第183話「ペセトト神話」 大尉

 目が覚めれば花の陶板画が敷き詰められた天井。

 長い首と羽毛の頭も一緒に見える。

 ”鳥”が卵でも孵化すような姿勢で寝ている自分に乗っている。見た目より鳥類系統だからか軽いが、大型鳥類の系列ではあるので重い。

 ここは亜神達が使う寝室の一つ。特に誰かの専用の部屋ではないので気兼ねする必要は無い。

「”鳥”くん、起きるから退いてくれないか?」

「大尉さん、おはよう!」

「うんおはよう。おしっこしたいから退いて」

「うん!」

 ”鳥”との会話に齟齬は無い。会話も体も慣れていなかった初期には糞も合わせて漏らした。

 自分の体を長時間掴んでいられる強靭な”鳥”の足が降りて石の床をカツカツと叩く。

 密着してかいて、乾かなかった寝汗もあってか”鳥”のにおいがむわっと広がる。

 寝床から起き上がって体を伸ばす。

 新しいこの亜神になった体は慣れると不便を感じない。体毛が獣のように伸びて全身を、顔や手の平等を除いて覆った。犬歯が少し伸びた以外に足が手程ではないが物を掴めるようになり、そして太めの尻尾が生えた。

 尻尾は”つっかえ”にすると椅子のように座れ、枝に巻けば自重を支えてぶら下がれる。それ程の筋力と柔軟性なのだから荷物を、取っ手付きか棒状ならば一つ多く持つことが可能になった。

 致命傷を負った体を捨て、亜神となり、ペセトトの言葉も理解出来るまでになって大尉から”猿”になってしまった。そのように呼ぶ者はまだいない。

 帝都モカチティカの中でも一番古いツィツィナストリ島の風化が進んでいる便所で放尿。それから神官、亜神達が居並ぶ食事の間に行く。

 食事の間の中央、円状に敷物が敷かれた床に座って食事をする。亜神より格が一段落ちる神官達は壁際に座っている。

 トウモロコシのパンと早朝に獲れた魚の煮物、豆や南瓜の煮物。そして香辛料や糖蜜が入ったカカオの茶である。

 隣には”鳥”が座る。翼のせいで手が使えず、口を突っ込んで簡単に食べられるように大きな取り皿が用意される。亜神の中には姿形が特異な余り日常生活を普通に送れない者達がいるのでこのような配慮は特別ではない。

 ”鳥”の大きな取り皿に料理を取って盛る。種類と量が偏らないようにする。そして量を多く取ってはいけない。肉体労働等をする場合は食事の回数を増やす。

 自分の取り皿にも料理を盛って、少し遅れてやって来た同志エイレムが隣に座ったので自分の取り皿をそのまま渡す。

「ありがとう」

 自分の分を同志エイレムの取り皿を使って盛る。

 皆が食事の準備を済ませたところで人型に服を着て簡易に装飾をした粘菌の如き体のペセトト皇帝が現れる。

「わらわれるツィツィナストリの神の恩恵で、我々にくるり回された食べ物が与えられる。いつしか我々もくるり回され、わらわれてこの血を捧げて返そう」

 そう皇帝が言われ、さあどうぞ、と腕のような部位を動かし、皆が一斉に食事を始める。

 食事は出来るだけ静かに行われる。いつか自分もこうなる運命と考えながら食べるのがペセトト的に正しい。

 あの亜神を作り出す時に行われた狂乱的な儀式の様子からは想像出来ない静けさと謙虚さに包まれた生活がモカチティカでは送られている。


■■■


 所属はランマルカ陸軍にあるものの、亜神としてペセトト神話の学習が義務となり、同志エイレムの手伝いもあって語学教育を兼ねて学んだ。

 初めにネカシツァポルの神が己の皮を剥いで広げて大地をお創りになった。しかし大地は容易に見ることが出来なかった。

 神は創ったその大地を見るために両目を抉って空に上げ、昼には太陽として、夜には月として下界を見下ろされた。

 だがその大地には神にとっては虫だが、その他にとっては恐ろしい獣が無数に闊歩しており、また同様に恐ろしい病も蔓延していて弱い生物には辛い、しかし豊かな世界だった。

 毎日、万の命が生まれると同時に万の命が失われた。

 悲痛な叫びが絶えず、遂にネカシツァポルの神は悲しみに抗えず己の耳さえも潰された。流した涙が太陽と月を輝かせた。

 太陽はやがて月以上に煌々と輝き始め、ツィツィナストリの神となった。

 神はその陽光で良くその大地を見ることが出来るようになり、おわらいになって、声と血の唾が枯れるまでわらわれた。

 その時に起こった止まぬ風と水の破壊は数多の生物を殺した。そして正しく強く賢い者だけがその時生き残った。

 枯れた神はそれ以降、下界の生き物達に血を求める。その証に山へ大穴を空けられた。

 広がった皮は風と水を受けてティトルワピリの神となった。

 神になって起きられた時に大地は揺れ、無数に分かれる程に裂かれてしまった。

 そして多くの死が振り撒かれて更に強く賢い者だけが生き残った。この時の破壊までに恐ろしい獣は正しい存在ではなかったために死に絶えた。

 百の命が生まれると同時に五十の命が失われるようになった。

 神はその様を見られる。

 ネカシツァポルは創造神。能力は創造の力で弱り、全世界だったものが今や月にまで存在を落とした。

 送られるという神格を持ち、何もしないに等しい。目も耳も利かず、ただ空から地上の様子を弱い月明かりで眺めている。

 死に対する神格を持ち、そちらを強調して呼ぶ場合キヨリトルとされる。複数ある肩書きの一つのようなものだ。

 ペセトトにおける死の概念は、生まれる前も死人であり死んだ後も死人であるというところが特異だろうか。

 太陽が出ている時間帯が生きており、月が出る時間帯が死んでいる、という風に対比になっている。

 死んでいる者は何もしないので、ネカシツァポルも何もしないのだろう。

 キアチェカトル峠で亜神パンキアが”静かなるネカシツァポルの神さえも目を開けられ、耳で聞かれる!”と悲劇的な言葉を口にしていが、死人も起き出す一大事、のような言い回しに近いと思われる。

 また”穢れた魂を救おう!”は復讐をしようという意味であろう。

 魂の概念はあり、ペセトトの死の概念と照らし合わせると死後も受胎前も形而上的に存在するという認識を持っている。

 恐ろしい獣と病は、文明の黎明期における猛獣や疫病への恐怖を表現したものであろう。

 ツィツィナストリは破壊神。笑うそして嗤うだけで世界に殺戮をもたらすような強大な存在とされる。太陽ともされる。

 わらう神格をラカタカルとする。このわらうは死んだり殺したりする様に対して表す感情であり、笑って殺す、嗤って死ぬ様を見るという性格のようだ。ペセトト語が母語ではないため、ここの感覚を正確に理解するのは難しそうだ。

 くるり回すというのは運命を操るという言葉に聞こえる。操る方向はわらう神として死のみであるようだ。

 血を欲する性格になっている。”狼”の見解だと人口調整ということらしい。神話でも破壊と同時に選民行為を行っており、食糧問題に対する彼等なりの解決方法なのだろう。宗教とは科学ではないものの、科学の哲学が無い世界においては科学に並ぶ知識である。

 また太陽なのに血を欲しがるということになっているのは、血の蒸発を太陽が飲んでいるという風に解釈したものだろう。亜神の儀式ではわざわざ光を収束させて血を焼いて乾かしていたほどだ。

 ティトルワピリは大地神。凄惨だが豊かだった時代を下り、平穏だが貧しい時代の神なので豊穣神ではないだろう。

 花を咲かす神格をディトリワカとする。別神格が名前と似ているのは理由があるのだろうか?

 この花を咲かすというのは、植物の開花だけではなく、今まで目立たなかったものが一気に目立つとか、成長するとか、静の状態から動の状態へ移行するような意味合いを含める。そしてティトルワピリにおける花を咲かすというのは妖精から亜神へ変態させることを意味する。

 頭を欲するというのは亜神を作る具体的な方法を言っているので精神的ではなく実際的な言葉。

 それから見ているということが強調される。これはネカシツァポルと対比してのことと思われ、役目の終わった神と今も役目を負っている神という違いが見られる。

 大地を揺らすというのは地震で間違いないが、裂くというのは何事だろうか? 地形が変わるぐらいの激しい火山活動のことだと思われるが、火山灰に対する表現も無く、やや根拠が弱いか。

 この三つの神とは別に雨、食べ物、塩などの素朴な神、どちらかと言えば精霊のような存在がいて教義ではそれらの神は交わることがないのだという。

 神話というのは歴史的事実を伝えるものではない。しかしその神話を元にして今の文明があるのだから作り話と笑うものではない。

 このランマルカだけではなくペセトトの肉体と精神が混ざってしまった自分にこの文明を無視することは出来ない。

 亜神となったばかりの精神が不安定な時に皇帝に言われた”誕生前も死であり、死後も死である。亜神は更に死に入り、死より出でたる者。更に更に正しく強く賢い者”の言葉が耳から、今日まで離れない。

 間違いなく自分は共和革命派の闘士である。しかしここに来て神秘主義の信者としての自分も感じる。皇帝から何か使命を負わされた感覚が消えない。


■■■


 ”鳥”とモカチティカを散歩する。

 今はもう大分この新しい体に慣れたものだが、初めの内は歩くこともやっとだった。

 元の姿よりかけ離れる程に、慣れない内は体が動かし辛いそうだ。ただし術を使う能力に長けていると話は別。呪術弾を何とか扱える程度の才能しか無い自分は毛と尻尾が生えただけで苦戦した。

 ”鳥”は遥かに自分より異形になってしまったが短期間で山脈を越える飛翔すら可能になる程に術の才能を持つ。しかし何の術が使えるかは良く分からないらしい。

 覚えたペセトト語で他の亜神と会話したところ、気持ちを惹きつけるような術が無自覚に使えるのではないか、と言っていた。術とは関係なくそのような才能なのではないかとも思うが。

 走る鳥のようなしっかりした脚で”鳥”は進む。そして自分はそれについていく。

 モカチティカの内部は比較的左右対称になっており、余計な物が置かれたりしていない分整然としてはいるものの、上下に入り組んだ構造になっていて迷子になり易い。

 床天井と階段で仕切られた階層構造の建物と、山野に慣れて育った身としては、この石と階段の山谷のような不思議な空間に戸惑っている。

 歩いて、少し遅れるような気配を見せると”鳥”は心配になって長い首を曲げて真後ろの自分を見る。最近は大丈夫だが前まで転んだり、疲れ切って壁に寄りかかるのが精一杯になる程であった。

 古く風化しつつ苔むしている石で出来たツィツィナストリ島の初代皇帝の区画を出て、より新しい石の後代の皇帝の区画を進む。

 儀式の時以外は立ち入り禁止になっている区域を、特に生贄にされる者達が専用に通る道を避けて通るので迂回を繰り返して歩く。

 歴代皇帝の区画を抜け、チョカスコ湖の石橋を渡る。向かうのは周囲が公園になって、球技場があるチマンチャツェル島。神の名ではなく初代皇帝の名である。

 静かにしなければいけない皇帝の区画を抜けたので”鳥”が歌い始める。今では歌声のような鳴声のようなその歌を、意味を持って聞き取れる


  ツィツィナストリは空の上

  輝きわらっていらっしゃる

  私も我等も手の平で、くるりくるりと回される

  私は回ってわらわせる

  我等も回されわらわせる


  ツィツィナストリは果ての淵

  血を流していらっしゃる

  神も大地もその体で、くるりくるりと回られる

  神は回って枯れられる

  大地も回って枯れられる


 湖上で歌を聴いていた漁師の船同士がぶつかって転覆。美しい歌で船を沈める海の化物の神話が旧大陸にある。

 球技場についたら革の球を借りて使って”鳥”と投げたり蹴ったりして応酬する。

 自分は手足以外にも尻尾を使って棒打ちに返し、成功率はまだ低いが巻き掴んで投げる。尻尾は動物の弱点だがこの体にとっては拳骨、踵のように頑丈な器官となっている。

 ”鳥”は手ではなく翼や頭で打ち返す。首で掴んで器用に投げることもある。

 球技場は遊びの場ではなく神聖な儀式の場である。本来ならば球技で生贄候補達が競い合い、その最中に起きた色々な出来事から――転んだとか一番先に球で的を落としたとか――生贄を選んで神に捧げる儀式を執り行う。これはペセトトの暦に従って定期的に年に何度も行われる。

 この定期的な儀式では球技が一番重要とされる。その球技が開催されていない時には投槍や弓射、走り込みや格闘技、そして儀式とは別に訓練目的での球技が行われる。

 我々二人で行っているこの球技にも満たない遊びは訓練を名目に行われている。亜神の体を上手く扱えるようになることは宗教的にも推奨される善行。

 このような豊かな生活、この歳になって始めて経験する。科学的に文明的な生活と、精神的に文明的な生活ではまるで違う。

 故郷は寒かった。今のような気候に合わせて恥部だけ隠していれば良い気候は望めない。

 暦の上でランマルカはもう冬の季節になっているだろう。多少の乾季雨季はあるもののペセトトは常夏だ。

 暖も無く寒さに震え、同胞や家畜と裸で抱き合ってその上から服や藁で体を被って寝ていたのが懐かしく思える。

 戦死する、老いてくたびれる前にこうなったのは幸運だ。更に亜神になって急激な老いに迫られることも無くなった。

 ここは楽園なのだろうか。

 鉄と石炭で楽園を目指している、つまり到達していないランマルカとは土地が違うだけでこうも、根底から異なってしまうものなのだろうか。

 ここでは山脈の頂上でも目指さなければ雪を見ることはない。

 ここでは穀物や根菜以外にも豊富な種類の野菜が育つ。様々な香辛料があって嗜好品もたくさんある。密林には無限のように動物がいて狩りに困らない。

 戦争でさえも儀式の一部として遊びのように決着してしまえる。戦争は悲惨であると説明してもペセトトの妖精には理解されないだろう。

 怖ろしい死でさえも楽しく歌って踊る祝祭のように扱われる。

 老いの恐怖に苛まれることもなく楽しく死ねる。場合によっては亜神として延命さえ可能だ。

 庶民の生活を見ていてものんびりしていて、労役に潰される奴隷などいない。貧民は見たことがない。ランマルカも革命後は同様ではあるが、苦楽の度合いが段違いだ。

 ”鳥”が蹴り返して来た球を掴み損ねた。

 球を拾ったがそれから体が動かず、投げ返せない。

「大尉さんどうしたの?」

 ”鳥”が顔を近づけて来た。

 昔に比べて今が良過ぎて精神が不安定になってきているようだ。

 再び自分の体が動くようになるまで”鳥”が長い首で撫でてくれる。

「今日はこの辺で終わりにしよう」

「うん」

 球遊びは終わりにする。

 体以上に心が疲れた気がして、球技場から皇帝の区画に戻る前に石橋の途中にある休憩所で休む。


  花咲く木から飛び上がって

  花のような羽が回り落ちる

  黄金の鳥が笑う


  花咲く庭が広がって

  トウモロコシの穂が揺れる

  青い鳥が笑う


  花咲く地は神の庭

  雨が落ちて葉が打ち鳴る

  花の蜜を神が吸う

  雨に流され地に流れる

  花が舞って咲き乱れる

  雨を浴びて鳥が歌う


 ”鳥”が気を遣ってか、かなり明るく楽園のような歌を歌う。

 通り雨が降って、短く風が唸ってそして去る。

 風に流されてきた青と緑の美しい蝶が二匹、くっついたり離れたりして舞っている。

 ちょうちょ。

「ちょうちょ!」

 ちょうちょ!

 手を伸ばす、届かない。

「ちょうちょ?」

 浮いた? 尻尾を掴まれた。逆さまに、頭の上に湖がある。

「よ、大尉さん。良く生きてたな」

 逆さまに、尻尾を掴んで自分を吊り上げる”狼”の白灰黒混じりの髭の顔が見えた。

「あ!? ”狼”くん!」

 ”狼”の髭を掴む。ゴワゴワしていると思いきや滑らか。

「形は変わったがにおいで分かった。それからまあ、相変わらずだな」

 東海岸からモカチティカまで戻って来たのだ。

「ヒャウーン!」

 と鳴いて、丸い目を閉じて嬉しそうな顔をした”猫”が自分の顔を両手で爪を立てずに掴み、低い鼻をつけて頭のにおいを嗅いでくる。今までと態度が違う。

 ”狼”が”鳥”の背に自分を降ろす。何となく股で首の根を挟んで騎乗する。

「”狼”くん、あの後は?」

 ”狼”が皇帝の区画へ歩き出す。”鳥”も歩き出し、”猫”は何と自分の腹の前、”鳥”の背に跳び乗った。グゥグルゥと喉まで鳴らす。

「ポドワ軍をシパテクから追い払ったから作戦は成功。ただロセアは逃がした。今まで奴の実力を過小評価していたってことだろう。暗殺なんかしないで正面から大軍をぶつけて丸ごと撃破するとか、そういう手段しかないな」

 今までに何度もロセアの命を狙い、その結果を考えればその答えしか見出せない。

「大尉さん、体の具合はどうだ?」

「段々動くようになってきたけど、力が出る割には疲れる」

「最初はそんなもんだ。俺も変わった直後は苦労したもんだ。野犬に食われそうになったこともあるぞ」

 雨に濡れて、雨が止んで、三人が近くにいるせいか色んなにおいが鼻に入ってくる。


■■■


 寝て起きる前までは”鳥”が乗っていたが、今では”猫”が、猫のように何時でも立てるような腹這いになって自分の顔を胸の上から覗いている。”狼”が同じ部屋で寝ているので近くにいても不思議ではないが、前までの関係を思い出せばおかしなものである。

 亜神になって姿形が変わり”狼”と”猫”の仲間入りを果たしたからだろう。

 二人は大陸北部の獣の丘で、旧大陸風に言えば魔族に近い何かに人間から変態した存在だ。獣の丘で変態すると獣のような性質を獲得するという。

 ”狼”は毛の色と優秀さと全体的な姿が狼のようでそのあだ名で古くから呼ばれる。

 ”猫”は鳴声や仕草に体の一部の様子から猫っぽい。”猫”と呼んでいるのは自分だけで、”狼”は仕草や声の掛け方で名前を呼ぶ代わりにしている。

 二人が東海岸から戻ってきてからは”鳥”に代わり、”狼”に”猫”と狩りに出かけて射撃の勘を取り戻すことにしている。

 狩りで獲物を仕留める度に視力を初めとし、感覚については全て鋭敏になっていることを感じた。体も腕も復活したどころか向上した。

 その様にして過ごし、何時でも前線に復帰出来る状態になって、そのことを同志エイレムには報告しているのだが何も指令が無い。

 単純に何も任務が無いのかもしれないし、まだ自分には無理があって復帰のための訓練に集中させるべきと考えているのかもしれない。

 今日は話をつけにいく。

 この楽園から離れるための話をしに行くのだから辛い気持ちが沸く。

 長いこと連れ添ってくれた”鳥”とも別れるのだ。

 同志エイレムの部屋を訪ねる。手紙を読みながら手紙を書いている。何も任務が無いようには見えない。

「同志エイレム」

「同志大尉」

「僕は何時でも任務遂行可能です。指令を」

「うん……」

 同志エイレムは手紙から手を離して唸る。

「ペセトトの亜神として残らないかという提案を皇帝より聞いている。君は聞いたか?」

「聞いていません」

「直接君に話が通っていなくて良かった。あの方の迫力というか、存在感を前にすると否も応としてしまいそうで恐いところがある。勿論、君には断って欲しい」

 ランマルカ軍人として当然のことだ。

「ただ友人として、このペセトトの暮らしが好ましいのならば残留すれば良いとも思う。意志の弱い連中ならともかく、強い君はそれなりに自分の意志に従って行動するべきだ。もう長いこと奉仕して貰っている。そしてその老いが鈍った体を手に入れ、一度死んでしまったのだから……」

 伏し目がちな同志エイレムは一体どうしてしまったのだ?

「大陸宣教師としては兵士の義務を要求する。友人としてはその身の幸せを願う」

「同志エイレム」

「ああ」

「四百万同胞の不幸は終焉を迎えていません。力を得たものの未だランマルカは不幸です。多数の人間に怯えて暮らさなければならない。また武器は世界最新であっても文化は、このペセトトで知ったがお粗末。育てる余裕も無い。この楽園を知る者として、そこへ至るためにも革命政府に身命を改めて捧げます。革命から今日までの勝利は薄氷を踏むような危うさの連続でした。相次ぐ勝利のために支払われた犠牲は多い。ランマルカ人が残した技術と、技術革新を最優先課題にしてきた指導部のお陰で何とか大国のように振舞えていると今日までを見て思います。マトラの同胞達が羨ましい。彼等は多少の失敗をしたところで挽回出来る国力を手に入れている。理想の動員力に満たない我々は常に後がありません。東海岸での戦いのように勝てても敵本拠地まで追討するような戦力が無い。そんな時に一兵でも無為に損なうことは革命を損なうことになります。同志エイレム、命令して下さい。僕は僕の世界を救いたい。ここじゃない」

 同志エイレムは返事はせず、長く鼻を啜って深呼吸してから命令文書を紙の束から一枚取り出して手渡してきた。

「先の戦いで大陸中南部のエスナル、ロシエ勢力は疲弊した。この期にクストラでの地盤を固め、アトルカカンに掛かる北側からの圧力を減じる作戦を行う。ペセトトから援軍を受けることになっている。新型の呪術人形と入れ替えになった古い呪術人形も投入してくれるそうだ。アラナ諸島やポドワに侵攻するのは未だ戦力不足で実現困難。我がランマルカの戦線の広さに対する人的資源の少なさが悔やまれる。ユアック軍はアトルカカンからエスナル、ロシエ両領クストラまで縦断し、クストラ連邦共和国の中立地帯まで縦断する計画を立てているのでそれに同行して補佐すること。詳細な指令はユアック将軍が下す。敵勢力の撃破や拠点占領よりも、この縦断中に彼等の人民を多く殺し、畑を焼き払い、原住民を教育、扇動して武器を与えて反乱勢力を育てて回るのが主目的である。新旧大陸の別なく、出来るだけ人間同士で殺し合わせるのだ」

 敬礼。

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