第202話「メイレンベル」 ポーリ

 ロシュロウ家の商社が経営する隊商に偽装――本物なので偽装でもないが――し、商売をやりながらロシエ領内を東へ移動した。

 ながらの旅のせいで行程はゆっくりになったが、道の歩みはかなり自然になった。行く先の情報も自然に手に入り、危険な地域は避けて進めた。一時は新大陸軍とユバール軍との最前線をかすめることはあったものの、新大陸軍側が攻勢に出る機会に合わせたので安全であった。防御で手一杯のユバール軍が前に出ないからである。

 また新大陸軍だが、ロセア元帥に訓練されているせいか呪具が大量に装備に組み込まれて理術的に運用がされていた。ダンファレルの治療の呪具も合わさって最終的な死傷者も激減し、持ち帰ってきた食糧もあって栄養失調も無く、先のユバール侵攻時の悲惨さを感じなかった。第二次侵攻の末に勝利することも幻ではないと思わせる。

 この偽装隊商が行う任務はカラドス王家の保存のためにセレル”王太子”を、弟君のアシェル=レレラ様がいらっしゃるメイレンベル大公国まで護走することだ。

 先の退位手続きを無効として復位されたセレル七世陛下がロシエ本国にいらっしゃり、王政復古派を率いてその正統性を固持する。

 本国では外敵に対し一致団結して戦おうという機運があるせいで今は反乱が沈静化しているが、まだまだ内戦の真っ只中であり、王や貴族に聖職者を否定する勢力は巨大なままに存在している。その上に強力で広大にランマルカの手の者が潜伏していて、とてもではないが王族が安全とは言い切れない状況にある。常に暗殺の危険があり、反乱軍と戦って敗死する危険もある。だから王太子殿下は本国を離れた。

 本来なら本国から逃げるような行いは名誉に関わるところだが、今現在に至ってはそんなことを気にする者は少ない。そもそも立憲君主制の下で権限は何も無く、不敬ながら自他共に認めるお飾りでいらっしゃった。亡きリュゲール殿下と違って何の業も積むことが無かったのでその点ではお飾りであることが不幸中の幸いであった。

 また既にルジュー猊下が聖都にて、象徴を持った上で安全な場所に避難していらっしゃる。本国もアシェル=レレラ様のところもダメになった緊急時にはルジュー猊下が還俗し、カラドス聖王教会派からアタナクト聖法教会派に切り替えた上でロシエ王として戴冠される。ロシエとしては正統教義であると自認して今まで信仰を貫いてきたので正直違和感が薄い。アタナクト聖法教会側が一方的に問題であると思っているだけなのだ。

 更に未確認情報らしいが”本物”のカラドスの末裔を聖女ヴァルキリカが確保したらしい。これに伴って聖王マリシア=ヤーナ・カラドス=ケスカリイェンの影響力というか威光が弱まっているか、弱まる見込み。旧中央同盟側としてはロシエ王国の第一後継者を確保し、アシェル=レレラ様を婿に出した以上の親密さを更に強調して世俗貴族の連帯強化を見せ付ける目論見もあるという。昨今では革命だの聖領統治だの聖女の傀儡王の量産だのと世俗貴族の権威は下降中だ。貴族、聖職者、平民、誰が政治を仕切るのかが世界で試されているかのようだ。

 それから王太子殿下をメイレンベルに招くのは、最終手段としてカラドス=ケスカリイェン家にロシエ王国を継承させるという荒技を用いる時のためだという。仮にセレル七世陛下がお隠れになり、カラドス王家がどう足掻いてもロシエの王冠を取り戻せない時は、王土無き王セレル八世陛下が聖王マリシア=ヤーナ・カラドス=ケスカリイェンとアシェル=レレラ様のお子様であるマリュエンス様に王位を禅譲されてロシエ奪還に備えるという遠大な計画である。臣民としては王家消滅を回避して保険を掛けるのは歓迎――という言葉もおかしいが――する。

 道すがら、これらの事を王太子殿下より聞いた。可能な限り選択肢を広げていらっしゃる。

 王政復古派と共和国派は結託している。ロシエ統一の大芝居をしている。今は対立しているような感じだが、敵と罵り合った事実はない。旧王党派と共和革命派とは違うのだ。

 ユバール軍と聖戦軍が既にロシエへ攻撃を行っている。そしてレスリャジンの悪魔大王の軍勢が遥か東方より迫ってきているというので、一先ずは侵略者に対する共同戦線を築くということで内戦は中断されている。そして内戦や革命の熱が引いてから、正しく王制へ、民衆へは譲歩をしつつも復古する段取りだそうだ。

 ロセア元帥が「痛い、苦しいと暴れている子供が民衆です。落ち着くのを待ちましょう。共和制に飽きてから王位に戻ればよろしい。ロシエはロシエに変わることはありませんし、カラドス王家は座に無くともカラドス王家です。好き嫌いではありません」と言っていたそうだ。ルジュー猊下のロセア元帥の物語も……言葉にならないが、そこまで心配する話ではないのではないか?

 避難する先のメイレンベル大公国は聖王陛下のお膝元である。しかしそれでも強権豪腕で唸る聖女ヴァルキリカに利用される懸念はある。

 もし傀儡のように王太子殿下を担ぎ上げてくれたら好都合らしい。セレル七世陛下とロセア大統領が有り難く王として迎え入れる。

 傀儡ではなく暗殺される危険性はあるが、その時は復讐の大義を掲げてセレル七世陛下とロセア大統領が手を組む口実が出来る。

 カラドス王家の存続をかけて戦っており、悲壮な雰囲気はある。ただカラドスは王家以外に八公家あって国外のケスカリイェン系統等もあるのだ。王太子殿下は「断絶するような家系ではないからそんなに真面目に守らなくていいよ。そんなことよりネーネト家のご嫡男の方が大事だ」とまで言われた。

 お守りせねば。


■■■


 バルマン諸侯領に入った。革命騒ぎとは無縁ではなかったようで、焼けた家や教会が見える。ただ貴族、聖職者側が勝利しているのは各諸侯の旗が翻っていて一目瞭然。

 ロセア元帥に協調するという宣言があったが、しかし掲げているのはロシエ国旗であり、その上で共和革命派を排除している。バルマンはバルマンとしてロシエと関係を保っていくという意思表示だろうか?

 オーボル川を越えて東から侵略を試みた聖戦軍を撃退した後のせいか、戦勝気分で街行く人々が盛り上がっている。ユバール侵攻時の悲惨さの反動なのか浮かれ方が激しい。

 軍服を着た体のどこかに包帯を巻いた四肢欠損者が昼間から外で酒を飲んでいて、そんな彼等に若い女性がついている。看護婦ではない。一人に対して一人からニ人、騎兵の軍服を着ている者に対して三人以上という感じだ。未亡人も多いだろうし、退役軍人の年金狙いもいるのだろう。飢えたり暴動を起こしたり、下品な革命歌を歌っているよりは健全であろう。

 危険を感じることなく諸侯領を抜け、バルマン貴族を実質まとめるエルズライント辺境伯の領内に入り、首都ヘルムベルへ行く。

 長大な土塁の上にあるヘルムベルは五百年前の戦いで八年間包囲されて陥落しなかった記録を持つ要塞である。内部に畑があり、深い井戸がある。水脈を断とうとしたブリェヘム軍が何年も周辺を掘ったが発見出来なかったぐらいに深いそうだ。

 ダンファレルが父君にオーボル川の渡河の許可を取りに行く。聖戦軍の第二次攻撃に備えて川沿いの警備は厳重であり、許可が無ければ近寄ることがまず困難。

 土塁の下の下町の方でダンファレルを待つ。ロシュロウ夫人の他に会社の人間――偽装した密偵と言って良いだろう――も複数おり、王太子夫妻が商人のような姿をして混じっていれば目立たない。

 待っていたダンファレルの代わりに使用人と思しき男がオーボル川の渡河を許可する免状を携えてやったきた。

 渡河した向う側は敵の支配地域であり、つい最近バルマン軍が蹴散らした連中の巣窟である。確かに大事な跡継ぎに渡らせる川ではない。

「ダンファレルは何か言っていましたか?」

「帰りはお城に寄るようにとのことです。まとめた最新の情報を伝えるそうです」

「分かりました。ありがとうございます」

 許可免状を貰う。帰り道にも必要だ。自分はお送りした後にロシエへ戻る。


■■■


 オーボル川にて守備についているバルマン連合軍の部隊に許可免状を見せてから渡河地点を選定し、夜を待って機会を伺う。

 ナスランデン側は精強で有名な水軍が密にいるのでガートルゲン側を渡ることにした。

 聖戦軍が東岸に部隊を展開して警戒中。また河川艦隊も巡回中である。

 水軍力ではバルマン連合軍が遥かに劣っている。渡河中の聖戦軍に攻撃を仕掛けられても、川を渡って追撃できるような戦力は無い。

 最初は浅瀬を渡ろうと考えたが、そういったわかりやすい渡河地点は警備が厳重で敵も注意を払っているし、砦や塔に要塞等の防御、警戒の施設があるので近寄れない。

 隊商は川の手前で解散した。大勢では目立つ。

 巡回している船の姿が無いことを確認し、自分が金属の魔術で小船を作ってそれで渡る。既存の小船を模倣して作り、エルズライント領内の川で実用に耐えるか実験済みである。

 オーボル川の流れは早くはない。金属の小船に乗り、ロシュロウ夫人が舵を取り、自分が櫂を両手に持って漕ぐ。

 下る流れに逆らわず斜めに川を渡って接岸。王太子ご夫妻を肩に乗せ、お体が濡れて冷えないように川岸まで運ぶ。

 ロシュロウ夫人は小船を川の真ん中まで漕いで戻し、自沈用の弁を開いて沈没させてから泳いで東岸に来る。

「ポーリくん、見る? 見ちゃう?」

「いいえ……!」

「んっふふ」

 濡れた服をロシュロウ夫人が着替えてから出発する。自分もズボンを穿き替えた。

 自分にはこの辺りがどんな地形かも分からないが、闇夜でもロシュロウ夫人は現在地を心得ているようで迷い無く先導をする。

 暗い内に長距離移動をするとのことで、金属の魔術で脚の無い椅子を作って背負い、王太子妃殿下に座って頂く。荷物は王太子殿下が背負う。

 月の位置が変わったのが分かる程度にロシュロウ夫人の先導に従う。王太子殿下が途中で体力が切れかけたので背中の椅子をお二人分にして進んだ。道中転んだりしておられたので最初からこうすれば良かった。

 そしてある地点、村とも呼べぬ集落の近辺に到着。家々の窓の蓋の隙間からは灯りがもれている。

 ロシュロウ夫人が我々に向けて人差し指を口に当てて、静かに、とやってから梟の鳴き真似をする。

 時間を置いてもう一度鳴き真似。

 時間を置いて更にもう一度鳴き真似。そして集落の方から梟の鳴声が返って来る。

 鳴き真似がもう一度繰り返されてまた返って来る。合図か。

 返事の後に家の方から農民の女がランプを持って出てくる。

 その灯りで己の存在を知らせるように顔を照らしながら歩いてくるのだが、どう見ても農民には見えない凛々しいような美女である。距離が縮めばその身長も高いと分かる。

 ロシュロウ夫人が笑って走り出し、農民では無さそうな女に「お姉ちゃん!」と抱きつく。女はロシュロウ夫人の髪をぐちゃぐちゃに撫でる。

「よしよし! ハウラ、日の出前に来たね。お連れしたのね?」

「うん! あ、ちょっと待ってね」

 ロシュロウ夫人が手招きをする。一応、周囲を警戒しつつ椅子から降りた王太子ご夫妻の盾になるように進む。

 姉君らしい女がスカートを摘まんで貴人の礼。

「ようこそおいで下さいましたセレル殿下、ユキア殿下。私、聖王親衛隊隊長補佐を勤めておりますアルヴィカ・リルツォグトと申します。こちらまで案内をしたハウラの姉でございます」

「お世話になります」

 王太子殿下も返礼。

「聖王陛下のところまで我々が責任を持ってお送り致します」

 アルヴィカ隊長補佐が指笛を鳴らすと、集落全体が目を覚ましたかのように物々しい集団が動き出す。馬が低く鳴き、装具のカチャつく音、馬車の車輪が回り出す音が鳴る。

「ハウラ、エルズライントの貴公子はどうしたの? 楽しみにしてたんだけど」

「ぶっぶー、親元に帰りました」

「もう、ガンドラコの息子が欲しかったのに」

 中々、強烈そうなお姉さんである。

「でもほら、ビプロルの貴公子がいるよ!」

 ロシュロウ夫人が自分に体当たり。それからフニフニと両手で交互に腹を押す。

「あら、ご機嫌良う」

 姉君の目つきというか言葉の雰囲気というか、妖艶が過ぎて自分には辛い。王太子ご夫妻も苦笑い。


■■■


 走狗王、ガートルゲン王マロード・フッセンが点数稼ぎに動いているかもしれない、とアルヴィカ隊長補佐が言う。

 軍を差し向けてきて拘束し、聖女猊下が今いるオルメンまで護送する、などとほざく可能性があるそうだ。

 対抗策として、聖戦軍に派遣されたメイレンベル軍の一部を本国に戻すからそれに合流して数的優位を得て寝言を聞かないようにするらしい。

 合流するまでに嗅ぎつけられないようにしなくてはいけない。

 聖王親衛隊の斥候を先行させながら我々は馬車で移動する。王太子ご夫妻は慣れぬ移動でお疲れで寝ていられることが多かった。

 斥候が割りと頻繁に先行先から戻ってくる。その度にガートルゲン軍の警備のフリをした捕縛部隊がウロウロしているという報告を上げる。警備の必要が無い場所にまで配置しているから間違いないとのこと。

 情報が既に漏れている。神聖教会圏中に密偵を放っている聖女の目鼻に耳から逃れることは容易ではないということだ。

 まずアルヴィカ隊長補佐が行った策は、ガートルゲン王に反感を抱いている臣下諸侯はたくさんいるので、そんな奴の旗を狙って進むこと。

 やる気の無い部隊がいる場所はあっさりと検問もなく、どうぞどうぞとばかりに進めた。

 走狗王直轄部隊の場所となれば進むのは容易ではない。しかしそこは聖王親衛隊が森林火災を起こし、検問どころではなくして強行突破を行った。

 手段を選ばぬ双頭の犬の旗を掲げた聖王親衛隊の豪胆な逸話はいくつか聞いてきたが、実際にやっている姿を見ると肝が冷える。

 ハウラ・リルツォグト=ロシュロウ。この女性もそんな一人なのか……。

 食事は車中で、停車せずに取ることがある。特に後方から怪しい連中が追跡している時は。

「はいポーリくん、あーん」

「あーん」

 味気より栄養重視の携帯食糧だが、ロシュロウ夫人が手ずから食べさせてくれると格別の感がある。

 ……まあいいか。

 他にも火事だけではなく、行動については詳しく語らずにアルヴィカ隊長補佐が「ふふふ、内緒です」と微笑み、「もっと暴きたい別のところがあるのでは?」と妖艶にはぐらかされてそれ以上は知れないものの、検問をしている兵士達がそわそわして仕事も上の空になっている箇所を突破したことがある。対応していた将校が代替わりしたばかりで要領を得ず、双頭の犬の旗に怯えて検問もしない。

 あらゆる手段を用いて王太子ご夫妻の存在を隠蔽して国王親衛隊と共に進み、遂に後退中のメイレンベル軍と合流して安全を確保した。

 メイレンベル領内にはいれば聖王親衛隊の車列を邪魔する者など皆無。むしろ軍民問わずに道を空けていく。


■■■


 メイレンベルのグランデンとの国境付近の農場に到着する。境界線も何もない領域の向こう側はグランデン大公国キトリン男爵領であり、聖王親衛隊隊長フィルエリカ・リルツォグトの所領でもある。

 聖王陛下がいらっしゃる場所は地名も何も無い辺境で、キトリン領には住民全員が顔見知り程度の規模の村があるがメイレンベル側には何も無い。森と聖王が手ずから世話をする農場だけだ。

 ここは聖王陛下の極々個人的な土地、別荘とも言える。農道が走っているだけで旅人が通り過ぎるような位置にあるわけでもなく、誰か不審人物がやってきたらすぐに分かる。

 さてその個人的な土地の入り口にあたる場所には”ヤーナちゃん農場”という看板がある。ニコニコ笑顔の聖王陛下と思われるお顔が添えて描かれており、とても愛嬌がある。

 その愛嬌に反したような聖王親衛隊が密に周辺を巡回しており、物見櫓も頻繁に見かける。

 やがて一軒の大きくもなく、飾り気の少ない屋敷が見えて来て出迎え? がやって来る。

「わんわーん!」

 動作が緩慢な風の老犬と共に、手足をつかって四つに走ってくる妙齢の女性がやってきた。農夫のような男装である。

 あえて精神的に遅れている者に居場所はここしかないと教育すれば絶対に裏切らない忠実な従者に仕立てられると何か本で……先代ブリェヘム王の狂王ヴェージルの著作だ。父に”狂気の沙汰だが有用な真実も多い”と買って頂いたのだ。読んでいて胸が悪くなるものだったから良く覚えている。

「あれが聖王陛下です」

 アルヴィカ隊長補佐が指差して言う。

「あれが!?」

 車列が「てーし!」の号令で停止する。そして駆け寄って来た聖王陛下が馬車から降りたアルヴィカ隊長補佐に飛びついて「アっちゃんただいまーのチューは?」と唇を尖らせ「しません」と拒否されている。

 人物評、特に貴族王族に対するものは殊更大袈裟に表現されることが多い。

 メイレンベル”伯”の頃より聖王陛下の評判は”永遠の少女””酔っ払いの気違い””良き農民、変な貴婦人、領主として論外”等とあったが、全て事実か。

「おーもしかしてハウラったん!? おっきくなったねぇ!」

 聖王陛下は次にロシュロウ夫人に飛びつく。

「ヤーナったんただいまー!」

 抱き合う二人。胸を「つんつーん」「つんつーん」と触り合って『キャッキャ!』などなど……うん?

 王太子殿下が礼をしようとしたらその前に聖王陛下に飛びつかれる。野生の獣のように機敏。

「アッシェくんのお兄ちゃんのセレルくんね! 兄弟だからそっくりね! お姉ちゃんって呼んでね!」

 と、聖王陛下の方から王太子殿下の頬に音がブチューと鳴る口付け。

「お兄ちゃんのお嫁さんのユッキーだね! じゃあ私の妹だ! やったね姉妹が出来たよ! お姉ちゃんって呼んでね!」

 王太子妃殿下がどうしましょう? とあたふたしている間にこちらにも頬にブチューと鳴る口付け。それから上着の裾をめくってお腹にもブチューと鳴る口付け。

「男? 女? 双子で両方だといいなぁ! ねえねえお名前なんてーの? まだ決めてない?」

 王太子妃が赤面する。白いお腹が見えて……あ、見てはいけない。目を反らす。

 しかしとてつもない勢いがある方だ。

 聖王陛下がなんと自分にも体当たりを仕掛けてきた。女性とは思えない速さ、衝撃であった。農作業で鍛えてらっしゃるのか。

「ビプロルの豚さんだ!」

 畏れ多くも聖王陛下が自分の腹に抱きつき、顔を埋めて、両手でフニフニと交互に押したり揉んだりしていらっしゃる。ああ、これはどう反応したら良いのだろうか。

「お、お初にお目に掛かります。ビプロル侯爵カランの息子ポーリ・ネーネトと申します」

 礼もしないで挨拶をして良いものかと思ったが、そんな空気ではない。

 腹に顔を押し付けながら聖王陛下が自分を見上げて、にへらっ、と笑う。

「ヤーナちゃんって呼んでね。よろしく!」

 そして酒臭い息が掛かった。良く見れば顔は酔って赤らんでいる。

 文字通りに跳ねて回って喜ぶ聖王陛下に気圧されてどうしようかと皆が思っていると、聖王親衛隊の軍服を着た、アルヴィカ隊長補佐に似て彼女より年嵩の女性がやってくる。

 聖王陛下がその女性に向かって全速力で走って「フィールー!」と叫んで飛び込み、頭を片手で抑えられ、脚を蹴り払われて転ぶ。手馴れた暴力という感じだ。

 その女性が王太子夫妻の前まで来て、踵を揃えて敬礼をする。

「ようこそおいで下さいましたカラドスのセレル殿下、ユキア殿下。聖王親衛隊隊長フィルエリカ・リルツォグトと申します。一同両殿下、そしてお子様のご滞在中は身命を賭してお守り致します」

「よろしくお願いします」

 王太子殿下が返礼をする。

 挨拶が済んだところで、我慢ならずと弾かれたようにロシュロウ夫人がフィルエリカ隊長に抱きつく。

「おかーさん!」

「ハウラ、見ない内に背も伸びたな。前に見た時はまだ小さかった。ん?」

 ん? と何を思ったのだろうかフィルエリカ隊長が、まだ寝転り仰向けになって「わふっわふっ」と犬の真似っぽいことをしている聖王陛下を強引に引っ張り起こす。

「お前ら二人、ちょっと並べ」

 この様子だと聖王陛下をお前呼ばわりしても違和感が無い。

 聖王陛下とロシュロウ夫人が肩を並べて抱き合う。

「私とーハウラちゃん!」

「私とーヤーナちゃん!」

 フィルエリカ隊長が少し考える顔をする。

「ああ、お前らの父親同じだ」

「いもおーとー!」

「おねーちゃーん!」

『ガシっ!』

 と声に出して聖王陛下とロシュロウ夫人の二人は胸を合わせて抱き合った。顔も声も雰囲気も、歳の違いはあるが似ている……ロシュロウ夫人はまだ理性的……いやいや、何と不敬なことを考えている。いかん。

「失礼しました両殿下。ご案内します。これは」

 フィルエリカ隊長が、これは、と聖王陛下の頭を片手で掴む。

「常にこんな感じなのでお気になさらないで下さい。言葉を喋る犬みたいなものです。噛み付かないから大丈夫ですよ」

「わんわーん!」

 また犬のようにして走られる聖王陛下を先頭にお屋敷へお邪魔する。

 そして玄関から、日に焼けてたくましいアシェル=レレラ様が聖王陛下と同じく農夫の格好で出てきて「兄上ぇ!」と全速力で走り込んで、挨拶する間もなく王太子殿下を担ぎ上げて走り回って「義姉上ぇ!」と叫んで王太子妃殿下の両頬に口付け。

 すっかり聖王陛下と馴染んでしまわれたか。溌剌と精悍で純朴そうな方だ。そして顔が酒酔いに赤らんでいる。

 畳み掛けるように聖王陛下が屋敷の中からようやく歩けるようになった頃の赤子を抱えて走ってくる。

「家の子のマリュエンスくんです! 挨拶!」

 マリュエンス様が奇声か言葉か分からない声を出す。皆笑ってしまう。アシェル=レレラ様は王太子殿下を担いだまま地面を転がるぐらい笑う。

 ここは楽園か何かだろうか?

 出会いの爆発的な勢いそのまま、玄関前に絨毯、卓、椅子が広げられて皆の分のワイン瓶が飲み尽くせないぐらい出されて順次食事が用意される。護送に参加した聖王親衛隊員全員分である。

 ヤーナちゃん農場の赤、白、薄紅、発砲、氷結、酒精強化などのワイン。格別に美味いとは聞いていたが、飲めばロシエのワインも負けるかもしれない味と香りだ。凍った葡萄を収穫して作るという氷結ワインがかなり甘口だが美味い。これは凄い、ウォルに飲ませてやりたい。

 朝に採れた野菜を切った物が並べられる。また暖かい地域じゃないと栽培出来ない種類もあり、温室栽培しているらしい。塩や香辛料を混ぜたタレを付けて食べる。

 蒸かした芋、朝に絞った牛乳を使ったという氷菓子、果物が氷詰めの容器に入れられて出てくる。

 海綿状のパンに砂糖で甘くした凝乳を塗って果物を混ぜたお菓子は異界から持ち込まれたかと錯覚する。

 朝に焼いた物をもう一度加熱して湯気を上げるパンは牛酪たっぷりで普段食べるものと別物。

 魚の油漬け、干し葡萄、胡桃、腸詰各種が山ほど。腸詰は香辛料入りだとか味が多様。

 牛に羊の焼肉もたくさん。ただ焼いただけではなく様々な味付けがある。

 お茶や珈琲もたくさん出される。香ばしいというか何とも言えない香りがたくさんの食べ物に匂いが交じり合って何とも言えない。

 我が家の金を掛けた祝宴でも食べられなかったような物が次々と出てくる。やはり楽園か。

 時間が過ぎる。お腹一杯、酒酔いも厳しい。

 聖王陛下とアシェル=レレラ様を筆頭に歌って踊りまくり、楽器による伴奏もつく。

 飲んで食って腹に溜め、音楽に乗せて歌って踊って腹を減らし、そしてまた飲んで食って腹に溜める。

 聖王陛下の鍵盤楽器、フィルエリカ隊長の笛の演奏は素晴らしかった。

 気がついたら夕方になり、疲れて寝る者も出てくる。王太子妃殿下はあまり騒ぐとお腹のお子様に障るので早めに寝室へ行かれている。

 しかし元気な者はまだまだ元気。

「はいヤーナちゃん、馬の真似しまーす!」

 聖王陛下がアシェル様の腰を掴んで「ボヒィイ! ボウオウボッオッオ!」と股間を往復して当てる。

 鼻から酒を噴いて窒息しそうになる。”わんわーん”とは比べ物にならない本物志向のものまねだ。

 日が暮れてくるとそういった下品なお笑いが展開される。昼に寝て今起きた者達、聖王親衛隊員達も馬だ羊だ駱駝だ犬、猫、鶏、豚に魚までやり始める。


■■■


 夜も更けて皆が寝室へ向かう。聖王親衛隊員達は周辺に住居があるそうで、屋敷に留まらずに帰って行った。家族が迎えに来る者もいる。ああいった隊員の家族もまた有事には民兵のように聖王陛下をお守りするのだという。

 自分は屋敷の寝室の一つを借りた。

 これ以上飲み食いしたら体に障る。耳にはまだ踊りの伴奏が残っている。

 こんなに良い場所なら王太子ご夫妻も幸せだろうと思いつつ寝台に寝転がる。寝台はそのままだと脚がはみ出るので木箱などで応急調整して貰っている。

 扉をコンコンと叩く音。

「ポーリくん、私」

「どうぞ」

 部屋に入ってきたのはロシュロウ夫人だ。彼女が後ろ手に扉を閉める。

 寝台から起き上がるとミシミシと音を立てる。寝相は良い方だから一晩持ってくれよ。

 蝋燭の火は消した後。窓には遮光幕を掛けているが、ロシュロウ夫人がランプを手に入って来たのでぼんやり明るい。

「どうされました?」

 ロシュロウ夫人がランプの火を息でフっと消した。遮光幕の隙間から漏れるわずかな月光が代わっておぼろげに姿を映す。

「お礼がしたくて」

 スルスルと音を立てて寝巻きが落ちたように見えた。

 あぁまさか!?

 まさかそんなまさか!?

 なんてことだ!?

 そんなまさか、あー!?

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