第172話「ロセア元帥の推薦状」 ポーリ

「ポーリや、忘れ物は無いかい?」

 玄関の前で、目を赤く腫らしたお母様が手巾で目元を何度も拭いながら言う。

「昨日の晩も今日の朝もちゃんと確認しましたよ」

 路銀は十分、白紙小切手も持っている。

 筆記用具や手帳は目的地でも買えるが当面必要な分はある。

 靴は履き慣らした上で、磨り減った靴底を取り替えた物。旅装も穴やほつれが無いか確認したし、三角帽子も同じ。

 正装用の着替えとカツラに帽子に、手巾や香水もある。

 もしもの時のための雨具、野外寝具、携帯食糧、水と酒も荷馬に積んでいる。

 ここから目的地まで、宿と宿を提供をしてくれる修道院に街道や目標物が中心描かれた旅行地図、目的地にある訪問場所が強調された市街図もある。

 それから大事な推薦状も防水の革鞄に入れて大事に仕舞ってある。

 そして旅に便利な杖も持った。

「ポーリ、お前はもう十六歳だ。成人したのだ。成人したばかりだが、大人は大人なのだ。自分の言動、行動に責任を持ちなさい。そして推薦されたということは期待されているということだ。正しく応えるべき方からの期待には正しく応えなさい」

「はい」

「だがこの世は混沌とし、良い者ばかりではなく悪い者も多い。もしかしたら悪い者の方が多いかもしれない。正しく応えるべき人物、そうではない人物を見極めなさい。もしその悪い者をさえ良い者としてしまえるように相手を感化させられるのならばそれに越したことはないが、それはとても難しいことだ。お前は若く、そして男だ。それを分かって悪い女が近づくこともある。特に我々のような異相の者に近寄る者は善意に溢れるか悪意に溢れるかのどちらかだ。そして時に善意でさえも悪意を越える害意になりうる。とかくこの世は深層を探る程に難しくなる。探る方法は経験と正しい助言で学ぶしかない。経験の浅い内は正しい友を得て助言を得て、そして大切にしなさい」

「はい」

「難しいことを長く言ってしまったが集約すれば一言だ。ビプロルの男として恥じぬようにしなさい」

「はい」

 お父様から剣を受け取り、腰に佩く。

 つい一月前に成人したばかり。修養旅行の意味合いも兼ねて一人で行く。荷物を載せた馬だけが相棒となる。

 従者を連れていくかは昨日までお父様と話したが、連れて行かないことに決まった。何日も前から行く支度をして、必要ないと言われた時の従者の肩を落とした心配そうな顔が目に残る。今もそわそわして、庭弄りの手を止めて見えるところにいる。

 従者を連れ、さる貴い家に留学して学ぶような修養旅行は大昔からの伝統。何事も無かったならば、畏れ多くもカラドス王家に再度赴く予定であった。幼年の頃に一度留学したことがあり、今度は基礎教養以上に社交や帯剣貴族としての振る舞いを学ぶ予定であった。しかし昨今の国内情勢の悪化と、そして何より頂いた推薦状があったので伝統とは少し外れた道を歩むことになった。

 昔から兄のようだった門衛の二人が鼻をグズグズ鳴らしながら正門を開ける。

「お父様、お母様、行って参ります」

 お母様がグショグショに濡らした手巾を思わず引き裂いてしまい、執事の爺が替えの乾いた物を渡す。

 馬の轡を取って曳き、正門を出る。

「行かないでポーリ!」

 お母様が叫ぶ。でも振り返るわけにはいかない。

 この目頭の熱くなった顔を皆に見せては心配させてしまう。

 聞かれぬよう鼻を啜るのも堪え、生まれ育った家を背に進む。


■■■


 ビプロルの地が遠ざかっていく。

 知った顔の領民がお辞儀してくれるのも故郷までで、その外からは見知らぬ他人。

 道中、町や村を通過する度に思ったのは物乞いが多いこと。お父様からこれら貧困の問題は個人の慈善でどうにも出来ないから無視するように言われている。誰も近づいてこないからどう断るか考えても無駄ではあった。

 パン屋は早朝に高値のパンを並べて早々に店仕舞いするか、そもそも営業をしていない。女達が店主に、また値上がりするまで隠しているんじゃないかと文句をぶつけているのはマシな方で、店が焼かれて潰されている場合さえあった。

 立憲君主制に移行し、平民の声を代弁する議員の声が強くなってから開設された公共配給所だが、見かけたところは全て職員はおらず、配給品も無く閉まっていた。建物には不平不満からか下品な悪口まで手酷く落書きをされていた。

 幅の広い川に渡された橋が崩れても、領主に金が無くて修理出来ずに崩れるままになっていた場所さえある。石造の半円橋だから専門の職人がいないと手が出せず、応急的に木の板を敷くには崩壊部分が長過ぎた。

 背負い荷物程度の旅人は浅瀬を歩いて渡ったが、荷車を引いている人は立ち往生するか強引に渡る。強引に渡れば引っ繰り返すか、車軸を壊して川に放棄する。もう少し余裕がある者達は場所を移して違う橋を行くか渡し船を利用する。

 浅瀬を渡る人の中には転びそうになる程荷物を背負っていた人がいるので手伝ったりもした。

「いやあ兄さん! 化け物みたいに体大きいね! ビプロル人かい。助かったよ!」

 差し出された金の受け取りは拒否し、旅に遅れが出ない程度に手伝って先を急いだ。

「半ズボンの貴族さんにも親切な人がいるんだね!」


■■■


 地図に描いてある数多くの中の一つの、貴族や裕福な者が泊まる宿を取る。あまり安いところに止まると詐欺に遭ったり、寝床が虱だらけで寝られないと聞いている。

 宿は話に聞いているより値段が高かった。払えない金額ではない。宿の者が言うには物価高に連動しているだけなのでお許しを、とのことだった。

 食堂での食事では五人分を頼んだ。体格相応に腹が減る。

 手を組んでお祈りをする。

「聖なる種を世にお蒔きになった神よ。今日の夕餉に貴方のお恵みに預かることが出来ました。感謝の祈りを致します。この夕餉を祝福して下さい。この夕餉が体と心の糧となりますように。これからも家族、友人、知人、見知らぬ人々にも糧がありますように」

 祈りを終えて食事に手をつけようとすると強い視線。首を動かさないように横目で見ると、隣の席で空になった杯の水滴を舐めている肌の黒い人が食べたそうにこちらを見ている。

 これは声を掛けようとしている物乞いではないのだろうか? でもここの宿代が払えるのなら違うだろう。身なりも大金持ちではないようだが、騎兵刀を佩いて帯刀しており貴族然としている。何か事情があるのだろう。

「そこの黒い方、良かったらこちらで食べませんか?」

「おっ! いいのかい!」

 遠慮しないで席を移ってきた。

 指を鳴らして呼んだ給仕に彼の分も注文する。

「いやぁ、助かったよ! ここの宿代だけで金が無くなっちまったんだ」

「別の宿は取らなかったんですか?」

「ここの払ってからな、負けちまって飯代スっちまった」

「財布を落とされたんですか?」

「いやいやいや! 賭け札だよ。路銀が残り少なくなったからちょっと、稼ごうと思ったらこのザマなんだ」

 空の両手を振って、金が無い、とやる黒い人へ給仕が配膳すると、早速彼は手を合わせた。

「聖なる神と慈悲深いビプロル人に感謝します。頂きます!」

 黒い人は物乞いではなく、歴とした貴族だったようで食事の手つきは優雅なものであった。粗野っぽいのは辺境の武家だからかもしれない。

 食べ終わりの皿を舐めようかどうか考えている黒い人に、自分が食べていない皿を渡す。

「おっと、自己紹介が遅れた、ビプロルの人。俺はウォル=バリテス・リュッサディール。父はアラックのレアラル男爵で、こんなに黒いのは母がアレオン南部のマバシャク族だからだ」

 席を立ってウォル=バリテスが手を出す。

「私はビプロル侯爵カラン三世の息子ポーリ・ネーネト」

 こちらも立って握手する。

「あのビプロル豚侯のご子息とは! こりゃ凄い大物だ」

「いえ、それは」

「いや、謙遜することはないさ。両親ともアレオン戦争じゃビプロル豚侯がいなきゃ五回は死んでたと言ってた」

「私の功績では……ないので」

「ははは、そりゃ謙虚なことだ」

 握手を解いて席へ。給仕が酒を用意する。互いに乾杯して飲み干す。

「ワインじゃないのか」

「林檎酒です」

「これは悪魔の飲み物だな」

「魔神代理領で人気なので?」

「いや、そういう意味じゃないんだが……そうだ、何でビプロル候のご子息が連れも無しにこんなところに?」

「実はロセア元帥の推薦で大学に入ることになって」

「何、元帥!? もしかしてその大学って、オーサンマリン大学か?」

「そうですが」

 対面に座っていたウォル=バリテスが席をずらして隣に来た。

「これは偶然だぞポーリ! 俺もオーサンマリン大学に行く途中なんだ」

「そちらも入学するんですか?」

「そちら? なんて水臭い、ウォルと呼べ」

「じゃあ、ウォル。君もオーサンマリン大学に行くということは奇跡が使えるのかい?」

「奇跡! あーポーリ、その発言は無しだ」

「どうして?」

「ロセア元帥は奇跡より魔術より何より呪術。そしてオーサンマリン大学を作ったのはそれらの上を行く理術を成すためなんだ。俺は母直伝の魔術が使えるってとこだな」

「僕は奇跡で……」

 ウォルに手で口を塞がれる。

「おっとポーリ、おぼっちゃんだな。こんな人がいるところで手の内晒すのは馬鹿だ」

「うん?」

「何が出来るか分かれば術使いの強さは半分以下になったも同然だ。喋る時と場所は考えろ」

「うーん、分かった」

 ウォルが席を対面へ戻して酒を飲み直す。

 それからはウォルの両親が如何にアレオンでハザーサイールの騎馬蛮族と戦ったか話し、そして聖戦軍があろうことか神聖教会諸国を蹂躙したあの戦争で、レスリャジンの騎馬蛮族との戦争で父の目が抉られたかを、酔いながら話し始めた。復讐したいがあのレスリャジンの軍勢ははるか彼方。それを雇ったクソ坊主どもは殺せるところにいるがどうにも出来ない。朝令暮改の糞三部会から糞坊主叩き出せばもう少しマシになる等と、政治の話に移るとまるで支離滅裂で、ちゃんと聞こうとしても話が飛んで分からない。

 話を聞き続けていると突然にウォルが歌い出す。昔は良かった、というような話の流れだった気がする。


  マリュエンス三世よ永遠なれ!

  この英明なる王は

  飲んだくれの女たらし

  犬のように食い、馬のように飲む

  この英明なる王は

  飲んだくれの女たらし

  犬のように食い、馬のように飲む


  国歌を歌おう、千年先まで

  神の世が続くまで

  ギー・ドゥワ・ロシエを唱えよう、アラック人のように

  ギーダロッシェ!

  ギーダロッシェ!


  マリュエンス三世よ永遠なれ

  この勇敢なる騎士は

  悪魔との戦争で負けは無し

  剣は太陽のように、槍は風のように

  この勇敢なる騎士は

  悪魔との戦争で負けは無し

  剣は太陽のように、槍は風のように


  国歌を歌おう、千年先まで

  神の世が続くまで

  ギー・ドゥワ・ロシエを唱えよう、バルマン人のように

  グータロッサ!

  グータロッサ!


  マリュエンス三世よ永遠なれ

  この偉大なる父は

  私達の最愛の友でハゲ親父

  下手な歌は耳障りで、はばからずご用する

  この偉大なる父は

  私達の最愛の友でハゲ親父

  下手な歌は耳障りで、はばからずご用する


  国歌を歌おう、千年先まで

  神の世が続くまで

  ギー・ドゥワ・ロシエを唱えよう、ユバール人のように

  ギュイダローシャ!

  ギュイダローシャ!


  マリュエンス三世よ永遠なれ

  この敬虔なる信徒は

  神に祈り神に捧げる聖者

  広く正大、光をもたらす者

  この敬虔なる信徒は

  神に祈り神に捧げる聖者

  広く正大、光をもたらす者


  国歌を歌おう、千年先まで

  神の世が続くまで

  ギー・ドゥワ・ロシエを唱えよう、アレオン人のように

  イュユートルーシャ!

  イュユートルーシャ!


 何時の間にか同じ食堂にいた他の客も声を合わせて歌っていた。


■■■


 二日酔いのウォルを彼の馬に乗せ、宿から出て自分の馬と一緒に轡を引っ張って目的地のオーサンマリンを目指す。

 折角食った物を吐き出さないようにと吐き気を堪えて苦しんでいるウォルを、道中抱え上げて揺さぶって無理矢理吐かせた。

 道中の宿場町で、ウォルに金を貸して何か軽い物でも食べて来いと送り出す。

 酒の補充をしようと酒屋を探していると、片側にだけ赤マントをつけた姿のアラック兵か盗賊か分からない奴が、店屋の親父を殴って「金を出せ!」と大声を上げ、それを見ている子供が泣いているところを目撃した。

 そのアラック人を、加減しないと死ぬので手の平で少し軽めに張り倒す。倒れたまま動かなくなった。

 どこに捨てようかと考えていると、同じ格好のアラック騎兵六騎に包囲される。馬賊?

 刀に銃も持っているので、素手では苦戦するだろうと奇跡を使おうとしたらウォルが間に入った。

「待った! 待った待った! このデカいのはビプロル侯爵のご嫡男だ。この体見ればわかるだろ? 戦うな!」

 アラック騎兵達は刀の柄に手をやり、抜くか抜くまいか考えている。

 肩章、勲章が鮮やかな馬賊の頭目らしき男がやってくる。

「我等はご領主様から徴税の任を受けている! 貴様等は何者だ!?」

 馬賊ではなく、これは悪名高い徴税請負人か。職にあぶれたアラック人が各地で軽騎兵として雇われているとは聞いた事がある。強引な徴税中か。

「ギーダロッシェ!」

 ウォルがロシエ万歳とアラック流に発音する。騎兵隊は伝統的にアラック流に喋るからか、ウォルに軽騎兵達の注目が一挙に集まる。

「隊長さん、俺はレアラル男爵後継者のウォル=バリテス・リュッサディール。ラダリオ・リュッサディールの息子。こちらはビプロル豚侯カラン三世のご子息ポーリ・ネーネト殿だ」

「レアラル卿のご子息か……」

 軽騎兵隊の隊長はウォルの親を知っているようだ。

「これは公務です。何故妨害するのか?」

「盗賊に見えた」

 率直に言う。張り倒した男が仲間に引き起こされている。意識は朦朧としていて足元はフラついている。

「税を払わない者が悪い。君、謝罪しろ」

「何故弱い者を殴る。子供も泣いている。謝罪する必要があるのか?」

「お前に何が分かる、馬鹿か」

 頭に血が昇る。肌がピリピリと麻痺してくる。鼻に力が入る。

「グゥウグゥ……」

 唸り声が思わず出る。睨んだ隊長が後退り。

 でも我慢しないと手が出る。食いしばる、歯がバキゴキ鳴る。杖を握る、潰れて折れた。

「まあまあ! ここは双方身を引こうじゃないか」

 肩を叩かれる。叩いた奴の顔を見ればウォルで「うおっ」と引く。それから一歩前に出る。

「ポーリ! 折角推薦してもらった大学に入れなくなるぞ。ロセア元帥の面子が潰れる!」

 ウォルは次に隊長の肩を叩く。

「隊長さんも、ビプロル人相手に喧嘩売るなんて真似はしないほうが良い。ビプロル兵一人に騎士五人が必要だって昔言われたのは嘘じゃないぞ、今見れば分かるだろ。それにロセア元帥がこの人を大学入れたいと言っているんだ。兵隊なら分かるだろ」

「むう」

「さ、ポーリ、行くぞ。長居しちゃダメだ」

 折れた杖を鉄の奇跡で繋げる。

 どこかにぶつけないとまたやってしまう。

 街路樹を殴る。樹皮が剥げて白い中身が露出、葉が降る。

 ウォルに手を引かれ、その場を去る。


■■■


 多少の騒動はあったがオーサンマリンに到着した。

 王都シトレから程ほどに近く、水も豊富で美しい場所だ。王の猟場、木こりや猟師すらも足を入れない森もあって都会の喧騒とは程遠い。

 下宿先に馬と荷物を預け、白い毛を巻いたカツラを被り、正装に着替える。

 左右対称を徹底したオーサンマリン宮殿の前を横切る。鉄格子の門と近衛兵の向こうには噴水、彫刻、植木、花壇の美しい公園が楽園の如きに広がっている。

 この宮殿は離宮だが、今や政治の中心になっている。国王陛下は最近首都からこちらに居を移して政務に励んでおられる。何でも首都市民が暴動を起こしたときに、あちらの宮殿敷地内に乱入した不届き者がいたらしい。

 思わず宮殿に向かって一礼をしてしまう。今上陛下とは幼少以来会っていないが、健康でいらっしゃるか? 思い出では陽々溌剌としていらしたが。

 目的のオーサンマリン大学は宮殿の近くにあり、施設、規模も都会では不可能な程に広くて大きい。

 正門脇、通用門の前にウォルと並んで立ち、門衛に推薦状を見せて立ち入り許可を貰う。

「ギー・ドゥワ・ロシエ」

「ギーダロッシェ」

 中へ。

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