十年に満たぬ。
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