第76話「東部転戦」 ファルケフェン
ナギダハラでネフティ女史と共に、誘われるままにグナサルーンの後宮へ再び訪れた。
急な軍の転進に忙しい、というのが顔に表れて険しくなっているタスーブ皇太子が出迎えてくれた。自分のような一将校に今更何のようであるかと疑念は尽きない。
「帝国に残るロシエの会社員達の身柄はこの私が請け負っている」
開口一番が挨拶も無しにこれである。キナ臭い。
「そちらの事情で兵士が減っても、帝国と会社の契約は帳消しにされたわけではない。分かるな」
「はい殿下」
「残る会社軍の兵士達を君が率いてくれ。こちらから要望を出す。どうせロクな将校は残っていないのだろう」
はい殿下、とは口は開かない。混血とはいえ、ロシエの血が流れる戦友を悪く言われて平気な面をしていられるほど政治は出来ない。
タスーブ皇太子はこちらを見もせず、別に気がかりなことがあるようで視線が上を向いていて落ち着かない。とっとと喋りたい事を言って終わらせたいようだ。
「ガンドラコ卿、初めてネフティに会った時、護衛は何人だったかね?」
火災と暴徒の海の中、襲われそうになったネフティ女史と、間も無く死んだ護衛が一人だった。
「一名です」
タスーブ皇太子と本日、初めて目が合う。忙しない風でいて、目だけは燃えているように思えた。
「皇族で意味があって働いている者は、父、私ときたら次に誰だと思う?」
「詳しくありませんのでお答えいたしかねます」
ネフティ女史? 護衛していた時は中々に忙しなかったが。
「だろうな。ネフティだ。であるが、未だに護衛を一人つけるのがやっとの立場だ。宮内長官が決めることだが、そいつが制限にあれやこれやと口を出して人を出さない。奴とネフティの母同士が昔喧嘩したとか、そんな下らん理由だ。そこで何とか理由をこじつけて、ロシエとの交流拡大やらなんやらとな。それで護衛にしたのがガンドラコ卿だ。それをまたやって貰いたい」
「会社軍の指揮と護衛が重なりますが………会社軍で護衛しろと?」
「私の権限はそう大きくは無い。護衛はガンドラコ卿、君一人で定数だ。任命は前例があるので問題は無い。前例とは文句をつけてきても押し通せるのが慣わしだ。そして君一人であるが、まとまった部隊を指揮する権限がある一人だ。勝手に何百人と君の判断で連れ歩こうが、知ったことではない。部外者だからこそ出来るやり方だ」
いよいよ本格的に乙女の騎士というわけか? アラック野郎め、どこまで事情を知っていたやら。
「パシャンダの帝国になってますます敵が増えた。私の枷は重い。父は皇帝たらんとしている。他の後宮等今はとても”臭く”て入られたものではない。ガンドラコ卿は部外者故自由に動ける。それなりの立場を背負い、後宮にも出入りしている事実で箔もつく。ネフティを頼む。奴は言わないが、望んでいるくらい初心でも分かろう」
騎士が乙女を守る任に対して不服申し立てをするわけがない。
「望まれる形ではないかもしれませんが、私なりに努力して護衛の任を魂と名誉に懸けて果たします」
「正直な男だ」
タスーブ皇太子が、懐から出した手紙をネフティ女史に手渡す。
ネフティ女史これまでの話を黙って側で聞いていたが、反応らしい反応はしていない。無感動なわけは無いと思うので、一種の腹芸だろうか。
「話は以上だ」
タスーブ皇太子の用事はこれで終わった。ナギダハラから呼び出された用事はこれで終わったのだ。
■■■
ネフティ女史とナギダハラへ戻る。
道中、ネフティ女史に今回の事をどう思うか? 等と聞ける精神は持っていない。守ると言ったら前言は覆さない。
心境複雑そうな顔で「またお世話になります」と言われたので「魂と名誉に懸けて」と応えた。少しおどけた風にやってみたら、薄っすら笑ってくれた。部外者には分からない何かがあるのだろう。
ネフティ女史が持参し、会社へ渡されたタスーブ皇太子の要望書の通りに、自分ファルケフェン・ガンドラコは会社軍の指揮を執ることになった。
指揮する兵士はわずか二百名ばかりである。時間をかければ全員の顔と名前の一致も可能な人数だ。
将校はほぼ純血だったので残っていない。混血での最上級は曹長上がりの准尉だが、現在のジャーヴァル=パシャンダ会社が存在する前からここにいる中々の爺様だ。まとめ役として期待する。
ここに指揮経験も豊富なレギャノン大尉がいればと思うが、思うだけだ。アレは可愛いジレットへの土産だ。取り上げるなんてとんでもない。
今更あまり意味は感じないが、階級が中尉から大尉に昇格した。
これで会社軍を率いて、乙女を守る。ネフティ近衛隊とでも言い換えてよろしい。実質はタスーブ皇太子の私兵と化しているが、むさ苦しい皇太子より美しき皇女の方がそれは気分が良い。
兵士達の血の半分はザシンダル人なので皇族への敬意は、自然とある程度ある。そして、ネフティ女史はロシエ人と現地人が結婚した家一件一件を回って困ったことが無いかと聞いて回って、可能なら助けている実績がある。そうなれば敬愛される。
ロシエの王女が自宅を訪ねてきて何か無いかと聞いてきたならば、それはもう簡単に自分も有頂天になるだろうと想像がつく。
会社軍の皆にもネフティ皇女護衛の仕事に就くと言ったら信じられない顔をした後に喜んで感動していた。純血ロシエ人の撤退という沈む出来事があった後ならば尚更反動も大きい。注意事項として忘れずに言っておいたが、政治的に運用される可能性は大である。
小部隊ゆえまとまって動き易く、パシャンダではロシエ人街以外に同属はなく、タスーブ皇太子とほぼその意のままとなっているであろうネフティ女史以外の有力者と接点はほぼ無い。我々はおそらく、かなり使い易い。暗殺を命令されるかもしれないと危惧している。でもパシャンダで生きるのなら、それも必要かもしれない。
■■■
ジャーヴァル北東部に侵攻してきたレン朝軍に対する、ジャーヴァル帝国との共同作戦が始まり、東部方面軍二万、各藩軍九万、本軍十二万の全軍二十三万が北から南下してくる敵を迎え撃つ。追加動員をしなければ、ロシエ王国軍全兵力に匹敵する大軍だ。それだけの大軍なので、長いことこの地には止めて置けない。食糧を馬鹿食いするからだ。短期決戦での勝負に挑む。
対するレン朝軍は二十万と目される兵力で南下してくる。こちらも負けず劣らずの大軍。パシャンダ帝国軍と同じく、食糧を馬鹿食いするだろうから短期決戦を挑む心算であろう。
ただ、パシャンダ帝国軍は西部方面軍や対海賊警備、各藩の反乱防止の監視要員を除いて、二十三万の兵力を振り絞ったのだが、レン朝軍は片手間で二十万なのだ。ジャーヴァル帝国側にも十万を超える兵力を差し向けている。更にだが、レン朝本土の軍はどの程度の規模であろうか? 三十万を優に超える軍は、ビジャン藩鎮なる一地方政権が出した一つの軍に過ぎないのだ。
ネフティ女史の護衛であるのに、何故このような戦場、最前線にいるかと言えば、タスーブ皇太子が出す権威ある使者がネフティ女史なのである。軍を出している臣下の藩王達に半端な使者でも送ろうものなら、面倒事があるらしいので、彼女が必要なのである。
各藩王へ手紙を届けて回る。軍指揮はパシャンダ皇帝であるが、細かい事はタスーブ皇太子がやっている。
名前を良く聞く大藩王もいれば、今まで耳に入ってこなかったのが不思議な泡沫小藩王の名を知ることが出来た。
クアテル、サブノナダル、ラーディリ、オロンメシンなどなど、用事が済んだ次の日まで覚えていないような名前だ。
過去に戦ったことのあるラザム藩王へ手紙を配達。その場で読んで、終り。あっさりしたもの。
ラザム藩王はかなりの老人。ラザム侵攻後に彼の孫藩王は出家したそうだ。曾孫が大きくなるまでの繋ぎである。
こちらも戦ったことのあるナックデク藩王へ手紙を配達。手紙など後で良いとばかりにもてなされた。
藩王は女性で、新種の種族かと思うほどに体に穴を開けて宝飾品をつけている。日常生活どころか、寝返りも大変そうだ。案外、寝返り用の奴隷とか持っていたりするかも。
何やら見た目怪しい料理でもてなされた。ネフティ女史が口をつけているので食べる。会社軍の皆にも配られている。召使い達がいやに親切。
自分、ファルケフェンの武勇伝を簡単に聞きたいというので、アレオン、ラザムとナックデク、ケジャータラと順に話した。簡単な内容なのでネフティ女史の翻訳も素直に伝わったことだろう。
そうして何故か藩王の語りも始まった。ネフティ女史が訳すに、前代ナックデク藩王は婿だったので、敗戦の責任を取って生贄の祭壇でメショーケ? の神アザバワズの左手へ喜びの心臓を右手で捧げられたそうだ。メショーケとはナックデク人の民族性に基づく言葉で、何とも翻訳し難く、誤解覚悟の意訳で、女性の命を産む性質と男性の自己犠牲的な性質を神に感謝すべきである、といったところ。宗教哲学は専門外だ。
急に意味不明な話の後に、婿に来ないか? と奴隷でも買う気軽さで言われた。その後はネフティ女史の品性では翻訳し難い言葉であったようだ。
丁重にお断りしたら、特に機嫌を損ねることもなく話は終わった。婿という表現も、恐らくロシエの言葉と意味が違うのではないかと推測する。
■■■
ナックデク藩王より遥かに厄介な出来事。遅刻しているクラジョムック藩王が、港湾都市のスランジャワから動こうとしないらしい。今更何だ?
クラジョムック藩王に手紙を届けに行くネフティの護衛で、初めて本格的な緊張感が生まれる。
スランジャワまではナックデク藩王の野営地より五日は南下せねばならない。とりあえず騎兵四十のみで素早くネフティ女史を送り届けた。
流石に皇女が使者ということで難癖つけられずに藩王への謁見が許された。場所は市内随一の、迎賓用の豪邸。
クラジョムック藩王は顔面蒼白で細い青年、少年? で、おそらく発育不良なようだ。道中にネフティ女史から聞かされたが、昔食事に毒を盛られたせいで摂食障害らしい。
ネフティ女史が差し出す手紙にも――言葉は分からなくても表情と仕草で分かる――毒を塗られていないか怯えている。これは酷い。よく家臣達もここまで連れてこられたものだと逆に感心する。
クラジョムック藩王が遅刻するのは、体調不良が理由らしい。死ぬまで治りそうにない話だ。
軍だけでも連れて行くという話に対しては、軍は藩王のものであると意地を張っているらしい。不思議な感覚だと思ってしまう。
交渉は一旦、藩王は”お疲れのご様子”ということで一旦打ち切られる。
市内の高級宿で一旦作戦を練る事になった。そこでもう一通の手紙をネフティ女史が開封する。内容は”連行しろ”の一言。
するにしても計画はどうする? 早くしないとレン朝軍と衝突してしまう。
そこで一計を閃いた。
翌日、ネフティ女史を他の騎兵に保護させる。
改めて自分一人でクラジョムック藩王に会いに行く。一度ネフティ女史と共に会いに行ったので渋られながらも面会が叶った。
言葉が通じないので、身振り手振りで手紙を直接渡すと表現したのが通じた。何とかなるものだ。
そしてクラジョムック藩王の顔が見えた途端、突進、担ぎ上げて、窓を破って誘拐、脱出。
相手方が混乱している内に、逃げる用意をしていた騎兵隊と合流して連れ去る。
大分遅れてクラジョムック軍の騎兵が追って来た。
藩王殿下は恐怖のあまりに言葉も出せず、震えて固まっていたのが幸い。逃げるのに邪魔にならなかった。
他の騎手には途中で降りてもらって、馬を交換しながらタスーブ皇太子の下まで到着。
初めは流石に理解し難いと顔に出していたタスーブ皇太子だが、クラジョムック軍の到着でお褒めの言葉をくれた。
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遂に敵軍と対峙する。タスーブ皇太子は全軍の後方、高めの丘、見晴らしの良い位置にいる。ここを確保出来たのは大きい利点だ。そこから、冷静に事態へ対処する要員に回っている。戦いで頭に血が昇っている各藩王に命令出来る人物といえば彼しかいない。皇帝陛下は、陣頭指揮を執る人である。皇帝は英雄的で、皇太子は参謀的という感じだ。
ネフティ女史は、恐らく戦中は女の身であるし各藩王への使者として出されることは無いであろうが、配置はタスーブ皇太子の隣が定位置である。我々会社軍もその位置にいる。回りを皇太子の近衛隊に囲まれているので肩身は狭いが、仲は悪くない。タスーブ皇太子の近衛隊は、他の皇族よりはネフティ女史に親近感がある。仲良さ気に会話しているのは良く見かける。
タスーブ皇太子を中心に伝令が左右前後からひっきりなしにやってきている。この規模の戦いを頭一つに整理するつもりなのか?
場所は汚物と作物の神ダタマイオの神殿近郊。信者達によって神に捧げるための畑が一面にあるため、比較的平地が多い。
東側には海がある。休戦条約中も、魔神代理領とは無関係なタルメシャの海賊等が出張っているので海軍の協力は無い。その程度の海軍しかパシャンダは持っていないということでもある。
敵は火箭の射程より遥か外で陣形を組み、そして前進してきている。そうなる前に何とか主導権を握って前進し、陣形を組む前段階で火箭を撃ち込むのがパシャンダ流の戦いだったはずだが、パシャンダ帝国も大軍が過ぎてそのような機動戦術が出来ずに機会を逃したようだ。
敵の陣形は中央に、大きく広がった鶴翼隊形を組む精強そうなレン朝正規兵本隊六万。本来はこれだけでも十分主力だ。
その敵左翼にジャーヴァル兵横隊が二万。更にその敵左翼にアッジャール残党の騎兵縦隊が五十本横並び! で五万。
敵右翼前方、少し横方向に間隔を開け、騎兵がやや混じった歩兵部隊が外側に突き出るように斜陣隊形で四万。その敵右翼後方、隊形が雑な民兵が三万。隊形は組んでいるが雑である。
これはとてつもない会戦になる。
東部方面軍二万は東海岸にある灯台とその近くの漁村で防御陣地を構築。最小限の兵力で敵兵力を釘付けにするのか?
本軍は綺麗な横隊が横に二十列、縦に四段。皇帝自ら、そして皇帝近衛隊、騎兵、象騎兵は両側面や予備に、砲兵は前面に置かれている。横隊で火力を最大限に発揮して正攻法で打ち破るようだ。
本軍両翼、やや前方につく各藩軍、それぞれ独自の考え、戦術で陣を組んでいるのでバラバラな印象を受ける。それぞれの持ち場では奮戦しそうであるが、前進して攻撃となると同士討ちの未来が預言者じゃなくても見える。
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敵左翼のジャーヴァル兵横隊が、右翼各藩軍に向けて前進を開始。砲兵が応射する。
こちらは防御、あちらは攻撃という流れだ。
敵ジャーヴァル兵横隊の外を回って、敵アッジャール残党騎兵縦隊が足早に前進する。敵ジャーヴァル兵横隊が盾になっているので砲撃で阻止し辛いようだ。照準調整も今では一苦労だろう。
敵アッジャール残党騎兵縦隊の迂回機動を妨害するために東部方面軍が防御陣地から打って出る。敵アッジャール残党騎兵縦隊は、妨害の妨害のために騎兵縦隊を十本差し向ける。遊牧民は十進法で軍を動かすというから、丁度一万人隊か。
同時に西側、敵右翼の斜陣隊形が、こちらの左翼を正面に捉えつつも側面も取ろうと前進中。砲兵が応射するが、中々崩れる気配は無い。ロシエ式砲兵がロシエ製を使っていればこうはならなかっただろう。それにしても斜めに陣を取った状態で綺麗に行進してくるとは驚異的である。世界最精鋭を自負するロシエ軍の自分から見てすら気持ち悪い。この機動で左翼各藩軍が迎撃体勢を取ろうと陣の向きを変え始める。良い兆候では無い。
パシャンダ帝国側は火箭の一斉射撃はまだ使わないようだ。敵の本隊を弱らせて決着をつける前準備に使うのだろうか?
その敵本隊と、敵右翼後方の民兵がゆっくり動いている。どう出るか?
敵ジャーヴァル兵横隊と右翼各藩軍が正面、小銃の射程圏内に入って互いに攻撃を開始、同時に互いに拘束される事になる。敵ジャーヴァル兵横隊は本軍の、ロシエ製大砲交じりの砲撃で幾分目減りをしている。長時間は持ち応えられないのは明白だ。
迂回機動をしていた敵アッジャール残党騎兵は、本軍の予備騎兵隊と、右翼各藩軍の予備兵力が阻止を開始する。平地で四万の遊牧騎兵を相手とは、想像するだに組し難い。苦戦は必須だ。
ここで自由に動いて欲しい東部方面軍だが、敵アッジャール残党騎兵の一万人隊に翻弄されている。射程距離圏外ギリギリで動いたり止ったり威嚇射撃したりを繰り返し、どうにもならない様子。突出すればやられるのだから、本当にどうしようもならない。
敵右翼の斜陣隊形が左翼各藩軍のやや左側面を取り、小銃の射程圏内に入って優位に攻撃を開始する。本軍の騎兵隊が支援に向かうが、これで両翼支援に騎兵隊はほぼ引き抜かれた。そして両翼の各藩軍は身動きが取れない状態。
指揮系統の個人化、軍法の――あるかも怪しい藩も――違い、軍や陛下の運用法等の違い故に、連携を取って軍を動かすのが辛いのが連合軍の弱点だ。合同訓練でも繰り返せばいいのだが、ロシエのように長らくロシエ、ユバール、アレオンの兄弟軍で連携を取って来た伝統など他にそうそうは無い。合同訓練の発想すら薄いだろう。
物事は表裏と言うが、同時にこれは両翼で敵を受け止めた状態である。皇帝自らが角笛を吹き、陣頭指揮で本軍を中央突破の為に前進させた。皇帝が宝刀を掲げて煌かせ、大声で演説をして兵を盛り上げている。これは強烈だ。更に予備の供出で多少の差し引きはあるが本軍は十二万、敵本隊は六万だ。まともに当たれば粉砕は揺ぎ無い。
準備されていた火箭が、敵本隊に向けて次々と発射されている。鶴翼隊形なので何とも的が絞り辛くて当て難いようだが、圧倒的な発射量で確実に被害を出している。
数が少なく、当初から砲撃を受けていた敵ジャーヴァル兵横隊が壊走を始め、そして対峙していた右翼各藩軍が追撃に動き出す。表裏であるか、そのせいで右翼がこれで崩れ始めた。敵アッジャール残党騎兵の右翼への側面攻撃は止らない。
敵鶴翼隊形の本隊が異様に素早く、隊形を保ったまま前進してくる。敵は六万とはいえ、十二万の本軍より幅が広い。そのまま突撃すれば半包囲される。厚みで押し通れるとは思うが。
敵右翼の斜陣隊形が左翼各藩軍が血みどろの戦いになり始めた頃、両者は正対して殴り合っているのだが、逆を言えば別方向に側面を新たに向けてしまっているということでもある。敵右翼後方の民兵が縦隊となって突撃を開始した。これはマズい。
縦隊突撃をする敵民兵に向け、事前に位置が調整されていた象騎兵隊が順次支援突撃を開始する。士気が低い兵士に象騎兵は効果的であると言われている。実際突撃した身から言わせて貰えば、素人には怖くて無理だ。
敵本隊が更に前進。後発になった象騎兵隊の一部が、敵本隊から出された射撃騎兵に撃たれて壊滅してしまった。簡単に象を射殺したようなのでただの銃や弓を使ったわけではないようだが、遠方からはハッキリしない。
残りの突撃した象騎兵隊だが、隠していた青黄赤の三色旗と白黄一色の旗を一斉に掲げ、何事か合言葉を大合唱し始めた敵民兵に驚いてしまい、そして局所的に発生した竜巻!? 奇跡、魔術だろうか、更に混乱して突撃どころではなくなり、仲間同士で体当たりしたり、見当違いの方向へ走って散ってしまった。その一部は先の射撃騎兵に始末され、敵に多少の痛手を与える事も無く、逆に味方に多少の損害を出した。
敵本隊の兵の質がかなり、相当に侮り難いようである。火箭の一斉射撃に対しても、損失は確実にあるが動揺はほぼ無きように見える。
左翼各藩軍は身動きがとれず、変わらず劣勢である。
右翼は劣勢どころか崩壊する寸前だ。敵ジャーヴァル兵横隊は途中で逃げ足を止めて停止、横隊を整える。そして、東部方面軍を牽制していた敵アッジャール残党騎兵一万が追撃中の右翼各藩軍の兵士を側面攻撃で壊滅させた。本気に見える偽装撤退か。こんなにも早くそんな忠誠心が必要な作戦を、現地で拾ったであろうジャーヴァル兵にさせるとは、指導者は一体どんな傑物なのだろうか?
肝心の敵アッジャール残党騎兵四万は、引いては押すを繰り返し着実に右翼各藩軍と投入した予備騎兵を撃破しつつある。パシャンダ騎兵の弱さがここで響いてくるか。
右翼各藩軍は見捨てる心算であろうか、本軍はそのまま突撃して敵本隊と衝突……する前に敵本隊で旗手が大きく旗を振り、聞いたことの無い音色の笛? を鳴らし始める。何事かと思ったら目も開けてられないような閃光!? また奇跡、魔術か! 戦場で通用するような、そんな兵士を幾つも敵は抱えているということか?
前線から遠かったお陰もあるか、視力の回復は早かったがそうではない本軍は、何時の間にか鶴翼隊形から横隊に変化していた敵本隊に、一方的撃たれまくって死にまくっている!
敵の武器も小銃はともかく、布に大きな手榴弾を入れて遠投している。爆発力は相当で――鉄片くらいは入っているだろう――一発で確実に十人以上は犠牲になっている。
速射出来る弩も使われている。どのような仕掛けかは知らないが、小銃より遥かに発射回数が多い。威力も、機械の力が良く活かされているのだろうか、問題無く人は殺せる速度で飛んでいると思われる。
それに一番恐ろしいのは、妙な装備の敵兵が前に走って出てきて奇跡か魔術か、妙な操作の妙な銃で火炎を発射し始めた。燃やされた兵士は隣の兵士へ”延焼”させながら暴れて、あらん限りの絶叫を上げて倒れる。その前に手持ちの火薬が爆発して死ぬこともある。炎はただの炎ではなく油か何かのようで、服や地面に残って燃え続けて黒煙を上がる。これが一箇所二箇所なら大した事は無いが、敵の横隊全てから一斉に行われている。前面の横隊は壊滅だ。
そして敵も火箭を持っていた。手持ち用の小火箭? で、もう焼かれた前面は片付いたとばかりに、後方の兵士に向けて発射している。時限炸裂でもするのか、失敗しなければ何れも兵士達の頭上付近へ飛翔した辺りで炸裂。こちらも鉄片が入っているのだろうか、一本の炸裂だけでも何人も倒れる、頭や体のどこかを手で抑えてうずくまる、叫ぶ。中には鉄片とは別に、煙を噴出す小火箭もある。それを吸った者は激しく咳き込み、昏倒する。
左翼各藩軍は壊走を始めた。敵の斜線隊形部隊と民兵の突撃に押されて踏みとどまることは出来なくなった。
右翼各藩軍も壊走を始めた。追撃に突出した一部は敵のジャーヴァル兵横隊に押し出され、アッジャール残党騎兵一万人隊に狩られた。敵アッジャール残党騎兵四万はパシャンダ騎兵など子供相手のように殺してしまい、後は半包囲しながら右翼各藩軍を的に騎射している。
東部方面軍は、この戦場に恐れをなしたか、防御陣地から動かない。動いてももうどうしようも無いのであるが。
本軍は第一列が壊滅したが、第二列は被害を受けつつもまだ動いている。陣頭指揮をしているパシャンダ皇帝も何やらまだまだ元気そうだ。
敵本隊は横隊のままだが、太鼓と笛の号令で兵士の配置を調整し始めた。役割の違う兵士がかなり混ざっているということになる。ロシエ式戦列歩兵術より複雑な操典に思える。
パシャンダ皇帝が第二列と三列を前進させ、第四列を分割して両翼の防衛に当てる。
タスーブ皇太子はまだ伝令とのやり取りに忙しい。逃げる気はまだないようで、近衛隊にも動きが無い。
全く異文化過ぎる、と言っていいだろう。レン朝軍の戦い方が全く想像がつかない。
次に敵本隊から槍を持った兵士が前に出てくる。ただの槍兵ではなく、大量の槍を抱えている。投槍兵? そんなものを用意するぐらいなら小銃の方が遥かに効率的である。小銃はそのために存在しているぐらいだ。
槍兵は、槍の穂先を本軍に向ける形で全て地面に置いて並べていく。槍ではなく、別の小火箭か? と思ったら、兵士という感じではない、役人めいてすらいる連中が槍兵と変わって前に出てきた。何をするかと思えば、槍が宙に浮いた。奇跡、魔術か。ロセア司令も、ただ魔術を使うのではなく火薬を使って効果を高めていた、
まだ本軍の壊滅した第一列と代わった第二列の小銃は敵本隊を射程に収めていないが、宙に浮いた槍は太鼓を打つ音に合わせて役人らしき者一人につき一本が発射された。
ロシエ式戦列歩兵術では縦と横の間隔は多少開ける。そのように訓練されたパシャンダ帝国の本軍もそうしている。密集はしているが、体をくっつけ合う程ではない。何がどう作用しているかなど普通の人間には分からないが、飛んだ槍は七、八人程を貫いて止まる。止った所では三人ぐらいが槍で繋がったまま一緒に倒れるのが間抜けに見えてしまう。少し槍の秘密が見えるが、穂先が貫通しないで止った兵士は身体が槍を軸に回転する。施条銃が発射した弾丸のように回転して射程距離や安定性を増しているのだろう。
太鼓が打たれる、槍が放たれる、飛んだ槍は七、八人程を貫いて止まる。手で持った小銃で少しでも槍を弾こうとしている兵士が見られたが、早過ぎて対応出来ていない。稀に出来る者もいるようだが、死ぬ人数が一人二人減って、死ぬ兵士が変わる程度で終わった。弾いた人間は、素直に貫かれるよりやや横に力が加わったせいか、身体が半分千切れてしまうことがある。
太鼓が打たれて槍が放たれるのが繰り返される。戦列歩兵の行進を断頭台への行進に例えた元軍人の詩人のような人物がロシエにいたが、これは相応しいのではないか? 戦場を同じくしているのに何やら他人事だが。
音というのは恐怖を煽る。太鼓の音が鳴ると死ぬ、そう学習してしまった以上はもう負けだ。
タスーブ皇太子が身の回りだけでも撤退準備をさせ始めた。そしてある一人の伝令には肩を叩いて気合を入れている。おそらくパシャンダ皇帝へ飛ばす伝令だ。内容は撤退の進言だろう。認めたがらない皇帝の怒り狂った姿が何となく想像出来る。英雄型の皇帝の激情は凄まじいはずだ。
流石にもう軍人ではないネフティ女史はここにいる必要はない。先んじて撤退させてもらう。ネフティ女史も、馬を連れて来ただけで察した。
去る前に振り返り、最後に本軍を見た時には日光で銀に光る円盤が飛んでいた。これで死んでも名誉は無かろう。
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