第194話「切る」 ベルリク
ロシエが面白い。新聞によって同情する勢力に偏りはあるが、二、三冊比べれば中央値が出てくる程度なので問題無い。
オーサンマリンを中心にする王党派と、シトレを中心にする共和革命派が首都圏で真っ二つに分かれた。
革命議会も立憲君主の民衆派と共和制の共和革命派と分かれていたようだが、政争に負けた民衆派はほぼ吸収されてしまったようだ。いよいよ本物の高貴なる首がボトボトと落ちる革命に移行したようだ。
これに怪我、病気塗れの主力軍を率いるオジュローユ公の王弟派がユバール連合王国との国境線で順調に衰え、いい加減に愛想が尽きてきた地方閥が動き出す土壌が整う。アラック侯国など戴冠する準備を進めているとまで言われる。
これらの出来事には勿論のことランマルカが介入しているし、我々も介入している。
この戦いはどちらかが倒れてもまだ終わらない。
王党派が勝っても負債だらけだ。失敗はしたがオジュローユ公が行ったユバール戦争の方針が一番楽だったと判明する。
共和革命派が勝っても彼等が標榜するのは”国王の負債は継承せず!”である。融資した神聖教会中の者達が許さない。特にユバールが許さない。どれだけ彼等が金を貸したか分からないし、賠償金も貰っていない。
ユバール軍。金と産業はあるが人口が少ない故の少数精鋭部隊が中心で、防衛には強いが攻撃には不足だ。シアドレク獅子公が軍事顧問として派遣され、オルフ内戦で獲得した新兵器も順調に運用されている。
オルフ王国方面で我々との外交決着が成ったので、そろそろ新しく編制したエデルト軍を投入しても良さそうな頃合だが、まだマトラ低地で決着していないから動けないかもしれない。それからまだ冬だし、春の到来を待っているということもある。
聖戦軍こと多国籍軍だが、まず冬季の召集に対して動きが鈍い。冬撒き小麦の収穫が始まってロシエでの刈り取りが見込めるようならば動くような感じがする。それと実力の程だが、ユバールへ遠征に出たような攻撃的な遠征軍を自領内で損耗しながら相手にするのと違い、広大な国内にいる国防的な郷土軍を相手にして勝てるかは非常に怪しいところだ。いくら国内が二分されているからと言って外国からの侵略者を歓迎する程にロシエ人もお気楽ではないだろう。
それからランマルカ経由で新大陸情報。大分時差があるので何とも言えないが、新大陸におけるロシエ・エスナル同盟に対して積極果敢に痛手を与える作戦に着手したとのこと。
今の頃にはそれなりの結果が出ているのだろうが、どんなものかは不明だ。新大陸におけるロシエ軍司令官の名前がロセアというのがジャーヴァルを思い出して懐かしい。
鉄缶に薪を突っ込んで燃やしている。その向こう側には平服姿のルサレヤ先生が椅子に人の手で釣り竿を持ち、翼はだらっと地面に落とし、端の部分だけが凍ったセルチェス川に錘だけが付いている釣り糸を垂らす。
自分も先生のように椅子に座って釣竿を持ち、錘だけが付いている釣り糸を垂らす。しばらくこうしているが何も釣れない。釣れたら少し恐い。
新聞は隣に置いた書見台にあり、アクファルが捲ってくれた。
「情勢が変化から固定化する流れになっています」
「腐っても大国ロシエだ。出す手を払えても胴体に一撃食らわすには非力な勢力ばかりだ。口の大きい神聖教会もあの聖女程に拳は大きくない」
「この固定が平和に収束するものならば皆が胸を撫で下ろすのでしょうが、違います。ここから状況を転がしてくれる救世主が望まれます。痒い背中を掻いてくれる誰か」
「それがお前、いや、我々か」
「待ちました。そうならないかもとは思っていましたが、まあ、俺の運良さは先生に出会って以来落ちることを知らんようで」
「目の前に転がってくるものに一々運が良いと評価をしていればそうなる」
「そう言われると幸運ボケしてるみたいですね」
「三十五万の遠征軍は出すんだな」
「はい。この後のピャズルダでの会議次第で具体的に決まりますが」
「前回のように機動力に優れたほどほどの軍ではないのだな」
「天政との戦いが待っています。北征巡撫サウ・ツェンリーとは、因縁はジャーヴァル戦争からですが、シゲが殺し損ねたり、一応ありますし。西で出来なかったことを東でやれるとは思いません。実戦演習です。勝っても負けても参考になります。戦わず、己を知らぬままに己の命運を左右する戦いを挑むことがマズい」
「ついこの前に防衛出動で十万も出すと言ったと思ったら、今度は三十五万の遠征軍か。それはお前の顔も若くない」
「良い男になりました?」
「悪い奴にはなった」
「あらま」
ついつい釣り糸を引き上げてしまった。勿論何も釣れていない。川に錘を放る。
「魔なる教えにおいて俺はどうでしょう」
「尻尾を振ってくる狂犬。しかしバルリー、マトラ低地でのやり方はご近所への噛み付きだ。自分で幕引きさせようというのだから静観はしているが、中央に泣きつかれたら、そう、困るな」
「困るだけ?」
「何をどうやって帝国連邦に懲罰するというんだ」
「飼い主を引きずってますか」
「まあな」
「魔導評議会は俺を殺せますか?」
「哲学者の寄り合いみたいな連中だ。厳重な警備を掻い潜る策を練る程暇じゃない」
「自分で言うのは変ですが、我々を放っておいていいんですかね」
「火力筋力おまけに魔力に練られた魔神代理領共同体の剣。こんな大口はハザーサイールもジャーヴァルも吐いたことがない。そして文句は言われたことが無い。聞かない」
「陰口も先生に聞こえてこないんですか」
「実績の重さはこういう時に良く光る。しかし光って目を潰す」
「つまり」
「大体、お前の思い通りだな。この流れがある内に堪能しておけ」
「俺の欲望は否定しないんですね」
「魔なる教えにおいて常識は尊重されるがそれは無闇な禁欲ではない」
「小便したいんですけど」
「持っててやろうか?」
「止めてババア、一人で出来るもん」
釣竿を置いて、ズボン巻くって竿を持って川へ小便。湯気が立つ。
■■■
マトラ低地における紛争解決の伝統を持つピャズルダ市にいつもの偵察隊、親衛隊一千騎と滅茶苦茶見た目の怪しいグラスト分遣隊二百を入れる。それから特別攻撃隊と特別任務隊が潜伏中。連れて来るのは最低限の護衛ということで、これが最低限である。
敵地真っ只中なのだからこれでも少ない。本気を出すのなら一度砲撃で均して人を全て追い払った後、である。これでも遠慮した。
それからピャズルダ市が主張する境界線には号令一つで進撃出来るワゾレ方面軍が待機。
市営の、市の規模に対してかなり高級感をかもし出している公館を貸りて西の偉い人達と話し合うことになっているが、人”達”ではない。
公館の控え室には本来直接話し合うべき人達であるバルリー大公代行、フュルストラヴ公、ドゥルード司教、ブリェヘム王が暇なのか代行も立てずにおっかない顔を下げて居て、聖王代理グランデン大公がその四人を「まあまあ」と弁舌で抑えている。そのためにここまで来たとはご苦労さんと言いたい。
話をして決着させる相手は第十六聖女ヴァルキリカ一人である。他の四人と喋ってもまとまる話もまとまらない。もしするなら武力で粉砕となる。
一対一ではないが、互いに秘書を付けて机を挟んで椅子に座る。当然、相手の椅子は特注にデカい。どこにそんな椅子の需要があるのか分からないが用意されていた。
「お前、私の前で良く笑えるな」
「だって聖女様大好きなんだもん、顔見ただけでそりゃあ笑えてきますよ。何言ってんですか」
脚を組んで笑ってない聖女ヴァルキリカ。修道服っぽいようでズボンになっているので素肌の脚がチラっと見えることは無い。あの長い太い脚に挟まれたいが、今挟めたら圧し折られるのは間違いないな!
頭巾で髪も耳も隠しているので顔だけが見え、一層表情が強調されているかもしれないが、ぶっ殺してやりたいと顔が言っている。
顔を見るのも恥ずかしくなってきた。
「アクファル助けて」
そう言うと膝の上にアクファルが座って背中で視界を遮ってくれた。
「おお、こうするとなんか母さん思い出すな。匂いそっくりだ」
「おい」
聖女が抗議。
「ああ、アクファルありがとう。お兄ちゃんはもう大丈夫だ」
「はいお兄様」
アクファルが立ち上がって退く。
「さて、聖女猊下。この紙っぺらに何か付け加えたい要項はありますか?」
バルリー共和国及び帝国連邦呼称マトラ低地に関する領有権紛争案件に対する調停文書草案、と神聖教会の都合に合わせた題名。
一つ。旧バルリー共和国は帝国連邦に無条件で併合される。
二つ。帝国連邦呼称マトラ低地は、公人と人民の諸権利が保護される条件下で帝国連邦に加盟する。
三つ。帝国連邦呼称マトラ低地に含まれるピャズルダ市は独立を保つ。ただし帝国連邦は同市に対して通行権を保有し、最低限の武装が出来る。
四つ。帝国連邦軍による国境近辺での演習や挑発行為を禁止とする。
五つ。聖なる神の代理人である聖皇並びにその信徒の敵対者への支援活動の停止。
六つ。聖なる神の代理人である聖皇並びにその信徒の聖務遂行を妨げない。
聖なる神の代理人である聖皇並びにその信徒、とはアタナクト聖法教会のことであって、他の異端共はその埒外である。
「明文化しませんが聖なる神を奉じる正統派ではない一派の創設をしないことはお約束しましょう」
「それで土地を寄越せというのか、帝国連邦」
「聖務遂行を妨げない領域が広がるという以上、アタナクト聖法教会に益するところばかりでしょう。カチビアのカスみたいなお布施もそのままですよ。逆に何がご不満?」
「平衡ではない」
一方的に神聖教会側が敗北した内容ということが気に入らず、そして面子に関わるのだ。分かってて言ったわけだが。
「何で吊り合いを取りたいのですか」
聖女が脚を組むのを止めて身を乗り出す。それに合わせてこっちも同じようにして顔を近づける。
自分はただ単純にその顔を近くで見たかっただけだ。この青い瞳の模様を見ていると何だか、風景を見ているみたいで飽きない。金色眉毛に睫毛も面白いし、金の鼻毛見えるかなぁと覗きたい。それから何か良い匂いがする。
「お前の子供を寄越せ」
もっと吹っかけてくると思ったら。
「総統と一緒に部族まとめて改宗希望ではないので?」
「改宗したところでお前らが言う事を聞くわけがないだろう」
「そりゃそうですが、ご指名あっても長男ダーリク=バリドは無理ですね。セリンの養子です」
「末っ子のリュハンナ=マリスラ」
「天才ザラ=ソルトミシュではないんですね」
「お前とその周辺の薫陶が入っている奴など要らん」
人質、それと将来的にこちらに返して真の意味でのアタナクト聖法教会信者を獲得という企みか。今後帝国連邦の矛先を避ける努力としては正しいだろう。
「そりゃあ大事に育ててくれそうだ……」
聖女が身を引いたのでこちらも身を乗り出すのを止める。
「聖女様の養子ってことなら良いですよ。顔も変えんでしょうがジルマリアも親分の貴女ならば不満はあまりないでしょう。あとたまに里帰りしてくれれば。それからこっちの言葉はちゃんと教えて下さいね。あとまだまだ糞垂れるんでちゃんとおむつ替えてくださいよ。親が自分の手で、ですよ。糞くらい手につける心意気も見せて貰わないと」
「決まりだ」
聖女がちょっと油断するので、それが途切れない内に。
「それでは魂の交換ですね。条約を確かにしましょう」
聖女が意表を突かれて眉を潜めた。良いな、表情の変化が面白い。
「貴女の可愛い優秀なメノ=グラメリス枢機卿ルサンシェルを我が帝国連邦のマトラ低地枢機卿管領の枢機卿にして下さい。内務省の方で管理させて頂きます。大丈夫、アタナクト聖法教会の権益は条約のように守ります。きちんと、責任を持って」
握り拳を作る聖女の手の皮が擦れて鳴る。デッケェ拳骨だなぁ。
「要人一人抜けただけで瓦解する組織ではないでしょう。お困りかな?」
ルサンシェルにどれくらい期待をかけて、今まで力を借りて助かってきたかは雰囲気を察するだけで分かろうというもの。聖皇代理を批判無く任せられたような男は惜しいに決まっている。自分にとってのラシージとまではいかないだろうが、魂の交換という言葉に否定する余地も無いくらいなのは確かだ。そして聖女個人はともかく、アタナクト聖法教会としては平衡が崩れる内容ではない。むしろ枢機卿管領増加で勝利点数が加算されたが如くで、反聖女とまではいかなくとも、その強権を嫌がる派閥からしたら右腕がもげたと歓迎すべきことだろう。
「構わん」
「これで都合が悪くなったら破棄される文書ではなくなりましたね」
「そうだな」
交換完了。
稲妻フィルに暗殺させようとしたり、ジルマリアをあんな素敵に育ててからくれたり、大好きな聖女が娘を貰って育ててくれるなんて、ここまで惚れさせてくれて何も無いわけがない。
席を立つ。
「本日はどうも。ご要望があれば我が帝国連邦の遠征軍三十五万は馳せ参じましょう。一致団結したロシエは大層な強敵でしょうから」
聖女がそっぽ向いた。一度もベル坊って呼んでくれなかったのが残念だが、前回と立場が違う。
■■■
バルリー共和国及び帝国連邦呼称マトラ低地に関する領有権紛争案件に対する調停文書草案を、政治的に正しい文言に修正した文書にしてそれに帝国連邦総統が署名をし、バルリー大公代行、フュルストラヴ公、ブリェヘム王が筆を何度か折ったと言われる些細な抵抗をした後に連署をして、大人しくドゥルード司教、ウステアイデン修道枢機卿が連署に続き、新聞、先触れも合わせて公表がされた。
こうしてシラージュとカチビア伯領及びドゥルード司教領、アイレアラセ城とモルヒバル城の領域へ堂々と治安維持警察が立ち入り、反乱勢力の鎮圧を開始する。
当たり前のように各地では反帝国連邦、反ベルリク主義騒動が起こっている。まだ生き残っているバルリー難民の勢力ときたら武装蜂起だ。ドゥルード司教領だけは比較的大人しいが、反乱勢力の拠点化に対しても大人しいので摘発は行われる。
特別攻撃隊”人間もどき”と特別任務隊”切れ端”が既に各地の抹殺目標を特定済みである。まさか領有してから調べ上げるなんて悠長なことはしていない。
既に署名前から治安維持警察が雇っている現地のヤクザ者、不良達で編制された補助警察隊が抗議活動という違法を犯す者に対して取り締まりを開始している。
帝国連邦呼称マトラ低地は、公人と人民の諸権利が保護される条件下で帝国連邦に加盟するという条項があったが、罪人を罰しないなどという解釈は当たり前にありえない話だ。ましてや内乱罪相当の罪人が赦されるなどと、どこの為政者が口にしよう?
シラージュ伯領とカチビア伯領とドゥルード司教領とアイレアラセ城主領とモルヒバル城主領、一つにまとめてマトラ低地枢機卿管領。
挨拶を兼ねて総統である自分が、建物から煙が上がっては悲鳴が聞こえる首都ツァミゾールに着任したルサンシェル枢機卿に会いにやってきた。
首都ツァミゾールはドゥルード司教領から独立したマトラ低地枢機卿管領の直轄都市である。中枢の建物はドゥルード司教が少し前までいた聖使徒大寺院をそのまま流用。
「条約の通りに敬虔なる真の信徒を我々は保護したいと考えますが、しかし我々にはその庶民派だのなんだのとそちらの基準で見分けがつかないのです。内務省が協力しますのでルサンシェル枢機卿、あなたの目で見分けて保護して頂きたい。我々に一存されると、間違ってしまうかもしれません。ちゃんと見分けられるのはあなた方です。巻き添えを食わないようにきちんと保護してあげてくださいね」
ルサンシェル枢機卿とその部下の聖職者達が不安げに我々を見つめる。
挨拶ついでに一緒に連れてきたのは内務省保安局特別行動隊”ゴミ屋”に入隊した、勇ましくも鼻息が荒いエルバティア族の鷹頭達だ。成人の儀式を待つ若者達が多く、早く大人になりたがっている。それに大人になってからも儀式を積み上げていくのは彼等にとって徳であり名誉だ。
「お前ら、北に高い山が見えるだろ。あれがダカス山だ。仕事が終わったらあれに家族を連れてっていいぞ」
鷹頭達が、『キャー!』『ギェー!』と奇声を上げて跳んで踊って喜ぶ。彼等の部族は土地不足で内戦が起きかねない状況で、ダグシヴァル族とも小競り合いが発生していた。問題解決のためにもここまで連れて来たのだ。
「流石はカラバザルの親父だ、聞いた通りのタマだぜ!」
「お前ら、俺に頼らないで誰に頼るんだよ?」
「ギャッギャー! モノが違うぜ親父様!」
『ギェキャキャキャ!』
こちらがセレード語、あちらがエルバティア族訛りの遊牧諸語を使って会話しているので、そちらの言葉が分からない聖職者達が怯えている。あの笑い声も中々強烈だ。
フラル語に切り替える。
「枢機卿、若い異国の彼等に見分けがつくと思いますか?」
「ご協力させて頂きます。しかし、あの通訳は?」
前から大柄ではなかったが、ルサンシェルが一層小さくなっている。
「通訳担当官もちゃんとおります」
一人のエルバティア族が前に出る。人と山羊頭と鷹頭に馬頭の干し首で首を飾る男だ。
「俺、フラル語大丈夫だ。ルサンシェル様、任せやがれ」
通訳担当官がルサンシェルと握手を交わす。大きな手で人の指先から手首までを覆う握り方が握手ならば。
「猊下の手腕ならば問題無いと確信しておりますよ」
その引きつった顔が可愛い。年取っても愛嬌がある枢機卿だ。
■■■
政治的な取引であったがしかし、切れぬ縁故もあってか聖女ヴァルキリカが直々にリュハンナを受け取りにバシィールまでやってきている。
久々に顔を合わせた聖女とジルマリアが二人で何を話し合ったかは分からない。分からないがジルマリアは幾分か血色が良くなっていた。鉄の女でも第二の母には敵わないようだ。
リュハンナを引渡す前に、三人で内緒の話をする。ダフィドもいるので一匹追加だ。
暖炉前の毛皮の絨毯の上にザラが座り、灰色の目がパッチリ開いているリュハンナが転がらないように背中を支える。籠乗りダフィドは大人しくしている。
「いいかザラ、そしてリュハンナ、まだ分からんだろうが聞け。頭に残せ。言葉一つ一つは覚えなくていい、感覚を捉えろ。我々の世界を広げるには広げた先にまで行く必要がある。足跡を残さなければならない。今や蒼天は狭く、昨今太く繋がった世界は無限に広く見える。我々の世界は地図では広いが実に狭い。ただ呆然と立ち尽くしていればいずれ窒息し、内で哀れに腐ったネズミの死体を巡って殺し合う。これからリュハンナ=マリスラは西に我々の世界を広げに行く。我々はセレード人、かつては東方にいたしがない遊牧民族だった。風になった祖先はまだ弱かった。それが西に行き、土地を武力で獲得し、原住民を屈服させて取り込んでセレード王国を作って巨大になった。この時は相対的に強かった。しかしつい三十年程前にエデルト人に負けた。お前らから見れば祖父、曽祖父の代だ。理由など一つ、弱いから負けた。そのようにエデルト人に貶められたが、祖父、曽祖父の息子である父様が王国を超える帝国を作った。今ここにあるこの帝国連邦だ。勝ちを譲ったエデルト如きに屈しない強い帝国だ。魔神代理領でさえ恐怖する。強くなったのは我々の世界を外に広げ、無数の力を食って大きくなったからだ。内で殺し合わず、外に出て殺したからだ。リュハンナは可哀想な人質ではない。神聖教会圏へ一番に切り込む先駆けだ。先駆けは名誉だ。ザラ、お前の妹が先陣を切るぞ。大戦果をもたらす。胸を張って送り出せ」
「はい、とーさま」
間も空けずに返事をしたぞ。これは親馬鹿ではなくても天才かもな。
「良い返事だ」
抱き上げると「うー」と唸って手足をわきわき動かすリュハンナを、毛皮を敷いた嬰児籠に乗せる。
魔都の名工キュイゲレの短刀、そして大人の顔に合わせたセレード族伝統の女戦士の銀仮面を入れる。それから換金用に、偵察隊が作った付加価値の高い金と宝石の装飾品。戦うには軍資金がいる。
しばらく唸ったり笑ったりするリュハンナを眺めていると「お兄様」とアクファルが扉を開けて時間を告げる。
城の玄関へ行き、腕を組んで待っている聖女にリュハンナが乗った嬰児籠を渡す。ジルマリアはいない。まあいないだろうな。
「政治的なところはともかく、個人として貴女を信頼します」
聖女の秘書が嬰児籠を受け取ろうとして聖女にやんわり拒否される。
「ある種、孫のようなものだ。そこは保障する」
「ダフィドまたねっていってるよ」
ザラがダフィドを両手で持って背伸びをする。聖女が膝を折ってリュハンナとの高さを合わせる。
「リュハンナ、またね、だいすきだよ。がんばって!」
ザラが顔を近づけて笑うと反射的にリュハンナも笑う。
聖女の一行が立ち去る。玄関の扉が閉まる。
「ほーはー!」
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