第307話「百年先」 セジン
目覚めの具合は悪いというか妙だった。
窓の外は赤に明るい。霊山にある屋敷だ。また死んで、また生き返ってしまった。
「あのねジンジン、大概にしてや。妾ね、これでも暇やないのよ」
目覚めを見守っていやがった黒龍公主が、貴人の衣装ではなく汚れた前掛け姿でそう言った。
屈辱! 思わず謝罪の言葉を探してしまったことが悔しい。絶対に謝らないぞ。
寝台から立ち上がるとやはり調子が変だ。腰が変に重たい気がするぞ。胸も引っ張られる。うん?
「これ着て、ちょっと来てや」
「は……?」
そうして手渡されたのはどう見ても女子の服であった。はて? この約五千歳、遂に呆けたか?
「ぽよーん」
奇声を上げて胸を突かれた。本当にイカれたか? しかし感触がおかしいな。
「なんじゃこりゃ!?」
何だこの、顎を下げても下半身を見せぬ、はしたない巨大な乳房は!? 肥満か? 顎、腹を触るとそうではない。ということは腰の重さは……何だこの巨大な臀部は!? 肥満か? 顎、腹を触るとそうではない。
「ジンジンって可愛えなぁって思ってたら、出来ちゃった!」
新しい身体は女か!
「何の冗談ですか」
「言ったやろ、大概にしてやって。反魂受肉ってどれだけ手間掛かってると思ってる?」
「いえ……」
しかし何にしても腹が立つ。ではわざわざ女の必要はないではないか。空きがこれしかないと言うなら何故作った。技術的に指摘することも出来ないので不平も言えぬ。ぐぬぬ。
「着替えて、こっち」
渡された女の服に着替える。乳房と臀部が非常に邪魔で手間取る。巻く型の服を用意すれば良いものを、わざわざ騎乗服の都市貴人向けの洒落重視の非実用型ではないか。わざとか?
それから髪が異様に長い。どれだけ伸ばしたのか、真っ直ぐ降ろせば――身長は男の時と同じだろう――床に付く。生まれてこの方髪を切ったことの無い老婆のようではないか。艶はあるが。
髪を三つ編みにして頭上で巻きながら黒龍公主の背中についていく。歩く度にこの乳飲み子を抱えているわけでもないのに乳房がはしたなく揺れて邪魔くさい。手で抑えると少し良くなるが。これは後でさらしをきつく巻かねばならないぞ……そう言えばこの身体、どうやって用を足せば良いのだ? 座ればとりあえず良いだろうか。後で試行した方が良いか。本番で失敗するわけにはいかない。
霊山――龍道の一画かと思えば宇宙はまだ広い――を歩く。改めて空、尾根、谷底、植物を見て別宇宙に来た感がある。
「聞きたいことがあります」
「何や?」
「小龍言とあなたの母語と龍の言語、同一では」
「おや? で、龍の言語って何で分かったの?」
「アマナの、龍道から帰還した龍僧が白面龍王なる龍と遭遇して少し言葉を交わしたそうです」
黒龍公主の脚、止まる。その背中にぶつかりそうになった、と思ったら乳房がその後頭部に衝突。何て不便な、不幸な身体だ。
黒龍公主、歩き出す。そしてトマイ山の寺で聞いた小龍言とは発音から何から全く違うが、言葉が似通ったような、人間の舌では出せぬのではないかという音を交えて何やら喋り始めた。普段の妙な軽薄感は感じられない。天政官語での発音は本来の調子から外れているのだと分かる。
「……分かった?」
「いいえ、全く」
「そう」
「お知り合いで?」
「難しい」
曖昧且つ切り込んで聞いてみても何も出てこなそうな返答だ。
しばらく無言で進み、龍帝へ行く道を外れ、谷底へ降りる道を行く。古く、舗装された階段は地上と環境が違うので風化が極端に遅い様子。
下る度にこの静かなはずの霊山に音がこだまし始め、作業音が混じり始める。そして見えて来たのは遺跡発掘現場のような場所で鉱夫のように働く龍人達。発掘物は蛇龍に似た干からびた死骸の山、個体はトマイ山で見た首無し龍の骨と特徴が合致する。
「龍の墓場といった様子ですね。これで龍人を?」
「玉石混交やのう。ほとんどゴミ。骨董品として流すか考えてしまうわ」
トマイの龍僧達に聞かせたら面白い反応をしそうだ。
地が揺れる、という程ではないが巨大な何かが動いている振動を感じる。龍の死骸の山の陰から更なる谷底、露天掘りの鉱山のような縦穴を覗けば巨大な亀が歩いていた。その背には蛇龍型ではない、正体不明の化け物の死骸が括り付けられて運ばれていた。何の生物かと問われれば答えようがない。まるで魔族や話で聞いた白面龍王の雰囲気。
「あれが玉」
「その玉を使って龍人や蛇龍を作り出しているんですか」
「そうやのう。どの話をどれくらいすればええのやら。下手に全部喋るとみーんなに皆殺しにされるからのう! 用無し婆は嫌や嫌や」
黒龍公主が笑い始めた。自分のことを良く理解している……これがあるからまだまだ価値がある。これ程に価値があるというのに死んでもまるで悲しくなりそうにないとは人徳が無い。龍道以外にも獣の神からの霊獣作成の技術も有り、中々隙を見せない。
「これを見せたのはなぁ、これ以上のものを使えるようになったからやのう。ツェンツェンにもランランにも後で見せる。ジンジンには後で使わせるわ」
「新しい巡撫の仕事ですね」
「そう。あの亀、鉄亀。それから馴虎に龍馬は今ここにいないのう、まあそういうのがおるのよ。それと龍甲兵を合わせた専用装備の実験部隊をの、任せる予定や。虹雀も中隊単位で使えるように増やしたわ。今、白南道で北征軍と一緒に演習中。どの程度戦えるか、ちょっと試して貰うわ」
「なるほど」
これを見せたのは、軍を預けるが裏切るな、ということ。利用価値を見せねば説得も出来ぬとは孤独が長いようだ。
■■■
龍元永平八年、夏始の節。
霊山を下りて現実世界に戻れば暑い。アマナに行っていたとはいえここまで戻るのに大分時間を費やしてしまったと思ったが、まだ春が終わったばかりであった。
季節と気温が例年と見合わぬ。禁城を歩く官僚共が旱魃を危惧している程の暑夏である。暑くても雨が降れば良いが、これで少なければ良くないのは当然だ。
常人より暑さに強い身体と言えど汗が出て来てこの、忌まわしい女子の服が肌に張り付いて鬱陶しい。あの約五千歳、霊山に引きこもっているせいか季節感覚を喪失していて汗を発散しない程度の春物を寄越したのだ。後で服を選ばねばなるまい。
自分の画房へと向かう。男共の視線が胸と尻へ吸い込まれ、女共もやはり頻度は低いが同様。全くけしからん連中だ。これで龍人の角、目、鱗などが無ければ視線だけで済むまい。視力が悪いのか頭が悪いのか、反射的に軽薄な言葉を吐いた官僚がいたので首を掴んで池に放り投げてやった。全く苛つかせる。
庭で遊んでいたピエターが大変、大変と溺者救助に向かった姿を見てこう、胸が酷く苦しかったが、これは気の迷いだ。白金の髪が濡れそぼって……ええい!
そして更に苛つかせられた。画房に入れば、使い易いように道具が配置されていたはずが、部屋が何者かの自分勝手な基準で整理整頓された上に長らく留守にすることもあるというのに生花を挿した花瓶まであるではないか! しかも未完作、技法試し作などまでが誰かに広げて見られた痕跡すらある。肌に血液が回る感覚すら分かるぞ。
花瓶を掴み――部屋はいかん――廊下へ向けて振り投げて砕く。悲鳴。端女か? 知るか。
ええい、この気分どうしてくれよう。筆を掴めば折ってしまいそうだ。
「もし!?」
先程悲鳴を上げた端女が無礼にも画房に顔を突き出してきた。許可無く立ち入りを禁じているはずなのにその図々しい態度、こいつがやったのか?
「そこの貴女、セジン様が今何処にいるかご存じありませんか!?」
落ち着け、いや、落ち着く前に手を出さないように全力を込めろ。あの端女の頭、砕いてしまうのは流石に品性に悖るぞ。
「見て分からんかこの愚か者が。さっさと去れ」
「どういうことですか!?」
いちいち耳障りに大声を出してからに。
「うるさい黙れ! 死んだからこうなったんだ!」
「死んだ!?」
端女、激して泣き始め、何故か部屋に飛び込んでくる。何とか殺さぬように突き飛ばして廊下へ戻す。
「お前は獣か無礼者め」
それから泣き顔で激昂して喋るが東の方言がきつい上に嗚咽しているので全く聞き取れない。
「ええい、田舎訛りで喋るなこの端女が! あっちへ行け馬鹿者が! 誰ぞいるか!?」
そして他の端女を呼んで連れて行かせる。
「教育しておけ! 二度とこの部屋に近寄らせるな!」
扉を閉める。鳴き声が遠くになっていく。
ええい、体のせいか知らんがすぐ頭に血が上るぞ。前の老いた体は目が悪かったが、こっちは心臓が悪いのか? 欠陥品ばかり寄越しおってからに。
少し暴れたせいで髪が解けてしまっていた。どうする、この無駄に長い、垂らして歩けば蹴躓くような髪。いい加減な結い方では解ける上にみっともない。切れば良いか? そもそも自分は女ではないのだから長髪を守る必要など一切無い。しかし一度切れば元には戻らぬな。一旦髪を濡らしてまとめて試しに何度か結ってみてからにするか? この有り余る長さも使いようだ。
鏡を見てまず考える。基本的な顔つきは自分だな、当然だが。しかしなんだこの微妙な、角が若干削られたような顔は女の丸さか。こうなると母、いや祖母に似る。空想に成長させてみると妹がまだ生きていればこうなっていたか。
腹違いの兄弟姉妹達は正直、身分違いで関わり合いがあまりなかったがあの子とは仲良くしていた。あれはこのような気難しげな顔をする子ではない。昔を思い出して真似て笑ってみる。大きくなっていればこうなっていたかもしれない。
思いついた。これを絵に起こそう。となればまず身形を整えねばならない。まず自分を着飾る前に腕試しをしなければならない。
禁城の女達を呼び集め、髪を結い直して化粧も直して技法次第でどのように映えるのかを確かめていく。もちろん、美の才に恵まれたこの手に罹れば山出し女も、顔の作りの不細工さ加減には限界があるが、生まれ変わった程度の見てくれには昇華出来た。
初めは不遜にも自分の手に掛かることを訝しがっていた愚か者達であったが、一つ仕上がりを見せたら黄色い声で騒ぎ立て始めた。これで手応えを掴む。
これはこれで面白いな。芸術照覧会には化粧と髪型の見本一覧を出してみよう。大量の長い髪の毛と人の顔面を模した人形が必要になるから早めに発注させておく。
これで今の自分の姿形に合った髪型と化粧を心得、自分に施した。そうして鏡で確認すれば城どころか国、いや宇宙すら傾けるような美女に仕上がったではないか。審美に厳しい己の目にも適うぞ。女達もやれ美しい、雪月花も恥じて隠れるだのと褒め称える。騒ぎに集まった通りがかりの男もこちらを見れば声を上げて目の色を変える。
うむ、こうなると女がやれ出かける準備にあれやこれやと時間をかけ、世辞でも褒められれば喜ぶ理由が分かってくるぞ。
次に服選びである。禁城には昔住んでいた貴人の服が財政再建のために売られたが多少残っている。実用面に乏しい舞台衣装とか、意匠が古すぎるもの、虫食い品などだ。それらを分解、仕立て直すことにした。職人に発注するのも良いが時間が掛かる。まずはこの暑夏でも威厳と美しさを損なわず、身動きがとりやすい野外活動を重点に入れた物にしよう。レン家発祥の東北系騎乗服の夏型にしようか。官服の原型でもある。次に行くのは白南道、湿気は少なく乾いている。一部など砂漠の如きだ。
生地の良い物を厳選し、時間が掛かる装飾は最低限としてその飾りの無さを逆に生かす。
色は白にした。あれは白が好きだった。夏だと眩し過ぎて、食べ物をこぼしたり庭を駆ければ直ぐに汚れたものだが。
服とは別に手を入れずとも飾る物は何が良いか? ただ生地が良い服だけだと身分を疑われる。龍人とはいえ女は侮られるが世の常だ。ここで玉虫装飾を選ぶ。耳、首、腕、帯をあの煌めく複雑な緑で補う。
佳人完成。
時の天子の目も眩ます姿になったところで画房に戻り、鏡を見ながら絵の下描きを済ませる。
椅子に座るのは記憶にある生前のあの子の姿、その脇に立つのは今の忌まわしく美しい姿を参考にした成人した姿だ。勿論、龍人ではなく人の姿にしている。
鏡を見て真似てもあの笑った顔は作れないが絵では作れる。その腕がある。そう、こういう曲線だった。皺の角度と深さもこれだ。
伝統的な美人画では顔の皺は忌避され、まるで仮面のような顔か、何とか皺が寄らぬような微笑みで誤魔化されてきた。良くて化粧で陰影に見せるかのような、その程度の稚拙な偽り。それらの誤魔化しは画力が不足しているから行われる。まず線が悪いのだ。魅せる線が描けなければ良き人相など望めぬ。だからこの自分に掛かれば醜くなりようがない線となる。肉眼で人の顔を見た時の、印象を含めた線となる。人が笑った顔を見てこの皺が醜い、邪魔だのと論評つける馬鹿はいない。それが絵となると途端に現れる。それに克つ線だ。
これは題も人に見せる気は無い絵だから題名は不要だ。しかし裏にはレン・コーファと名前だけは書いておこうか。魂が宿るとまでは言わぬが、この世に存在した証明になる。
下描きに納得したところで、注文した画材が届くまでの間は時間を潰す。芸術照覧会に足を運んで最新の作品を鑑賞しようかと、人目を否応にも引き付けるので垂簾付きの馬車を手配した。
準備整うまで髪留めの選び直し、乳房潰しのさらし巻きをやり直して身体の動きに障りないか体操などしてみていると下品な短足で走る音と共に、久しぶりに見ても品も威厳も無いファン・ドウ・フウがやってきた。
「か!? レン・セジン閣下で……しょうか?」
「フウか。これより芸術照覧会に参る。馬車を手配した故、車中で現況を聞かせよ」
「はは! それにしてもその御姿……いえ、失敬……おお! また新しい絵ですな! 伝統を覆す美人画です。途轍もない値段が……」
その低く愚かな頭を叩く。
「……馬鹿者が! 売り物ではない。これは自分のために描いたのだ愚か者め」
「はは! 失礼致しました!」
中からは外を窺えるが、外からは中が見えぬ仕様となっている垂簾付きの馬車に乗って芸術照覧会を見に行った。車中ではフウがやたらにそわそわしていたので気合が入るように平手打ちを食らわしたのだが、何故か喜んでいた。解せぬ。
念のためにと扇で顔を隠しつつ、簾の隙間より窺ったのだが、出品の揃いが日に日に良くなっていた。各勢力を粛清して押収して揃えた美術品、古作の大半が出揃って大変に目によろしい。個人の家に死蔵されるなど罪であることがこの白日に晒されている。
またこの照覧会も開催されて時間が経ち、これらに触発されて新風を孕んだ新作も出始めていて非常に結構。
あの変態王子に触発された作品もあって嫌な気分になる。更にはその画力の低さからただの猥褻物に成り下がっている物も有って度し難い。あれと一緒にされては困る……諫める意味でも変態絵の新作は描かねばならないというのか? 流行の親としての責任を感じる。
本家、変態王子の特別展示場は相変わらずの大盛況、大混雑で馬車を入れることは避けた。もう二度と見たくない。
そしてお目当て、両巡撫の新作を見に行く。
まずサウ・ツェンリーの百華ならぬ、七果! 流石に小振りだが食べられると見て分かる果実が鉢の一本から七種実っている。しかも驚くべきは時期外れにそのように実っているということだ。農業改革に一筋どころではない光が射している。年中通して実りを得られるという可能性は人類史を塗り替えるぞ。
次にルオ・シランの蒸気機関! 窯が炊かれて機械が動き、車輪が空転している。エデルト技術で実働しているものは数多あるが、これはそのほぼ模倣とはいえ天政の技師、方術使いが独自に設計製作した物という解説だ。どうやら馬力の程は劣るらしいがしかし、作れたことは偉大だ。
自分も出品しなければいけない。端女どもに試した化粧を見せる人形、髪型が分かるかつらを展示する予定だが、北征軍の演習場へ行く日時まで間に合うだろうか。物は迅速に捌いてくれるハン・ジュカンの商店に注文してあるが。
「閣下、あの絵、是非出品なさって下さい。売らずとも日の目を見るだけでも良いではありませんか」
「考えておく」
フウの言うことは尤もである。コーファの空想絵、死蔵されるべきではない。
出発は化粧と髪型の見本、それから絵の作成、出品を済ませてからにしよう。文化芸術、美しさへの貢献は百年生きよう。
■■■
白南道と白北道の境界線であるジン江沿いに布陣しつつ、演習と再編を繰り返して復活中の北征軍の防御陣地を兼ねる演習場へ赴く前に、黒龍公主から今戦争の要点を改めて聞かされた。
布華融蛮と裁兵戦術による粛清の両立である。
布華融蛮策は華やかな天政文化で蛮族を篭絡し、文弱以下の頭も腕も弱い者に貶めて吸収してしまうこと。文化芸術を教えるためには敵対関係であっては難しいので、南ハイロウの宇宙太平団を始めとして天政文化に染まった、影響を受けた者達を次々にと帝国連邦配下に組み込ませ、かの国の人口構成比率を激変させ、百年先を見越して軟弱に品種改良しようという試みである。猪を豚に、狼を犬にしようというのだ。
宇宙太平団のバフル・ラサドには弱者救済論理の教えを強調して布教するように指導がされているらしい。あの騎馬蛮族の如き弱肉強食論理の者達は弱者を切り捨てる傾向に有り、どうしても生まれてくる弱者は弱者救済の力に縋ってしまうものだ。帝国連邦が今、鱈腹食らっている領土と人民は毒混じりなのである。
百年先を見越すとは悠長であるが必須の戦略。蛮族とは認識し合った時点で文明側の負けという言が有る。相手に備えなければならず、その意識、対策、恐怖だけで既に負けに等しい労力が奪われているのだ。失う物がほぼ無い蛮族は打ち負かせても被害の程度から当方の負けしかない。であるから文明圏が宇宙の果てに届くまでを蛮族との闘争とし、勝敗が決するのはその時が来るまでである。
蛮族との争いで重要になるのは当方の被害を抑制すること。そのためには蛮族同士で相争わせることである。今回の帝国連邦の勢いは怒涛で、ラグト、ハイロウ、ランダンから北陸道、ウラマトイまでの蛮族を当ててもまるで戦力が足りなかった。そこで裁兵として充当しているのが反抗的な、もしくは反乱を起こすかもしれない旧王朝のレン家、エン家などの者達だ。自分も含まれている。
エン家関係者はルオ・シランの南覇軍に充てられ、今やタルメシャの大半を属国にして手中に収めた。彼らは中原に帰還することは許されず、現地に屯田兵として配されて土着化させられる予定だ。彼らを橋頭堡に、いずれはかの地の獣人達を数で圧倒し、政権を覆し、百年先には天政下に属国としてではなく地方として組み込まれるだろう。
レン家関係者は今、北陸にて帝国連邦と戦って死に続けている。再編前の北征軍がその先鋒で、次鋒となるのは纏軍と称された軍だ。旧東王の、レン家最長齢の――それでも二十歳になるかどうか――廃王女ソルヒンをお飾りの司令官として置き、帝国連邦軍への防波堤に使われる。またレン家最後の男系男子、廃王子シャンルは人質として禁城に留め置かれる。
両金道で光復党なるレン朝復古を謳う反乱軍が立ち上がっているがあれも計算通り――馬鹿な強がりではないか?――らしい。毒の餌以外にも、毒になる友を帝国連邦の隣に作る。敵を同じくし、両勢力は仲良くなる。仲良くなれば文化交流が進み、何れは牙の抜けた者が大半になる。これも百年掛かるだろう。
黒龍公主の百年掛かりと称する大戦略、数百万と錬兵し、数百万と敵を作って殺し合わせる戦争蟲毒の有様。おぞましい考え方だ。合理非合理の境も遠大に過ぎて見えてこない。
「ワフン」
演習場になっている荒野に到着。待ち人を待っている。自分を待たせるとは良い身分であるな。
新編された西洋式軍楽隊が新しい行進曲”九生報天”を演奏。北征軍がそれに合わせて完全武装で行進縦隊から号令に合わせて、戦場入場隊形、戦闘横隊、散兵隊形へと組み直している。歩兵だけでも動きは複雑だが、これに砲兵と弾薬部隊、補助騎兵も随伴して行われているので非常に高度である。
「ワフ?」
穏やかに吠えながら、こちらにやって来た首を傾げた大犬が目の前に座って、尻尾をゆっくり振っている。霊獣の犬は座った姿勢でも頭が、直立する人間の頭の位置にある。
「何だ、この犬畜生よ。何故首を傾げているのだ? 片輪か」
大犬はこの乳に顎を乗せてきた。首を触るとかなり大きく、深かっただろう刀傷がある。
「ほう、これは名誉の負傷だな」
撫でる位置を首から胸へ、横倒しにして腹へ。
「犬畜生の割には存外良い毛並みではないか。長くて太いな、寒いところから来たか。ここの夏は暑いだろう」
「ウフッ」
歩兵が正面突撃待機、騎兵が迂回機動をしてから下馬、砲兵が配置について弾薬部隊が継続的な射撃体制を支え、実弾射撃訓練が始まった。射撃間隔が妙に間延びしていると思ったら、術と組み合わせて撃とうとしているのでまごついているようだ。
「お待たせしました」
サウ・ツェンリーがやってきたが、構わず大犬を撫でた。どうだツェンツェンの王朝阿婆擦れめ。配下の裏返る様を見てどうだ!?
主人に気付いた大犬が立ち上がり、その足元へ寄って「キュウン」と鳴き「キュウンじゃありません」と植物編みの杖でその頭を叩かれた。そして近くの石に前足を乗せ、頭を下げる……反省、か?
「こちらの公安号が失礼しました、申し訳ありません。一応確認ですが、レン・セジン殿で間違いありませんか?」
「宇宙一の佳人であるが相違ない」
「なるほど」
縦に入る顔の古傷跡を覆って鱗の生えた面のツェンリー、笑いの一つもせん。
「冗談ですよ」
「いえ、セジンこ殿の審美眼ならば間違いないかと」
この背高のっぽのツェンツェンめ、冗談も通じぬのか無視しているのか、からかっているのかもさっぱり分らんわ。それに公主って言おうとしただろ。
「……北征軍、大分仕上がって来ているようですね」
「いえ、まだ足りません。帝国連邦軍との戦いで得た戦訓を基に、顧問のザリュッケンバーク中将が訓練方式から見直している段階です。諸兵科の効率的な統合運用の研究実践の道は遠いものです。指揮と運用の複雑さは従来と正に次元が違います。歩兵は中隊だけではなく小隊単位でもある程度独立性を持って動けるように、砲兵はエデルト式の鏡面反射式観測魔術、弾着修正魔術の習得を目指し、騎兵は古典的襲撃騎兵から下馬戦術を主眼にした現代的射撃騎兵へと転換しなければなりません。補助部隊の変遷まではこの場では語り尽くせません」
「時間が掛かりそうですね。間に合いますか? 纏軍、精強からは遠いと聞きますが」
「彼らが死体の長城となっている間に、こちらは海へ達する塹壕線を築いて掘る長城を用意して騎兵迂回を封じています。纏軍の損耗と工事の進捗は上々。タルメシャ戦線もひと段落して南洋軍もニビシュドラに二個軍団、アマナに二個軍団、こちら白南道にも三個軍団を送ってきますので、近い内に北陸戦線にだけ注力出来る環境が整うでしょう」
フウから聞いた現況と差異は無さそうだ。これだけ聞くと我らの天政軍は完璧に思える。ただニビシュドラとアマナで戦死した実感としては、ただ数を投入すればどうにかなる相手とはとても思えない。
「さて、実験部隊をお預かりしに来たのですが」
「既に霊山の、その地域から外れた場所なので霊山とは言えないのですが……」
「……龍道でよろしいのでは」
「アマナの龍道の地理概念ですね? そうですね、適当ですね。龍道にある龍脈の一つにて出撃待機中です。指揮官も装備も編制も終え、後はセジン殿を待つだけです」
部隊としては一応の完成をしているということ。自分に期待されているのは友軍や外勢力との折衝役か。グジンに軍指揮を任せ、政治面で働くという形態だな。いつも通りと言えばいつも通りだ。
「あい分かった。しかし、龍脈とは?」
「水が流れる地下の道を水脈と言い、つまりは龍が流れていたのではないかという地下道が龍脈となります」
「黒龍公主が大陸間を素早く移動していた術がそれ?」
「そうです。私も一部は掴めてますが……」
あの約五千歳、とんでもない術を隠し持っていたものだ。天政と新大陸をどうにも素早く船も使わず自由に行き来している気配があると思ったらそういうことだったのか。
「私の認識ですが、あの異世界全体を龍道、その中の我々に馴染みがある一画が霊山で、そこを移動に便利な龍脈が通っていて地上の現実世界各地に繋がっている、ということでよろしいですか?」
「セジン殿の言う通り、そうなるでしょう。龍道という地理概念、あちらを把握するのに良いですね。ありがとうございます」
帝国連邦軍以外に懸案しておかねばならない。あの、天を度々引っ繰り返してきた化け物、龍帝の娘を名乗る黒龍という女を野放しにすることは絶対に許されない。如何に有能であろうとも、あれが正気を失わないという保証はどこにもなく、絶対的な権限を持たせ続けることは絶対にならない。不死の狂人且つ天子以上の存在など、認めることは人類の敗北だ。
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