第250話「山岳兵」 ボレス
冬季に入り、亡命セレード人が気候的には危険だが、武力干渉的には安全に南下し始めた。
奴隷同胞と同じように新式装備や食糧との交換で安全に引き渡す取引をアッジャール軍のマフダール将軍が持ちかけて来た。それでも良いとされた。こちらは北関門経路。
人民共和国軍も同じように交渉して来ており、それも良しとされた。こちらはメデルロマ経路になる。
このまま東西側から安定してセレード人が流入し、南オルフ作戦も順調に推移してくれれば良いが、安定した状況というのは戦時には長期的に見込めない。
短期で情勢が変わる。ペトリュク領で人民共和国軍の攻勢を受けたアッジャール軍が劣勢に陥り、領都シストフシェを放棄して南下するに至った。アッジャール側からのセレード人流入が止まる。
南下して来るアッジャール軍をこのまま受け入れることは出来ない。何を目論んでいるかは分からないし、状況に合わせて相手もこちらに苦難を強いる選択を強いられることもある。越境、領域への接近は断固阻止しなければならない。人民共和国軍としてはこのまま南に圧迫して擬似的に挟撃状態に持ち込みたいはず。
冬季なので戦線の流動は鈍いらしい。春の雪解け攻勢に入れば一気に動く可能性がある。春の泥濘が去った後かもしれないがそれは楽観論。
我々にどちらかの手助けをする義理は無い。アッジャール軍と戦うにしろ、人民共和国軍と戦うにしろ、睨み合いを継続するにせよ戦力が更に必要となった。
第五師団一万、新参セレード氏族も含めたスラーギィ非正規軍一万を前線配置することに決定。イスタメル州政府を通じて海軍からも河川艦隊を送って貰い、第四海軍歩兵師団の先遣隊一個旅団二千も待機。アッジャールの侵攻を教訓にした即応体制により、現場指揮官が発行する書類一枚で二万二千の兵力が北関門に張り付いた。
次いで、補給事情の改善のためにマトラでは第一次動員を行ってマトラ人民防衛軍一万人を確保。前線配置にはしないが、即時投入可能な状態にする。
スラーギィ遊牧民の内、前線には出ないが戦える男達が二万騎、後備兵力としていつでも出征出来るように布告が出される。また戦える女達一万騎も後備兵力の補助として組織される。女部隊編制の知識がある占星術師トゥルシャズがまとめ役になり、後備戦力として即座に四万が確保された。
初動対応で、非正規兵に未だ大きく依存はしつつも六万二千の兵力が揃う。春を迎える前にそのような戦力の集中が叶った。
表立った対応は北関門への戦力集中。裏の対応、特殊作戦が計画される。ゾルブ司令から命令が下る。
「マトラ人民義勇軍予備隊指揮官ボレス。ヴァリーキゴーエ領ハビガ山地へ赴き、撤退するアッジャール軍を支援せよ。マフダール将軍とは合意済みだ。人民義勇軍予備隊のみでは戦力が不足している。東方防衛隊の一部一千、武装開拓団の一部五百を加えたハビガ分遣旅団を編制、指揮し、山岳兵の実力を発揮せよ。また特命作業員サニツァの指揮権を一時的に与える。質問は?」
各隊から人員装備を寄せ集めて一時的に特定任務用の部隊を仕上げる分遣旅団制度の行使。制度化されてからは初だったはず。
「指揮系統を整理する時間が必要ですな。東方防衛隊出身者で揃えていても、一度分散してしまった後ですから」
「集合次第現地にて行え。指揮官級のみ早馬で先行して到着させる。アッジャール軍には多目に食糧弾薬を供給して可能な限り持久させる」
「中立では?」
「ランマルカ軍事顧問団に、前線にて将兵の訓練をして貰う予定だ」
「それは結構なことで」
アッジャール軍を支援しつつ逃がし、代わりにやって来る人民共和国軍からの抗議もしくは武力干渉は、北海の同志を盾にして凌ぐ。奇術的な作戦である。
「ほぼ無償で逃がしてあげるのですか?」
「奴隷同胞、セレード系住民は未だにオルフ領内に散在している。今後のマトラ、スラーギィへの移民、亡命計画に協力する約束を取り付けてある」
「空手形ですな」
「その通りだ。だがマフダールはアッジャールの将軍筆頭。その父オダルは宰相である。その責任ある立場の者が約束を反故にしたとあっては名に傷がつく。それで遵守すれば良し。反故にすれば今後の外交交渉時の材料となる」
「なるほど。ハビガでどう動けばいいか理解出来ました」
「以上だ」
■■■
指揮系統の整理をした後、編制を終えたハビガ分遣旅団二千で行動開始。春先にはハビガ山地の地形を偵察して把握し始める。
ハビガ山地は山岳森林地帯。尾根と渓谷が皺のように無数に連なり、大軍の撤退には不向きな未開の地である。
撤退に備えた持久戦を行うアッジャール軍の未来の撤退行に備えて行動している士官と合流して把握した地形を共通認識し、地図化する。
順調に撤退する場合の主要路と、段階毎に分けた副路も設定する。副路の用途は渋滞の解消、敵の誘引、主要路が何らかの理由で使えなくなった場合に備えたもの。一本道では一つの障害一つで全行程が麻痺する。迂回路に乏しい山岳森林地帯ではこれが命運を左右する。
ハビガの撤退経路に指定された地域は地元猟師や羊飼いが使う獣道程度しか道がない。移動に邪魔な木を切り倒し、根を抜く。岩を撤去して拡張。川には橋を掛ける。特命作業員サニツァの膂力を持ってすれば爆発物を使用しなくても大岩を撤去出来るので作業が順調。
防御拠点を築くべき要衝を決めて基礎工事のみを行う。こちらの物資を使って大砲や地雷の設置までする義理は無い。
防御拠点ほどではないが小規模な哨戒所も各地に作る。移動困難な高所ならば杭と綱で行き来出来るようにしておく。
春の雪解け水が豊富な内に貯水池も作って溜めておく。余裕があればその脇に薪を作って集めておく。更に余裕があれば小屋や洞窟も作っておく。雨水に曝さない保管庫は重要だ。
流石に将兵全員分の宿泊施設は無理だが、雨が降っても水が溜まらない地点を割り出して、杭と綱で囲って置く。手狭な場合は遊水路を掘って、野営に適した場所を広げておく。濡れていない地面が就寝の最低条件だろう。
オルフ人士官が「そりゃあ勝てないわけですね」と言っていた。人間の雑な仕事と比べるものではない。
■■■
雪解けから始まった人民共和国軍の雪解けの春季攻勢に追われてアッジャール軍がハビガ山地を通ってやってくる。彼等がまず踏み入れる場所から、終着地点に向けて偵察、工事を行っていたので本隊と顔を合わせてはいない。
テストリャチ湿地側から入るハビガ山地への道は我々が手を入れたとはいえ幅は狭く、軍は長蛇の列となる。また時間の不足により坂道に加工仕切れていない段差部分では大荷物の移動で手古摺り、破棄しなければならなくなる。敵に利用されないように、拾い上げるのが難しい断崖の谷底も調査して教えてあるので利用すればいい。焼却処分は敵に現在地を教える狼煙なのでやっていないと思うが。
伝令からの定時連絡では、このアッジャール軍の撤退と入れ替わりにやってきた人民共和国軍と我等が軍が北関門で対峙する事態に発展。またこの時にマフダール将軍が傘下のセレード傭兵を殿部隊に使ったそうで、人民共和国軍が迫ると同時に北関門を抜けてスラーギィに亡命したとのこと。マフダール将軍の約束は一応果たされた形になる。
その混乱に加え、最前線で将兵への訓練を行うランマルカ軍事顧問団を盾にされてそれ以上の南下は無かったとも次の連絡で知れた。追撃部隊がハビガ山地を通るとも知れた。
北関門での作戦はほぼ完了された。次はハビガ山地である。
ハビガ分遣旅団はテストリャチ湿地側からハビガ山地を北西方向に向けて進み、ヴァリーキゴーエの領都ザストポルクに向けて道を開拓し続けている。ザストポルク側からも道を開拓する部隊が出ているので中間地点で接触することになる予定だが、おそらくそれは叶わない。その前に人民共和国軍が追いつく見込み。我々ハビガ分遣旅団はその前に、スラーギィへ抜ける道がある内に撤収しなくてはならないのだ。撤収支援に外人妖精連隊が退路に防御陣地を築いて待っていてくれる。退路の確保こそ山岳作戦の要だ。
■■■
山道を整備すること季節を跨いだ。戦闘は無く、火器使用は鹿撃ちや岩盤発破ぐらいにしか使っていない。
夏になり、結局ザストポルク側からの山道整備の部隊とは接触することもなく、遂にアッジャール軍の本隊――後方に追撃部隊を引き連れた――と合流するような位置関係になる。もう引き際だ。
マフダール将軍から”貴君等の仕事に敬意を表する”という一言だけを告げる伝令がやって来た。人間同士のやり取りはどういったものかは分かりかねる。”命令と裁量の範囲内で義務を果たしたまで”と返事を出した。
ハビガ分遣旅団は外人妖精連隊が整備、維持している退路を進む。防御陣地を撤収する時に大砲を下ろすのが難儀だ。特命作業員サニツァがいるから思った以上に素早いが、特別に替えの利かない人材を頼りにするのは組織として弱い。山砲の開発生産が待たれる。
「重たい物はサニャーキにお任せだよ!」
「まあサニツァ、とても頼もしいわ」
「お任せだよジュレンカちゃん!」
褒めるジュレンカ連隊長に胸を叩いて応えるサニツァ。
「ゼクラグ顧問が賞賛している理由が分かる。英雄に相応しい働きぶりだ」
「えへへ! ぷにぷにー!」
自分の身体の脂肪をぷにぷにと掴んだり撫でたりするサニツァ。
撤収する我々は周辺に、網のように快速の斥候を派遣している。山谷は移動が困難で、見通しの良し悪しが極端。頂上にいても見えないところがあり、谷底に居るから見えるところもある。目と耳は広く密に張らなければならない。そうすると見える。姿だけではなく、どこから来て、どの経路を使って、部隊をどのように分けているか、そして何を装備して物資の量がどの程度かまで分かれば何をしようとしているかが見通せる。こうなると余程質的に劣っていない限りは敵の思い通りにされることはない。
人民共和国軍の一部が我々の撤収跡を追って迫ってくる。奴等にアッジャール軍かマトラ軍かの区別は難しいのだろう。区別しても襲ってくるかもしれない。追撃に、頭に血が昇っていれば尚更だ。
敵は一本道を一列で進んでくる。数は一万に届かないようだが、砲を後方部隊が引いていて本格的な編制である。マフダール将軍が奇術か何かでこちらを追わせたような気配もあるが。
敵の騎兵部隊が先行してやってくれば高所の防御陣地からの観測射を兼ねる威嚇砲撃で行動を阻止する。動きが止まれば良し、止まらなければ効力射に移って粉砕する。
狭い道に密集する騎兵縦隊など砲兵の良い的であり一千、二千と居ようともその機動力は谷が封じる。これは迂回機動を封じる地形を選んで後退し、防御拠点を設置することで実現がされる。山岳地とはいえ何処でもそうなるわけではない。良好な地形、隘路に誘い込むことによって実現する。誘い込むことは容易ではないが、分かっていてもそこを通らざるを得ない状況に持ち込むことが最善だ。騙まし討ちの伏撃目的なら一層工夫がいるが、敵にこれ以上侵犯をするなと警告する目的で誘うのなら見え透いていても良い。
隘路を騎兵が一挙果敢に前進して来る。密に施条小銃を構えた歩兵の銃撃で容易に撃退。左右展開する隙もわずかであれば銃弾命中率は良好、一斉射撃で前列崩壊に至る。また谷間に反響する一斉射撃の炸裂音衝撃は平野より強く、残る馬も嫌がって前進の足並みが乱れて攻撃が鈍る。
我々の任務は敵の撃滅ではない。特命作業員サニツァに高所に設置した大砲を素早く片付けさせつつ、歩兵が銃撃で敵を食い止める。そして砲兵を後退させ、歩兵もゆっくり後退し、次の防御陣地まで警戒しながら移動。
谷間の左右に、前後位置をずらして防御陣地を築くのが基本。突出する右の陣地その一の部隊が後退する時に、一つ後ろの左の陣地その二と中央の歩兵に砲兵が支援する。右の陣地その一の部隊はもう一つ後の右の陣地その三に配置へ付く。そうしたなら左の陣地その二の部隊が、もう一つ後ろの左の陣地その四に後退し、それを中央の歩兵と砲兵に右の陣地その三が支援する。中央の歩兵と砲兵が後退する機会は様々だが、少しずつ後方へ砲兵隊を優先して漸進させることが基本。左右中央、いずれか最低一つでも砲撃支援が出来る状態を維持することも基本。
斥候は見張るだけではなく、施条小銃の長い有効射程距離を生かして敵斥候を狩る。この施条小銃の普及は戦場を変える。特に山の上では格段に変わる。谷を挟んで一方的に敵を寄せ付けずに銃撃することすら可能だ。
敵斥候狩りも行いつつ斥候は情報を送り続けてくれる。その情報を元に撤収用の主要路での撤退で間違いがないか確認しながら行く。敵の動きは副路の使用を強要するに至らない。
崖を崩し、橋を撤去して退く。敵の先陣を幾度か撃退し、悪路化するに至ってこの誤追撃は終焉を迎えた。それからも警戒態勢は解かずに適度に休憩、給水して皆無事、健康にスラーギィへ脱出する。
人民共和国軍追撃部隊の越境が時間差で考えられるので国境地帯にまで退いたら防御を固める。山岳の隘路の出口より一歩退いた開けた場所に防御陣地を築く。こうすると敵は両翼に展開出来ない縦隊を強いられ、その先頭集団が進んできても開けた場所から正面と左右、半包囲に攻撃出来る。山岳地で高原を拠点にすると優位に立てる論理の応用。
ここまでの撤収戦で敵は我々をマトラと認識したとは思うが、現場指揮官が独断で進出してくる可能性は否定出来ない。
ザストポルクに抜けたアッジャール軍が再編制を果たし、再びペトリュク領奪還に向けて圧力を掛け始めたところで人民共和国軍におけるハビガ山地の行動は終了した。多少の基地の建造ぐらいはあると思われたが、拠点を築くことも無く撤収した。補給限界なのだろう。加えてこちらからもダヌアの悪魔なる仮装をした特命作業員サニツァを利用した敵への夜襲を度々行ったので維持困難と判断したのかもしれない。何にせよいかがわしい連中が国境沿いに居ないことは健全である。
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マトラ人民義勇軍の帰還が近い。冬にはマリオルへ帰港出来ると秋に連絡があった。帰還後直ぐに新たな軍事行動に移るというのだからラシージ親分とベルリク=カラバザルの精力さは底抜けか?
膨れ上がったスラーギィの遊牧集団であるが、ベルリク=カラバザルが手続きをしてレスリャジン部族として軍務省に独立武装集団として登録されることになった。予算が軍務省から出るようになり、独自行動もしやすくなったそうだ。それに合わせてかレスリャジン騎兵旅団、スラーギィ連隊の規模拡張は中止され、最低限の人数に縮小することが決定。主要な面子は正規部隊を離れて独立武装集団レスリャジン部族の軍に組み込まれる。後任の指揮官や残存する兵士達は何れも若く未熟な者達と、練兵する技術がある老兵の組み合わせとなる。実質、訓練隊と化した。
レスリャジン部族はレスリャジンの支配集団にスラーギィ、ムンガル、カラチゲイ、プラヌール、アベタル、スタルヴィイ、シトプカ、フダウェイ八氏族を加えた体制になる。遠征軍兵力として一つの氏族から精鋭千人隊が一つずつ抽出されて九千人。また各氏族から集めた最精鋭による親衛千人隊を合わせて一万人隊となった。多少の誤差に数合わせ、八氏族に名を連ねられない小氏族もあるが概ね遊牧民伝統の十進法による部隊編制がされた。
同胞達への朗報がある。魔神代理領で妖精自治特例法が制定され、妖精軍管区制度整備の準備が開始された。それに伴い、共同体同胞へ我々の生活習慣によく馴染むランマルカ流の軍事操典に則った軍事教練を行うことになったのだ。軍事顧問を魔神代理領中央へ派遣する。外貨獲得用の新式装備も主に妖精軍管区に流す。これはしゅるふぇ号計画にも則ろう。
妖精軍管区制度は、税金の代わりに兵隊を出せという内容。軍事予算として自治区警備隊予算を卸す仕組みで、それが公共予算にもなる。まずは自治区警備隊として発足してから十分に正規軍扱いして良い規模、錬度になってから親衛軍、各国軍、州軍に並ぶ軍として認定される運びだ。順調にことが運べば各地の妖精自治区も”自称”が外れ、自治王国、自治国、自治族領、自治都市等への昇格もある。
交渉ではナシュカ生活指導官が活躍したそうだ。東マトラで彼女を受け入れてから色々あったが、優秀な者であったから特別に驚かない。アウル藩王国が各地に派遣した特使……少々、役職については曖昧なところもあるがそのような特別な者だ。
「うーん、思い出したら腹が空いた」
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