第91話「遠き東進航路」 ベルリク

 中大洋を東に向かって航海中。目標物が無いので一体どれだけ進んだのかが実感出来ない。

 船の生活は単調になる。船という環境が、あらゆる資源が限られてしまう牢獄だからだ。余分な物は大体にして積めず、節約、出来れば再利用。食事だけが楽しみになりがちだが、そんな事情からこれまた単調になりがちである。

 一般船員は大砲の間に机を置いて食事。士官や客は士官室で、艦長や提督は自室で食事。格付けの意味合いもあるらしい。

 飯には肘で砕いて食べる様式のクソ固い、糞になるのか疑問になるパン。

 麦のお粥か、意外と味も風味も変わって食の楽しみが増える米のお粥。それに肉の塩漬けや豆が入ったり、入らなかったり。

 野菜の漬物が出る日もあれば、柑橘系の保存の利く果物が出るのはごちそうの範囲。後は水代わりのビール。水は腐るので長期保存が利かない。

 セリンの海賊艦隊のお抱え魔術使いには真水を作れる者がいるので、何時でも飲めると言えば飲めるが、全船員に常飲させる程に作り出すのは厳しい。それにその魔術使いの本業は海流に逆らって航行するような時に補助するものである。

 こんな感じのがセリンの海賊艦隊の標準的な食事だが、今回の船旅には香辛料が食用に大量配布されているので香り付けは一様ではない。

 それに加えて、セリンが獲って来る海産物の数々がある。昔、アソリウス島騎士団の件で聖都まで行った時には良く食わせて貰ったが、今回も食わせて貰っている。軍において、そして特に海上で胃袋を握る者に敵う奴は魔神級ですらいない。哲学は脳みそで理解して、信仰は習慣にでも宿るのだろうが、心は胃袋に宿るのだ。腹を一杯にしてくれる神様より上等な神様がこの世にいるだろうか? 神様ってのは大体にしてこの世にいない。

 セリンとその他の海賊艦隊、スライフィールの準軍事的――境目なんてのは些細なものだが――船団、ナレザギーの商船団と大所帯だ。その腹を満たす程ではないと高を括っていたが、凄かった。有り余るほどの肉、鯨をセリンが仕留めたのだ。海面に浮上してきた所を狙うなんて小賢しい真似はせず、海中で仕留めて引き上げた。真っ赤になった海、血の臭いに釣られた大小の魚もついでに仕留め、捌くのが面倒になって大量投棄するだけ獲れたのだ。現状、セリンのいない航海等考えられない。

 火をつける普通の煙草は厳禁なので噛み煙草。痰が溜まるから痰吐きの桶がある。あの火が吐いた葉巻を咥えて煙を吹かすのがカッコいいからやっているのであって、ヤニが欲しいから吸っているのではない。噛み煙草は遠慮。その代わりセリンの乾燥海草がある。これはクセになる。別にそれほど美味しくはない。

 海草を噛む。

「なあセリンよ」

「なーに?」

 肩を寄せてきた。

「これ食った次の糞の感じが何か違うんだけどよ」

「食い過ぎよ」

 外で働く者は良く日に焼けているものだが、海の者は海面からの照り返しで更に焼けている。セレード北部の雪原の狩人達も同じくらい雪に肌を焼かれる。

 海草を噛む。

「おいセリンよ」

「はーい?」

 呼んだら側までやって来た。

「これの味つきとかなんか無いのか?」

「無い」

 結びのついた縄が繋がれる木の板が船尾から投げられ、板が海水に捕まり、船の速度に従って引かれ、縄を巻いている巻き棒が回転して縄を送っていく。船の速度を測っているらしい。

 海草を噛む。

「セリン」

「んーん?」

 腕を組んできた。

「別の無いか?」

「お粥用に刻んだ別のはあるけど」

 航海長が六分儀で太陽の南中高度を測って現在地を記録中。そして夜は日付と星座を見て現在地を特定して記録する事になっている。こういうところは天文学に詳しい遊牧民にも通じると感心する。広く陸を渡る者と広く海を渡る者には共通点がある。

 海草を噛む。種類は別だ。

「セーリーンー」

「うん?」

 手を握ってきた。

「呼んでみただけ」

「あ?」

 海には海しかないと思う者もいよう。海には海と空がある。空が逆さにした椀のようだ。草原でもそのように見えるが、海の平らには流石に草の海は敵わない。特に明け方と夕方の空は、青に赤に橙、緑、白灰黒、月に星に太陽が入り乱れ、色々と空想をしてしまう迫力がある。障害物が回りに無いだけでこれだけ空が変わるとは思わなかった。

 喉が渇いたのでワインの水割りを飲む。酔っ払う気分ではない。

「セリン、あれ」

「あれ?」

 背中に張り付いてきた。

「美味いの?」

「あの鳥は骨と皮だけよ」

 魔術使いの中で最も金を稼いだ魔術使いといえば、風の魔術で帆走を操る帆走補助員だろう。巡洋艦アスリルリシェリ号の航行を今も補助している。後続の船がいるので、増速ではなく調速と言うべき事を行い、先導役を良く果たすようにしている。先導役を良く務めれば後続は迷わず無駄なく進むので楽なのだ。重要である。

 帆走補助員は長く安定して風を発生させ、尚且つ当直士官の運行指示が理解出来ないといけない。巡航ならともかく、戦闘機動まで出来るような名人となれば一般船員、士官が雑魚に見える高待遇。加えて、魔術の帆走補助を生かした指示が出せる海軍士官ともなれば艦長待遇、その役職以外有り得ない。提督はまた仕事が別だが、それを加味して全体が指揮できるような化物は、海軍大臣に意見したっていいだろう。セリンは、私的な艦隊に限ったらそれが可能、らしい。とにかく凄い。

 腹減ったなぁ、飯まだかなぁ。

「なあセリン」

「あ! あ? 後!」

 セリンが海に飛び込んで消えた。今は公務中ではないので、昔のような下着同然の姿だ。

 それにしてもセリンが妙に優しい気がする。喋り方というか態度というか、こんなに柔らかかっただろうか? 既に内縁の妻状態なのでまあ、おかしくないが気持ち悪い。士官連中からは、最近はお頭の機嫌が良くて良くて幸せ、というような発言をワザワザ小声で聞かされる。だから何か挑発してブチキレさせるような何かがないか? 女らしいセリンはなんかあれだ、猫被りみたいだ。

「旦那! 良いのが獲れた!」

 でも雌イルカを揚げて、笑顔で腹を掻っ捌いて胎児を出して「ほらまだ生きてるよ!」と見せてから、料理にして出してくれた。こういうところを見ればやっぱり何時ものセリンかと安心する。イルカだが、女の腹を掻っ捌いて子供見せられて安心するというのも中々、子供の頃に比べれば人格があっちの方向に矯正されていっていると感じる。ま、いいか。


■■■


 ダスアッルバール市の港に入港、上陸。素人感覚にも、各艦船の入港が順調に素早く行われた。ただし、係留場所は全体的にバラけてしまった。出港日時は示し合わせているので問題無いだろう。

 宿を取って陸で宿泊する。船員等の疲れもあり滞在期間はそこそこ取ってあるが、魔都が一応は目前なので航海距離に比較すれば短い期間である。

 妖精達は市長が定める、地元民との摩擦を防ぐ目的の、警察の目が届く範囲を外れない場所に上陸休暇。ラシージが休暇要領を作成して周知させているので大丈夫だろう。命令さえ違わなければその通りに動く奴等だ。市長にも、下手な事があれば自己防衛に市街戦を始める可能性もあり得るとか、テキトーにデカい事言っておいたので頑張ってくれるだろう。嘘ではないし。こちらからもラシージにルドゥにナシュカが管理担当に当たるから大丈夫だろう。ラシージは完璧、ルドゥなら余計な騒ぎを起こさずに殺すし、ナシュカは……きっと大丈夫。

 セリンの海賊艦隊の士官以上一行に自分、アクファル、ナレザギーが加わって酒場を貸切る。貸し切らないと色々と問題が発生する。前もって料金込みの修理清掃費と迷惑料と営業停止期間の補償料を渡された時の店長の顔と言ったら、言葉に出来ない奇天烈さであった。

「良いかナレザギー。セリン主催の宴会での注意事項を達する」

「注意事項? うん、何かな」

「危ないと思ったら逃げろ、死ぬぞ」

 一々注文するのは面倒だから、酒瓶は箱毎、後は酒樽買いで店内に並べられる。料理は適当に、出せるだけ適当に並べて出す形式。

 店付きの楽団が楽しげな曲を演奏し始める。笛、太鼓に高音、低音の弦楽器に鍵盤楽器に、歌のお姉ちゃんまでいる。何曲か聴いて、拍手して、やはり賑やかさが足りない。

 三丁の拳銃でお手玉。

「お上手お上手」

 ナレザギーが、何故かこの程度で喜んでくれた。拳銃をお手玉しながら、隣の席の連中の酒瓶、口のところを撃って開封。弾丸は、その辺の床とか卓とか壁とかに、人の隙間を縫って着弾。

「ブワァハハハハハ!」

「流石将軍、お見事、ありがとうございます!」

「え?」

 ナレザギーが、何故かこの程度で唖然とした。楽団の演奏も中断。セリンが睨んだら再開。

 自分は両腕を横に広げて立つ。左右の手、前腕、肘、上腕、肩に頭の上へリンゴが並べられる。これだけでもちょっとした芸並みに難しいが、それをセリンが髪の触手を使って拳銃を釣瓶撃ち、パパパパパパパパパパパンッ! とリンゴを射撃粉砕。リンゴを抜けた銃弾はその変の壁とか窓をブチ抜く。しかし、最後の頭のリンゴはアクファルが矢で射抜いたのだった。その抜けた矢は壁の民芸品か何かの飾りを破壊して壁板を突き破る。

「アァクファッル! 何邪魔してんのよ!?」

「邪魔したくなったからです」

 それよりもナレザギーが隣の席の海賊士官に披露している、ジャーヴァルの野鳥鳴き真似三十連発が気になる。

 時間が経つにつれて店側が出す料理が減ってくる。どうやら食材が無くなってきたらしい。

 セリンが部下に財布を放る。

「食いもん足りねぇぞ! おいそれで牛買って連れて来い」

「はい提督!」

 何考えてんだか、と思っていたら割と近くに売っていたらしく、店の中に牛が連れて来られる。

「ナレザギー殿下! その刀の腕が見たいなー! 首を一発でやるとこ見たいなー!」

 セリンがナレザギーを囃し立てる。海賊士官達も卓を叩いたり、床を踏んだりドタドタ賑やかす。楽団は何時の間にか逃げてた。

「無理ですって! 私そんなの無理です!」

「こーんな!」

 セリンの無造作な短刀の一振りで生きた牛の首を刃がすり抜け、八割程切れて牛がガクっと体勢を崩す。

「かーん単!」

 返しの切り上げで首を完全に両断。血が噴出し、それを蹴ってナレザギーの方へ飛ばした。

「おわっぷ!?」

 ナレザギーは避けたが、血を被った。

「なのに!?」

 セリンは倒れかけの首無し牛を蹴飛ばして横にする。店員が悲鳴を上げたが、そんな事気にする奴はいない。

「お前、首落としたの二回じゃねぇか」

「こんな刃渡りで出来るかバーカ!」

 セリンが短刀投擲、壁板に深く突き刺さりつつ、割った。

「睾丸は私と旦那で食うんだよ」

「これ牝牛です」

「あ? め? ああ女? 牝牛。内臓だ、内臓抉れ! ああー! 私やる!」

 セリンは髪の触手に短刀を何本も握らせ、冗談みたいな早さで解体。

 その後、床に広がった血溜まりを、店の女たちが頑張って拭いているのが涙ぐましい。

 牛は殺したが焼くのは店に任せる事になった。厨房の火力じゃ足りないから、知り合いの店に頼んでくるとかで店が慌しくなる。

 海賊士官達が楽団が放置した楽器で適当に演奏を始める。結構マトモに演奏している。

 アクファルが酒瓶を刀で、栓が埋まった部分まで切り落として渡してきた。

「どうぞお兄様」

「おう」

 受け取って一口飲む。アクファルが次の酒瓶を刀で、栓が埋まった部分まで切り落として渡してきた。

「どうぞお兄様」

「まだ飲んでるぞ」

「遅いです。クセルヤータなら一瞬で舐める量です」

 まさかそんな、あのアクファルがこの兄に悪戯をしにくるとは!? 誰かが使ってた杯を取って――自分のは知らん――中身を床に撒いて空の底を見せる。

「勧めるんなら酌をしないとな」

「どうぞお兄様」

 なみなみ、杯の縁よりややはみ出るが零れないまで注がれる。一息で飲む、ゲップ。

「いいかアクファル、ただ機械みたいに傾けるだけじゃダメなんだ。もっとあれだ、魅力で飲ませろ」

 アクファルが椅子をずらし、肩が触れ合うぐらいに近づき、顔もすぐ側まで近づく……凛々しい良い面構えになったなぁ。母マリスラより、知らぬ妹の父似か。目に騎兵魂すら感じる……首をガシっと、腕に拘束された。あれ? それからアクファルは新しい酒瓶を掴み、栓を噛んで抜いてぺっと吐き出し、瓶口をこちらの口に突っ込んでくる! 逆らうとマズい、口を開けて前歯を圧し折られるのを阻止!

「どうぞお兄様」

 ゴボッゴボッと、酒瓶に空気が入ってその分喉に流し込まれる。海賊士官の二人が空の酒樽太鼓に合わせ、ヘキチャーとミキチャーとか言うわけの分からない組踊りを披露しているのがエラく、酔っ払い頭にウケる。窒息しそうだ。

 酒場に偉いさんが来ているとの事で、何か用事を途中で放り出して来たと思しき女将が、宴会の惨状を見て卒倒した。

 ナレザギーはセリンの髪の触手に捕らえられて引き摺り回され、目も回している。我が酒宴に初めてのお客様じゃー、と言わんばかりに歓待している。された方はたまったものではない。飲んで、ゲロ吐いて、失神、顔に水をぶっ掛けられて覚醒の手順を踏む。通過儀礼だろうか? 放り投げられたゲロ狐が我が卓に着地、汚くなった床に落ちないように支える。

「おうただいま! 楽しいか」

「あへぁへー」

 返事らしきものをしているだけ上等か。

 アクファルがナレザギーの耳を引っ張る。耳毛も引っ張る。髭を引っ張って唇を捲る。捲って見える歯の列、その隙がありそうな所にイカの干物を割いて詰め始める。一緒にやる。ゲロ臭いなぁ。

 セリンと海賊士官達が空瓶を三角形に並べ、拳銃一発でどれだけ瓶を倒せるか競争を始めた。気がつけばもうそんなに皆飲んだのか。

 大分酔いが回って目も頭も怪しい。

 牛の頭を被った誰かが走って、転んで倒れ、あー動かない?

 ナレザギーは、開けた窓から外へ頭を出して寝ている。

 アクファル? アクファルどこだ? 外で刀と弓を振るって、見えない敵相手に稽古をしているではないか。

 セリンは? 前、左右、上、いない。後ろ、にいた。後頭部くっつけて。

 アスリルリシェリ号の艦長が、昔銛で鯨を獲った時の話をしている。同じ内容で都合八度目。聞き手は全員寝てる。


■■■


 宴会の影響も消え去ってから数日後、ダスアッルバール市を出港してビナウ川を上る。

 魔都への近道となる運河も経由し、魔都の運河網に入る。整然とした建物が並び、雑踏の響きも聞こえてきて都会の香りが立つ。

 スライフィール船団の船が水先案内として先頭につく。行き交う船舶の量が尋常ではない。

 いくら運河を進んでも市街地が途切れない。来訪は三度目だが相変わらず凄まじい都会だ。ここが世界の半分と言われても不思議ではない。

 そうしてスライフィール船団専用の商用港に入港、上陸する。面倒な手続きは普通の港と違って全て省かれる。

 魔神代理領のこういう手間の少なさは本当に素晴らしい。普通なら税関、検疫の職員が山ほど書類を抱え、そして軍隊を乗せているのだから憲兵辺りが重装備で待ち構えているものだ。スライフィールの船団が完全に魔都行政府から信頼されているという事でもあろう。

 検疫については流石にやらないとマズいとは思うが、入港前にスライフィールの者が全船を回って調べてたのでそれで問題無いそうだ。

 そして今更ながら、そこそこ規模のある船団を簡単に受け入れてしまう魔都の収容能力には驚愕する。だってここ、内陸だぞ。

 船を降りる。他の者は入港時に、既に決まってある宿泊所に案内されているので手をつけなくても問題無い。兵士と装備と物資の点検整備等、後事は全てラシージとナレザギー任せで良い。

 ラシージに関しては、しゅるふぇ号計画とやらもあって休まず働いて貰うのが当然なのでこれで良い。

 しかしナレザギーが何とも、これで楽しいのか? と思ってしまう。趣味で商売をするような奴だが、補給将校の真似事が楽しいかは別だろう。後でちょっと聞いてみよう。兵隊共ならともかくとして、メルカプール藩王国のナレザギー王子殿下は個人的な趣味でついて来ているのだ。楽しくもないのに付き合わせる気は無い。

 スライフィール人街に出る。何となくルサレヤ提督に似てるのかなぁ、という浅黒いスライフィール人の顔を眺めつつ、巨大なルサレヤ総督の屋敷の門を潜る。

 屋敷の者が歓迎してくれ、顔を覚えている獣人奴隷達も、ジャーヴァルにまで来た者達も顔を見せてくれる。イシュタムは……もういないのか。

 初めてここに訪れる、軍服に着替えたセリンを見れば、流石に大人しいというか、かなり恐縮して小さくなっている。

 屋敷の者にルサレヤ総督の部屋まで通される。

 ルサレヤ総督は煙管で煙草を吸いつつ、座椅子にゆったりもたれかかっていた。服装は上黒下白の軍服ではなく、顔だけは出すがそれ以外は全て隠すような真っ黒な、魔神代理領の既婚女性が良く着る服を着ている。見た目は奇妙。だって、背中から赤い鱗の翼が出てるんだもん。

「お久し振りです、ルサレヤ総督」

「ご、ご無沙汰しておりました! ギーリスの娘セリンです、総督閣下」

「久し振りだな。セリンも、顔を合わせるに年を跨いだな。それに総督か……解任されたよ」

「何と!?」

 嫌に大げさなセリンの頭を掴んで、グラグラ揺らして、抱き寄せて口を手で塞ぐ。

「後任はウラグマ代理で?」

「順当にその通りだ。辞令はもう郵送されているはずだ」

 何があったか知らないが、嫌な感じ。ウラグマ総督なら不満は無い。セリンがウーウー唸っているが、そのまま。話が進まなくなりそうだ。

「解任理由って聞いてもよろしいんですかね?」

「老い、だな」

「老い? まだイケイケのピチピチに見えますけど」

「いや、もう明らかだ。ひよっこ魔族のシルヴ・ベラスコイ相手に圧勝出来なかったし、ヒルヴァフカ州での戦いでは長く体も持たなかった。魔術の多用も神経に堪える。寝る時間も大分増えたし、食欲もな。少し痩せた、見て分からんがね」

 以前会った時に老けたと思ったのは間違いは無かったか。何か、嫌だな。

「後三百年は現役というのは嘘ですか」

 あの言葉を聞いたときは、正直嬉しかったのだ。それがもう老いだ何だと。

「怒るな怒るな、怒っちゃ嫌だ。あんなもの、いい加減に言ったに決まっているだろうが」

「閣下」

「閣下? 今は無職だ。そうだな、お嬢様とでも呼ぶがいい」

「お嬢様」

「ふむ……」

 ルサレヤお嬢様が煙管をカプカプ鳴らして煙を吹かす。

「……流石にそれはないな」

「ルサレヤ様」

「ああ、そのくらいだろ」

「ルサレヤさん」

「ん?」

「ルサレヤ女史」

「んー」

「お館様」

「召抱えられたいのか?」

「かーのじょ」

「ふむうむ」

「かあさん」

「そんな若くない」

「バーバ」

「身内ならしっくりくるなぁ。嫁でも取るか? 三人くらいつけてやろう。人間輪作が可能だ」

「ルサレヤ卿」

「土地はあるが領地は無いな」

「ルサレヤ将軍閣下」

「うん、あー、そっちがあるな。無任所将軍か、軍務省に書類提出すれば良い程度だ。あそうそう、私も出るぞ。お前から指揮権を取る無粋はしないさ」

「はい」

 はい?

「むぐぅ!?」

 セリンに手を払われた。

「どういうことですか!?」

「暇な老人は体を持て余している。それにレン朝? 今はレン氏だよな。あっちには何時だったか、昔行ったな……思い出作りくらい良いじゃないか。ババアの臭い香りくらい撒いて来たって魔なる教えには背かん」

「ババアは大歓迎です」

 ルサレヤ閣下と共同戦線とは、まともに張るのは初めてじゃないか? これは素晴らしい。老いたらしいが、それでも魔族。並の兵士では敵わない化物だ。

「本気ですか総督閣下!?」

 ルサレヤ閣下が、翼の手で、何を動揺しているやら吃驚した顔で大声を出すセリンの頭を掴んで引き寄せる。

「総督じゃない。本気だ。しかし、ふぅむ」

 そしてじっくり見る。見る、見る。咥えた煙官の煙が消えるまで静かに見る。

「何で、しょうか?」

「女らしくなった。魔族になってからではほぼ無いが、なる前から色恋を引き摺っていればそうなる事はたまにある」

 見抜かれた。

「だが正妻の座は空けておけ、悪い女になりたくなければな。セリンはこれから何百年と若いまま生きるが、ベルリクは何十年でしかも老いる。そこは弁えろ。子孫繁栄は普通の生き物のする事だからな。化物が邪魔しちゃいけないよ。魔なる教えにも反する」

 セリンが下を向いて黙る。

 そういう事も今後有り得るか。先祖伝来の領地には愛着もあるし、然るべき後継者に任せたいという普通の貴族の考えは、あるにはある。


■■■


 出港前の休日期間中、アクファルとクセルヤータが再会を喜んで空中遊覧中だ。

 ルサレヤ閣下が出征という事で竜跨隊も獣人奴隷達も来る。クセルヤータ等の竜が乗る船は竜用広甲板がある特別仕様である。そうでも無いと竜の巨体では、帆柱に索具がある船から飛び立つ事も降りる事など出来はしない。また専用の船倉も必要である。いくら私兵を使うのが魔神代理領流とはいえ、何だかおかしな感じになっている気もする。動員費用はそれなりに出るのでいいらしいが。

 しかし、イシュタムがいないのがやはり寂しい。ワンコロめ、歳なぞ食ってるんじゃない。肩を並べたのはアソリウス島の時か……。

 ナレザギーをルサレヤ閣下の邸宅にある避暑用の建物での茶飲み話に誘った。

 建物はツルっとした石造の壁で、床の溝に水が静かに流れていて涼しい。陽射しは防ぐが風通しは良い垂簾が垂れて、張られた出入り口、天井が素晴らしい。あまり長居すると寒さで体を壊す、と年嵩の女中に言われた。

「楽しいか?」

 ナレザギーはしばし沈黙。最初の内は何について聞かれたか迷ったようで、最後の方では言葉を選んでいたようだ。

「大きな事をしているというのは楽しい。次いでに販路も広げてるし、会社拡大の橋頭堡も出来た。感謝してるよ。そんな顔に見えない?」

「狐の面は分からないなぁ」

「笑うような楽しさとは違うね。ここでしくじったら全財産がぶっ飛ぶかもって緊張感か」

「楽しいか?」

「ベルリクは、耳元を銃弾がかすめたら笑うかい?」

「おー、たぶんな」

「笑ってるよ。裸猿の面は分かりやすい」

「へっへっへっ」

「お前、頭おかしいんじゃないのか?」

「ふわっはっはっは」

「……ここ寒いな」

「出るか」


■■■


 妖精達は元気である。魔都でも警察と連携を取り、活動範囲は制限してあるが、妖精達には問題が無い。人間との摩擦を防ぐために出張っている警察はお疲れのようだ。妖精の軍隊なんて物珍しいものを見ようと部外者がやってくるのだ。それもこれから海路で遥か東のレン朝にまで殴り込みをかけに行く……というのは、一応は軍事的な非公開情報だが、知られてしまっているようだ。

 散歩をする時、ルドゥ等偵察隊は相変わらず影のようにピッタリと後を付いて来る。人で加工したそれと分かる革製品姿は変わらずで、最近は干し首を多くぶら下げるのが流行っているようでお陰で誰も知らぬ者は近寄って来ない。

 仕事のある時のラシージは忙しさの塊であるが、何も無くなるとジっと自室に篭っている様子だ。意味無く連れ出している。散歩相手だ。

 仕事が無い時のナシュカはどうしているのかと覗きに行くと、本を片手で読みながら、もう片手でワーワー喜ぶ妖精を掴んで振り回している。勉強しながら鍛錬をしつつ、遊び相手になっているようだ。

 しゅるふぇ号計画もあり、魔都にて妖精奴隷を大量購入している。効率的に購入するためにはナレザギーの会社を噛ませて行っている。

 大量購入にあたり、不法に奴隷を獲得していた商人が発覚する事態にもなって休暇という雰囲気は薄れた。

 不法とは、魔神代理領が指定している居住地に住む妖精を拉致して売買する事。はぐれ妖精に関しては不法ではない。魔神代理領ですらこうなのだから、ランマルカ革命政府が人間を皆殺しにして妖精の政府を立ち上げるのも無理は無い。

 しゅるふぇ号計画ではあくまでも市場に流れてしまったような妖精奴隷の獲得が目的であり、居住地で平穏に過ごしている者達を吸い上げる事は無いのだ。

 この事件が今まで発覚しなかったのは、人間が妖精奴隷と意思疎通を図ろうとすらしない事が原因であり、発覚したのは勿論、我々が意思疎通を図ったからである。具体的に会話をしたのは語学達者なナシュカだ。妖精奴隷達の中には人間が使わないような言語を操る者も多いし、共通語を話しても相当に訛っている事が多い。そうではなくても、話し方や意思表示の仕方が人間とは違って会話にならない事もある。それでも会話を成立させる――殴って蹴りながら――のがナシュカだ。

 ルサレヤ閣下の仲介で司法省と産業省に掛け合って問題にある程度取り組む事になってしまったのである。休暇は無しだ。

 複数の奴隷商人との裁判となるので、かなりかなり長引く事は目に見えている。妖精達の権利を代弁出来る、しようと思う者は我々程度なものであるが、出港予定日がある。個人的にはレン朝の事など既に知った事ではないのだが、これは上からの命令、軍事行動なので中止なんてわけにはいかない。出来る事は魔都に残り、しゅるふぇ号計画を順調に進ませる事が出来る人物を選んで残す事。ラシージがいれば完璧だが、軍事行動が遠征先では伴うので却下。こうなれば、軍属とも何とも言えないナシュカが頼りになる。口は酷いが、頭は相当に回るはずだ。

 ラシージに話して、ナシュカに頼めるか聞いてみて、そうしたらナシュカがやってきた。

「おい糞野郎、てめぇは何だ?」

「お前達を一番愛している者だ」

 ナシュカの頭を両手で掴んで、額を合わせる。

「奴等を守れるのはお前だ。政治家になる心算で全力を尽くせ。アウルにも繋がる」

「はっ」

 両手を振りほどかれ、頭突きを食らって、胸を殴られて咽る。で、唇を噛まれて少し千切られた。血がダラダラ出る程度。

「最後の一言が余計だ。ベルリク=カラバザル」

 初めて笑ったナシュカの顔が見れた。

 唇痛ぇ。


■■■


 ベリュデイン総督と茶飲み話の機会を得た。得てしまった、か?

 キュイゲレの鍛冶屋へ”俺の悪い女”の整備を頼み、受け取りに行った時に彼の部下に捕まった。

 ベリュデイン総督の、ルサレヤ閣下の邸宅の三十分の一くらいの大きさの邸宅に案内された。

 邸宅は白い漆喰塗りで、魔都では特に珍しくない造り。獣人奴隷のための宿舎や馬屋の方が本宅より大きいぐらい。内部は飾り気が無くて人も最低限といった風で、清廉潔白を越して貧乏臭いようにすら感じてしまった。ここまで来ると逆に怖い感じがしてしまう。人間臭さが足りないのだ。

 これまた飾り気の無い客間に通され、ベリュデイン総督と御前会議以来の再会をする。

 ベリュデイン総督は極めて黒に近い紫の髪に、濡れているかと思う程艶のある青い肌で、良く見ると黒い刺青のような模様が肌に走っているのがとても非人間的。それから目が猫みたいに黄色い以外は、大体人間に準拠。ルサレヤ閣下より化物に見える。目が合った時、人間に対して抱くものではない怖気が走った。

「ようこそグルツァラザツク将軍。このような狭くてつまらない場所へ強引にお誘いしてしまい、申し訳有りません」

 ベリュデイン総督に手で促され、対面の席に座る。茶器は、飾り無しの真っ白い陶器だ。純白に近いので、これだけならそこそこ高価か?

「そこまで卑下なさらずとも」

「他の総督等の家にくらべればここは家畜小屋ですよ。獣人奴隷達や馬が使う建物ばかりですし」

「他に何か資金を注ぐ先がおありで?」

 たぶん、これに関連した事で話があるのだろう。

「これから将軍のお世話になりますグラスト魔術戦団です。他にもやりたい事がありまして、そのための蓄財、投資、運用に当てております」

「壮大ですね」

 ロクでもない事ではないのだろうが、場合によっては大騒動に至る気配がする。

「このような誘い方になったのは、将軍がルサレヤ前総督の腹心に当たる方だからです」

「堂々とされれば良いと考えてしまいますが? ルサレヤ閣下は気さくな方ですよ。時々ババアって呼んでも、笑ってくれますよ」

「それはあなたがお気に入りだからでしょう。正直、私のような小僧では畏れ多くて、仕事でも無ければ話し掛ける事も出来ません」

「その感覚がイマイチ、私にはさっぱり分からないんですよね」

 セリンも変に恐縮するのだ。かと言って皆がそうなるわけでもないし、変な印象を受ける。魔族限定の何か、あるのか?

 ベリュデイン総督が手の平を見せてくる。何事かと思ったら、なんと手先が震えている?

「どうされました?」

「怯えております。ルサレヤ前総督を通さず、将軍に接触したという行為にです」

 嘘だろ?

「何故通さなかったのですか?」

「魔族の増加は必要だから提案しましたが、その件についてルサレヤ前総督とは衝突しました」

「堂々となされば良いかと。あの魔導評議会を非難したベリュデイン総督からは想像がつきませんよ」

「ルサレヤ前総督の権威をご存知無いから想像がつかぬのでしょう。権威だけ、魔なる権威と言い換えます。その点であれば畏れ多くも魔神代理に次ぐお方です」

「ならば尚更私を直接誘うのが解せませんが」

「公の事ならば私は決して臆す事はありませんが、私用となれば、ルサレヤ前総督のお宅の門を頭に思い浮かべただけで眩暈がしてしまうのです」

 やる時はやるが、基本は小心者のへたれという事か? ちょっとこの青いのが可愛く思えてきた。

「お話を伺いましょう」

「ありがとうございます。魔族の増加案がルサレヤ前総督の言うように社会を不安定にさせるものという認識は私も共有しております。ですから不必要ならば提案はしませんでした。必要と思ったのは、戦力の不足、その一点のみです。だから提案しましたし、それが認められて実行に移されています」

 ルサレヤ閣下の権威を、魔なる権威と言い換えたのはここかな。

「もっと前にグルツァラザツク将軍とお話が出来れば、もしかしたらあの発言はありませんでした。魔神代理領内の全妖精自治区を”マトラ化”する事が出来ていれば、勿論将軍の軍のような活躍までは出来なかったにしても、アッジャールの大侵攻からの不幸な流れは変わったのかもしれません」

 そういう話か。そういう話しか無いだろうが。

「ジャーヴァル問題に決着をつけるのに注力した将軍ならば、そんな事をしなくても解決した、と仰るかもしれませんが、次の未来の大戦争もそうなるとは誰も言えないでしょう。そして私が更に提案したいのは、内務省下に妖精自治庁を新設することにあります。妖精達には人間程の権利はありませんし、義務を果たしているわけでもありません。人と同じ扱いが出来る者達ではありませんので、今のような距離を取る政策ではなく、新たな政策、枠組みが必要で、内実が伴う必要があります。権利の拡大と、義務の遂行、特に兵役を務めさせるよう進めるべきなのです。そうすればあのような奴隷の件にての悪戯な争い、時間を浪費する事も無くなる、いえ、少なくなります」

「それが私用ですか? 公務にしか聞こえませんが」

「私はあくまでもシャクリッド州総督です。シャクリッド州総督というのは新米に任される仕事で、権威はあるものではありません。ガジートの活躍が無ければ御前会議にて発言する事すら許されなかったでしょう。いえ、発言する勇気を得る事が出来なかったでしょう。私に出来るのはそうして御前会議にて提案を出す程度であって、実際の中身を決める事など出来ません。それこそ宰相達の仕事になります。気が早いと思われるかもしれませんが、今日はこういう構想があって、実現への道が開かれたら協力して欲しい、せめて話だけでも頭に入れておいて欲しいという事なのです」

「大分先のお話のように感じます」

 次の御前会議は数年後、そこで採決されるかは不明で、採決されたとしても実行されるにはまた何年。先を考えれば、人の寿命ではキリが無い。

「その通りです」

「私が生きている内に進みますか?」

「魔族の感覚で語ってしまったようですね……申し訳ありません」

「そんな、私になんか謝らないで下さい」

 いくら自称小僧とはいえ、州総督に頭を下げて謝られると恐縮してしまう。

「構想の話、続けて下さい」

「はい。既にマトラ県において妖精自治が実例として示されており、アッジャール朝オルフ方面軍を阻止する程の力を発揮した実例もあります。ありますね?」

「あれは突破寸前でしたよ」

「しかし事実として持ち応えました。輝かしい軍功です。それを他の妖精自治区でも実現するには将軍の、妖精達に対する影響力が必要不可欠と考えます。”妖精使い”は決して伊達では無いでしょう。妖精自治区は全て離れ離れではありますが、その統合軍を設けて別に駐屯地を作ることも可能です。親衛軍とは別の部局として認めさせる事が出来たならば同様の発言権、議席が与えられるでしょう」

 ベリュデイン総督の目が怪しく光ったように感じる。洗脳の魔術とか何か使ってないだろうな? しまった、その可能性を考えてなかったな。既に手遅れだろうが。

「その席に座るとするならば現状、お分かりと思いますが、あなた、グルツァラザツク将軍しか適任はおりません」

 御前会議を思い出し、四つ目の親衛軍長官の隣に座る自分を想像してみる……嫌だな。自分の仕事ではないだろう。

「妖精自治区の話に少し戻りますが、そちらを軍管区と割り切って規定し、管理すればもっと話は単純になるでしょう。それができれば妖精自治庁という組織も不要でしょう」

 自分で喋った事を覆した? 勢いで喋っている箇所が多分にあると見て良いだろうか。本当に構想段階程度の話であるのか。

「私が今育成し拡張しているグラスト魔術戦団もそのような軍の前身と位置づけております。妖精の統合軍程の規模にはならないでしょうが、規模もあって足の早い精鋭部隊を、その模範となる部隊を目指しております。親衛軍だけで魔神代理領の国防がならぬのならば、魔族による快速部隊を、魔術使いによる即応団を、妖精による第二軍を増設すべきと考えています。可能ならば私がルサレヤ前総督の後を継いでしまいたいぐらいです。それならばこの話はもっと早く進められる。実現のためにまだまだあらゆるものが足りておりません。人も組織もです。ですから、お恥ずかしながら構想の話だけであります」

「とりあえず、そういう計画、構想がある事は分かりましたし、実現に向けて動くとなれば無関係にいられない事も分かりました」

「協力して頂けますか?」

「即答は不可能です。マトラの妖精達は私を慕ってくれてはいますが、魔神代理領としてどうのこうのとなれば話はまた別かもしれません。とにかく、どうともお返事が出来ない事をご了承下さい」

「失礼しました。そちらにも語れぬようなご事情のある事でしょう。不躾でした」

「いえいえ、とんでもありません」

 その後はレン朝へ先発しているガジートやグラスト魔術戦団の話を少しし、食事のお誘いはルサレヤ閣下と食べる予定があると、嘘ではないがそうなる未来が予定されている事を言って断った。たぶん、ベリュデイン総督と食っても不味いだろう。断言出来る。


■■■


 スライフィール人街の、運河に面した堤防へ行く。運河と言っても、掘られてから何百、下手すれば何千年と立って入るので水と土と石、苔や草の馴染み具合は自然そのものだ。

 そこではルサレヤ閣下は地面を翼の肘で突いて寝そべり気味に、膝を立てて座っている。そして人間の腕で釣竿を持って糸を運河に垂らしているが、これは魚を釣るためではない。

「随分久し振りですね、これ」

「そう感じるか。若い証拠だ」

 ルサレヤ総督の隣にお邪魔する。何も釣れない、錘だけが糸から下がった釣竿を堤防の上から運河に垂らす。あるかないかの運河の流れと、通行する船が作る波の感触が味わえる。

 ジャーヴァルの葉巻を咥えて、火はつけないで若干の香りだけ嗅ぐ。ルサレヤ閣下は煙管に香木を詰め、魔術で着火して吸う。硫黄が一瞬香る。

「点けるか?」

「敢えて」

「ほう」

 釣竿をしならせてみる。うん、意味が無い。

 氷が中に入っていて、キンキンに冷えている胡椒と蜂蜜入りのお茶を飲む。美味い。

 おこぼれを期待するように野良猫が擦り寄ってくる。

「お前の分は無ぇよ」

 野良猫はしばらくニャンニャン鳴き続け、諦めたのかその辺に寝転がる。天気は良い。

「イシュタム、どうなりました?」

「あいつの故郷は南大陸東部の内陸部だからまだ旅中か、そろそろ故郷について、手紙でも送ったあたりだろう。入れ違いになる気がする。後で家の者に転送するように言っておかないとな。言わないでも分かる、が……それからもうイシュタム=ギーレイではない。ギーレイ族のハレベの息子ニクールだ」

「そんな名前でしたか。ニクールねぇ」

 男の子が犬と一緒に来て、ルサレヤ閣下の隣に座る。良い度胸をしている。野良猫は犬が来たので走って逃げた。

 男の子が珍しそうにルサレヤ閣下の角やら羽毛に翼をジロジロと遠慮無く見て、翼の手に頭を撫でられたら、何を考えているか分からないが、慌てた風も無く走ってどこかへ消えた。

 犬が居残ったが、少ししたら運河沿いに、男の子とは別方向にノロノロと消えた。

 ルサレヤ閣下の釣り竿の先に羽虫が止まる。蝿にしてはデカい……あぁ、虻か。

「ナシュカにつく司法顧問でしたっけ? 決まりましたか?」

「決まった。俗法での弁護士経験もあり、何より魔なる法に精通している奴だ。専攻は法典派の研究だから、私より細かい事は詳しいはずだ。妖精案件に関しては俗なる法で始末がつけられない場合が多いから適役だ。役に立つ」

「ただナシュカが心配だなぁ、って思うんです。あいつ、ムカつくからぶん殴るって、平気でするから別の事件起こしそうですよ」

「そんな馬鹿なのか?」

「馬鹿ではないと思うんですが、どうにも、融通利かせる事を知っててしないような感じがします。自分より立場が上の者はラシージ以外にいないと考えているのは間違いないはずですが」

「なるようになる。魔なる法はその辺も包括する」

 砂色のデカいヤモリが堤防の陰から登ってきた。座りながら蹴っ飛ばして川にボチャンと落とす。こいつを前にお話は落ち着かない。

「するんですか?」

「するさ。魔なる法は伸びない鎖ではない」

「逆に無法な感じですが」

「法を作って認識して守って運用するのは人だ。それを有るとするならば有る」

「ん、ん? 俺の頭が悪いか? ちょっと分からないです」

「とにかく上手くやってくれる。そのはずだ」

「はずですか」

「確証して欲しいか?」

「言葉だけになりますね。結構」

 靴を脱ぎ、足を堤防から垂らす。足の指の隙間がスースーする。

 スライフィール系の商船が船員を舷側に並べ、こちらに向かって敬礼をした。ルサレヤ閣下が軽く敬礼を返す。

 物売りの小船が通り掛かったので、お勧めの果物を一つ買う。新大陸原産の物らしい。中々の大きさで、皮が硬い。短刀で葉っぱを落として、皮は手で持つところを残すように剥ぐ。中は黄色い。

「はい閣下」

「うん」

 味は甘くて酸っぱい、噛めば果汁が垂れる。これ美味いな、滅茶苦茶美味いぞ。

 物売りの小船を呼びとめ、もういくつか買う。

「ベリュデイン総督に口説かれましたよ。妖精自治区を軍管区にして、マトラ化して、親衛軍に並ぶか予備かの第二軍にしたいって大構想を聞かせてくれました」

「あれは熱心な男だが、真面目過ぎるのがいかんな。魔なる教えの丁度良さ、自然な形を良からぬものとして考えている。俗法的な奴だ」

「いけない事ですか?」

「食糧危機になったとしよう。餓死するのが当たり前だが、極端な話、魔なる教えではその”自然”な現象を拒まない。それが今の適正な人口だからだ。実際に対策を立てないなんて事はしないが、極端に考えるとそうするのが適っている。それが理解出来ない、受け入れられないから熱心で真面目だと言うのだ」

「そう言われると難しい気がしますね。どうしたら正解か、正解は無い、か? うん?」

「馬鹿を言うな。腹が減って死ぬのは辛いぞ、同胞ならば助けるに決まっている。迷う暇があるものか」

「哲学ですね」

「難しく考えれば考えるほど難しくなるのが魔なる法だ」

「法典派ってどうなんです?」

「あれは高等遊民の趣味だな。無駄ではないが、無駄が多い。一足す一は二って単純な算数を、何故そうなるのかを証明する論文を仕上げるような手間を取る」

「専門家に任せるのが一番ですね」

「全くだ」

 その後、夕日が見えそうになる時刻まで釣りをした。釣れたのは、魔族を珍しがってやってきた、さっきの男の子の友達連中と、失礼な事をするなと叱りに来た親達。


■■■


 遂に魔都を出港する日となった。

 ナシュカは妖精達を救いつつ、魔神代理領における妖精の権利を拡大するために船を降りた。ファスラの大好きなおっぱいちゃんがいなくなったのであいつは寂しがるだろう。自分も寂しい。デカいおっぱいを触る機会が無くなってしまった。セリンはあれだ、小さくはないがあそこまでデカくない。ラシージにはナシュカに暴力沙汰を可能な限り起こさないように説得はさせてみたが、どうなるやら。

 アクファルはクセルヤータと一緒が良いそうなので別の船に移った。乗る船はルサレヤ閣下と一緒の、スライフィールの広甲板船だ。言わなくても大丈夫だろうが、アクファルには少ししつこくルサレヤ閣下に失礼の無いようにと言ってしまった。

 まだ航路は半ばにも達していない。遠過ぎる。

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