第175話「理術」 ポーリ

 オーサンマリン大学では書見台に教科書と、その脇に個人的に覚書きをする手帳を置いて授業を行う。

 教科書は学校から半永久的に貸し出されるという形で受け取った。手書き写本の時代とは違うのだが、それでも高価で、しかも秘儀を記したような本をそのように貸与されるとは驚きだ。

 大学とは講師の言葉を耳で聞いて、討論するだけのものと聞いていたがここは違う。学問とは古来より既得権益で、ある種の秘伝、秘儀であったがここは明らかに違う。知識の拡散が望まれている。

 教材や論文はロセア元帥が新大陸から送って来た物と、それを元に先生方が考案した物に分かれる。まだまだ黎明期の技術で、かの元帥でさえ手探りである。先生方と我々生徒の立場も、基礎教育が終われば先駆者と後継者が共に研究し合うというような形に何れなる、そうだ。

 始めの授業は理術の概要だった。

 ”まずは魔神代理領の教えを基本とする。探求の必要性は認めるが、現状これが最も正解に近い考えである。

 東大洋には方術というものがあるが、これはロシエにおける教材としては不適格と判断する。

 世界は四層であると定義する。物質界、精神界、魔力界、原初界の四つ。

 物質界は実体。我々の見聞きする可視、可触の世界。

 精神界は頭の中、次の世界とを隔てる層。ここから下層へ意識が届くかどうかが術使いかどうかを分ける。

 魔力界は変質させる、魔なる力が貯まっている。これは加工する力である。

 原初界は物質、精神、魔力等のあらゆる素になる不可視、不可触の原初の素が存在する世界。原初の素は何にでもなれる素質を持つが、単独では何も成せない。

 頭の中で、意識を原初界まで引き下げ、原初の素を汲み上げ、魔力界にまで引き上げたらそこで加工し、精神界にまで引き上げたらどのように放出するかを決め、そして物質界に魔術として発動、顕現するというのが魔神代理領における魔術の思考論理。

 この魔術に加え、科学的な手法を加えて相乗効果を引き出すのも魔術の一環。単純な話、魔術の火だけで暖を取るのは非現実的な手法だが、魔術の火で着火した薪で暖を取るのは現実的な手法である。薪という燃料を選んで、必要なら乾燥して用意し、燃やす物として選択するところまでが魔術である。単純なようでいて重要な事実だ。

 我々のような神聖教会圏の人間にとっての奇跡とは、ほぼ魔術と同義である。ただし奇跡はここに科学的な思考、工夫を挟んではいけないという神聖教会による洗脳、妨害が含まれている。

 ただし、非常に天才的な術使いの場合は無用な入れ知恵をしない方が強力という実例もある。しかしこの大学では、理術はより多くの者に扱わせることを理想とするのでそのような神聖教会的な奇跡を教えることはない。

 新大陸からロセア元帥が持ち込んだ呪術とはこの場合、占いや祈祷などの本来の呪術行為を指さない。

 呪術は専用の道具を用いて扱う。これを呪具と呼称する。新大陸では魔術、奇跡に該当することも呪術と呼称するが、これはこの大学で扱わない。

 呪具は刻印によって成り立つ。特殊な彫刻によって、本来意味の無い引っ掻き傷である文字に意味を与える。そのためには物質界だけの傷ではなく、精神界を突破して魔力界にまで達する必要がある。

 呪具は、術使いとしての才能に乏しくても術を扱える道具である。注意点として、全く才能が無い場合は扱えない。

 特殊な刻印がほとんどの術発動動作を代わりに行ってくれる。その代わり刻印が示す通りの動作しか行わない。この刻印と我々が術を使う際の脳内活動と何らかの一致が認められるが、脳内活動の観察は現在不可能である。

 更に刻印がされた触媒は発動後、非常に脆くなる。細かい綿状になって再利用が不可能になる。物質が力の代替に消費されてしまう現象が発生する。

 呪具は使い捨ての道具ではあるが、これは理術の理想にとても近い物である。

 刻印であるが、刻むには術使いの才能が必須である。そして刻む文字には意味がある。これは表意文字や表音文字とは異なる。

 文字ならば、単純に縦の線を二つ並べれば数字の二であると理解するのは容易い。しかしこの刻印ではそのように刻めば意味合いが全く違ってしまう。人間が理解出来るように作られた文字と違い、精神界と魔力界に意志があると仮定した上でその両界に理解出来るように刻む必要がある。刻むのは文字のようなものだが、風車の羽根のような機械部品と考えた方が理に適う。風を適切に受けて容易に壊れない構造、そのような構造を刻んで作り上げる。

 天然の呪具、つまりこれは己の脳である。古来より魔術の酷使は疲労に始まり、死に直結してきた。

 魔術を使うたび脳を消費してきた疑いはあるが、疲れぬ程度に、程良く使う術使いは特に早死にでもなく、障害を負うわけでもない。ある一定の限度を越えた酷使によって初めて疲労、そして障害、最終的に死を迎える。これは長年の実例で証明される。

 魔神代理領では魂の疲労、そして死と表現される。外傷無く死に至るためだ。

 解剖学的には脳の萎縮が確認されている。これは魔神代理領では確認されていないらしい。これの確認実験が特異であるため行われてこなかったと思われる。

 確認方法は生きている術使いの頭を切開して脳の体積、重量を測り、そして死ぬまで酷使させてから再度体積、重量を測った結果実証される。死してまでこの実験に協力するという者がいて初めて実証された。

 この萎縮は同じ大きさの頭を持つ者との解剖比較も行って実証された。脳の内部構造も個別に萎縮、変質していることが分かった。

 玉葱を連想してもらおう。その皮はそのままで、何層にもなった実が個別に萎縮し、隙間が増大したような状態だ。何? 玉葱の中を知らない? 帰りに市場で買って切りたまえ。林檎の種、芯が萎んだでもいい。

 魔術の酷使が危険だという認識を持つことは重要だ。火の恐ろしさを知らずに使う者は愚かであろう。

 呪術を使えば触媒が脆くなるという事実と脳の萎縮は重なる。どうにかすれば触媒の崩壊を抑制しつつ、何度も呪術を扱うことが出来るとは思わないだろうか? 再利用性のある道具は効率的だ。

 呪具が脆くなるのは、原初界にある原初の素を汲み上げるという魔術の発動原理の一つを飛ばしてしまったせいで、代償に触媒を、物質を現象に変換していると考えられる。

 原初の素とは概念的な表現以外で何か具体的なものはあるのだろうか? 一番身近なのは熱である。我々が肌で感じる熱は既に加工されたも同然の存在で、原初の素とは同義ではない。しかし一番身近な、原初の素に最も近いものである。これはロセア元帥が実験で確認した。

 この熱を触媒にして呪術は可能か? 可能である。ただし、恐ろしく複雑な刻印を必要とする。そしてその規模に対して効果は微弱。しかも熱が奪われ続けて冷却状態になる。水が凍るほどになると反応が鈍くなり、最後に反応しなくなる。これが熱が一番に近いとする理由だ。何かしらの熱源で加熱しつつ運用するのが現実的である。問題として加熱装置を付け加えたらとても大きな呪具になるということ。人の体温でどうにかなる冷却速度ではない。これを解決するのも理術である。この再利用型呪具の実現が理術が目指すべき到達点の一つ。

 これを工夫したならば、術使いが最初に”火”を入れて起動した後に、何かしらの操縦で術使いではないものが操作し続けることも可能かもしれない。

 簡易な理術はほぼ呪術の模倣と言える。我々の知識を持ち込み、呪術をもっと便利な道具とするのが理術だからだ。

 そして最大の目的、理術は一切の術使いの才能を持たない者で扱えるようにすること。

 最も高度な呪術の一つに、呪術人形がある。それは一度呪術を扱えるものが目覚めさせれば、後は単独で長期間動き続けるというものである。持続力のある複雑な術の組み合わせで動き、体は再利用でき、交換可能な部品だけを損耗させるような仕組み。

 これは水差しに例えられる。人の力ではいくら振り回しても空の水差しから水を注ぐことは不可能だが、一度誰かがその水差しへ水を入れてやれば水を注ぐことが出来る。我々がそのような水を入れ、術が使えない者が水を注して回らせるのだ。無くなったらまた水を入れてやればよい。器は傷つかない。

 人は道具を手に入れ、本来は出来ない行動を行う。爪や歯で草刈をするなど途方も無い。しかし鎌が一本あれば子供でも刈れる。予備にもう一本あれば、砥石があれば刃が鈍ってもまた作業が続けられる。我々が学んで作るのはそういった、予備に一本持っておける安価な鎌で砥石だ。

 水を作り出す奇跡だけで都市を水浸しにするのはかなり難しい行為だろう。だが金で人を雇い、皆で手分けして行えば、頑張れば出来るだろう。水車や風車で水を汲んで、灌漑設備を通して配水すればもっと早いかもしれない。もっと簡単なのはそう、雨を待つだけだ。

 まずはこのような考え方を鍛え、術だけではなく、手で行うこと、機械で行うこと、それと雨のように天候を利用すること。様々な状況判断を行い、最小限の力で最大限の力を発揮させる。これに魔術や呪術の手を加えて、今まで不可能であった何事かを成すのが理術。人は知恵のある生き物だ。この知恵を更に生かそう。

 論理的な思考無くして理術は完成しない。何もかもを活かそう! 求めるべきは望んだ結果であり、課程は効率化されるだけ。

 究極、術が使えなくても化学だけの力で術のごとき行いが出来たならばそれも理術!”

 このような理念を伝える授業は初期にだけ行われ、後は先生方が時々説教するように言う程度。

 主要な授業は二つである。

 一つは化学――錬金術と言うと怒られる――の授業。

 神秘の魔術と呪術に化学を組み合わせて最大効果を狙うのが理術である。

 術使いだけではなく、術を使えない化学者も交えて授業が行われた。

 異なる物質を組み合わせると化学反応を起こす。

 溶かして混ぜると性質が変わる。

 冷やしたり熱したりすると形態が変わる。

 酸性、塩基性。酸化、磁性、電導率……とにかく別世界の知識だらけで大変だ。それと専用の数学知識も必要とされたので、新しい知識と合わせて難解である。

 次に呪術、呪具製作のための刻印の授業。

 この深さ、幅、形で刻めばこの効果が現れて、これとこれとを組み合わせればこのように変化すると実例を見て、これで自分が狙った現象を起こすように工夫する。

 人の論理ではない、術の論理で組み合わせるので奇々怪々である。同じ刻印の呪具を二つ用意すれば、二つとも同じ効果を発揮し、再現性があると分かるのが救いである。しかし同じ刻印を繋げると全く別の効果が現れるか、不正と見做されて何も起きない。もしこれらの組み合わせを論理的に理解した時、自分の正常な論理的思考が吹き飛ぶのではないかという恐怖もある。

 その恐怖に勝てず、早々に退学した者もいる。


■■■


 昼食と休憩と昼寝の時間は三時間。

 頭を汗が出る程使えば腹が減るもので、大学の食堂へ向かう。

 黒人従者を連れた先生と学生が食事をしながら茶や酒を飲んでいる姿が見られる。学生は才能さえあれば身分問わず入学出来るのだが、この食堂は身分制限が表向きは無いとはいえ、値段が足切りとなっている。

 席と卓の数は多めにあるので忙しない感じはない。

 座る場所を決めるが自分の体重、体格に合いそうな椅子が無い。全て手摺り付きなので尻が入らないのだ。

 手っ取り早く、鉄の奇跡……魔術で椅子を作って座る。

 ウォルは、俺は黒人従者じゃないと見せるように殊更足を無作法に伸ばし、煙草を咥えている。

 自分も彼も従者を連れて来ていないので「君」と呼んで、やってきた給仕に六人分頼む。

「借金は出来たの?」

「こっちにいるアラック人は皆貧乏人だ。軍が給料払わないせいだ。顔合わせたら金貸してくれって言われたぞ。親戚の野郎もいて実家の連絡先教えちまったら娘連れてけってうるせぇんだ。まだ五つだぞ、アホか」

「その煙草は?」

「馬賭けて、賭け札で勝って、その金で競馬に出て賞金獲った」

「いくら?」

「馬鹿な連中が汚ねぇ馬場でやるしみったれ競馬だ。噛み跡だらけの擦り減ったタリウス金貨十枚だよ」

「贅沢しなきゃしばらく大丈夫だね」

「馬の飯代で吹っ飛ぶぜ。王の森に入ってドングリ集めてぇんだけどな」

「縛り首」

「なんだよな。どうせ狩ってる余裕なんか無いんだからちょこっと開放して貰いてぇよ」

「賭けはともかく、稼げるんなら続けたら?」

「しみったれ競馬だぜ? 世界一ドビューンと早いアラック騎兵が出走したら勝負になんねぇよ」

「世界一早いのはルハリ馬じゃなかったっけ?」

「そりゃ原種で一番だ。品種改良したアラックが一番なんだよ」

「ふーん」

「ま、馬に乗れねぇビプロル人にゃ関係ないか」

「大型なら乗れる」

「直ぐ疲れるだろ。パカラったって走らないだろ。上り坂なんて絶望的だろ。ビプロル人は大人しく戦車に乗っとけ。古代人じゃなけりゃ乗ってるのお前らぐらいだ」

「うん」

「ロセア元帥閣下が折角出自問わず才能ある者集めたってのにここは高級食堂なんだよ。飯食いながら親交深めるだろが。兵隊食堂程度のでもつけりゃいいのに」

「学生の交流が偏るのはいけないね」

「大学から離れた食堂なんて歩いて往復してたら寝る時間無くなるぜ。昼寝無しだなんて何にもやってられねぇ」

「馬も馬車代もかかるね」

「煙草の煙で腹なんぞ膨れねぇよ」

「体に悪そうだ」

「腹減ったなぁ」

 給仕が六人分を台車に載せて運んできた。

「食べる?」

「お! いいのかい!?」

 手を組んで食前のお祈りをしようとしたら、声が掛かる。

「おいそこの乞食の黒んぼ、仕事が欲しいか?」

「あぁん? 決闘がしてぇって?」

 ウォルが席を立って、腰の刀に手をやる。

 相手は長身でウォルの頭が胸の位置。肩幅が広く見るからに頑健で、文句のつけようのない逞しさと美しさが溢れる男、ダンファレル・ガンドラコ。エルズライント辺境伯ヴィスタルムの嫡男。

「やんのかコラ」

 ダンファレルがウォルの頬を指で擦る。

「何だてめぇ?」

「化粧じゃないのか?」

「化粧だとしても擦るなよ」

「治すから皮膚の見本が欲しい。剥がしたい」

 ダンファレルは貴重な、数少ない治療の魔術が使える術使いだ。

「止めろ馬鹿野郎!」

「皮下組織が同じか気になる」

「うるせえ!」

「金は出すぞ」

「う……ダメだ、馬鹿野郎め!」

 バルマン人は黒人奴隷を買わないと聞いている。今でも従士制度があって不要らしい。オーサンマリンに来て珍しいのだろう。

「金に困ってるんだろう? なら仕事をして報酬を受け取れば良い。何を躊躇する?」

「いきなり喧嘩売られて、はいそうですか、と言うか!」

「喧嘩などしていない。不思議な奴だ」

「糞っ垂れ」

「大便は一日平均一回だが?」

 どうやら平行線になりそうだ。

「ガンドラコ殿、その仕事がどのようなものかお聞かせ下さい」

「ネーネト殿のような方がご興味おありですか? お金に困っているようには見えませんが」

「仕事を頼むというのは困っているということ。友人として相談するのならば何もおかしくないではありませんか」

「なるほど。実験用に人間の死体を集めているので選別と輸送の手伝いをして欲しい。昨今の情勢に鑑みるに、単独でそのような行動を取っていると徒に犯罪者扱いされる可能性があり、釈明も面倒。時間が惜しい」

「ウォルはどうする?」

「付き合ってられるか!」

「では私が手伝いましょう」

「有難い。二十時に共同墓地前まで来てくれ。これは前金だ」

 と金を出そうとしたが手を振って拒否する。

「友人として相談に乗って手伝います」

「ならば君、ダンファレルと呼べ。待っているぞポーリ」

 用事が済んだら直ぐにきびすを返してダンファレルは去った。

「おいマジかよポーリ! 気違いバルマン人に付き合ってたらおかしくなっちまうぞ」

「率直だったし、何よりあのガンドラコ家だ。疑うところは無い」

「ダン! ファレル・ガン! ド! ラコ! あー、喋るだけで顔が岩になる」

 手を組む。


■■■


 午後の授業は短いが、集中力を要して実践的である。昼間に十分な休憩を取るのも合理な程に危険。医者や看護婦がすぐさま対応出来るように待機している。貴重な、国王付きの怪我を治療出来る術使いもいる。

 大学裏の広場で呪具を実際に使う。感覚を養うためである。使ったことも無い道具を学んで作るなど有り得ない。これと己の魔術を交えたりして工夫をする。非常に危険で、新大陸から持ち込まれた物の多くは攻撃的な兵器と呼べる物ばかりである。

 雷や炎を発する分かり易い物がある。そして爆風のような突風を生む物もある。それは石を取り付けて銃撃のような投石を行う武器であった。ロセア元帥の定義によればこれは理術に含まれるだろうか。それから飲料用のかすかに塩気のある水を作り出すという高度な呪具もあり、新大陸文明の凄さも覚える。鉄と火薬と馬を知らずともロシエ、エスナルと戦い続けてきただけはある。

 中には自作の呪具を作って試している者がいる。先生方であり、一部の才気ある学生。

 自分は鉄の魔術で、呪具を模倣した物を作って扱えるか試している。

 始めは無駄な試みかと思ったが、魔力界にまで浸透するよう意識して作ったところ、術が発動した。模倣した物の効果とは同一ではなく、貧弱であったが手応えがあった。先生方も驚いていた。

 相応に慣れないことで大きな疲労を感じたので今日はその一回で止めたが、確かな手応え。

 理術、無限の広がりを見せるようだ。

 ウォルだが、未だに魔術の手を隠したままだ。呪具は扱えている。

 ダンファレルは、怪我をした生徒の治療を行っている。ただし怪我をした箇所の記録やら何やらと取ってからなので不平がある様子。


■■■


 大学から下宿の帰り道。

 新聞売りの子供が大声を上げる。

「号外だ! 号外だ! レスリャジンの悪魔大王がバルリー共和国に侵略を開始したよ! 既に死者は十万を越えた! 詳しく書いてるから買った! 買った!」

 字の読めない者向けに、先触れが声を上げて情報を宣伝する。

「我等が今上陛下並びにエスナル国王が冒険国債を共同で発売されます! 新大陸における冒険事業が進展しております! 庶民向けに小口販売もしてます! 各銀行で取り扱ってますよ!」

 閑静なオーサンマリンの町でさえも静かではない。

 広場の公開処刑場では共和革命派の罪人が「虐げられし市民よ、人食い豚を殺せ!」と叫んで、うるさいから処刑人に猿轡を噛まされているところだった。

「人食い豚だってよ」

「我が一族の名誉ある称号を貶された気分だ」

 我がビプロル族はロシエ最後の蛮族と言われた。旗は自分達の姿に似た動物の猪。そしてロシエ王に臣従して改宗してからは、背に王を乗せて敵を食う豚に変えた。

 我がネーネト家、ビプロル”豚”候とは人食い豚の意。ロシエ王の旗の下で多くの敵を殺戮してきたのだ。それをあの何の頭も無さそうな罪人が気安く呼ぶのは癇に障る。これから処刑されるのでなかったらこちらから殴り殺しに行っているところだ。

 罪人が断頭台に設置され、紐が引かれて重厚な刃が落ちてその首を落とす。観衆が沸く、喜ぶ。

 処刑人が断頭台から落ちた首を持って観衆に見せると更に沸く。罪人への悪口が飛び交う。

 そしてダンファレルが何故かいて、その首の断面を観察して手帳に書く。そして首の無い胴体を処刑人に金を渡して引き取って荷車に乗せて去る。

 首の方は役人が引き取って、おそらくこれからどこかに吊り下げて見せしめにするはず。

「あいつ頭おかしいぜ」

 放課後の学生は女遊びとか、酒場に繰り出す。この町にも当然そのような夜の店はある。そろそろ日も暮れるし、開店時間も今頃の店がある。

「ポーリは行かないのか?」

 真面目で熱心な学生は予習復習に睡眠までの時間を充てたり、貧しい学生は仕事がある。疲れたのなら早く寝るか、それか教会で心の平安を得てから寝るか、選択は様々だ。

 ウォルはどうやら日が暮れてから行く店に興味があって、しかし金が無いので自分に奢って貰いたいらしい。

 自分で稼いだ金ならば遊んで来いと渡すのもやぶさかではないが、自分はお父様に学んで来いと送り出された身である。交友関係を広めるために留学に来たのならば出せる金だが、勉強のための留学であるからこれは違うだろう。それに二十時にはダンファレルと約束がある。香水臭い酒酔い姿で行けはしない。

「下宿に帰る」

「愛人のところに真っ直ぐか?」

「そのような下世話な方ではない! 貴様、殺されたいか!?」

 ウォルの顔を掴もうとした手が空を切る。

「うぉ、おっかね!」

 瞬く間に走って、建物の陰に消えていった。逃げ足の早い。

 帰る下宿先はロシュロウ家。交易商をしていて、少し前までは首都のシトレに住んでいたが家賃が上がったり、暴動が起こったりで商売にならないから引っ越してきたそうだ。道も込んでいないので大量に荷捌きをする時は郊外のこっちが良いらしい。

 ロシュロウ家と我が家と商売の関係で繋がりがあって、それで下宿先にどうかという話になって今、部屋を借りている。家事は全て先方でやってくれることになっており、従者を連れて来なかった理由の一つである。

「今、帰りました」

「ポーリくんお帰り! あ、ごめんね、ポーリくんって呼んじゃった。えへへ」

 日没前に日出を迎えた。この家にはもう一つ太陽がある。

 掃除中のロシュロウ夫人が出迎えてくれた。昨日まではネーネト様、ポーリさん等と呼ばれていた。

 跪く。

「私のことは豚とお呼び下さい」

「私の可愛い豚さん」

 ニッコリ笑って顔を触られる。手は暖かく、しかしこの皮、肉、骨をも焼き尽くすような灼熱である。

 聖なる神よお許し下さい。私は異端なのです! ここにいる一柱の太陽神を見つけて崇めているのです。網膜が焼かれてしまった。

「ご飯、一杯! 作ったから食べてね!」

「はい!」

 豊穣神! いくつの神性を兼ねるのか?


■■■


 太陽の光に当てられながらも理性を引き出し、二十時の待ち合わせに間に合うようにロシュロウ家から出た。

 途中でウォルを誘ってみたが、彼の下宿先の老夫人に、退役軍人の夫と一緒に廃兵院へ酒を飲みに行ったというので諦めた。今日は廃兵院へ酒が支給される日だとか。

 そのまま墓碑に名も刻まれぬ者達が埋葬される共同墓地へ松明を持って向かった。

 人が寄り付く場所ではないが、時々男女の逢引が見られる場所。

 そこでダンファレルが荷車を脇に「にゃー、んみゃー」と言いながら、墓地の猫と戯れていた。

「あー、ダンファレル」

「遅れずに来たか。にゃー」

 ダンファレルを両手で持った猫に頬ずりしながら言う。恥ずかしがりもせず、何の不思議がある? とでも言わんばかりである。

「猫、好きなのか」

「妹がいる。その昔、野犬から飼い猫が守ったことがある。可愛いだけではないのだ」

「なるほど」

 何も言うまい。猫もまた彼の一柱なのだ。

「仕事は死体選び、そして死体運びだ」

 ダンファレルが鋭く指笛を吹く。そして共同墓地の墓守が暗闇の中から現れ、声のような唸り声のような音を発してからダンファレルから金を受け取ると門を開く。口が利けないか。

 荷車を引いて奥へ。夜の墓地とは松明の灯りだけでは何とも消しがたい気味の悪さがある。

 墓地の奥にある建物、地下室となっている死体置き場へ入る。壁一面が死体置き場の棚になっており、比較的新しい死体は部屋中央の石の寝台に寝かされている。これは気味の悪いどころの話ではない。

「ポーリ、君は寝台の死体を荷車へ。それは検分済みだ。私は棚から選別する」

「分かった」

 手を組んで、聖なる神と死者に短くお祈りをしてから抱え上げて階段を上がって荷車へ運ぶ。日中だとカラスが寄ってきそうだと思った。

 次々と死体を運ぶ。死体の死に様は一様ではなく、今日のように断頭台で鮮やかに首を切られた者から、銃弾で胸を撃たれたのに背中に何故か大穴が開いた女、刀剣で胸骨ごと切り裂かれた男、腹部を何度も刺された老人など様々だ。

 死体を運ぶ。水のように冷たく、生きている人間より遥かに重い。

 死体を何体も積んでから荷車を曳いて運ぶ。

「大学まで?」

「大学までだ」

「許可は?」

「当然ある」

「不可触階級の人達と交流があるんだね」

「それで失うものと得るものの差は考えた。医療技術の祖となるのなら問題ない。綺麗な後継者に事後を託せば良い」

「なるほど」

 不可触階級、処刑人や墓守のような死人を扱う者達は固定された、ある種の特権階級で被差別階級。この階級になったら抜け出せない。死刑の代わりにこの階級に落とされる方を選ぶ女性がいることもあるが、それよりも死を選ぶ者がいるような階級でもある。そこと交流しているような人物は同様に見做されることがあり、仕事の関係でもなければ普通の貴族でも醜聞で特権が吹き飛びかねない。

 大学はまだ発足したばかりで空き部屋が多く、ダンファレルは中でも排水設備のある部屋を借りている。

 ダンファレルは夜に実験を行う。昼間は授業があるので実験をしていられないし、睡眠は早朝と昼。食事は一食で、一日分の栄養を確保するように済ませるらしい。

「君は治療の魔術が使えるが、死体はどうするんだい? まさか、治らないよね」

「魔術で治すにも、人間はどんな体の構造をしていて、傷を受けた時はどんな風にその構造を破壊されているかを把握しておく必要がある。ここが分からないとダメだ。ただ肉を繋げただけで治ったとは言い難いのが治療だ。例えば腸管が千切れるような槍の一撃を受けたとしよう。そこでただ傷を塞いだらどうなる? 腸管は傷は塞がっても閉じたまま。一時的に助かってもこれでは腸を病んで死んでしまう。だからそんな例を把握しないといけない。大量の死体を見ないといけない」

 彼には生と死を司る神の一柱があった。

「今はこのような外傷で死んだ者で名を上げる。病気で死んだ者で名を上げるには、周囲の理解が必要だ。まさかここに痘痕だらけの病死者を運んだら退学で済むまい。ならばどうするか、専門の隔離施設と、新鮮な病人、病死者を供給される環境を作り上げるしかない。内臓疾患で良く死ぬわりには理解に乏しい者達を説得するには、まず分かり易い外傷からだ。治療の奇跡では不足。治療の魔術、治療の理術に昇華する必要がある。私には東の雄とするガンドラコの名が幸運にもある。必要な時に君の、西の雄であるネーネトの名があれば助かる。不可触階級の問題同様、これは普通の人間には分からん問題だ。何事か成し遂げるには組織に切り込まねばならず、それには権力がいる。俺はお前の名前と権力が欲しい」

 死体を刃物で切り裂いているダンファレルの手を握る。

「可能な限り助ける」

 ダンファレルが手を止めてこちらを見る。

「切開中に触るな。失敗したら死体が勿体無い」

「あ、すまん」


■■■


 ダンファレルの研究を邪魔してはいけないので大学を後にし、手を洗ってから夜更けのカラドス聖王教会を訪れる。天井は非常に高く、無数の聖人、聖女の像が壁際に林立しており、まるで巨人の森だ。

 喜捨の箱にお金を入れ、聖なる種が刻まれた壁に祈りを捧げて心と言葉を整えてから懺悔室を訪ねる。

「夜遅くですが、よろしいでしょうか」

 夕方から胸にずっとつかえている。

「神はいつも耳を傾けていて下さいます。どうぞ」

 壁越しに神父の声。

「私は聖なる神を信じる者です。この信仰に揺らぎは無いと思ってきました。しかし実は私、ある女性を太陽神、そして豊穣神だと思ってしまいました。またある男性には生と死を司る死神のようなものを見てしまったのです。私は異端なのでしょうか?」

「それは人に対する崇拝であって聖なる神への信仰や崇拝とは異なります。あなたはあなただけが認める聖人を見つけたのでしょう。その心は決して信仰に反することではありません」

「わたしだけの聖人?」

「それは師であったり、ある老人であったり、両親であったり、何かの同志かもしれません。公的にも認められた所謂、我々が良く知る聖人その人の場合もあるでしょう。人それぞれです」

 何と! 何と何と!

「ああ! 迷いが晴れました。感謝します!」

「では行きなさい。何時でも扉は開かれております。神のご加護を」

「はい、神のご加護を!」

 教会を出る。何と足の軽い!

 帰ろう、私の聖女の待つ家へ!

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