第269話「段階的後退作戦」 ゼクラグ
収穫が間に合わず麦が枯れ腐った畑が見える。これでロシエが食糧不足というのだから戦争は他人の庭でやる物だと改めて考える。
暦上はまだ秋であるが寒い。雪に雨が日に交互に降るようなはっきりしない天候が続く。雪ならばいっそ乾くのだが雨混じりがいけない。体力を奪い、中途半端な湿気が衛生面に不安をもたらし、道の泥濘化を誘う。工兵が道、補給基地を整備していなければこの廃都シトレからの後退戦を順調に行うことは出来ないだろう。
我々帝国連邦軍は被害が続出しているものの、まだ四十万軍を号する程度の規模を保持する。
敵ロシエ軍は、まず正面から押し寄せて反撃に移っている、オーサンマリンで再編された軍が四十万弱。一端壊走したものの、また再編をしている革命軍が十万余りと見込まれ、それと合流すると思われるアラック軍は変わらず無傷で十五万。新大陸軍五万――最新情報によりモズローなる将軍が率いる――がユバール西部から足は鈍いものの北のジュオンルー攻略か、オーサンマリン入りをして体勢を立て直すかどちらかを目指しているという。革命ユバール軍や南部軍といった動かない戦力を除いても、今後直面する敵の数は七十万見込み。
肥沃な大陸系大国家の総力的国土防衛戦となれば内戦や経済不安といった負の要素を加味したとしてもこのような規模の軍を揃えてしまうのだろう。今後の現代戦の姿が見えてくる。
帝国連邦四十万軍の被害を最小限に抑えてロシエに出血させ、我々の力を世界に知らしめるには単純ではいけない。
まずは敵中枢まで進撃した。そこで大都市、王都シトレの廃都化によって敵に我々を国内に置いていては厄介極まりない存在であると強烈な精神衝撃を与えた。どんな大都市であろうと短期間で破壊出来ると敵に教えた。
ロシエが選択したのは被占領地域の焦土化を待って今後永きに渡る大損失を甘受しつつ軍の再編に努めることではなく、早期に反撃に出て被占領地域の解放、若しくは焦土化に労力を差し向けさせないための努力を行うこと。
敵の出方によってこちらも選択しなければならない。選択したのは後退戦術。
後退戦術で目指すことは、我が軍は敵勢力圏内にありながら、しかし敵に対してあたかも外敵勢力圏内へ攻撃するかのような負担を強いることにある。
中央軍はポーエン川北岸街道沿いに後退。
中央軍より北側の街道沿いに、一歩先んじてワゾレ方面軍が後退。中央軍と合わせて大きな斜陣を描いて側面攻撃に対応。
ワゾレ方面軍より更に北側を騎兵主体のイラングリ方面軍が戦線を大きく広げて側面防御に努めながら柔軟に後退。
マトラ方面軍はポーエン川南岸街道沿いに後退。補助にガートルゲン軍が付く。
マトラ方面軍より南側の街道沿いに、一歩先んじてシャルキク方面軍が後退。マトラ方面軍と合わせて大きな斜陣を描いて側面攻撃に対応。またその保有する多めの騎兵戦力で戦線をやや大きく広げて側面と後方に対する警戒を強くして柔軟に後退。
バルマン軍はシトレ放棄より早期に後退させて運河防衛線の一角、カレロブレ攻略に向かわせている。
後退することによりシトレまで延びた補給線を縮めて負担を軽減する。補給物資を受け取る距離を短縮出来る。また前線工廠へ酷使して故障した装備を修理に出す仕組みがあるので質的な戦力回復を図る頻度が上がる。
後退しながら焦土戦術を敢行して敵に疲労損失を強いる。進撃時には機動力重視で破壊していなかった村や都市、燃料供給源である林を焼き払い、井戸に糞尿土砂を入れて敵に、寒空の下での辛い行軍を強いる。これは冬季の訪れに合わさって効果を良く発揮する。天候が雨混じりの雪が多いので室内が乾燥している建物はともかく、林の焼討は湿って難しく徹底しなくて良いことになっている。
我が軍の補給線事情を改善するように街道整備が工兵によって進められる傍ら、未だ凍結の兆しの無いポーエン川の堤防にも手を加えていた。我が軍の後退に合わせ、堤防を決壊させて洪水を引き起こして敵の反撃路を泥濘とする。可能ならば復帰見込みの無い負傷兵を入れた有人地雷により、敵の行軍隊列を遮断するように爆破、足止めしてから決壊させて混乱させる。出来れば単純作業で汚染困難な規模の水供給源たる湖沼へその濁流を流し込んで泥水を足して短期間でも飲料困難とする。
後退は段階的に行われる。大きく、廃都シトレ、運河防衛線、ポーエン川――上流――防衛線の三つ。第三段階まで下がれば前線工廠は近く、友好勢力のバルマン領内でもあるので戦いは楽になる。段階的後退作戦は敵領土を侵食、拠点確保を目指すのではなく敵兵員の死滅――撃破にとどまらない――を志す帝国連邦の思考に適う。
後退方法。砲兵の運用が我が軍の根幹であり、その機動に他兵科は従う。反撃に出る敵正面を支えるのは斜陣形を組んだ砲兵隊による後退射撃。
後退射撃の手法。斜陣形の先頭翼端の一つ目の砲兵隊が後退する。この時に、他の砲兵隊は射撃体勢を取ったまま敵に対して迎撃を行う。一つ目の砲兵隊が予定地点まで後退し、射撃体勢を取ったならば新たな先頭となった二つ目の砲兵隊が後退し、一つ目の砲兵隊の側面、そして一つ下がった地点にて射撃体勢を取る。それから三つ目、四つ目と全砲兵隊がそれに準じ、新たな斜陣形を形成。射撃体勢を取らない砲兵隊の数を最小限としつつ後方へ、相互に射界を邪魔しないように機動する。尚、歩兵、騎兵、予備砲火力たる軽砲兵と騎馬砲兵がその斜陣形を護衛する。また砲兵隊の後退予定地点には工兵隊が――事前に優位を取れる丘などの地形を調べた上で準備工事をしてある――先行し、速やかに大砲と砲弾の配置が出来るように砲兵陣地を整えている。
前線を支えるのが斜陣形。それを下支えするのが後方陣地。
後方陣地は進撃用に設営した補給基地や廃村、廃都を利用したものである。ここには強力な敵の攻勢を阻むための防御施設が築かれ、重砲兵陣地を内包する。また補給物資の集積所として斜陣形の後退を支える。修理見込みのある火器、復帰見込みのある負傷兵もここに後送されて可能なら修理と治療を行って前線復帰させる。
斜陣形と後方陣地の位置関係は、常に重砲兵隊が支援可能である状態を維持する。
重砲兵隊は機動力が低いので後退時期の見極めが重要で、最低でも斜陣形を形成する砲兵隊より先に後退しなくてはならない。だが斜陣形の崩壊が予測されるような危機には殿部隊となって後方陣地で敵の攻勢を挫き、反撃するまで火力を発揮する。
後方陣地の放棄手順。併設されている井戸には糞尿土砂を入れ、建物は焼いて敵に利用させないよう努力する。地雷工兵が、該当防御陣地を奪取した敵部隊を吹き飛ばすための地雷を設置しているので復帰見込みの無い負傷兵か有志が機会を見計らって爆破する。可能なら地雷の爆破には堤防の決壊を連携させて水を引き込み、泥濘にして利用不能にするどころか障害物にする。余裕があれば集積した死体も切り刻んで混ぜ、大分寒くなって来ているのでやや効果は薄いが疫病発生源とする。精神効果も狙う。
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敵の攻撃方針は前衛に雑兵軍を盾に進み、後衛には決勝の時期到来まで温存される精鋭予備軍を置くことのようだ。
砲撃対策に散兵隊形を取る軽歩兵を先頭に迫ってくる。敵の軽歩兵は新たに椎の実型の新型銃弾を使う施条銃を一部装備するようになり、射撃戦におけるこちらの圧倒的優位は減じた。新型施条銃の性能は未だにこちらが上回っており、更に迎撃側という立場から優位な地形を選べ、騎兵には乗馬の背丈分の高所と遊牧民の良視力に十分な射撃訓練という要素も加わって優勢は崩れないものの被害数が進撃時より増加している。また射撃戦だけで排除は困難なので歩兵、騎兵が撃退へ突撃に向かわなければならず、後退計画と合わせて非常に前線が忙しなくなっている。その分労農兵士達への負担は増加する。
軽歩兵の先導に続き、敵の戦列歩兵が無数に広域に展開して迫ってくる。その戦列歩兵というのも軍服も不揃いで小銃だけじゃなく槍まで持ってる非正規兵で編制されている。正面横隊にある程度熟練した正規銃兵を置き、両側面縦隊を素人の徴集銃兵や槍民兵を置いた老兵新兵を混合させる効率的な戦術を取って質量の均衡を保っていて中々に侮れない。ただ前時代的な密集隊形であることには変わらないので榴散弾射撃により一挙に粉砕することが出来る。ただし、何度射撃しても代わりの戦列歩兵が現れ、壊走しても後方で再編制されて復帰している様子だ。
呪具治療体制が整っているのは敵も同じで、以前までなら戦死、復帰不能になっていた者達が復活を果たしているので実数以上の兵力を感じる。雑兵かもしれないが突破力だけは保証されているのが戦列歩兵。弾薬、砲身損耗に吊り合わないような敵であったとしても無視は出来ない。
敵の考えることは想像するしかない。つまり、分からない。ある時突然に敵が兵力を集中させて一挙に攻勢を強めて突撃突破を狙ってくることがある。こうなると斜陣形も容易に後退射撃を行えず、踏みとどまるか迎撃に適した隊形に組み替えて迎撃することになる。ここで活躍するのが常に支援可能な状態にある重砲兵隊。観測班と連携し、砲兵管理部長が射撃機会を調整。
攻勢中の敵は勿論のことながら、機動中の野戦であるので塹壕に篭っているわけではなく無防備、生身を曝している。そこへ敵の意識の埒外から長射程を誇る重砲からの重榴散弾同時一斉着弾。伏せることも物陰に隠れることも考えていない移動中の敵へ、極限の衝撃を一瞬で叩き付け、殺し漏らしにはその光景で精神打撃を与える。そして壊走するまで射撃が継続される。斜陣形に射撃の余裕があれば敢えて敵先頭集団のみ残して分断するように射撃し、残りを砲兵や護衛の歩兵、騎兵に任せて分担破砕することもある。
射撃位置の算定は素早い。進撃した時、そして後退しながら細かく地点を設定して距離を測り、諸元を事前に割り出している。射撃が始まる遥か以前からその準備がされているのだから素早く正確な射撃が当たり前のように可能になっている。一度敵勢力圏内に押し入ってからの後退という動作によりその時間が確保出来ているのだ。
ここには工夫がされている。同時一斉射を最初に行ったのは最大射程ではない。壊走した敵が後退し、士気をある程度取り戻して再編作業を行っているところへ再度同時一斉着弾、防御行動もしないで士官、下士官が人数を数えて隊列を整えながら突っ立っているところへ大量の散弾を一時に叩き付ける。そしてまた壊走するまで射撃が継続される。
重砲兵隊による敵の攻勢の撃退時に隙を見計らい、砲兵隊は隊形を整えたり一挙に後退したり、弾薬の補充に大砲の交換などなど体制を整えて次の行動に備える。勿論、必要があれば重砲兵隊の射撃に連動する形で射撃を行って戦果を最大にする努力を行い、場合によっては歩兵、騎兵の逆襲支援を行って撃退を助ける。
同志ゲサイルが考案した、ランマルカの同胞から教わったわけではないマトラ独自の射程欺瞞戦術。これによって敵に安全圏を悟らせず、奇襲的な砲撃を重ねて可能にし、効力を増大させる。戦いを重ねれば何れは敵にその射程を暴かれるが、熱戦となっている前線にてその射程情報を常に活かせるかは別の話であるし、それを警戒して奥手になるのなら敵の行動に制限を与えることになり、結果こちらが優勢になれる。高度な技術を持った観測班、主に偵察隊の存在と熟達した技術を持つ重砲兵、その行動に追随出来る精鋭の歩兵に騎兵に砲兵、またその部隊間連絡を速やかに正確に行う伝令に信号班がいて、それらを統括する砲兵管理部長の存在あってこその高度な技術である。
砲兵管理部長は各方面軍に属する全砲兵に対して優越、統括指揮権を持っている。それだけではなく別の方面軍の砲兵管理部長に対して要請を行える。特に攻勢激しいポーエン川北岸沿いの街道に対しては、マトラ方面軍の重砲兵隊が川越しに対岸の敵を狙い撃つことがある。またその時にマトラ方面軍自体を守る重砲火力が不足するのでこちらシャルキク方面軍から支援を行う。砲兵を操るという専門的なことに対して専門家が専門家同士で連絡して行動出来ている。
この後退戦は勿論だが一日で終わることはない。歩兵、騎兵が護衛する斜陣形が、防御、補給、宿泊体制の整った後方陣地にまで後退するのが一つの単位になっている。昼夜問わず、時間帯は定まらないが労農兵士達が戦い続けるためには束の間であっても休みが必要だ。
斜陣形の後退と収容に際し、重砲兵陣地の撤収作業が渋滞、衝突しないように計画を立てて動かし、次の後方陣地へ収容させる。重砲兵隊が後退する機会は様々ある。堤防決壊が大規模に成功して敵の足が止まっている時が大半。敵大兵力による集中攻勢を粉砕して士気を低下させた時や、夜になって敵の行動が停止した時も機会だ。こちらは既に街道沿いに街灯を設置しており、夜間行動に合わせた部隊もいる。重砲兵各員の疲労だが、重砲の移送が遅いだけで夜間に先行して後方陣地に送ったり、砲兵自体はただの生身なので移動しないで寝かせた後に馬車なり船なりで――その中で寝かせても良い――送ったりすれば問題無く追随出来る。
基本的に敵の雑兵軍は夜戦を不得意にしている。訓練未熟なので暗闇で行動すると行軍すらままならず、戦闘となれば同士討ちも頻繁に行う。昼間は休み、夜になって敵を抑えるための夜戦専門部隊が出撃して敵を休まず、牽制している間にこちらが自由に動きやすいその時に後方陣地の放棄、転換を行うこともある。
敵には夜戦を得意にするフレッテ兵がいる。雑兵軍は雑兵過ぎてフレッテ兵が幾らいようとも先導することはほぼ出来ていない。ロシエ語とフレッテ語は借用語などはあるが別系統で、昼間はともかく夜間の連携は非常に難しい。バルマン人士官からの情報だから間違いない。
フレッテ兵単独の夜襲は毎晩のように行われている。挑発程度のものから、一部練度の高いロシエ兵部隊を交えた本格攻勢に近いものまで。
デュアルニーでの我が司令部襲撃事件を反省に、常に死角、暗闇を作らない防御体制を築いているので”首狩り作戦”は全て予防出来ている。
フレッテ人は強い光と音と臭いに弱い。
照明を隙間無く、陣地外周にも大量に用意し、竜による照明弾の投下を不定期に行って夜間でも視界を広域に確保すれば大部分の奇襲を予防出来た。燃料は破壊した村や都市の廃材、資源節約に手元にある死んだ人間の衣服や脂肪を一部利用すると経済的で良い。ただ発見されることを恐れずに突撃してくることもあるので完全に攻撃を防げるわけではない。照明は柵ではないのだ。
大砲での空砲撃ちや、大量の爆薬を鳴らす大音響だけで攻撃意図を挫けることもある。無論実弾を直接叩き込んで粉砕するのが最良なので、事前に周辺を区画割りして各砲台に指定区画へ即座に射撃出来るよう諸元を割り出させておく。そうすれば砲兵が直接視認しなくても警戒要員の指示で指定された区画に事前に計算しておいた諸元に基づいて射撃すれば暗闇でもある程度の命中が期待出来る。こうした緊急防御射撃もフレッテ兵に限らず有効。重砲兵の射撃もいわばこの部類。観測は事前に済ますのが早い。
予防に、不定期に毒瓦斯弾を周囲に散布することも有効。咳、くしゃみで敵を発見、撃退したこともある。フレッテ兵は特に鼻が過敏で、人間なら嫌がって逃げ出す程度でも呼吸困難に陥って死亡する事例が散見される。生捕りにして行った人体実験からもそれが証明された。またその咳や苦しむ音から、大分不正確だが位置を割り出して緊急防御射撃で砲打撃を与えることも出来た。
ただ完璧な夜襲対策というものは機動を続ける野戦では不可能なもので、火器を嫌った前時代的な装備のフレッテ兵の夜襲には損害が続出した。夜の白兵戦という環境ではむしろ前時代的な装備の方が有効な場合すらあり、専門に訓練されたフレッテ兵は手強い。場合によっては二百歳ぐらいまで生きるというフレッテ人の長い年月を積み重ねた戦闘能力は高く、名手一人に三十人近く殺傷される事案すらある。体格に恵まれたビプロル兵が混じれば人と戦っている雰囲気にすらならない。
自分の護衛よりも夜襲対策配置に「赤目ちゃんに今度は勝つ!」と意気込むサニツァを付けることによってそういった名手、巨漢相手でも悪戯に被害を拡大することもある程度防げた。暴走せず、自分が戦うべき強敵を見極める判断力を持っている。
それから夜番に出る度に「皆のおやすみはこのブットイマルスが守るよ!」と逐一決意表明に来るのでうるさかった。あと己の代わりのつもりかジールトとメハレムが常に傍にいるようになって、これもまたうるさかった。メハレムは大人しいが、ジールトがちょっかいを掛ける度に仲良く騒ぎ出す。何故か休憩なのにミリアンナも司令部にわざわざ寄ってきては何事かにつけて短気に怒り出す上に余剰食材――死傷者の都合で定数作っても余る――でお菓子を作ってきては幕僚一同にも振舞うのでより一層『うぴょぴょー!』とうるさい。
敵は大軍、そして被害を厭わない攻撃を繰り返してくる。それを諸兵科連合で防ぐが限りが無い。その連合も砲兵の火力が支えるものだが、不足すると味方への被害が増える。続く射撃で砲身と砲弾が間に合わず、火力が減衰傾向。この状況が続くと後退が困難。既に前線工廠の負荷を超え始めている。
シトレ周辺で得た人間の女と幼年者の捕虜、十万六千四十一名を使った人間の盾戦術。
放棄した後方陣地以外にも設置した、復帰見込み無しの負傷兵を入れた有人地雷。
同じく復帰見込み無しの負傷兵が敵中で待ち伏せ攻撃――可能ならある程度敵の隊列が目の前を通り過ぎてから背中を撃って混乱させる――を決死で行う個人塹壕。
こうした工夫も合わせて後退計画は順調に推移して継続的に打撃を与えているが、敵はまだ精鋭予備軍を温存している。雑兵軍が死滅する時が訪れても、疲れているのは我が軍で敵の精鋭予備軍ではないのだ。予断を許さない。
未到着のアラック軍もまた敵の強力な予備兵力。どうにも復帰する動きが鈍いが残存している革命軍もその一角。川を前に、遮蔽物にするような防御しやすい地形に今我がゼクラグ軍はおらず、それらの予備兵力に対してはポーエン川防衛線への後退が間に合わないと戦いが厳しい。
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後退が続く。敵の人的資源は無尽蔵かと思える程だ。相手から見ればこちらの弾薬の数に限りは無いのかというところだろうか?
雨と雪の日が繰り返される日々から、最近は雪の日が増えた。降雪量はそこそこで、紅葉に雪が被るという景色になっている。暦上でも、植物の反応もまだ秋だ。
気温は下がったが川の凍結にまだ至らない。流れの緩い川縁に薄く小さく氷が張る程度。
堤防の相次ぐ決壊と水源汚染、止まらない戦場に大量の肉片ということで敵に疲労感が募って来ている。敵兵の拉致、捕虜拷問、人質の女か幼年者を一名解放する代わりに、などなど硬軟合わせて尋問して情報を集めた結果が敵の過労の実態だ。
我々の後退は訓練も疎かな民兵にとってはかなり早く、もたもたしていると追撃にもならないのでとにかく前進を、睡眠食事休憩の時間も削って続けなければならない。勿論そのような強行軍となれば脱落者が続出する。
川の氾濫で泥濘にした道を直さなければならず、直すまでの間は食糧弾薬を積んだ車両が進めない。泥濘を迂回するにも、板を渡して直進するにも非常に時間が掛かり、前進する部隊へ食糧が行き届かない。勿論撤退した後に食糧など残さない。栄養不良の敵兵は体力が持たず、また脱落者が続出。
飲み水の不足。水源は逐一汚染しているのでまず飲めない。人も馬も飲み水の確保に苦慮してこれまた足が鈍る。ポーエン川の水だが、堤防決壊の影響で泥が混じっていて腹を下しやすいようだ。冬季で水温が下がっているので尚更内臓への負担が強い。栄養不良の状態で飲むと死の危険すらある。湯を沸かす余裕は、鈍々としてられない最前線にはあまり無い。川沿いから遠い道を進む我がシャルキク方面軍を追撃する部隊は尚更。
ならば疫病は蔓延しているだろうかと思ったが、病気の傾向があったり負傷した場合は後送というよりは道の傍らに残置され、後からやってくる衛生部隊に救助されて復帰させられる仕組みになっているそうだ。脱落者を含めて一度強行軍で挫けても再び立ち上がれるようにと、突撃で幾万もの損失を厭わない傍ら、細かく拾い上げているそうだ。侮れない。
その復帰策によって幾分か効果を減じている敵領内焦土戦術だが、勿論のこと無意味ではなく後退する度に敵の勢いが無くなってきている。
他戦線の情報は竜の伝令がいるとはいえ少し遅れて入ってくる。
後退する戦線の北端部で広い面積を担当するイラングリ方面軍の食糧弾薬が不足気味らしい。ワゾレ方面軍が彼等に不足分を渡し、中央軍からワゾレ方面軍が失った分を補填し、中央軍が後方から優先的に補給を受けるというやりくりで素早く対処したとのこと。応用を利かせて対処したのは褒められるが、万全な補給体制が整っていれば発生しなかった事態とも言える。早期に、更に後退しなければ食糧弾薬切れで戦闘能力が低下して苦戦を強いられるだろう。欲張ってシトレより先、オーサンマリンにまで手を掛けようとしていたならば補給体制が崩壊していた危険性も無くはない。
この後退に参加していないバルマン軍は運河防衛線の一角である、ファンジャンモートより北にある都市カレロブレを運河東岸側から攻撃中。これは後退するワゾレ方面軍が西側から挟み撃ちにすることになっている。
中央軍の機動力が重砲兵の増加で低下したという報せを受け、対岸からの重砲支援を行える位置にあるマトラ方面軍は後退速度を中央軍に合わせることになり、同時にシャルキク方面軍もそれに合わせることになった。カレロブレへの道を、北東に変針して行くワゾレ方面軍だが、道が悪くて重砲が足手まといになるので第二四砲兵師団ごと中央軍に託したとのこと。一番に激しい攻撃を受けている中央軍の火力を増大させることは悪い選択ではないと思うが、今は火力より機動力と考える。これは悪い報せの一種だ。
水陸作戦を得意にするヤシュート一万人隊の作戦負担を減らし、予備兵力にして何時でも中央軍へ駆けつけられるように指示しておく。その分シャルキク方面軍の側面、後方警戒が手薄になってしまった。
鈍足の対価、というわけではないが朗報。同志セルハドによって新兵器が開発され、同時に実戦投入がされた。性能試験も運用試験もされていない兵器だが効果は初の実戦投入で抜群と評価された。新兵器の名は薬缶投射砲という物で、低圧力で大きい金属缶を損傷させないように射出。これは砲弾のように炸裂せず、大容量の毒瓦斯を缶の排出弁から持続的に散布する仕組み。
毒瓦斯弾は名前こそ派手だが実質は俗称”悪臭弾”と呼ばれる程度の物で殺傷能力は極めて低かったのだが、金属缶方式を採用することにより長時間薬効を与えることにより呼吸困難に陥らせ、昏倒させたならばそのまま窒息死へ至るようになった。薬効が単純に濃厚になったことで目鼻などへの痛みも増して錯乱、避難の防止、さらには衝撃死も期待出来るという。期待に留まるのは人体実験での観測結果しかまだ情報が無いからだ。この新しい化学戦装備によって砲火力に依存せずとも歩兵、騎兵戦力だけで敵が戦力を集中させる突撃突破を、余裕を持って粉砕出来るようになった。
薬缶投射砲自体はそこそこ重たい射出装置なのだが、薬缶だけなら人の手で十分に運べる。有人地雷方式で行軍中の敵隊列の真ん中で排出弁を開放したり、坂道から単純に転がすといった方法で敵にかく乱攻撃を仕掛ける方法も早期に考案された。
一番の朗報そして機密情報は、ユバールとロシエ間の連絡線を切断中のストレム軍がその任務をエデルトの近衛総軍第三軍に任せ、南下して今我々を追撃中のロシエ軍へ側面攻撃を行う予定らしい。これが我が軍の頼れる予備兵力となるか。
前線工廠にて化学工場が本格稼動を始めて毒瓦斯兵器を多用出来るようになり、敵軍も多様な原因によって鈍足化、戦力の集中が苦手になってきて攻勢が弱くなった。デュアルニーから始まる運河防衛線までの後退時間を稼いだ。
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かつてはロシエが王都シトレを守るための最終防衛線とした運河防衛線をこちらが逆利用してこの後退戦術の一助とする。段階的後退作戦の第二段階。
北岸側では敵の攻撃作戦橋頭堡に利用されかねないインヴィモート要塞は破壊され、東方からの攻撃に備えて造られたファンジャンモートは西方からの攻撃に対応出来るように工兵が改修済みである。南岸側のデュアルニーにも西方からの攻撃に備えるように防御施設が改めて設置された。そして双方には重砲兵陣地が強力に設営されている。
まずこの運河防衛線で行ったことは労農兵士達と馬や駱駝達の――束の間であっても――休養と装備点検、交換である。流動的な戦闘が続けばいかに細心の注意を払おうともおざなりになり、不備が出てくる。これからも後退を続けるたび一度足を止める。また北岸のベルリク軍側の各砲兵は、掌握しているとはいえ運河という障害物を渡らなければならないため、時間が必要になる。南岸は地続きで早く後退出来るのだが、相互補完しないといけない。
今までは砲兵による斜陣形によって仮初の防御陣地を野に築いてきたものだが、今度は地形と施設が防御に特化する永久陣地で迎撃する。それ相応に敵は工夫して攻撃を開始。いきなり肉弾に突撃するのではなく、ジグザグに縦方向に攻撃塹壕を掘って前進して来た。ここで勿論、我々は防衛線より下流の堤防を爆破決壊させて洪水でその塹壕を泥濘にしようと画策するが、浸水を防止するような工事をしていた。土嚢を地面より高く積み上げたり、放水路を確保したり、川より高い位置にある丘を掘り進み、地下坑道のように密閉構造とするなどの工夫を重ねて来た。
ただ縦に掘るだけなら素人でもある程度出来るがこうも工夫が重なるところを見るとただの雑兵の集りではなく、敵の精鋭予備軍から工兵を中心に、指導要員だけかもしれないが派遣されるような状況になっている。相次ぐ戦闘で遂に、その一端でも精鋭予備を引きずり出すことに成功したのだ。
ファンジャンモートとデュアルニーの永久陣地は実数よりも労農兵士の戦闘能力を強化するので前線配置につく者達の数を減らしても問題無い。次に行われる脱出作業を考えると人数を減らしておかないとむしろ危険性が高まる。療養が必要な者、要修理装備を優先的に後送して次の戦いに備えさせる。
こうして兵力を減らした状態で敵の攻撃塹壕からの攻撃を迎え撃つ。
兵站を圧迫してまで確保した人間の女と幼年者の人質を使用。ロシエ語通訳官がその人質に戦前の生活実態、家族関係等を質問して答えさせてから敵に同情を買わせ、そうした後に切り刻むなどして拷問し、苦痛に悲鳴を上げさせて挑発、折角の攻撃塹壕も中途半端にしたまま行われる突撃を迎撃する。
まずは戦術の基本として、例えば渡河攻撃をしてくる敵を迎撃する時は渡河直前ではなく、先頭集団が渡河をして事実上前後が分断され、中列が水上でほぼ麻痺状態にある時を狙えば混乱を誘いやすく、撃破が容易とされる。一つの塊として指揮系統が整えられた部隊が前中後列と分断されれば当然のように混乱する。それを応用して敵攻撃部隊の中列を先に撃破するのが分断射撃。
敵に砲兵射撃範囲を勘付かせず――分かっていても引き込めたなら同義――明確にどこで防御姿勢を取ればよいか分からないように最大射程に入った途端に射撃するのではなく、十分に引き寄せてから射撃し、撃退、撤退開始後も有効射程に収め続けるのが射程欺瞞戦術。
敵の攻撃隊形に合わせた形状の着弾の線を形成して射程を順次延長していって敵を逐一狙い撃たずとも、時間の掛かる観測と相互通信が無くても迅速に隈無く射撃出来るのが移動弾幕射撃。
挑発に乗った敵が野晒しの道を、潰しやすそうなその柔らかい肉の身を立たせて突き進んで来る。迎撃射撃は手控えられ、人質をお代わりしながら嬲り殺しを続けて敵の頭に血を昇らせる。効果報告として「俺の娘を返せ!」などという叫び声が聞こえたそうなので、低確率だが”当たり”を引いたらしい。集団性がそこそこ高い人間ならば感情の伝播もしよう。
十分に敵の隊列が延び切ったところで重砲射撃が開始される。初撃は敵に防御姿勢も取らせない不意を突く一斉射撃、重榴散弾が敵の中列上空で炸裂して爆薬の雲を形成、鉛の雨を降らせて叩き潰す。
先頭を走る前列は頭に血が昇る以上に、特に損害も受けていないし突撃は速度、いかに射撃を受けないで接敵するかが重要なので足を止める理由が、近視眼的に発生しない。先頭集団の前進が止まらない。
先頭集団に続く中列は防御姿勢も取れずに散弾の雨を受けて一気に倒れ伏す。生き残りは目の前でバタバタと仲間が倒れて精神的に動揺、物理的にも転がった死傷者が邪魔になって脚がもつれる。被害者の中には当然指揮官級も含まれ、士気が乱れる。混乱状態に陥って足が鈍る。
足が鈍った中列の影響を受けるのが後列。突撃機動は先を行く者が足を止める――敵前逃亡者などいればもっと邪魔――と障害物となり、密集隊形を取っている場合は特に体同士がぶつかる衝突に発展して混乱の元になる。大被害とならずともぶつかって転んで味方に踏み潰されて死傷者は発生し、足が鈍り、更なる後続との衝突の可能性が高まる。衝突回避に足を止めれば今度は本来の目的である、短時間に接敵するという目標が達成出来なくなる。
中列と後列の足が初撃で鈍る。そして中列から始まって後列まで覆うように十分に有効射程を確保した重砲による移動弾幕射撃が開始。観測と連絡不要、射程を徐々に延長するだけの調整で行われる高速射撃で砲弾の幕を形成して敵後列目指して移動させる。重榴散弾の雨が敵と地面を踏んで舐める。
未だ無傷に走り続ける前列、先頭集団には防御施設に隠れた労農兵士達からの迎撃射撃が始まる。銃撃と砲撃。敵も撃ち返すが防御施設には人間の盾として縛り付けられている、高い声で泣き叫ぶ女と幼年者がいて容易に射撃が出来ず、突撃の足も鈍る。一方的に撃ち殺すことが出来る。
それでも前列は頭に血が昇ったなりに突撃を続けても後が続かない。中列と後列が射程欺瞞戦術を交えた分断射撃、移動弾幕射撃で崩壊しているので、例え勇敢にも接近して一時的に優勢となって突破口を形成しかけても予備兵力が存在しないのでそこを拡張出来ず、尻すぼみに撃退される。地雷も合わせればほぼ敵の突入は許さない。
敵は攻撃に失敗し、そうなれば撤退するしかない。ここで逆襲が始まる。
移動弾幕射撃の射撃開始位置を後列から前列に戻し、重榴散弾に毒瓦斯砲弾を交えて再度開始する。その形成される弾幕の後を追って歩兵と騎兵が前進し、万全を期して化学戦隊が更に毒瓦斯を散布しながら敵の抵抗力を極限まで削った上で残敵掃討に掛かって帰還させない。動く者は殺し、倒れ伏す者、死者か負傷者か判別し難い者全てに銃剣による死体突きを行う。極力敵の人的資源を削り、熟練兵を生み出させない作業が明日の戦いを有利に導く。後に続く者の手本になる経験者を減らせば減らす程に敵の弱兵化が進む。
敵の撃退後は死体を予測攻撃方向に飾って晒して士気低下を誘発する精神効果兵器、進路妨害と疫病発生源施設として活用。人間は何故か仲間の死体に敬意を払って粗雑に扱わないので蹴飛ばしたり踏みつけたりしながら進むことを嫌がるのでこれは敵の不意の大規模攻撃を遅滞させることが出来る。
後は人間の盾に参加した一部の女と幼年者の人質達の腕だけ潰し、目と口は無事なまま敵陣に送り返すと、情報局の観測結果は効果的であった。同じロシエ人から撃たれたふざけんなとか、奴等に復讐してだとか、そのような旨で冷静な判断を妨げるような弁舌を頼まなくてもふるってくれているとのこと。抱える被擁護者というのは味方ではないのだ。
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運河防衛線放棄の時期がやってきた。決定となったのはバルマン軍によるカレロブレの陥落、ワゾレ方面軍の退路確保が成った頃合。ワゾレ方面軍後退に合わせてイラングリ方面軍もそれに続いて殿として後退する。
全体としては既に段階的に部隊を後送させており、休養と治療と装備交換を行って新鮮な状態に近い者達を多く用意出来ている。
重砲兵隊の脱出、移動までの時間が一番に無防備で、そこを敵が見逃すというのは甘い考えである。ファンジャンモートには第一古参親衛師団”三角頭”、デュアルニーにはガートルゲン軍を殿部隊として配置して重砲兵隊の後退までの時間を稼ぐ。既に各砲兵隊は運河防衛線より直後の位置にて斜陣形を取って迎撃配置にあり、役目を果たした殿部隊を受け入れる体制は出来ていて見捨てるわけではない。
ある程度消費したが未だに十万近い女と幼年者の人質がいて、有効活用こそ出来る余地はあるが流石に数を持て余す。敵に解放されても良いという判断で人間の盾を分厚く配置することになった。
”三角頭”の労農兵士が考案したのだが、防壁としてだけではなく市街地の地面に隙無く生きたまま配置して敵の前進を阻む施設として利用する策が採用された。また医療知識が必要で数は作れないが胎に爆弾を仕込んだ人間爆弾という著しい士気低下を狙った精神効果兵器も採用。この有用な兵器の使用説明を受けたガートルゲン王マロード・フッセンは作戦会議後、隠れた場所で嘔吐していた。実見する前から、中々に根性の据わっている彼でさえその有様なのだから人間に効果的であるのは間違いない。
重砲の脅威の無いファンジャンモート、デュアルニーへの敵の突撃が始まる。今度は挑発には乗らず、攻撃塹壕を両拠点に接するまで掘ってからだ。
突撃の阻止を殿部隊が行っている間に運河防衛線からの後退準備が完了する。重砲兵隊は斜陣形より後ろ、後方陣地へ配置につく。
銃声爆発音よりも女と幼年者の高い悲鳴が響く。要塞突撃を支援するように側面側からの攻勢も始まるが、こちらは待ち構えた斜陣形が足を止めた状態で撃退。
敵精鋭予備軍の投入はまたしても無かった。我が軍は一端乱れた隊列、統制、人員に装備を整理し終えた。終えてしまった。その前に、重砲が無力な時に一刺し来るのではと予測されたが無かった。人間の盾という挑発や扇動にも動じず精鋭予備軍は突撃して来なかった。油断できない。
殿部隊を残して全体が最前線から後方地域まで後退戦術を実行する準備が整い、確認されてから行動を開始する。
人間の盾を有効活用したのかどうか怪しいガートルゲン軍に退避許可を出す。血塗れになって斜陣形の後方へやってきた。軍装した女が複数その中に紛れ込み、死傷者も多数、そして生き残りの多くも神経症に罹患したと見做された。今はともかく将来の仮想敵の間に帝国連邦軍の恐ろしさが蔓延する原因になると思われるので良しとしよう。多角的な視点から実体験を触れて回る語り部はいた方が戦略的に価値があるというもの。しゅるふぇ号計画に適う。
さて、後退するための仕掛けが始まる。グラスト分遣隊が仕掛けた大規模爆破呪術を発動させてファンジャンモート東側、要塞と一体になっている運河を爆破、破壊した。これにより流入口が閉ざされ、ポーエン川の水位が運河掘削以前の位置に戻り始める。
続いてファンジャンモート、デュアルニーに仕掛けた地雷が二種類起爆。要塞を奪取し、人質も救助して喜んでいる連中が瓦礫と一緒に吹っ飛ぶ。これは油断している敵兵士を殺すのが狙いの一つ目、表面的な物。
二つ目の地雷はアッジャール戦時に西岸要塞を崩したあの技術が活かされた。当時はラシージ親分が苦労を重ねて仕掛けたものだが、今では大量の工兵に術工兵がいる。地下坑道、空洞を張り巡らせて基礎を弱め、爆破と同時に川の水――運河封鎖の増水も助けに――を流入させて内部を攪拌、沈下させて崩壊、地上を液状化させて崩す。大河の水量あってこそだが、上手く嵌ると効果的。
同時にファンジャンモート、デュアルニーより下流の地点――流水量が減って沈下の妨げにならないよう――の堤防も爆破、決壊させる。堤防爆破対策に地雷探索を敵は行っているようだが、占領したばかりの場所の直近では行っていなかった。直接地雷で吹き飛ばなかった突入部隊ではなく、敵包囲軍へ水が流れ込む。鉄砲水には至らなかったようだが足元を泥濘にされては今後の行軍に支障が出る。
信号弾の合図により以前から仕掛けていたポーエン川上流の放水路の遮断、追加水源の水門解放により更に増水。ファンジャンモートとデュアルニーの、沈下して低くなった地面より高い位置へ川が流れ込んで泥も死体も瓦礫も流して原型から破壊。上流からの増水分が到着したならば崩した堤防からの洪水も規模を増し、被害を拡大させる。
「やった! 治水労働闘争に勝利だ!」
『治水労働闘争に勝利!』
サニツァや工兵達が増水して川辺の廃村を押し流し、雪に枯れ草、今まで水に曝されていなかった土を浚って濁り、速さを増すポーエン川を見て諸手を上げて喜んでいる。アネモンでの努力の成果が実ったわけである。
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ベルリク軍とゼクラグ軍の、ポーエン川防衛線までの後退が完了した。段階的後退作戦の第三段階。
第三段階への移行中はシトレからの後退道中のような激戦は無かった。ファンジャンモート、デュアルニーの崩壊と最大限に増水したポーエン川の堤防決壊と氾濫によって敵軍の前線は非常に鈍足となった。
寒さが増している。大きな川の流れは凍結こそしないが氷も広く張ってきて、泥濘が凍って固い地面に戻る時間が早くなっている。冬季に突入するので致し方ない現象である。
ポーエン川防衛線、川から外れた位置の都市エムセンも含んだ線はバルマン領内にある。敵に利用されかねない村や都市からは住民避難がされ、バルマン王の許可の下で焦土化が施された。
カレロブレで活躍したバルマン軍であるが、期間は短いものの国内統制に力を割くことが出来たのでその分動員出来る兵士の数が増え、予備兵力を兼ねて後方にて再び再編制に移っている。
ガートルゲン軍はポーエン川の戦いで陽動に出た時から損害過多で、デュアルニーで更に数を減らした上に神経症患者が多数出ていてほとんど戦力として期待出来ない。
現在、帝国連邦軍の損害累計は二万程度となっている。バルマン、ガートルゲン軍の損害は無論除く。
ベルリク軍の損害は累計一万二千程度。開戦当初から敵主力との戦闘を続けていればこうもなる。補充兵を一番多く受け取った。
ゼクラグ軍の損害は累計三千程度。ポーエン川北岸部と違い、練度の高い敵との交戦機会が少なかったのでこの程度に収まった。
ストレム軍の損害は累計六千程度。ほとんどが装甲戦列機兵という敵新兵器が搭載する斉射砲による被害であり、そのほとんどが騎兵に与えられたものらしい。今は順調に北から側面攻撃が可能な位置を取りに来ており、組織行動に影響は無い。
アタナクト聖法教会の治療奇跡、治療呪具の医療体制が整ってきているおかげでこの程度で済んでいる。バルマン王子ダンファレルの考案した医療体制は真に素晴らしく、科学と呪術の結晶であると言えよう。
冬季になって道が冷えて固まり、ロシエ軍の前進は再び勢いを盛り返した。
ロシエ軍はこちらの防衛線全域を覆うようにして雑兵軍を延翼して展開。散々に殺して恐怖を与えたつもりだがまだ限りが見えない。そしてその後方には変わらず無傷な精鋭予備軍が配置されている。敵はまだ決勝点を見出していない。作り出す準備段階にある。
戦線は広い。騎馬伝令だけだと時差が辛いので竜が伝令に飛び立っている。
ゼクラグ方面軍が担当するヴィットヴェルフィムからブレンゲン、聖ルタ寺院にかけた線では、増水した川を挟んで前進して来た敵軍との睨み合いが続く。上流の増水の影響が薄い山岳地帯からの攻撃は、冬の山ということと、精強な山岳兵が地形を利用して防御陣地を構築していることもあって停滞状態。逆襲を仕掛けるのも春にならないとやや厳しいとの話も聞いている。
一方、ベルリク軍のパム=ポーエンからエムセン間の戦線では装甲戦列機兵という新兵器が投入され、遂に精鋭予備軍の攻撃を受けて激戦が始まっている。
その激戦の最中でも部隊をこっちに回せ、助攻を仕掛けろなどの指示はベルリク=カラバザルからは無く、予備部隊を一時回すことも可能と打診しても無用と返ってくるのだから何か企んでいるのだろう。予備兵力の一角としてナレザギー王子が練成しておいたメルカプール式聖戦士を投入したらしいので、善戦続きで余裕に溢れているというわけではないのだろうが……共闘しているとはいえ裏切りの可能性があるバルマン軍に対する抑えという意味合いもあるか。新鮮な予備兵力は常に確保しておくべきであるが。
またこちらは川があるおかげで被害は無いのだが、ベルリク軍方面ではフレッテ兵による夜襲が更に頻発しているらしい。精鋭予備として置かれていたフレッテ兵も投入されていることになるだろうか。それと例の”赤目”の噂は聞かず、単純に考えてサニツァに負わせられた傷が原因で療養しているのかもしれない。
ここに来て、隣のベルリク軍戦線では血の風薫るような戦いが繰り広げられている中、ゼクラグ軍戦線に一時の休日のような状態が訪れたのだ。
「ねえゼっくん、一緒に温泉に入ろ!」
と言ってサニツァが差し出してきたのは、瓶詰めの炭酸水。バルマン界隈では温泉が沸き、炭酸泉もあって特産としてこういうものが出回っている。
そのような土地柄ではあるが、その辺を適当に掘れば温泉が湧き出る程ではない。現在司令部を置くブレンゲンには温泉が無く、遠出するような暇は無い。
肉体と神経の疲れに効くという謳い文句の炭酸水を飲みつつこの、サニャーキ良いこと思いついたよルンルンランラン、な面をしているサニツァの相手をする。
「温泉水の配給があったのか?」
「その通り! 工兵師団”チェシュヴァン”の地リスさん達がね、前線の近くまで水路作って引いてくれたんだって! 冷めちゃってるから沸かさないといけないけど、何か普通の水じゃないから入ると凄く温まるし、傷の治りも早くなって、疲れもバビューンって飛ぶらしいよ! ゼっくん忙しくて疲れてるからそれはもう温泉に入るしか科学的にありえないよね!?」
「何にでも科学的という言葉をつければ説得になるわけではない」
「うっそー!?」
「しかし、冬の寒気に体力を奪われることは能力の低下に繋がる。それを未然に防いで今後の作戦展開を円滑に進めることは軍事科学的に妥当。基地内で伝令から即座に通信を受け取れる状況で入浴するのならば問題無い」
「やった! じゃあ早速行こうね! もう支度は済んでるよ」
「うむ」
急げとサニツァに担がれ、連れて来られた場所には大きい樽。口からは湯気を上げ、水ならぬ温泉の異臭を漂わせていた。
「早く! 早く!」
手早く一瞬で修道服を脱いで全裸になるサニツァの横で軍服を脱ぐ。
うん? こいつ一緒に入る気か。うるさそうだ。
「綺麗綺麗にしましょうね!」
と用意された椅子――一度湯をかけてそこそこ温かくした後――に座らされ、湯を頭から掛けられてから石鹸で頭部を洗われる。
「痒いところありませんか!?」
「うるさい。特に無い」
耳元で大声を出されればフレッテ人ではなくても苦しむ。
それから背中から始まって全身を手拭いで擦られる。富裕者が抱える奴隷に限らず、公衆浴場があるところではこのような洗身の仕事が職人仕事の一つして行われていることを思い出す。
「お湯加減はどうですか?」
「まだ入ってない」
「そうだった!」
輸送後に加熱された温泉水が満たされた大樽に入る。直立すると下半身程度までしか浸からないが、座ると首まで浸かる。
湯温は、入った直後は寒気に肌が曝されていたこともあるが高いと感じた。それから徐々に慣れて丁度良くなる。
「よいしょ」
体を洗ったサニツァが入る。当然のことだが水位が上がって呼吸困難、立つ。
「あ、ゼっくん水没!」
しゃがむようにすると水位が丁度良くなる。大樽とはいえ互いの顔が近い。ちょっと動くと体が、サニツァが抱えている膝に当たる。
狭い。湯気と臭気もあって精神的、物理的に暑苦しい。冷えた外気が無ければもう出ている。
風呂は清潔を保つのに良く、疫病予防になる。マトラでも公衆浴場に近いものは整備されているが、体を湯で拭う程度にとどまっている。全身を浸けるまでの設備に拡充するとなれば技術革新が待たれるか? 給湯設備というのは運転費が高い。
「これはブレンゲン駐留部隊の全労農兵士が浸かる分はあるのか?」
「あのね、中央軍の方なら交代で入れる大浴場があるんだって」
「ではこちらには無いか……」
衛生設備の設営があれば報告があるから、無いなら無いか。
「……ならば何故このような用意がある?」
「ジーくんとメーくんがね、運んできてくれたの! 親孝行だよね。この後にミーちゃん、それから抜け毛凄いみたいだからジーくんとメーくんが最後に入るんだって。だから体をお湯の中で擦って汚くしたりしたらダメだよ」
「なるほど」
友人家族といった狭い範囲の者達で温泉を楽しもうということか。ジールトにメハレムは軍指揮系統外で動くことが許されており、命令違反や任務放棄に当たらない。作戦遂行の妨げにはなっていないな。
「ゼっくんのその傷跡って治らないの?」
顔に限らず、体中にはかつてアソリウス島で受けた地雷攻撃による切り傷、火傷の跡が残る。一番は右目の欠損、隠れたところでは特に腰の調子が悪くて重労働が難しくなっているところか。首もあまり良くない。
「整形外科手術と呪具治療を合わせれば見た目は治るらしいが、不便は無いから不要だ。多少の意味があってもわざわざ指揮不能な時間を作る必要が無い。失った眼球が戻るのなら治療は望むところだが、喪失した器官を再生する技術は実現されていない。首と腰は治るにこしたことはないが、目立って悪いわけでもなく、外科手術で治るような状態であるかはそれこそ解剖しなければ分からないと診断を受けた」
「そうなんだ。でも傷いっぱいだと古参兵って感じでかっこいいね!」
「意味の無いことだ」
急にサニツァが口を付けてきた。暑苦しい、臭いがつく。
「チューしちゃった」
そう言ってからサニツァはお湯に顔下半分を沈める。目線そのまま。意図不明。
口を手で、湯で拭う。
「二度とするな」
サニツァが湯中から息を吹いて泡が立つ。何か言ったようだが。
次は肩をくっつけてきた。
特に衛生面で問題は無いと思われる。
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