第279話「特務の巡撫」 セジン
目覚めは最悪だ。霊山には朝も夜も無く、窓の外は常に赤くほの明るい。
霊山にある怪しげな、遺跡も同然な建物の中でも人が暮らせる屋敷の一室にて黒龍公主に寝顔を見られながら起きた。”寝てる子供はかわええのう”と酷く痛む頭を撫でられていて、非常に屈辱的で死にたくなる。
全裸だった。どうにかして焼き滅ぼして無かったことにしたい。何をどうするモノも無いので寝ている間に真の最悪は無かっただろうと自殺は留まった。
飲めるかどうか怪しい山の水で顔に頭に体を洗い、龍人向けに昨今改めて作られた衣装に着替え、何とか気を取り直そうと思った時に指差しで言われる。
「おおジンジンや、死んでしまうとはだっさいのう!」
そして奇怪な植物を用いた薬膳を出される。おそらく、間違いなく黒龍公主の手作りの上に薬臭さが鼻につくが美味いと来て少し気を許しそうになるのが腹立たしい。手元に金属は無いかと探したが無かった。
「頑張ったのう。失敗したり成功したりしたのう」
その蛇のように縦の、龍の瞳孔で食べる一挙一動を見られる不快。どうやら慰めの言葉らしいが不快極まる。
「もう人間ではない、男でもない。お前の家族はもう妾一人じゃ。お前には妾だけ。愛してくれるのは妾だけ。末永く仲良くしよう、のう?」
不快感が伝わったらしく、吐き気がしそうな言葉を嗤いながら掛けられる。人間だった時なら殴り掛かるか怒鳴るか吐くか何れかしたかもしれない。この壮健で、おそらく黒龍公主に深層で屈服している龍人の体はそんなことも平に抑えてしまった。
「獣の神を載せた船だけ逃げたわ。後は知らん。虹雀が生きてたら知らせてくれるやろ」
新境道の安否は不明とのことだ。かの地ではランマルカに対して兵力、地の利で圧倒していたはずだが……どうなったかは報せが無い限り全く分からないだろう。東大洋を越えた先から何時になったらその報せが届くのか。
「ジンジンや、東服巡撫から解任。金風飛龍東服軍旗、返して貰うところだけど、どこに落としてきたのかのう?」
嗤われる。
屈辱。箸でその眼球突き刺して脳を回してやりたい。やりたいが手は動かない。震えることすらしない。薬膳に進むだけ。
食べる度に頭が明瞭になってきている気もする。頭痛は治まってきた。霊山に生える正体不明の薬草の効能か?
「で、代わりに特務巡撫に任命ね。旗は無いけど頑張って頂戴」
「はい」
考える間もなく肯定と言ってしまう。
それにしても特務巡撫か。領域にも権限にも縛られぬ令外官の極みのような役職であるが。
「天難じゃ。南方でタルメシャを天下に収めに行っとるけど、そろそろ反撃に遭う頃合い。後退ならずとも大損耗必至じゃ。北方では帝国連邦の騎馬蛮族と人食い小人がもうラグト通り越してハイロウに侵攻しとるわ。畜害風でしばらく大人しくしてると思ったら、それを逆手に取られて奇襲されちゃった。本にどうしよって感じかの……」
黒龍公主が溜息。いつも余裕があるか、人を騙すような顔をしているがこの時ばかりは心底疲れた素顔を晒した。
「……蒼き荒廃の邪神め。次から次へと呪い人を送って来よるわ」
それから、天下の方言を多く知る自分でも知らない言葉を、いつもより低い声色で何事か独り言を始めた。おそらく彼女の、古代に滅びた母語だろう。不思議とその時の声だけは気に障らない。
「勘違いしてる輩が多いんやろうけど、帝国連邦、アレは攻撃より防御が得意や。不利な遠征やってあの兵力、戦闘力。こっちが反対に遠征してみい。大軍を送れない何もない草原砂漠を延々歩かされ、あの重武装の精鋭と、全人口を総動員した民兵と、奴等が支配下に入れた妾達の人民相手に疲労した少ない軍でぶつかる。勝てるわけがない。良かったのう、妾達は攻勢に出なくてええんや。楽やのう、適当に守って死んでるだけでええ。ちょっと痛いだけや」
独り言から天政官語の、方言隠しの作り京言葉に戻る。声色が高く不快になり、顔も何時もの全て見通した上でおちょくっていると言わんばかりの不敵になった。
死ねババア。
「では、ハイロウに軍を揃えて向かえばよろしいので?」
「それはええ。ジンジンにやって貰うことは二つ。一つは芸術照覧会に作品を出すこと。ジンジン、絵とか詩とか得意じゃったろ。それからそういうもんが得意な連中にお金出したり、支援して作品集めといて。これ大事よ」
芸術の奨励が任務? 布華融蛮策を考えればこれを疎かには出来ないが。
「それからどんな手を使ってもええから、天下の外から銀を集めてくること。決済用の銀が全く足りんのやわ。紙、手形じゃちょっとのう、現物の銀錠がたくさん欲しいのう。お金回さんと戦いも長いことやれんから、これも大事よ」
商業活動が任務? いや、それだけではなく通商路の開放や化外の地からの収集、銀鉱の発見も含まれるか。小口取引用の銅銭は事の次いでに集めておいて損は無いだろう。
「ちょっと前に選挙が終わったばかりやから、自分が使えると思った子達を好きに集めてええよ」
気心知れた者達は新境道に置いてきた上に安否不明である。部下は自分で探すしか無いということか。
「龍人はどれ程?」
「大量注文が入ったから無理や」
「予算はどれ程?」
「その面で借りれるやろ? 銀行屋さんにお金使わせるのも仕事の内や」
「分かりました」
「よろしいか。それじゃあ行ってらっしゃい」
「黒龍公主五千歳!」
「まだそんな歳じゃないわ!」
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霊山を降りて赤い霧のような何かを抜けて現実世界に戻る。
戻った先は京ヤンルーの禁城内、人成らざる者が天子となり不要になった後宮を大改築した一角の龍道寺院本堂、組み立て細工の巨石の前。管理清掃員の龍僧がこちらに気づいて平伏する。龍帝万歳だけ唱えていれば良い雑役人め。
寺院から出て、内閣府となった禁城内を歩く中央官僚達に礼をされながら外へ。
小鳥が鳴いて飛ぶ青空、白い太陽と雲。霊山のような怪しげな雰囲気は無く気持ちの良い快晴だ。禁軍兵に礼をされつつ門を出る。
ヤンルーに限らぬが、京は特に革命の度に寺院が良く焼かれる。時の政権が思想信条を操縦したがって、前政権が厚く支援していた寺など焼く壊すは生易しく、便所や家畜小屋に売春宿にすることさえある。だがこの新しき龍朝はそのようなことは基本的にしていない。例外はレン家やエン家所縁の霊廟、記念碑等の破壊である。
街並みは、戦火で一度荒れたが焼討に遭うようなことは無かったので復興も早かったようだ。人通り多く活気に満ちており正に天下の京たる威容がある。
レン家が定めた五つの大旗が否定されて時が経つ。かつてはヤンルー内にて方角を守護するよう中央に正当九大上帝大旗、東に光明八星天龍大旗、南に宝船六金黒龍大旗、西に革新四方霊山大旗、北に竜馬二天無空大旗が翻っていたものだが、それが無い。
禁衛軍の所在を示す碧元臥龍禁衛軍旗のみとなっている。レン朝の各王を示す物でもあった大旗など翻る棹を持たない。
その破壊に代わる再生のように、ヤンルーにて開催されているのが芸術照覧会。全宇宙から言語、形式を問わずに芸術作品を集め、龍帝陛下にご照覧遊ばすという名目で開かれている。龍帝がご覧になることは不可能であるため、実際のところは皆で文物を楽しみ競い合おうという文化的な活動である。
芸術照覧会では作品に対して優劣をつけずにまず並べて公表する。新作の場合は筆名が可能で、最終日に順位はつけずに佳作、秀作、傑作と評されて作者に賞状と賞金が渡される。
これで天下から会場に人が集り、物流が出来て、どこの街道を優先して整備すればよいか分かり、戦争で寂れた宿場町も復活。国内情報も集まり、拡散して商業も活発となる。内戦で傷ついた交通網の復興確認も兼ねるという。加えて普段の生活必需品の物流経路とはやや異なる経路が使われる可能性があるとのことだ。
この策は北征巡撫サウ・ツェンリーが発案し計画し実施した。布華融蛮策としても有効である。
その開催場所へと向かう。人の流れが自然、芸術照覧会へと向かっている。常より天下の隅々から人相身形の異なる者達が集まる京だが、今の時期はそれが極まっている。
作品を見て回る。展示会場は五つの区画に分けられている。
中央碧区、数字は五。既知の名品名作。
東金区、数字は一。既知の文芸作品。
南紺区、数字は三。既知の工芸作品。
西朱区、数字は七。新作の文芸作品。
北白区、数字は九。新作の工芸作品。
レン朝以来のそれぞれの方角に割り当てられた色やその字に数も変更された。このような変更は革命の度にあることだった。偶数値の区画は休憩所など語らいの場である。
中央は緑、東は黄、南は黒、西は赤、北は白という基準は大きく変更されず、似た色や関連する字を用いる伝統には沿っている。その伝統に反した過去の為政者もいるが、評判は後世で悪い。何事も程度があるのだ。いかにその時代に無双となった者でもだ。
何故このような改めをするのか? まずは前王朝が持っている厄を落とすため、そして面従腹背をする気すらない過激な反乱分子を炙り出して死罪、族滅とするためである。
既知の名品名作をまず見る。既知であるだけに一度見た物が多く、若い頃に見て回った記憶もあって新鮮味に欠けた。なるほどそれらは全て素晴らしい出来合いであり、手本とすべき逸品揃い。ただ既に古びて衝撃力が失われて久しいのだ。
新作の多くも、古きを踏襲した素晴らしい伝統的な品々が並べられている。下手に冒険しようものなら嘲笑の的になっている。
嘲笑などすべきではない。新しい物を否定することは未来の否定、とも思うのだが、やはり見て思うのはもう少しやりようが無かったか? という感想が適当な品々。幼少より培われた偏見と思われる眼が新作を嗤いたがる。
本照覧会を計画したサウ・ツェンリーの出品であるが、本人の名前で新作の盆栽がいくつも出されている。全て樹齢の若い小品盆栽ばかりで、世代を重ねて手入れがされてきた大品盆栽が無い。その官職に見合わぬような素朴な品々である。しかし手ずから、一から育てた物しか見せぬという姿勢は実直さの表れであろう。実直過ぎるせいか基本型を忠実に再現した物ばかりで、芸術作品ではあるが見本品といった感じで笑える。もしかしたら奇抜な物が手元にあるかもしれないが、まだ見せる域に達していないということも考えられる。それは後年のお楽しみだ。
ルオ・シランの出品であるが、本人が作ったとは思えぬ逸品であった。
青磁陽刻阿形龍花瓶、白磁陰刻吽形龍花瓶の一対。
見比べれば左右どころか上下も対象になっており、意匠は技法こそ違えど寸法違わぬ様子。名工の如き腕前だがさて、そのような技を磨く時間が彼にあったかと思うと疑問であるが”整方焼”と作者の一言が添えられている。なるほど。
龍帝つまり黒龍公主直属の内閣府より官位が上と見なされる巡撫二人が揃って天政官僚の常道に反するように文人として詩文ではなく手工芸品を展示しているところが昔と違う。これは文だけを重んじず、工を軽んじるなかれという政府見解になっている。大量生産大量消費の戦争の時代に適ったものであろう。
自分も出品せねばならないのか。いまいち気が乗らない。
レン朝では稀であった女性作者が龍朝では解放されたように見受けられる。男か女か分からぬ名前というのもあるが。
目についたのはソルヒンと、家名無しで女の実名が出ている。少し記憶に引っかかる。
レン朝から女性官僚でも極めて優秀ならば登用していた雰囲気が盛り上がっているように思える。禁城を思い出せば女官ならぬ女官僚がいたものだ。
まだまだ家によっては女が前に出ることなど許されず、極端な例では名前すら与えられずに某家の女、娘、嫁呼ばわりの習慣を持つことすらある。ソルヒンが家名無しで出品するには理由があるのだろう。
鵬飛吉天下
法古日新成
邦富家暖治
方世不乱政
目に付いた理由は作品が良いからではなく、正道過ぎて現政権に媚びて面白くなさ過ぎる。面白さ、これが布華融蛮に求められるものなのだ。これが本当に最近作ったばかりの詩ならばおそらく鵬はあの忌まわしき騎馬蛮族共を調子づかせる彗星を凶兆ではなく吉兆に転化させる試みなのだろうが、そこまでの真意は窺い知れぬ。鵬が、立派な大きな鳥が飛んでたらいいな、程度の認識かもしれない。
上品にまとまっていれば既存の目利きの物差しには嵌るかもしれないが、物を知らぬ蛮族の目に適うものというのはそれだけではいけない。単純素朴というか、究極系としては巨岩、巨木の如き衝撃の威容が求められよう。これはそう、酷く悪い例だ。
白梅揺漫歩
薄殻豆珍奇
掌声回頭看我
これは……あの約五千歳が書いたやつだな。筆名が無く、邪が伝わる。しかし自由な詩ではないか。
……む、閃いた。
作品には閃きが肝要である。
芸術の専門家ならば熟慮と試作を繰り返すものだが、専門家ではない。時間が有限となれば閃きに一所懸命する以外に無い。
とりあえず懐紙にでも覚書きをしておこう。出品するかどうか後回しだ。
まずは気晴らし。憂さを払い、真に取り組むべき銀の流入の策を考えねばならない。
■■■
会場を一通り見て回って正面入口へ戻る。戻っている最中にも新しい出品があったが、もう一度戻って見る程の物は無いだろう。
入口に龍天全境図という一番の出品がある。作者というか、出品は黒龍公主となっている。天子代行、実質の皇帝、まずこれを見よとの意。
この巨大な、見上げる程の図を見て何を思うかは人それぞれだろうが、内情を知ればこれがこの龍朝天政を、おそらくこれまでに蒙ったような未曾有の危機をまとめて受けても先のレン朝の様に内戦へと発展することが容易ならざると分かる。
中央政府が直接、中央官僚である道令、藩令を派遣して管理する地域は十九。
ヤンルーを都とする直隷道。
シャンライを都とする碧右道。
インシェを都とする碧左道。
イェンベンを都とする金南道。
モンリマを都とする金北道。
ファンコウを都とする紺東道。
ヨウシーを都とする紺西道。
ジャンシェンを都とする朱東道。
ユワンメンを都とする朱西道。
ニンファーを都とする白南道。
ガンチョウを都とする白北道。
ダガンドゥを都とする西陸道。
カラトゥルを都とする北陸道。
リャンワンを都とする東海道。
ブイカンを都とする南海道。
ランジュウを都とする新境道。
バイハイを都とする外南藩。
オグァンを都とする外西藩。
ジューヤンを都とする外北藩。
全国的に、幸い都市の名前まで改めるようなことまではしていないのが唯一昔を思い出せるところ。だがこれ程の改変を見せられるとかつての影響力を拭い去った革命の感がある。
また属国として冊封される国は十一。
南方にて七王国。
ニビシュドラ王国。
パラマ王国。
シンルウ王国。
バッサムー王国。
カンダラーム王国。
ナコーラー王国。
ラノ王国。
北方にて六王国。
イラングリ王国。
ラグト王国。
カチャ王国。
ランダン王国。
ウラマトイ王国。
ユンハル王国。
この龍天全境図は民にもこの天下がどこまで広がっていてどこから外が化外なのか教えるものだ。照覧会最大の見世物の一つになっている。尚、版画で印刷された小さい物が比較的安価で売られている。
大人でも自分の故郷と、良くて周辺と近場の都への道を知っている程度の者ばかりという意識を変革させるための宣伝活動の一環で、より広く天下を知り、文明人同士の連帯感を向上させて見知らぬ仲間達を認知させようという試みである。
しかしこの新しい行政区分の図を見る度に泣ける。地方行政区の名が歴史情緒も無い名づけ方だ。記号と化している。
かつての王領は道に分けられた。貴人領は以前の境界を無視して意図的に裂かれて州と県に分割されて跡形もない上に歴史的な関所も撤廃されてただの街となる。
藩部も大きくまとめられ、軍権を持った藩鎮の長官である節度使が廃されて独自権限は極小化されている。代わりの藩令に国境警備隊程度の指揮権はあるが反乱を起こせる規模は持てない。
中央集権化は進んだ。かつては地方に派遣される中央官僚ともなればその地の王も同然で、財産を投げ打ってまで親戚や商人が蹴飛ばしても群れを成して付いて来た程だが、今では繁盛する商売がある妻なら離縁を選ぶ程度になった。ただ税収額を計算するだけで徴税権も軍権も裁判権も無い。小額の公共事業程度なら裁量で行えるが癒着をして金儲けが出来る規模ではない。そしてその下にいる道職員に州県両令と職員は中央官僚とは別系統の地方官僚で縁も遠く利害も一致しない。
有能で余計なことが出来る官僚は中央政府にて厳重な監視下に置かれ、無能で余計なことが出来ない官僚は地方へ派遣されてほぼ何もさせて貰えない。
その上で独立した警察組織が十、睨みを利かせている。
直隷道、碧右道、碧左道を担当する三碧按察使司。
金南道、金北道を担当する両金按察使司。
紺東道、紺西道を担当する両紺按察使司。
朱東道、朱西道を担当する両朱按察使司。
白南道、白北道を担当する両白按察使司。
西陸道、北陸道を担当する両陸按察使司。
東海道、南海道を担当する両海按察使司。
新境道を担当する新境按察使司。
外南藩を担当する南藩按察使司。
外西藩を担当する西藩按察使司。
外北藩を担当する北藩按察使司。
彼等は地方官僚ごときにどうこうされる立場にはなく、不正があれば即座に検挙することが出来る。また彼等自身が腐敗しないよう転勤も激しい。また武装警察隊を有するが重武装を持てないし持てるような予算も権限も無い。
その上で正規軍は西域軍、北域軍に分かれる塞防軍。東洋軍、南洋軍に分かれる海防軍と土地や閥から完全に切り離されて再編された。彼等も転勤が激しく、駐屯地で商売などして根付くようなことはさせない。それらを中央の禁衛軍が後背から監視し、有事には督戦する。
そして更に各按察使司、軍を監視する内閣直属の観察使が存在し、幾重にも独走、汚職を防ぐ体制になっている。
これらの上に南覇、北征、東服、西克の各巡撫の独裁的な領域が置かれる。巡撫は最前線に配置され、現状正面以外に構っている余裕が無い上にルオ・シラン、サウ・ツェンリーそして自分レン・セジンと中央もとい黒龍公主に生半に逆らえない龍人のみが配されて暴走、独走を防いでいる。これらは逆に、平時ならば各道、軍を包囲して監視する役目も負う。
官僚の頂点には天中丞相が君臨するのだが、その職務も以前の丞相と違って極めて限定されている。業務は各大臣、院に細分化されて専門性に特化した上で拡大解釈の余地を消している。また任期や定年もあって長くその座に留まれない。
初代天中丞相はウィーとかいう死相が出るほどに痩せた男が務めていたと思ったが、今では名も無い、ただ優秀だという者がその座にいる。龍人ですらなく、各龍人巡撫との親和性が薄い。
これらの統治制度、官軍民分離の制度は発布されて間も無い。間も無いが既に前王朝時代から用意されていて完成されている。そしてこの制度の中身は官僚を機械仕掛けのように動かすよう徹底されている。己の役目以上のことをさせず、役目も非常に局所化されていて違う部署の者が何をしているか把握することも困難な程に分業化されている。少なくとも今の時代において、この制度を把握し、慣れて悪用し、かつてのように閥を拵えて地方で専横を振るうなど全く不可能であるということだ。
これを崩すには外からの力以外無いと考えている。つまり、国体が崩壊するほどの疲弊をしない限り崩れない。そしてそれ程の攻撃力を持つ外敵は……今試されている。
南覇巡撫が最近版図に加えた属国バッサムー、カンダラーム、ナコーラー、ラノは、かの地方の実情をある程度知る者としてはどの程度まで属化が出来ているか怪しいところ。今は快進撃を続けているようだが、程々のところで停滞、それから実際に管理出来る位置まで後退すると思っている。
北征巡撫の本領である西陸道は騎馬蛮族の大王に侵略を受けている最中である。正直、どこまで持ち応えられるかは不明。年内に失陥という報告があっても正直驚かないし、政治も軍もそれに備えて動いている。
東服巡撫の唯一の管理領域であった新境道も、主張範囲は図上でこそ広いが実行支配となるとランジュウ市の一点程度。北は寒すぎるし南は砂漠で行き過ぎると小人の帝国がある。東は大山脈でそこを越えれば現地部族だけならともかくランマルカがいて進出が難しく、そこでは直接思い知らされた。遥か東大洋を挟んでのことであの、黒い丸を見た後のことは分からない。あの時に使っていた虹雀が無事でいれば早めに便りを送ってくるはずだが……それも筆を持つ者が残っていればの話。
西克巡撫は無任状態。魔神代理領にまで天下が広がった時に配置される。何時になるかは誰も知らないだろう。
……良い知恵が浮かばない。場所を変える。
■■■
己で策が浮かばなければ部下に練らせるのも手である。広きを統べねばならない者程それが巧みでなければならない。
部下を集めなければならない。何を行うかで集める者も考えなくてはならないが、何を行うかをそもそも考える者を抱えるのが先決である。忠実にして自分より自分を知る古臣オン・グゾンがいない今、彼の代役が必要である。
官僚登用制度が改められた。中央文官選挙、地方文官選挙、武官選挙の三つである。
県試、州試、道試合格程度の地方文官は、あらゆる領域を跨いでこれから行動しなくてはならないので除外する。能力的にも事務能力があると認められた程度である。方言しか話せない者も多い。人材発掘に精を出せば有用な人材もいるだろうが、その数は途方も無く、やってられない。
予備試験である郷試に合格し、本試験である会試に合格し、殿試にて改めて序列を決められる中央官僚の中から優秀な者が欲しい。
出来れば更に官僚登用後に受けられる閣試を突破して財務と外務に適正有りとされた者が望ましいところだが、閣試合格者ともなれば既に重要な仕事が決まっているので引き抜きは到底不可能。殿試序列高位者も似たようなもので不可能。低位者だからといって割り当てられない仕事が無いわけはないのでやはり不可能。
狙うところは郷試に合格して中央に来て、会試には惜しくも不合格となってこの京にて次の機会まで勉強に励んでいる者となる。
不合格理由も厳選したい。能力が足りない。定数から漏れた。漏れたけど優秀なので枠を増やそうとは寸のところで考慮されなかったなど、不合格者にも色々といる。
単純に知識不足の者。除外。
知識は足りたが気力、体力が足りずに発狂、過労で倒れる者。除外。
不正を働き発覚した者。合格基準に達した上でならば考慮の内。
知識足るも天政官語に不慣れで失敗を犯した者。考慮の内。
特務巡撫の肩書きは内閣にも通じる。会試不合格者の名簿、そしてその不合格理由をまとめた資料を入手した。会試不合格となっても郷試合格時点で官僚の補佐役になる資格が得られるので秘書が欲しい官僚の間では流通している。その流通の中でも上流であればある程にその情報は確かで新鮮である。試験を担当する文部大臣から手に入れた物ならば純度に間違いが無い。
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禁城には自分、レン・セジンの部屋が用意してある。役職が無い時でも連絡先住所、仕事部屋というものは必要なものだ。
手にした名簿を眺めて思案する。選り取り見取りにしては難物が多いというか、微妙に困る連中ばかりだ。そうでなければ会試に合格していわけだが。
レン・ソルヒンから手紙が届いている。無論、検閲済みとの判押し。
先の芸術照覧会で見た名前、記憶の引っかかり、そしてここに手紙を届けられる立場、思い出した。旧皇統に連なる親族、最後の生き残りだ。東王の血筋で遠縁、面識は無い。そんな大事な人物、うっかりとはいえ失念していたとは大分、心労が祟っているようだ。心に余裕が無い証明だろう。負担を分ける部下がいない状態というのはそういうことだ。
若い姉ソルヒンにその幼い弟シャンルがあえて生かされていることを思い出す。自分のように、宦官のように龍人とはなっていない。いつどのように黒龍公主が使うつもりかは分からないが、内乱要素を、それも子供がまともに作れる若い男女を敢えて囲っておいている。
レン家とその配下一党は北征軍として戦っている。西域へ行き、中原に戻ることは許されていない。
先の内戦を始めたエン家とその配下一党は南覇軍として戦っている。南域へ行き、中原に戻ることは一応出来るようだ。
エン家も先の内戦でエン朝天政を自称したが、代わって支配的になったルオ家に保護されていてレン家のように最後の二人にまでは減らされていない。
何か、龍人となったがレン家の年長者として何かしてやりたい気持ちにさせられるが何もしてやれない。せめて慰め? いや、それは哀れすぎる。長めに、外の光景など見たものを書いてやろう。挿絵もつけるか。絵は得意なのだ。きっと籠の鳥で外の風景もろくに見てはいまい。
一つ屋根の下に今いるが会ったことはない。後宮が廃され、改築された後だから皆目見当がつかない。
顔が分からない。レン家風の人相に見当をつけて広い禁城の一人一人に声をかけて回ることはしない。むしろ自分と直接接触などしたら立場が悪くなる。触れ合わないのが守ることになる。
……まずは名簿の一人一人に声を掛けて確かめるしかないだろう。
■■■
幸先が良い。
非常に良い。
あのレン朝丞相だったハン・ジュカンが商人をやっていると耳にしたのだ。
文官探しの途中、主だった京の塾講師に名簿の人物評を聞いて回っていた時のことだ。それも店を京に構えているとのことで早速尋ねることにした。訪問する旨の手紙を出すと直ぐに返事が来た。話の早い御仁であるのは前政権から変わらない。
「お久しぶりです。ご壮健で何よりです」
「セジン様こそ」
前政権の、晒し首にされていてもおかしくない首魁級の二人で席に座り、卓を挟んで茶の匂いを楽しむ。峠を越えて来た感がある。
「商いをされていると聞きました」
「元々商家の出です。店も元々、場所は変わりましたが京で」
「再登用された者も少なくありませんが」
「前王朝に仕えた丞相など今の官僚達には目の上のたんこぶ。復職を例え請われたとしても後のためにいないほうがよろしいでしょう。扱いに困ります」
「なるほど。単刀直入に、出資を」
「資金ですな。何が出来るかで助力の程度、額が変わります」
「芸術照覧会への出品、出品者を集めること。そして天下の外より出来る限り多くの銀を集めること」
「セジン様は新境道にて巡撫をされていると聞き及んでいましたが、何からお尋ねすれば良いのか少々、迷ってしまう程に、失礼ながらこの場にお一人でいらっしゃられるのが不自然です。お尋ねしても?」
「……それから、金融業者から多額の出資を募ること。それらを実行するためにいない部下を一から集めること。肩書きは特務巡撫です」
言ってみたい気もするが、新大陸での出来事は部外者に語れるものではない。
「これは不躾でした、申し訳ありません。さて、南北で激戦が繰り広げられておりますから天下の台所も出入りが激しい。銀の供給が追いつかないことは実感しております。不換紙幣への不信は太平の世が無ければ難しいところ。手に取って重たい銀錠でなければ取引も怖くて難しく、予防にと為替の紙であれば屑になることを考慮して担保に割り増しと自己防衛策に走らなければ女房子供も売りに出さねばならない程です……おっと、それは少々大袈裟でしたがそのような緊張が商業界隈にあります。特務巡撫と言えばかつてはルオ・シラン殿が貴人、軍閥を誅して荒稼ぎをしておりましたが、今はそのようなことが出来ませんな。内から銀を掘ることが出来ませんから、外から掘るしかありません。天下の外から持ってくるというのもそういうこと。外に目を向けます。北の地は今、帝国連邦に圧されてますな。不安定で縮小の恐れがありますし、交易路として価値があるのに今は封鎖されているも同然。敵の種類によっては密貿易という手もありますが、あれはそのような生易しい交わりをする者達ではありませんね。銀はどこからやってくるか? 今、宇宙にて大きく流通するのは西からやってくる新大陸銀と東からやってくるアマナ銀。大陸銀など各地の政権が握っている上に開発も進み過ぎていて旨味が無いから狙っても時間が掛かるだけです。アマナ銀はアマナ沿岸部の海賊勢が流通を握っていて、銀自体の生産は内陸山岳部の龍道勢が握っているが彼等は流通経路を持っていない。この経路の開放、穏当に商取引だけで進めても埒が開きません。既存の商船団が需要を賄っていて横取りは出来ません。そうではない策となれば海軍に上陸軍を出して海賊を撃滅して奪い取るような大事になるのでそれはもう天下一丸となる事業ですから特務巡撫の出番ではありません。であれば狙うは新大陸銀になります。西からエスナル、魔神代理領経由ですが今はそれが封鎖されている。ただしタルメシャ南洋諸島経由はまだ開いています。しかしこちらも既存の商船団が販路を固めていてそれに付け入る隙はなかなかありません。ファイード朝の力が支配的ですのでその枠組みから外れることは困難。政府の武力があったとしても商人の活動を思うがままに操り、あまつさえ大儲けをしようなどとは無理な話です」
「出来ないことは分かりましたが」
「出来ることを教える場合、便宜を図って貰いたいのです」
商人ハン・ジュカン、ここで値の吊り上げか。
「ジュカン殿。私の目的は天下への銀の流入であり、金儲けではありません。特務巡撫が自由に使える資金の確保ではありません。必要経費の全てをそちらが賄い、手にした利益を全てそちらが手中に収めても全く問題がありません。お値段、青天井にて」
「青……」
ハン・ジュカン、目が燃える。男商人、大勝負となれば魂が火を噴くものだ。
「タルメシャ大陸部です。南覇軍が障害を排して戦線を広げましたが、おそらく点と点を結んだ程度。抜け目の無い彼ですから軍事的には真っ先に統制されていると見ますが、しかし経済分野にまで統制が及ぶのはいくら天政無双の御仁と言えど時間的に無理がある。地は耕されましたがそこからの収穫、疎かではないかと推測されます。商機に溢れていますがしかし手が出し辛いのも事実。南覇軍による軍政が敷かれていますので庶民商人が自由に出入りして、とは難しいところ。特許状を得るにも軍事作戦中ですから手続きから何から煩雑極まりない上に検品もあるでしょう。密偵がいないか探ることもあるでしょう。そこで特務の巡撫がいらっしゃれば話が変わります。あなたなら直接、顔一つで南覇巡撫にも面会することも可能です。特許状の件も一度で解決するかもしれません。各冊封国には税関が置かれておりますが、特務の巡撫が御用に通せば無きも同然。これが出来ればタルメシャ大陸部経済圏、一手に塗り替え握ることも不可能ではありません。治安の問題も戦地、戦後の地故に困難を伴いますが、特務の巡撫の権限で兵を動かしてしまえば良いのです。戦時故庶民商人の武装商隊などを組んで立ち入ることは無理でしょうし。そして中原の物産を売り、銀で買わせる。魔神代理領の支配領域であっても、タルメシャ商人や密貿易人……いえ”特務”の商人などを遣いに出せば良いのです。さて、こちらの出資額も青天井にてお応えさせて頂きます」
老賢ハン・ジュカン、恐るべし。
■■■
ハン・ジュカンが他出資者に船団を集め、その息子アンスウが代理人として同行する話が早期にまとまった。流石は元天下の官僚の長、話も仕事も眩暈がする程に早い。
探すべき部下の性質も見極めがあれで成った。
一番に名簿からタルメシャ大陸部に詳しい者、出来れば南域全般にも詳しい者を優先的に集めることにした。
会試落第者ファン・ドウ・フウを尋ねる。
彼はタルメシャ大陸部はシンルウ出身、現在の南外藩にて郷試に合格して上京。京内にある塾に通って会試に備えて勉強し、受験するも”身形卑しく人品、格に届かぬ。またその癖の字は天政官僚足りえぬ”として落第という経歴になる。
会試受験者は氏名は勿論、血統から本籍、連絡先と登録しなければならないので名簿を見れば居場所に行き着く。
連絡先は当の塾講師が経営する下宿だ。塾と寝所の両方を経営するやり方は古代より変わらぬ上手い商売である。勉学に集中出来るとして古より奨励され、補助され、将来の官僚を搾取していないか監督されてきた。
講師を訪ねれば平伏され、そのフウを紹介される。”身形卑しく人品、格に届かぬ。またその癖の字は天政官僚足りえぬ”とはどの程度かを確かめる。
まず目が大きく、馬鹿に陽気そうな人相が信頼出来そうに無い。
背丈が小さく、何度か背筋を伸ばさせたが猫背気味で見た目が貧相。受験用の礼服を着た姿を見たが貧民に無理やり着せたような姿。そもそも人種的に中原の衣装が体格、その浅黒の肌に似合わないということもある。
天政官語の発音、聞き取れるが若干耳障り。声が単純に大きい上に訛り、高音域が耳障りであやふやで、おまけに喋り始めると勢いがついて二、三言多くなる。そして何故か楽しそうに聞こえるところが下品。
問題の癖の字、書いて見せて貰ったが止めが成っておらずに崩れて読み辛い。文書を取り扱う官僚が読み辛い字を書くというのは致命的である。また長文を書かせると止めが更に利かなくなってくる上に文字列が曲がる。そしてゆっくりと書かせれば全身に力が入るようで疲労が見て取れた。
これはいくら頭脳明瞭だろうと不合格になる。
そして用意しておいたタルメシャに関する質問を投げかけ、その答えや見解を聞けばその軽率風な口が回転して博学ぶりを教えてくれた。そしてこちらの質問内容からタルメシャ大陸部で巡撫特権で商売をするということも早々に言い当てた。頭も回る。
物は使いよう。採用とする。
採用を告げれば子供のようにはしゃぎ、旅費学費を出してくれた親族に感謝を始め、子供達の名前も言い始め”いつかセジン様に紹介します!”などとも言う。
そしてその齢を改めて尋ねれば三十と八……同い歳か。
龍人に齢など関係無いが、いやしかし、何とも言えぬ。
■■■
朗報! 大をつけて大朗報!
我が忠実なる老臣、大参将オン・グジン帰着!
「遅れまして申し訳ございません」
「お前がいれば万人力だ!」
新境道から、いくら龍人とはいえ渡洋して来たと聞き驚き、その服装が整っていることにやや疑念。
「服はどうしたのだ? さほどくたびれていないが?」
「道中は脱ぎ、別の服装で来ました。京入りの際に着替えました」
「なるほど」
恥ずかしい格好で京を歩き、禁城に入って自分に恥をかかさないようにという配慮だな。天晴れである。
「今、部下を集めている。芸術作品を多く出品し、天下の外から銀を大量に流入させる任務を帯びている。既に前丞相、商人ハン・ジュカンを後援につけ、タルメシャ大陸部へ向かう手筈。南域に詳しい者も雇った。今その者に更なる部下を集めさせている。後欲しいのは武官、陸と海で戦える軍隊だ。目利きを任せたい」
「お任せ下さい」
武官選挙も改められ、より現実的、現代軍的になっている。
正規兵採用基準に達しているかを試す陸兵試と海兵試。
将校採用基準に達しているかを試す陸尉試と海尉試。
騎兵採用基準に達しているかを試す騎試。
砲兵、工兵、後方要員採用基準に達しているかを試す算試。
情報員採用基準に達しているかを試す調試。
両兵試以外は任官後でも受けることが出来る。
将軍になれるかどうかを試す将試というものもあるが、高級尉官である必要があり実務経験や人事評価の段階から始めるもので引き抜き出来る隙は無い。以前のように貴人ならばいきなり将軍への任官から、などということも無くなっている。将試に落第した在野の某、という者は存在しない。
軍というのは上も下も数が揃ってそれぞれの専門家がいなければ真っ当に動かない。
タルメシャ大陸部行きとなっている今、陸海双方の人材が必要である。
ハン・ジュカンの商会が船を出すがそれだけでは勿論足りない。軍と会戦するほどの規模は不要だが、非正規戦を何度か凌ぎ、また軍容からも見て手出し困難と思わせる規模が必要だ。一番確保し辛い将軍級は我がオン・グジンが務めるので、この点だけはかなり助かる。
名簿には武官選挙に惜しくも落第した者達の名がある。原隊を離れ、両尉試に不合格になった者あたりが狙い目だ。不合格だからとおめおめと帰るには惜しく、誇りが邪魔するような連中をそれに準じた待遇で迎えれば喜々として、そして忠実に働いてくれるだろう。特務巡撫は救い主であると。
落として上げる、これがこちらの一動作で成ってしまうのだから人心掌握の手間が省ける。
グジンに武官集めを任せる。文官集めはまずはフウにやらせている。それから不足があればまた見繕う。
まずは芸術作品を作る。それが思わしくなければ照覧会へ出品するに相応しい物を見繕うことに注力しよう。
それからある程度文官、武官が集まったらハン・ジュカンの商会と相談して乗船させる人数を決める。決まった人数が多ければ集めた文官、武官達の器量を見定めるためにもその者達に人を集めさせる。
方針が決まった。前途が明るくなってきた。
■■■
天政官語、元は行政記録を取るためだけの筆記用語だった。地方で言葉が違うので報告書類だけは共通言語にしなければ混乱するからだ。
次第に天政官語の語彙を用いた口語が文官の間で広まり、公用語とされて武官に広まり、将兵に広まり商人に広まって口語筆記両用の天政下共通語が時代を経て作り上げられた。
天政官語は誤解の出来ないような文書記録用語なだけに情緒的な表現が弱い。
例えば強いやる気を起こす、とは表記出来るが、やってやらうんずぼるりゃー、とは表記出来ないのだ。
蛇を見て吃驚して叫んだ時に、うっぎゃびゃー、などとは表記出来ない。精々が、ああと大声を上げた、程度である。
優れた詩はいくつも天政にある。傑作、情緒豊か、と呼ばれるものはほぼ方言で書かれたものばかり。天政官語で書かれた傑作もあるが、大体にして方言からの借用表現が混じっている。天政官語は人ではなく天の言葉である、とは皮肉混じりに知られる。その天井を破れば文化人として後世に名を残せる。南廃王子で終わるわけにはいかない
墨を作り、紙を用意し、筆を取る。
閃きを思い出せ。
そもそも何故このようなことになっているのだ?
南王領にてレン朝を復すことに失敗したのはビジャン藩鎮節度使サウ・ツェンリーの文弱にある。あの女がルオ・シランを破っていれば自分が次代天子であったかもしれない。いや間違いない。武呆の北に東の成り損ない共が南の文武両輪に敵うはずもなく、天下治める学無く自分を推戴するはずであった。確信している。それが今や龍人となって男根を宦官のように取られ、あの約五千歳に顎で使われている。何たる恥辱!
お前のせいでこうなったんだ。
お前の献身が、そう、ご奉仕が足りんのだ!
まだ余力があるのにあの約五千歳に跪いた姿が忘れられん。何たる様か!?
ここに筆罰を下す。そう、お仕置きだ
淫性女子美書生
悶絶凌辱三選挙
快楽昇乱絶猿叫
忘文覚肉謝父母
魔乳没顔我溺水
脳幹粉砕陰白桃
極大珍宝絶天下
きた!
大発明!
もはや単なる詩ではない!
布華融蛮どころではない!
前後の繋がりなどどうでも良い。
文字の扱いなど表現の飛躍の前に制限する意味が無い。
これは傑作の逸物、爛南文強の風薫る。
筆名も凝らそう。
今、来ている。閃きが来ている……天啓下る!
古き文化の蛹の殻を破り、新しく飛翔する蝶への変態。
名を”変態王子”とする。
何れは正統の自分が天子となり詩帝となろう。
まだ詩帝とは呼ばれていないが何れなることは明白。その前段階であるから王子とする。
「朕が詩帝だぁ!」
「殿下!? お気を確かに!」
駆けつけたグジンが芸術史の分水嶺に立ち会った。何と幸福な男であろうか。
「誰が殿下だ馬鹿者め」
「ぼっちゃま! また悪い癖が出ておりますぞ!」
「ふふん、悪いとは何だ。見よ、これぞ宇宙文化大革命の鏑矢であるぞ」
見せる。グジンの鱗付きの顔が赤くなった。
何時でも冷静に振舞う老臣ですら興奮を隠せない。
「こっ、こ、このような破廉恥な詩! 世に知られれば末世までの恥ですぞ!」
「新しき物は往々にしてその時に理解されないものだ。即物的に考えるな」
「それ以前の問題です!」
「中てられたなグジンよ。芸術は香り高くも毒である」
「ぼっちゃま……ならば忠言として一言聞いて貰えませぬか?」
「何なりと申せ」
「三日、三日です。三日後にそれを再度吟味し、本当に出品するかどうかを決めて下さい。今日決めてはなりません。明日でも明後日でもいけません。お願いします」
「うむ、推敲せよとな? 必要とは思わぬが、そうだな、改めて文字選びをしてみる必要はあるかもしれないな……」
確かにグジンの言う通り、発明の灼熱にこの頭が中てられていることは否定出来ない。時を置いて見直す必要もあるだろう。それに書いた文字も勢いが乗り過ぎて止めが悪い。いや、文字の威容にて魅せることも考慮すればこの止めの悪さも味となるのだが、幾つか試作してみるのも一興である。
流石は老臣オン・グジン、抜け目無い奴だ。
「……うむ。忠言聞き入れた。下がって良い」
「はは」
■■■
文化照覧会に展示されている絵画の数々を見て現代の流行を把握した。古きを重んじた、良き、つまらぬ作品ばかりであった。それも致し方が無い。売れる作品、評価される作品とは伝統を踏襲した物ばかりである。また部屋に飾ることを考えると伝統を踏襲した物でなければ合わないということもある。
まず部屋を新しい作品に合わせる、などという手順を踏まねばならないところで敷居が極端に高くなる。しかし通常、絵に合わせて部屋は造らない。であるから新しい作品はどうしても出し辛い。
部屋に飾らず、照覧会で見せるためだけ、と割り切った新しい作品もいくつかあった。これに追い風を、否、変態王子は竜巻にて吹き飛ばす。
天啓来る。
絵の大きさであるが、そう、実物大とする。これは絵であるが幻想の実在なのだ。
細部まで描く。米粒に写経する筆まで使い、そう、目指すは目に映ったような姿。凹凸に陰影、張りに緩み、硬さに柔らかさ、全て描き出す。
本物を描くにはまず本物を。使いを出して参考になりそうな本物を集めて描く。
本物を描いただけでは新しくない。そう、創り出す。幻想の実在を創り出す。幽地の底から波打ち際へ引きずり出すのだ。
固定概念を捨てる。これぞ美という定型を外す。その上で美しく見せるのだ。否、美しい必要すらない。上手く面白くなければならない。
■■■
……没我に至り、寝食忘れ、絵の具の注文量を覚えていない。
出来た。
白に銀粉混ぜた白銀の豊かでやや踊るように曲線、軽く乾いたように浮く長髪。
反するように褐色の照り返す潤いの、薄氷張る美肌に鍛えた細身の筋骨に、細い腹と大きな骨盤。
反するように大きく指どころか顔すら没するような乳房に桜色の勃起する乳首。
その色合いでは有り得ぬような、硝子と宝石を重ね合わせた万華鏡の如き大きく丸い瞳は光って潤んで見る者の目線に合う。そう、熱帯雨を宿して見つめてくる。
腕を上げる、脇を見せる、脚を開く。浮き立つ筋と骨と関節がそこにある。
表情は無表情ではない、伝統では有り得ぬ程に、分かるように蠱惑に微笑む。開いた口に舌が性器のように涎にぬめり光る。
隠す必要は無い。白銀髪揃えの恥毛に、開きともすれば目を背けたくなる程に気味の悪い女陰に核も、肉の桃色に照りを出す。
腿の筋肉を張り、無作法にも向けた足の裏。足の指がこっちにおいでと開いて曲げて誘い寄せる。
……有り得ない! こんな女は世に存在しない。しかしこの得も言われぬ幻想の、幽地の底に潜む美女は紙に宿っている。この自分が見える波打ち際にまで引き上げた!
有り得ないが在る。無いが在るのだ!
あなたはいない、そこにいる!
震える。これは罪ではないのか? 罰する者も法も無いこの禁域に今到達しようとしている。
これは幽地の底が天を突く。文化の方が破壊される。
私は変態した!
まずこの基本形。
次に背面より臀部強調。
着衣。
半分脱衣。
逞しい男との交合!
この美女からそそり立つ陰陽の男根!
美女が男の尻に!?
そして、絵に詩を? 否、口語を載せるのはどうだ? そう、絵の美女が何を喋っているのか、叫んでいるのかを描き添えるのだ! これは大発明だ! 絵画史が分水嶺を迎えているぞ!
しかし喋りはともかく、叫びはどうする? 天政官語はそれに対応して……いやこれだ! 天政の官字を意味ではなく音だけとって絶叫させるのだ。いける。
またしても天啓。有り得ぬが在るのならばまだ行ける。
別の姿を、そう、髪を緑に肌を薄い青とする。
何だ? 自分は何を描いているのだ?
髪ではなくいっそ太い蛸の如き触手はどうだ? これは性急、しかし尻尾だ! そうか、尻尾の生えた美女だ。何も前に生やさずともこちらがあれば極端ではないではないか。むしろ調和を成す。しかし尻尾の毛と照る肌の均衡が……そうか、肌の色が尋常でなければ尻尾は無毛でも良いのか。
尾だけで足りぬ、翼? 鳥の翼!
ああ、何と鳥の翼を生えたあなたの奇怪美麗なることか……待て、翼の大きさはこれで美しいのか? 比率を変える。そう、身の丈を超えて己を覆い隠すが如きの大翼!
傑作! 傑作より出でた大傑作! 藍より青が出た!
あぁ、あなたはいない、そこにいる! ん、だが待て、魔神代理領に一人二人いやしないか?
平和になったら行ってみたいものだ。
そして天下に組み込んだならば、そう、並べてみるのも悪くは無い。裸で。否、自ら考案した衣装はどうだ? 素晴らしい。
■■■
グジンとフウ、ハン・ジュカンの働きもあって人と物と金と具体的な渡航計画も整いつつある。
後はこの文化照覧会に出品した諸作品を見る民衆の驚きを眺めることだけが残っていると言えよう。
「ジンジンや、短い時間でようあそこまで準備整えたの。流石や。期待しとるわ」
「はい」
黒龍公主とその愛玩動物こと薄殻豆のピエターと二人一匹で輿に乗り、龍人に運ばれて垂簾の内側から会場を見て回る。
地方ではまだ見慣れないだろうがヤンルーでは既に龍人のような異形は、珍しいが目新しい存在ではなくなっている。レン朝とそれ以前ならば限られた者か戦場でしか見ない存在であった。
「虹雀、代わりをやるわ。それから新しい生き物、拵えたから後で使ってみて」
「新しい?」
「虹雀みたいな幽地の底の生き物や。波打ち際程度ではない、のう。なんや仙術とか言われてるらしいけど、妾も何千年も遊んでたわけやないのよ。獣の神が手に入って弾みがついてきたわ」
「はい」
獣の神の名が出てピエターが「はわわー」と言ってそわそわしだす。黒龍公主が撫でると落ち着く。
むう、ちょっと手を出したい気がするが。
「出品もしたようやの」
「はい。筆名は変態王子です」
「変態、王子?」
「変態王子」
「ほん? まあええわ。簡単なものでもなんでもええ。真似したくなるような面白い、興味を惹くものがええ。詩は頭で作れる。だがのう、こいつは紙に書いて記録したくなる。紙と筆と墨が欲しくなるのう。書いた詩が増えてくる。詩集にしたいのう、製本工場が欲しいのう。工場を建てるには道具に工員やら原材料輸入の体制、運搬手段と諸々揃えにゃならんのう。そんなもん草原にあるか? 無いのう。草原を捨てねばならんのう。草原を捨てた者達を支えるには畑がいる。家がいる、色んな物が要り用や。不動産を持つ者、遊牧民ではないのう。農民と呼ぶのう。畑があると人数が増えるのう。草原じゃ支えきれん。永劫、農地に縛り付けられる。剽悍な遊牧蛮族どこへやら、や。言葉が奴等を文弱に貶める。布華融蛮、良い策じゃ」
運ばれる輿が、大盛況いや大狂乱にすら陥っていると言っても過言ではない”変態王子”特別展覧場に到着する。
観衆が溢れんばかりで、警備の者が封鎖線を張って絵に触れないように押さえ込んでいる。詩の方も驚愕の評判を受けたがここ程ではない。
試行錯誤した結果、四点に精力を絞って描き上げた。
白玄裸女招足図。
白玄裸女反背面交合図。
陰陽奇女攻勢男鳴図。
光鵬天女降臨図。
下書きは相当に枚数があり、この特別展覧が盛況であれば、下書き試作であると断りを入れて展示しても良いと管理担当者に預けてある。印刷工場を使って複写量産、天下の外へ売り込む計画もハン・ジュカンに進めさせている。
ふふふ、あのハン・ジュカンをも驚愕屈服せしめた傑作画、特と見よ!
「どうですか?」
「んまっ」
あの約五千歳が口を開けて間抜けな声を漏らした。
ふん、勝った。
画帝美術館の間取りも考えてある。
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