第1部:第7章『ロシエ動乱』
第171話「マリュエンスモート要塞の司令官」 第7章開始
日陰から観測中。正門の前には馬車と、護衛の騎兵と戦闘馬車が待機中。
行動解析の結果、朝の要塞正門前に現れることを前提に待ち構えるのが最善と判断。定例通りならば標的はこれから定期の前線視察に向かう。
天候で前後するが十日程かけて前線基地を回ってからこの要塞、敵植民地ポドワの首都であるここマリュエンスモートに荷物を大量に運び込んで戻る。その時以外はずっと要塞に篭っており、機会は無い。篭る日数は再度の定期前線視察の日までの、天候に左右されるがおよそ二十日。
城壁上の、紺色上衣に赤ズボン軍服の兵士は朝日を見てあくび。小銃は胸壁に立てかけてあるぐらいに弛緩している。
八時の当直交代のラッパが鳴るまでもう少し。
狙撃に良い高所、丘とも呼べない低い丘に生える樹上で待機し、双眼鏡で観測手を務める”狼”が言う。
「来た」
双眼鏡を仕舞って、狙撃銃を構えて銃身と同長の狙撃眼鏡から正門を覗く。
正門の厚い木の扉が左右に開く。
扉を開ける門衛、応対する当直士官の陰に若干隠れた、つば広の術士帽子を被った長い白顎髭の一見老いた人間がマリュエンスモート要塞の司令官。標的だ。
「風、北東から毎時五イーム」
”狼”が風速計で測っている値を告げる。
照準合わせの前後ネジで狙撃眼鏡の位置を正門へ、事前に合わせていたがもう一度合わせる。
少しずつ下へ落ちる弾丸の距離に合わせた弾道補正の縦ネジは事前調整のまま。最終調整は手元の勘。
施条を切っているが故の右へのズレと、風でのズレを考慮した偏流補正の横ネジを風速に合わせてほんのわずかに調整。
標的がいつも現れる位置、距離は計測済み。それにあわせて零点規正をしておいた。試射は撃ち下ろす今の状況を再現した上で別の場所で既に行っている。
銃身は枝の間に張った縄に置いて預け、右手は銃把と引き金、銃床は右胸に押し当て、左手は銃床の上に添える。
息吸って、止め、息を抜きながら、正門から馬車までの坂道を下る標的に狙撃眼鏡の照準を合わせながら射線を胸で上下微調整。
銃身、銃口の直上に青い蝶が止まる。狙撃眼鏡を覗く視界が蝶一面でぼやける。”狼”が息を鋭く吹きかけると蝶は次の休憩地へ飛ぶ。
蝶が退き、前よりやや下った標的へ再度照準を、また少し息を抜きつつ自然に下がるのを待って調整。
当直交代ラッパ。反射的に標的は足を止め、音のする方へ、帽子のつばに手をやりながら振り返る。
照準が合ったら息を止める。
引き金をゆっくり、徐々に力を入れていく。
向き直った標的が、調子の狂った下手なラッパに笑う顔を見せる。
銃が振動しないよう、気付いたら引き金が絞られる程度に。
周辺の樹上に居た鳥が一斉に飛び立つ。
標的は立ったまま帽子が吹っ飛んでいる。当直士官が崩れ落ちる。
「命中確認。だが死んでない」
標的の頭部、髪が下がる皮が大きく剥けただけで、銀色の頭骨が朝日に光る。当直士官は銀の頭骨を滑った銃弾が運悪く命中したようだ。
望遠鏡無しでは人が粒に見える彼方から標的が哄笑しながら叫ぶ。
「術使いも魔族も越えた! そんな豆鉄砲で殺せると思うな! グァーハッハハア!」
樹木の下へ縄を使って滑り降りる。”狼”はそのまま跳んで着地。
あの彼方から警笛、警鐘が鳴り響く。
地面で周囲の警戒に当たっていた”猫”が戻ってくる。
「ヤン」
ついて来いと鳴く”猫”に従って逃走経路を進む。
根に段差、羽虫舞う水溜り、絡む草、豚の掘り返した穴だらけの不整地を四つ足で”猫”が軽快に跳ねて進む。
二足歩行の自分は追いつくのに精一杯。同じ二足歩行の”狼”は自分の後ろについて、腰を押したりと補助してくれる。
「ヤッヤ!」
先行し、立ち止まり振り返る”猫”に遅いと叱られる。面目無い。
要塞の方から号砲が五、三、五発の間隔で鳴る。警笛、警鐘で足りないということは最も緊急性の高い警報なのだろう。
倒木の枝を滑り止め代わりに踏んで丘を降り、泥と枯葉が溜まる農水道を飛び越え、車輪に削られて中央が盛り上がって草が生えるトウモロコシ畑の農道に出る。
「ヤ」
猫が何かを察知して茂みに隠れる。倣ってこちらも道端の鬱蒼と茂る草陰に隠れる。警戒中の敵だろうか。
ブチ、と鳴る。狼が茂みにいた蛇の首を握り潰していた。
待機……敵の騎兵が農道を走って通り過ぎる。何かを探すというよりは、号砲を聞いて駆けつけているという雰囲気。
”猫”が茂みから出たのでそれに倣い、先導に従って動く。
背の高いトウモロコシ畑に分け入る。硬い茎、成った実に体をぶつけ、葉に撫でられながら突っ切る。
足が反射的に止まった。トウモロコシの隙間を歩く女の子人間に出くわす。驚いて広がった大きな黒い目と、目が合う。
お互い顔を見合わせる。喉の肉は薄い、短刀に手をやる。
子人間が何か喋るが、この地の言葉はハッキリ分からない。
”狼”が、短刀に添えた自分の手を抑えながら子人間に話しかける。
そして何か上手くいったのか子人間が、我々が進む、”猫”が先導する方向を指差した。
”狼”がたぶん、ありがとう、等と言って進む。自分の手を引く。
「ヤッヤ!」
先行し、振り返る”猫”にまた遅いと叱られる。
延々と続くような畑を、農水道を時折跨ぎながら進んで抜ける。
今度は「ヤウッヤウ」と”猫”が鳴く。
「犬だ。追跡隊が出たな、そんな気配がする」
追跡用の犬を連れた部隊の気配というわけだ。要塞以外にもマリュエンスモート各所には砦がある。そこから出撃して先回りされる可能性は十分にある。
犬を見越して、逃走経路には臭い消しに使える川がある。
”猫”は川の前で一瞬立ち止まったが、水面から出る石の配置を見定めてからそれを足場に飛び、最後は高く跳んで木の枝に掴まって渡った。二足歩行のこちらはそのまま膝まで濡らして渡る。
川を渡って、密林を掻き分けて進む。蒸した空気に乗る泥と草のにおいに自分だけ嗅覚が潰されている。
「来てるな」
”狼”が犬の追跡を感知する。二人とも聴覚に非常に優れる。
「つけられた?」
「大体のアタリをつけてる感じだ。数が減ってるか、分散してる。まだ盲の動きだ」
逃走経路の崖を、事前に用意した縄で自分が先に崖を蹴りながら滑るように降りる。次は”狼”。そして降りたら”猫”が縄を短刀で切って崖下に捨てる。それから崖の途中まで自力で降りて、中腹から”狼”へ跳んで受け止められる。縄を回収して痕跡を極小化する。
ここから先の予定逃走経路を進もうと思ったら、ジャガーと鉢合わせる。
体は大きく、既に音は少なくこちらに低姿勢で駆け寄っている段階。
「ヤッ!」
”猫”が威嚇っぽく声を出し、ジャガーがそちらに気を取られた瞬間、斧が頭に突き立って倒れた。投げたのは”狼”。
犬が吠える。崖の上に追跡部隊の一部、犬二頭と首輪に繋ぐ綱を握る敵の兵士一人。
兵士が笛を口に咥えようとした瞬間、顔に斧が突き立って倒れた。投げたのは”狼”。
そして突き立った斧が”狼”の手へ手品のように、誰かが放り投げたかのように戻る。
すると”狼”は斧の柄から骨を抜き取って、別の骨と入れ替える。落ちた古い骨は簡単に砕け散った。これが新大陸呪術の一つ。
もう一度”狼”が投げるフリをすると犬は逃げ出した。
崖下から小川沿いに下ると浜辺に出る。白い砂浜が日に照ってまぶしい。
茂みに隠した小船を浜へ引きずり出す。先に”猫”が乗る。初めて船に乗せた時は大分嫌がって手古摺ったことを思い出す。
海に船を押し出し、自分と”狼”が海水に足を濡らしながら跳び乗る。押し出す勢いで海へ出る小船を、”狼”は櫂でまだ浅い海底を突いて更に押し出して漕ぎ出す。力強く、勘所を押さえているようで伸びるように小船が前へ出る。
「ヤ?」
”猫”が座ったまま、頭上をキョロキョロと見る。
茂みに隠していた時に小船の中で休んでいたらしい蝶が舞っている。青くて輝いている。
ちょうちょ。
「ちょうちょ!」
ちょうちょ!
手を出す、獲れない。
「ヤー」
”猫”が不機嫌にちょうちょ振り払う。ちょうちょ流れる、ちょうちょ追う。
「ちょうチョワ!?」
浮いた、浮いた!?
片手で櫂を操る”狼”が自分の襟首を捕まえて持ち上げている。
「何やってんだ」
「ちょうちょ」
「落ちるぞ」
海上に出た蝶を追いかけ、狭い小船から身を乗り出していたようだ。
「助かったよ”狼”くん」
「妖精ってのは……まあいいや」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます