第1部:第6章『蒼天の下』
第144話「三度敗北」 第6章開始
臭い。
手洟をかんで手についた真っ黒い鼻水を確認してビックリすると同時に、通りが良くなって酷い臭いが入ってきた。
臭いの元は垢と脂と血に、乾き始めた泥と腐った肉、痛んだ携帯食糧、あとはズボンにこびり付いた下痢糞だろう。
蝿がうるさい。乗っている馬もうるさそうに目をシパシパさせて首を振って鼻息を鳴らす。
馬に二人以上乗せている兵士が目につく。馬にしがみつく体力も無い者と、馬を失った者が双方だ。
「助からない奴は置いていけ!」
この光景は哀れみを誘う。誘われてみて許容していたが、これ以上はマトモな者も危険と判断して声を上げる。
少しボソボソ、独り言等が上がる。不満、謝罪、色々だが、感情を大にするほどの元気は皆持ち合わせていない。
「トドメは刺してやれ!」
苦鳴が上がる。短刀が足手まとい、仲間達に振り下ろされたのだ。
まばらにボトボト、地面に負傷兵が落とされる。幸いか、地面は今乾いているので泥溜りよりは罪悪感がやや薄い。
風が最近はめっきり冷たく、湿ってきている。
秋が近寄っている。つい前まで夏だと思っていた。最近は冷夏が続いているせいか夏が短い。
風が吹いて来る方角を見れば分厚い雲が空を覆い、こちら側の青空を埋めつつある。目を凝らせば雲の奥、視界の彼方側の雲が壁のようにも見える。降雨が迫っているか。
湿気は嫌いだ。湿気が好きな遊牧民がいるか?
水は物を腐らせる。神経まで腐らせる。
負傷兵、死人を下ろしてしばらく。臭いが収まってきた。蝿も減った。だが今度は陽射しが途切れた。
気温が下がる。湿っぽくて冷たい。湿った寒さは凍る寒さより身に応える。
雨が追いついて体を濡らす。馬から騎手が落ち始める、馬までもが倒れ込む。
もう動けなくなった人と馬を、まだ元気が多少ある者が殺していく。
あろもう少しで本隊のいるヘンバンジュに到着する。そのあろ少しが遠い。弱った者には耐え切れない。
本隊の後退のために行った陽動攻撃は成功だった。その代わり、我々がこんな悲惨な目に遭っている。
泥沼の天政内戦に介入し、中原に突入してレン朝を支援し、失敗して引き上げて兵、武器、物資を補充して軍を再編してまた突入するを反復した。
一度目はヤンルーを目前にするまで突入したが、天政無双を謳われる特務巡撫ルオ・シランが指揮する西勇軍に破れて撤退した。
二度目は暗殺された東王の長子がヤンルーで天子に即位して、我々が救援に向かう前にエン朝がヤンルーを占拠して天子を処刑。
三度目の今は、エン朝が伝説の龍帝と黒龍公主とか言う妙な化物――らしい――に乗っ取られ、龍朝を名乗って中原の征服速度を上げたので、せめて統一はされまいと牽制するのが目的だった。
初めから三度目は縁起が悪かった。中原入りした矢先にこちらと友好的だった北王は龍朝を認めた北方三藩に滅ぼされた。
分裂した東王領では好き勝手に天子を名乗り始めた王子達が内戦を繰り広げていて、団結を呼びかけても梨のつぶて。
南王領では未だに乞食難民の群れを率いる廃王子が天子を名乗って暴れ回っているが、あんなものが何になるのか。
失敗だ。我々はこんなところで誰と何を相手に戦っているのだ。
アッジャール朝崩壊後に散らばる遊牧民達を集め、統率してきた結果がこの、何の愛着心も沸かない中原とかいう泥沼での殺し合いだ。
ここは蒼天の神が見下ろす草原でも砂漠でも無い。祖先の風はここまで吹いてこない。
意味も無く殺して、殺されて逃げ帰っているだけだ。
■■■
遊牧領域と中原の境目であるヘンバンジュに我がジャーヴァル軍は到着した。名前は第一次遠征時、昔のままだが、損耗と補充と再編で中身はもうジャーヴァルの気配は一つも無い。
そのジャーヴァル軍の帰還を歓迎してくれたのは門からぶら下がる、元ヘンバンジュ太守。
レン朝に対し反乱したところを撃破したのも少し前の話である。
元太守はわざわざ防腐処理をされ、カラス避けに網籠を被せてあるほどだが、流石に風雨で痛みが見えてきている。
仲間の帰還に喜びと悪臭への嫌悪が混ざって変な顔になった門番に挨拶をして入城する。
一軍の帰還である。市内が慌しく動き始め、本隊の将校達が労いの声をかけてくる。
脱落者は多い。解散して休暇に入らせた時、食事と秣が食べきれないくらい用意されていた。
この惨状を市庁舎にいる我々の節度使様へ報告に上がる。
市庁舎内の廊下で擦れ違った官僚がこんなことを言った。
「これは将軍、お帰りなさい。しかしその姿で参られるのですか?」
戦場帰りの軍装そのままだ。垢と埃、血や泥で汚れて凄まじい臭気を放っているままだ。服が擦れるととてつもない、人間とは思えない臭いが鼻を刺すものだ。服を手で払えばシラミと土埃がパラパラと落ちる程度。
「これが戦争だ」
「左様で」
当て付けだ。
擦れ違う人々に嫌な、分かったような、そんな顔をされながら進んで、暖簾の下がる執務室の前で化け犬、公安号に通せんぼされて「ヴォン!」と腹に響く音で咆えかけられる。
「退け」
公安号は次に低く唸る。正直、理性で抑えられそうにないくらい怖い。猛獣というのはそういうものだ。このまま背を向けたいのが正直なところ。
「報告をさせないつもりか」
「ウゥ」
この化け犬には言葉が通じるが、聞き入れられるかは別だ。
「通しなさい」
「クゥン」
机仕事に筆を動かす節度使サウ・ツェンリーの背後へ公安号が一転子犬のように鼻を鳴らして大人しく引き、その背を覆うように座る。
暖簾を手で払って執務室に入る。
「任務完了しました」
「ご苦労様です」
墨を塗ったくっても代わり映えしそうにない黒の官服官帽姿の節度使サウ・ツェンリーは机上の書面に目を落としたまま、こちらを見もしない。
この、なおもレン朝に拘泥するツェンリーが歯痒い。どう考えてもレン朝など風前の灯なのにそれを支えようとしている。
絶望してもいいのにあの小娘――今はもう成長して顔が見上げる位置にあるが――超然として、小難しい顔のままだ。
「我が騎兵の損耗は酷く、士気も落ちています。積極的な作戦はしばらくの間不可能です」
兵も馬も質が落ちて酷いのだ。弓矢もマトモに扱えない上に目の悪い非遊牧民が増え、上等な餌じゃないと腹を下す体力が少ない馬ばかりで昔のような行軍も出来ない。
「そうですか。鎮守将軍と協議して下さい」
他人事のように言いやがる。情厚く語る奴ではないことは重々承知していたが、キレた。
「もうあんたの王朝でいいだろ。ハイロウが俺達の中原じゃダメなのか? 天政の伝統とやらはそこで続ければいいじゃないか! その出来の良い頭に詰まってんだろ。ハイロウは持ち物だ。これにテイセンの蛇姉ちゃんだって、忠実な宇宙太平団だっているじゃないか。あれだけ揃えてる王なんて世界にどれだけいるんだ。何が不満だ、何が足りないんだ!」
「ビジャン藩鎮は一官僚である節度使が管理、守護します」
こちらが感情的に喋ってもこれだ。
「もう分かってるだろう。俺達にとってはお前が天子だ」
「東王領は分裂しても未だ滅ばず、南王領ではレン・セジン様が奮闘しております」
「レン家なんか滅亡寸前じゃないか! 力が及ぶ範囲なんてほんのわずか。それで何をあんな、死に掛けの連中のために……」
「一官吏の与り知らぬところであります」
「与り知らない!? お前以上にこの、ここを、知っているあんたが知らないだと!? 馬鹿にしてるのか! レンなど知るか。ビジャン藩鎮の全員がお前だからついてきたんだぞ!」
「ビジャン藩鎮節度使の存在と功績は天政あってのことであります」
「あんた個人の声を聞かせろ!」
ツェンリーが首を傾げ、書面にまだ半分目をやりながらこちらを一瞥する。
「分かりきったことを小うるさい」
首の傾きは呆れか?
「じゃあ何です?」
「万の年月と億の生命が積み重ねって生まれた正統性に裏づけされた正当天政を不滅にします。ならば一官吏としての立場は崩すことの出来ないものであります」
「我々の命を美談にして後の世にでも語り継ぐ気ですか?」
「あなた方の信仰で云う、祖先は風の解釈にあたります。事象を幽地の際の向こうへ置いて乾期不変の一部とします」
勇敢に死んで伝説になれと言うのだ。事象を……なんちゃらは良く分からないが、大体同じ意味だろう。
忠義に殉じて滅びでもすれば、それは後の世にまで語り継がれるだろうし、ツェンリーが守ろうとした天政の伝統とやらも一目置かれるだろう。間断無くとはいかなくても不滅にはなろう。
「本気で言っているのですか」
理想の思想のために死ねと?
「それが何か」
「約束は? ヘラコムの北と西の草原を俺達のものにする話は?」
「順序通りです。中原における内乱が平定されて後、余力が復活したところでそのようにする。約束が違うと思うのはそちらの認識の利己的な飛躍です」
「それが無ければ我々は散ると言いましたよ。先延ばしは反故に等しいはずです」
「約束を果たす条件が整っておりませんので先延ばしではありません。それに散ってどうしますか? 数多くの人馬を失い、未亡人を重婚させて何とか一族的な縁を繋いで部族を擬態しているあなた方に何が出来ますか?」
「くそったれのサウ・ツェンリー万歳」
この節度使には言葉が通じるが、聞き入れられるかは別だ。
「節度使に万を号することは出来ません。訂正しなさい」
「うるせぇ!」
吐き捨てて部屋を去ろうとしたら、足が床にくっついていた。あ?
「訂正しなさい」
今までこちらをマトモに見もしなかったツェンリーが、真っ直ぐこちらを睨んでいた。
「そんなこと……今更なんだ」
「道理に反し、序列を軽んじる発言は慎みなさい」
「その内、石を投げれば天子に当たる時代が来るさ」
「訂正しなさい」
石どころではない、鋼の頭だ、こいつ。
「……先ほどの発言を取り消します」
「よろしい」
床から足が離れ、姿勢が崩れて転びそうになる。靴底を見ると夏なのに、泥が凍り付いていた。
難なくその恐ろしい方術を使ってツェンリーは何事も無かったように書類仕事に移ってこちらに関心も払っていない。
暖簾を乱暴に払って退室。通りがかった女官が口を開いたと思ったらえずく。
しかし臭ぇなこの体。よくもあの節度使は文句も言わないで平気な面をしていられたものだ。鼻が悪いんじゃないか?
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