第89話「まだ遠征途上」 フンエ
掌班を長とする十人の班に所属するが、今は長を含めて八人。一度も戦闘を交える事無く、二割の人間が死んだと考えれば恐ろしい話に聞こえる。
ベイランを発ち、真東に進んでいた道が南東へ折れる。変わり映えのしない荒野の道は、今自分が何をしているのか忘れさせる程だ。脳みその水気が奪われてしまった気がする。
この荒野は生き物に厳しい環境のくせに蛇、蟻、蠍がいるものだから落ち着いて寝られもしない。運悪く蟻の巣の上に座って休んだ兵士の一人が全身を噛まれ、余りの痛さに苦しんで自殺してしまった。蛇と蠍は焼いて食った。
ベイラン以来、どうにも配給物資が乏しくなっている様子だ。事情説明はされていないが、噂になっており、公然の秘密と呼ぶのも馬鹿馬鹿しい程の事実になっている。
食べ物の量が減った事と、長旅の疲れが出てきたのに加え、ハイロウ、カチャより一層空気が乾燥して砂埃が舞うハイロウ周辺の空気のせいか、肌荒れが痛いぐらいになってきた。伝令の友人クトゥルナムに馬油を貰って塗ったら大分良くなった。今度お返しをしなくては。
水は貴重。この辺りは水源が少ない。あっても大人数に飲ませるだけの井戸が無い。
ヨモギを道端で取って腰帯にぶら下げて、歩きながら乾燥させる。ついでに根っこをしゃぶってわずかな水気を吸う。ヨモギは後で粉末にしてクトゥルナムに上げよう。腹に良いのだ。
喉が渇いたので小石をしゃぶる。母に教えてもらった誤魔化し方だ。間違って飲み込んでしまって、死ぬんじゃないかと一晩中泣いた記憶がある。
何昼夜過ぎたか呆けてきた頃、気候がやや変わったのだろうか、ベイラン的な荒野が、段々と緑が多くなって、小川も見られるようになっている。どこからか流れてきた話では、ベイランが灌漑用水をあちこちから集めているせいであの辺りは荒野が酷いのだとか。流石に胡散臭い。
砂漠や荒野特有の、昼は死ぬほど暑く、夜は死ぬほど寒いという辛さがまだ薄れる気配は無い……薪が無い。草や草なのか木なのか半端な低木じゃ熱も足りず、長持ちもしない。
乗り越えるべきトンフォ山脈の峰が、空気に色褪せ、遠くに見え始める。現代ではあそこを越えたら中原とされる。
ハイロウが、故郷がとても遠くなった。
家に帰ると錯乱して逃げ出す兵士が見えた。気持ちは分かる。
脱走を止めようとする憲兵が現れたが、兵士は小銃で撃ってしまった。行軍中に弾薬を装填していたという事は、脱走は衝動的というわけでもないのか?
その憲兵の仲間が脱走兵を棍棒で殴り倒し、叫びながら頭が潰れるまで滅多打ちにして殺してしまった。
彼も故郷がとても遠くなったと思ったのだろう。
小銃で撃たれた憲兵だが胸を撃たれたので助からなかった。
第一陣として先行していたジャーヴァル軍が後続の我々のために掘っておいた井戸がたくさんある場所で野営する。これまでの道中にこのような場所が無かったのは適当な地下水脈が無かったのと、カチャやベイランの領域と重なってしまうという問題があったからだ。
この辺りは羊使い集団がそこそこ大きくなった程度の遊牧民の縄張りであるが、小規模勢力なので居座っても抗議してくる事も無く堂々としていられる。その遊牧民がこの井戸に水汲みに来たぐらいなので、緩い協力関係を結んでいたのかもしれない。下っ端にはそんな事情は伝わってこない。
夜はまだ寒い。手袋を足に履いて、股に手を突っ込んで寝た。
■■■
トンフォ山脈越えの段階に入った。足元が若干上り坂になり始め、足が辛い。まだ山と呼べる所には入っていない。これからもっと辛くなるか?
山脈に近づいて良い事があった。砂漠や荒地が終りを告げ、林が見られるようになってきたのだ。薪が多く取れるということだ。寒い夜とはお別れだ!
競争になって余り多くは獲れなかったが、野苺を少し集める事が出来た。クトゥルナムに野苺を分ける。今日分けて貰ったのは、ヤクという高地の牛の肉だ。牛肉なんて何か祝日でも無ければ食べられない物である。ありがたい。
ある日、随分と慌てた様子で死体を運ぶ一団がいた。死人が出るのはそこまで珍しい事ではないが、死に方によってはあのように騒がしくなる。伝聞だが、野生の虎に兵士が襲われて、助けに行ったら腹を半分食われていたらしい。怖い話だ。
森のようなトンフォ山脈を進む。道は整備されているし、なだらかで、そこそこの丘でも上っている程度の傾斜しかない。万年雪を被るような、天を突く山もこの山脈にはあるが、街道はもっと楽な道を取っている。
二日後、また虎に兵士が襲われたと話が広まり、絶対に単独行動はしないようにと御触れが出される。
また虎。また虎。また虎。次は熊。また虎。
ハイロウの時から宇宙太平団に潜入していた時に知り合いになった兵士が、薪拾いに行ったら虎に襲われ、食われはしなかったが背中を爪で大きく切り裂かれてしまった。死にはしなかったが背中の筋が断たれてしまって立つ事すら出来なくなってしまい、意識が無くなるぐらいに酒を飲まされてからトドメを刺す事になったらしい。
また数日して虎だ。初めて虎に襲われたという話が出てから大分距離を進んだというのにだ。もう十人以上が虎に食われている。人の味を覚え、この群れから誰かが逸れる機会を待って、隙があれば襲い掛かる……公安号がいたらどうにかしてくれるんじゃないかと思ったが、節度使様をお守りする任がある。
同じ班のノシャンと水汲みに行く。ノシャンは我が班の中では一番の小銃の名手で、鉄砲猟師をしていた時期もあるらしい。彼が虎が来ないか見張りをする。
「頼むぞノシャン」
「何言ってんだ馬鹿フンエ。虎に勝てるとか思うんじゃない」
「勝てねぇのかよ!」
他所の班も皆おっかなびっくりなので、固まって行動をしている。
「野生ってのは無理をしない。勝てなきゃ襲わないし、勝てるなら襲う。強くて臆病なんだ。だから今の俺たち、群れを襲うような馬鹿はいな……」
草むらがガサっとなって皆怯える、護衛の銃兵も小銃を取り落とす始末。ノシャンは小銃を構えるが、足が震えているし、撃鉄も起こしていない。そういう自分は水桶を引っ繰り返して水を撒き散らした。
音を立てた犯人は狐だった。腹いせに食ってやろうと追いかけたが、逃げられた。
山中には火山湖があるのでそこで野営。水が豊富で良いと思ったが虫が多くて辟易してしまう。
焚き火には虫が寄って来て、愚かにも火中に入って焼け死ぬ。自分の意思で死ねるだけ待遇は虫の方が上かもしれない。
左下顎の親知らずが痛い。口の中が時折、痛いか不快に感じる程度だが、早い内にどうにかしたい。歯痛で狂って自殺した故郷の領主を見たことがあるから不安で仕方がない。どこか街にでも寄ってくれれば都合がつく……ような気がする。
仲間に頼んで抜いてもらうのも……並ぶ面を見る限りは遠慮した方が良さそう。
医者を探すって、軍隊じゃどうすればいいんだ?
班長を通して小隊長に聞いてみる。自分の給料から引いた治療費をくれた。次の野営地についたら行って良いことになった。付き添いにノシャンがつくことになった。
道が下り坂になり始める。トンフォ山脈越えも半分が過ぎた感じ。
下り坂は楽なようで足腰に負担が来るので、段々歩いていると今までと違った痛みがやってくる。歩くとは痛い。節度使様と歩いていた時は……そんな事を考えている暇も無かった。天への階段を上っていたのだ。
次の野営地で歯医者に代金を払って診て貰う。見え辛いところが虫歯になっているそうだ。抜く事になった。
力が抜けるぐらい酒を飲まされる。それから手と足を縛られ、施術しない方、右の歯の方で、医者の指を噛まないように布で来るんだ丈夫な木片を噛まされる。
術後に聞いた話だが、火で炙った小刀で歯肉を切って歯が全露出するよう開き、歯を少し削って鉗子が良く”噛む”ようにしてから引いて、歯と歯肉の接着面を小刀で切ってを繰り返して抜いたそうだ。
汗が出る程痛いという記憶が残っている。抜けた後も痛みがしばらくぶり返した。
腹が減っても飯を食うのが面倒になるほどだ。なんなんだこの間抜けな歯は!
まだ下り坂が続く。今回の野営地は、当然と言えば当然でどうしようもないが、下り坂にある。地面が斜めだ。頭を山頂側に向けて寝ると血が足に降りていくような感覚があり、逆にすると今度は頭に、横になれば転げ落ちてしまいそうで落ち着かない。歩きで足が疲れているので、足を山頂側にすることにした。頭は使っていないし、良いだろう。
■■■
山を降り切った感じがしたら、ウラマトイに到着したと話が流れる。
ウラマトイは天政下にはあるが天政地ではない、冊封された属国だ。入領に際してはウラマトイ王だか王子だか、その親類か何かが歓迎した、らしい。下っ端には噂が流れてくる程度で、やり取りも何も分かるわけはない。
ウラマトイは定住化しつつある遊牧民の国であり、大きな街が無いので野営する事になる。歓迎をされた証拠だろうか、配給に羊肉が大目に出て、酒がなんと振舞われた。
朝飯に馬鈴薯が配られる。最近になって栽培が始まった新しい品種の芋らしい。
見た目は馬糞みたいで汚らしいが、洗って皮を剥けば光明旗のごとく綺麗な白黄色だ。調理法は崩れない程度に煮る。煮加減は箸で刺したら抜ける程度で良いらしい。配られたのは一人につき三つだが、形が不揃いなので大きい小さいで喧嘩にはならないように煮た後に潰す。味は美味い上に腹にたまる。これは素晴らしい。麦なんか作っている場合じゃないだろう。
ノシャンが糞をしに行くと言って班を離れる。「糞食ったら糞がしたくなった」だと。
捨てるには勿体無い馬鈴薯の煮汁を皆で啜る。しかし糞をしに行ったノシャンが中々帰って来ない。
……出発の時間になってもノシャンが戻ってこない。まさかこんな所にまで来て脱走? 小隊で探索しに行く事になり、出発しようとしたら騒ぎが起きる。
騒ぎの元は何だと見れば、ウラマトイの兵士が腹が無くなったノシャンを運んできてくれたのだ。
トンフォ山脈からこの場所まで、木々が延々と生えている。
日は明るいのに、いやに地面が薄暗い。
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