第92話「大休止の後」 フンエ
掌班を長とする十人隊なのだが、今は長を含めて七人。補充は無く、他の班と食い合わせでの再編成も無い。十人隊としての能力はどうなるんだ? と疑問に思っているのは、下手に学だけ身につけた自分だけか?
泥道が、足が重たい。土が足を掴んでくるようだ。
大分くたびれた靴の中に泥が染み込んで来る。靴に足に靴下を乾かす時間があるならちょっとぐらい無視出来るが、行軍中にそんな時間は無い。足が腐ってしまう。現に、壊死した足の指を切らねばならなくなった兵士がいる。足の手入れを怠るとそうなることもある。
もう修復するどころではなく痛んだ、穴が空いて擦り切れて底が剥がれた古い靴を捨て、死んだベチルの靴に履き替える。
ユービェン関を抜け、名実共に中原と呼ばれる地に到達した。丁度雨季であるらしく、冷たい雨が降る。門を潜る時、滝のように流れる雨垂れを浴びてズブ濡れだ。身体が濡れる前と後では随分と気分が違う。自分が糞程も価値の無い虫に思えてくる……大分、疲れてきたか?
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中原に至っても急に都会になるわけではない。道は広規格で整備されたものには変わったが。
初めの内は雨季なんてのは大した事は無く、むしろ水に困らなくて良いくらいだと思っていたが、段々と冷たくなってきて、寒くなってくるとあの雨垂れを思い出す。
普段の生活ならちょっと寒いくらい我慢しようと思えるが、この辛くて長い行軍の最中に味わう寒さは格別に苦しい。体力が奪われるという実感が身に染みて伝わってくる。
水気を含んだ服すら重たい。狂って裸になって逃げ出せたらどれだけが気分が良いだろうか。
現に、狂って暴れて逃げ出す兵士も見受けられる。流石の憲兵も気力を失って、そこそこに追いかけたら戻って来てしまう事もあったぐらいだ。
下っ端兵士が忠言するような事ではないが、そろそろ兵士達に大休止を与えないとマズい事になると思われる。それが分からぬ節度使様ではないはずだ。
何か救いはないか? 助力出来るのならば何でもする覚悟だというのに、この身至らず、不要とされている。
雨が降ればやがて止むが、乾くと思わないほうが良い。湿気が酷く、濃霧も良く発生して行軍が遅れる。
濃霧に乗じて脱走する兵士が多い、気がする。辛くて、そんな他人のあれやこれやに気を回す気力は減ってきている。
濡れた服が気持ち悪い。乾燥地域に住んでいたから尚更堪える。
晴れて気温が上がってくると寒さが嘘のように蒸し暑くなり、服が乾いてくるが同時に、人の、腐ったようなすえた臭いが蒸し上がってくるような感じがして堪らない。上を向いても下を向いても臭い。苦しくなってきて、臭くて息が詰まる。逃げる場所は無い。人と人が方を寄せ合うように固まって行軍しているのだ。
少し乾いたと思ったらまた雨が降ってくる。強めの風も合わされば尚更寒い。もう直ぐ夏季に入るはずであるが、ここまで寒いとは思わなかった。
もしや冷夏の兆候ではないか? 戦乱に悪天候が重なると恐ろしい事になるのは明白だが。流石に素人考えに過ぎる。
それにしてもクトゥルナムを最近見かけない。肉が食いたいのだ! 服が臭くて、もう腐ってるんじゃないかと思うが、腹は減るのだ。
雨の中でも野宿が続く。ようやくか、天幕が人数分揃うようになった。食事にも肉が出るようになった。物の集まる中原では、ただの野宿でも蛮地とは色々と違うようだ。
しかし自分が寝る事になった新しい天幕、雨漏りがする。オマケに班長のイビキがうるさくて眠れない。屁もこきやがって臭い。うんこの臭いがする!
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乾いた土地より湿潤な土地の方が生き物は栄える。良くも悪くも。
毛ジラミは頭と、下の頭に脇に、とにかく毛に良く住み着く。濡れているせいなのか、奴等は良く繁殖する。
痒くて堪らない。いっそ死にたくなるぐらいで、もうなんだか情けなくなってくるぐらいで、冗談ではなく大の男が悲鳴を上げて泣いてしまう程だ。家に住んで、そこそこ健康に暮らしている者とは精神状態が違う。
短刀を良く研いで、水場の近くで野営している内に剃り落とす事に班内で決定した。自分で剃れるところは剃り、仲間達と手の届かないところを剃り合う。
班長の頭と背中と尻の毛を剃ることになった。頭はハゲなので、まあ簡単だった。背中は、猿でもないのにこんなに生えるのかと思う程剛毛だった。尻の毛は……まあ、既に鼻が臭いに麻痺し始めた頃だったので何とも無かった。ただ何となく、純潔を汚された気がしなくもない。洗ったとしても、二度とこの手で節度使様に近寄る事は許されないだろう。
どうしても髭を剃られたくないと抵抗する者もいたが、押さえつけて剃った。親に見られたら殺されると泣いてやがった。
毛ジラミを退治出来ても、服に住み着いたシラミ共がいる。鍋で熱湯を作り、それで皆の服を煮て対処したが、その後にまた住み着く。毎度火を起こせる状況にもない。雨が降る。次の休みはまだか?
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大休止に、中原北部の都ヘンバンジュに全軍が宿泊出来るという事になった! 毎朝部隊毎に点呼を取るが、警備任務等は一切免除で、都の者達に世話をされるとの事。我が耳を疑うとはこの事。何か悪い冗談、敵の策略ではないかと思ってしまう程だ。
まるでそこは楽園だった。食べごろの果実こそその辺に実って溢れているわけではないが、十分だ。
汚くて臭くてシラミだらけでボロボロの服を捨てて、新しい服が支給された。型が合わなければ調整する時間も道具も十分にあるというのだから堪らない!
屋根のある部屋に、布団を被って枕を使って寝れた!
寝る前に酒が飲めたし、足元がフラつくまで飲んでも憲兵も文句を言わない。
干し柿を手に入れた! 甘い物は天の贈物に違いない。ダガンドゥで食べた時の感動は薄いものだったが、今は違う。少しずつ齧って味わう。この干し柿が永遠に無くならなきゃいいのに!
ああ、何だか目に映る女の子全てが可愛らしい。伝説の天女とはこのように見えるのか? ただ、街の人間に手を出そうものなら、問答無用で広場に吊り下げられている者のようになる。
吊り下げられなくても良い場所というのがある。売春宿だ。行った事はないが、行ってみたいような、行きたくないような……節度使様のお顔に思い当たれば、そんなところには行かないと思うも、自分のような卑小な兵士がそのように考える事態が不敬であるので頭を振って考えを散らす。
同じ班のタルマードが肩を組んできた。手で握れる程に顎鬚が長かった面も、今では少年のようにツルツルだ。親に殺されるというのはイマイチ分からないが。
「いよう少年。俺が連れてってやろう」
「どこにさ?」
「どうせ何時死ぬか分からないんだ。金の使いどころを教えてやるよ」
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今までの行軍が嘘だったかのような休暇が続いた。ワザワザあんな辛い思いをして遊び来たわけではないのだ。
それにしても大休止の予定は本来無く、小休止程度で南下して賊軍への攻撃に参加するはずだったらしいが、状況が変わったようだ。酔った士官達がそのような事を話していたのを耳にした程度なので判断材料も何も無いが、どう状況が変わったか、下っ端兵士には分からない。
タルマードにまた誘われたが、何故か罪悪感の方が勝ったので遠慮した。使い捨ての下っ端兵士が言う事ではないが、彼女達を見ていると、胸が苦しくなって見ていられないのだ。もう行けない。
身体の疲れが抜けて、少し鈍ってきたかと思い始めた頃、久し振りにクトゥルナムに再会した!
二人で庶民が入れる範囲ではそこそこ高い料理屋に入ってたらふく食べて、ぼったくられない程度に酒を飲む。酒場でぼったくられたという話はそこそこ耳に入ってきている。
最近クトゥルナムと会えなかったのは、ウラマトイとの伝令仕事にかり出されていたかららしい。忙しい上に湿気や泥が凄くて馬の爪が弱って割れてしまったそうだ。人間だけでなく、馬も足が腐るのか。
どうも人の流れ的には北方事情が怪しいらしいが、手紙の内容を覗くわけにもいかないので不明だと。
個人的な感想だが、この大休止は不自然に長い。
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タルマードに紅斑が出た。熱もある。他の兵士達にも似たような症状が出ている。
どうや売春宿で梅毒が流行っていたらしく、またそれを兵士達が金を払って広めていたということだ。売春宿の使用禁止令が出る。自分は……運良く大丈夫だ。あの一晩だけにとどめたのが良かったか……いや、良かったのだ。
タルマードには違う世界がある事を教えて貰った恩もあるし、何より班の仲間だ。助ける事に躊躇する理由は無い。
軍の医者を尋ねたが、
「温泉にでも入って静養するしかないな。解熱剤で熱を下げてはいかんよ、病状が悪化するからね」
と言う。何といい加減な事を言う。ヘンバンジュには温泉なんか無い。
「梅毒に効くという水銀軟膏はありますか?」
ダガンドゥで医学書に目を通す機会があったので知っている。
「あれは高いしあまり効果のあるものではないよ。水銀物は医療というよりはお呪いの類だよ」
「どうしたらいいですか?」
「土茯苓という薬が良いが、主要産地は南方だ。つまりだ、今の世情じゃ簡単に手に入らない。北のこっちにもあるかもしれんが、どこにあるかね、誰が知っているやら」
「そういう薬があるんですね」
「普段はともかく、今はたぶん高いよ。梅毒以外にも使い道があるからね」
「ありがとうございました」
少しでも期待が持てるのならばと、街中を捜す。班全員、クトゥルナムにも頼んで捜す。
街中の医者、薬屋、交易商、庭師まで尋ねて土茯苓を捜し当てたが、既に買い手が殺到していて、とんでもない高値になっていた。しかも店に置いてある分は全て売約済みという。今回の梅毒騒ぎとは別に、戦争開始当初から品薄状態だったそうだ。
次善策で水銀軟膏を買う。こちらも先の梅毒騒ぎで高値だが、金の使いどころとはこれだ。治れば安いものだ。
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暑さを吹き飛ばし、震える寒さを呼び込んだ大嵐の中、ウラマトイより北方のユンハル部へ向けて行軍することになった。まず目指すはウラマトイ、来た道を戻る。
来た道は、泥道で足が重たい。土が足を掴んでくる。
長雨で崩れた道で、特に坂で踏ん張れば足が滑って転んでしまう。転べば泥まみれ、そして後続に踏まれる、悪態が浴びせられる。仲間に腕を引っ張って立たせてもらう。泥水が口に入る。
向かい風の抵抗が辛い。顔に雨粒が叩きつけられて目を開けてられない、息も苦しい。寒い。
タルマードは治療の甲斐なく、正気の境もだんだんと曖昧になってきて「死にたい」と請われた。一応憲兵に伺ったが、簡単に許可が降りた。
何にせよ楽園で死ねて羨ましいと思ってしまった。
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