第54話「任地直進」 ツェンリー
宇宙開闢史にて、開地上帝は中原に至るまでをこう表している。
万里不毛 千夜不眠 百難不休 十族不和 一志不断
偉大なる先人の苦労が偲ばれる。
京を出てより丁度百日。日に日に道は悪くなり、人は減り、集落は寂れ、物資の入手には四苦八苦し始める。
向かうは西域の手前、日没する蛮地と接する場所。行く先も行く道も文明人の行く所ではないと聞いたが、確かにそれを日に日に実感する。
宇宙最高峰と名高いランテャン高原の方角へ進むせいか、道は上り坂の連続。潮どころか沃野も彼方の足の下。高地になるにつれて空気も文明も薄れていく。
今踏みしめる地面は杖先も削れていくような荒い砂利、道は不整地、路傍の石は大きく車輪も馬蹄も、人足すら拒む悪路。荷物持ちの騾馬が頑丈な子でなかったならば途中で諸々、荷物を放棄せねばならなくなるところだ。
自然の恵みは乏しく、若干の高山植物がある他、遠くに山羊や鳥が見える程度である。周囲に水は少なく、あっても遥か谷底に流れる川で汲むのは一苦労。泉があるところには大抵集落が出来ているので一休みには丁度良いが、大抵は貧しく物資に乏しく、貨幣経済が機能しておらず、物々交換にしか応じないという有様。このような土地だからこそ商業が発展して貨幣経済が浸透しているかと思ったが、この辺りは交易路から外れているので違う様子。
出発前に推奨されたのは、遊牧蛮族が幅を利かせている代わりに交易路として発展している北回り街道。そこはベイラン、カチャ等の名だたるオアシス都市があって駅も街道も整備されていて、通行料が発生する代わりに身辺の安全は保障され、旅をするには丁度良いのだが、目的地へ行くにはまわり回り道となる。
多少は茨であろうと近道と思い直進の街道――獣道同然だが――を選んだ結果が……何、目的地に早く到着するのであればそれで良い。楽をするために歩いているのではないのだ。
それに団体大荷物で通るのならばその北回り街道を通らねばならないだろうが、こちらは身一つ騾馬一頭に必要最低限の荷物である。これで良いのだ……とは言え、今日の食事は野草と道中作成した干し芋虫、そして残り僅かとなった小麦粉に水を加えて練った物である。粗食に耐えるなど造作もないことだ。
ただここは文明人の行く道ではなかろう。しかし開地上帝には及ばずとも、畏れ多くもそれに届かんと志を掲げればこの程度の苦難は何のことは無い。そして何より天勅である!
文官、武官、術官の三選挙にて首席数九つを取り、と五十年来の大九元挙人となった己に課せられた使命は大きなものである。あの時は、生まれ出でてまだ歳若きと言えど、今後一生感じることはないであろう最大級の畏敬と歓喜に、体が打ち震えた。
天子御前にて三跪九叩頭、それから伏拝していたのでその竜顔を拝することは適わなかったが、大九元挙人となった自分へのお褒めのお言葉を頂いた。そのお言葉、天に昇らずともその光に打たれたかのようであった。言葉一つ一つを思い返すも不敬かと思いつつも、この身を一生天政に捧げる覚悟を決めるに十分過ぎ、あまりにも巨大であった。
その後に丞相閣下より配属先を告げられた。場所はビジャン藩鎮、役職は節度使。節度使は名目上、爵位としては州候相当。天子を除けば三番目に偉く、統括地域は藩鎮であり、地方行政単位ならば道相当で州より格上である。加えて観察使と按察使到着までは両職を節度使が兼任することとする、とされた。
節度使には民政権、軍令権がある。軍政権は軍政院が持つものだが、藩鎮は辺境に設置される地方政権であり、中央から遠く離れているのが通常なので、委託という形で実質節度使が藩鎮において軍政権を持つ。
司法権は司法院が持ち、その権限を委託された按察使は中央から派遣され、節度使からは独立性を保つ。
観察使は丞相直下の役職であり、節度使と按察使の行動が天政の方針から外れていないか監視する。
この三つの役職を一時的にでも与えられたと言うことは、ビジャン藩鎮をほぼ完全に任せられた、独裁権限を与えられたに等しい。
大きな権限には大きな責任が付いて回る。これは喜ぶことではないのだ。覚悟を決めることなのだ。天政の威光、ビジャン藩鎮、その土地の民衆に責任を持たねばならない。
その重荷に負けぬため、双十元挙人でありダンチョン道公、民政院民政令も歴任した偉大な祖父の官服官帽を頂いて着て、幽地に入った祖父のお力を身に染みこませんとしている。型は大きいが……何、いずれ成長する!
■■■
前の集落と同じ、貨幣経済が浸透していない集落での食料補給に失敗。物々交換しようにも荷物は必要最低限なので手放す物も無く、また彼等にはこちらの持ち物の価値がいかほどの物か判別する目も無かった。
貧しいにもかかわらず食事に誘われたが、しかしあまりにも食べるに困っているようなので失礼にならないように遠慮した。それに京で生まれ育ち、ともすれば箱入り、世間知らずと言われても反論に苦心してしまうところだが、怪しいかどうかぐらいは直感が告げるし、状況は判断できる。
集落を離れ、ややしばらく。立ちふさがる不穏な輩が四名。
「何でしょうか?」
声をかけたがまともな返答は無い。
貧民に毛が生えた程度の賊と見て分かる賊であり、先ほど見た顔がある。武装は貧弱、農具と棍棒だ。その農具とて鉄器ですらない木製。あれではこの荒れた土地を開墾するに一苦労であろう。更にこの辺りにはその木でさえ疎ら。賊でもせねば食えぬのか? と先に同情の念が過ぎるが。
「本当にやんのかよ? まだガキだぞ」
「何言ってんだ、変な服着てるがぁ上玉だぜ。初めはお前にくれてやるよ」
「髪、やっぱりだ、見ろ。かなり長くて綺麗だぞ。そこらの娘っ子じゃねぇ」
「良いとこのお嬢さんか? 売れば高ぇぞ。手はつけんなよ、これでまともな飯が食える」
生来一度も切らずに伸ばした、胸の前に垂らした自慢の三つ編み髪に不躾な視線。首を振って背の方へ回す。上に立つ者として身形に気をつけるのは当然であるが、このように見せるために油をつけてまで手入れをしているのではない。
「かように寂れた地にて貧窮した民の必死の策であろうと、この天政の往来にて人攫いの蛮行とは不届き千万! 按察使も兼ねるこの節度使サウ・ツェンリーが手ずからあなた方を成敗します。覚悟なさい!」
「は?」
「おい、何て言った?」
「街の方の訛りじゃねぇか?」
言葉は通じるようだが、語彙が無いようで意味が通じていないようだ。
この状況では正当防衛にてこの四人を打ち倒しても何の問題も無い。それも節度使のような貴人に対する蛮行は死罪に相当する。それに加え、共謀も適応すればあの集落を丸ごと取り潰すのも妥当な判断。そして按察史にはその判断を下す権限がある。この地はコンユン道の管轄だが、近場に官憲もいないようなので代執行は可能である。
周囲の植物の動静の境界を変動、賊四名に指向するよう動を定義。草木が蔦のように急変化、成長して鞭のようにしなって四名に絡みつき拘束。
「あぁ!?」
「何だ!?」
伸びた蔦が賊を、衣服ごと皮膚に捻じ込む程食い込む。
「痛ぇ!」
「術だ、方術使いだ! やべぇぞ!」
辺境の田舎者でも方術は知っているようだ。
「そう方術です。方は幽地において万物現象に対する境界であり、境界を調整して尋常ならざる現象を出現させることにあります。それは人力にて抗うには余りに強大。あなた方は既にその術中、逃れる術は一つです」
「降参だ!」
親分格らしき賊が随分と素早く降伏を叫ぶが、その態度は降参に聞こえない。
「逃れる術とは私の慈悲にありますが、あなたの言う降参というのは闘争における決着方法の一つであって、これは闘争ではありません。刑罰です。よって降伏を受け入れるという選択肢は無いのです」
賊等の背後に回り、杖を素振りして感触を確認。
「未遂とは言え誘拐は重罪。加えて違法な人身売買に暴行も働こうとしたのは自明。ましてや貴人にそれを行おうとするなど言語道断です。生憎と刑罰用具の持ち合わせはありませんので、それに代する打擲を行います。しかし一人当たり、罪状により適当とされる三千の打擲はこの場、私一人では非現実的ですので、また状況に則した刑罰に変更させて頂きます。これは法的根拠のあることであります」
方術で杖に砂利を付加して強度を確保。次に近場の灌木を方術で怪力の腕に変化させ、その腕に杖を持たせる。
「方術の腕は百人力。これの一打擲を持って百打擲とし、四人それぞれに三十打擲を行います」
蔦に束縛されて振り返れない賊四名だが、腕になった灌木が動く度に不気味に絞って擦り出す音に慄いている様子。初めから悪行などに手を染めねばこうはならなかったものを。
「では執行します。歯を食い縛りなさい、とても痛いですよ。死刑ではなくても生き残る者が少ない刑罰です。意志を強く持てば助かるやもしれません」
「止めてくれ! 何でも……」
「ひとぉーつ!」
親分格の背に杖が振り下ろされた。右肩から袈裟に入り、拘束していた蔦ごと肉に骨を抉って内臓を散らかした。その異様な打撃音に残る賊三名は気が違ったように叫び出す。
猛烈に飛び散った血と生臭い臭気が……あ、来た。しかし貴人としてはこの程度で醜態を……!
「ぅ!?」
走る、賊三名の視界に入らない灌木の陰に入って吐き出す。すっきり?
いやまだ。嘘、赤黒桃白? ヤダヤダ! 喉に上がってくる。何あれ!? 気持ち悪い! 信じられない! 吐き出す。
こんな仕事は貴人がやることではない。処刑人が何故不可触民扱いされているかが良く分かる。吐き出す。もう胃液しかでない。酷い、人間ってああなってしまうんだ。
方術の極めて個人的な濫用は避けるべきだが、周囲の植物より水気を集約して手の平に集め、それで口を濯ぐ。こんな下らないことに使うために修行したのではないのに!
まさか百人力の腕での打擲が、一撃で絶命をもたらすとは想像の外であった。そもそも人に向かって使うのも初めてだ。お師匠様が無闇に使うものではないとの言葉、今身を持って知った。
装いを確認してから灌木の陰から出て、なるべく死体を見ないように、賊の地面を方術で硬軟の境界を調整して沼とする。死体が飲まれたであろう頃合を見計らって地面を元に戻し、ゆっくり状況を確認する。
残る賊は二名……二名? まさか逃げた!?
「あなた! もう一人はどうしましたか? 逃げたのですか?」
「ち、ち、ち違う! 地面に、地面に食われた! 勘弁してくれ! もう嫌だ!」
拘束していた蔦が二名分地面に飲まれていることが確認できた。
「そのようですね」
その言葉を信用しよう。この二人目はどうしようもない。わざわざ掘り出すのもおかしな話だが、法的根拠はどうだ? 生き埋めは代わりになる刑罰であろうか? 一撃にて絶命する打擲で刑を執行しているのだから、結果的に死に繋がる刑罰なら大よそ適応しても差し支えないはずだ。死刑に種類が複数有るのは、この天政は因果応報の理が働いているということを示すためである。盗人の腕は切り落とされ、姦通した者には性器に焼き鏝が、貴人を侮辱した者の舌は切り落とされる。今は死刑相当の刑罰を執行するという目的だけが正しい状況なので、問題ない。正当防衛に置き換えて殺害するという行為に及んだと解釈するならば更に問題はない。
「では次、あなたです。歯を……せめて遺された血縁者達の幸福を祈っていなさい」
目を閉じて耳を塞いで、三人目。
「ひとぉーつ!」
百人力の腕を振るわせる。耳を手でふさいでも聞こえる異様な打撃音に悲鳴。
「ふたぁーつ!」
また気持ち悪い音。悲鳴が消えた。血生臭さが鼻につく。早くここを去りたい。
薄目で確認……三人目は人の形をしていないような気がするけどまともに見れないから分からない。
最後に四人目。悲鳴は上げていないが、唇を震わせて荒く呼吸しているのは聞こえる。
ええい、早く執行しよう。百人力の腕を素早く三十回振らせる。空気を切り裂く音だけでも痛い。ああ、そう言えば杖が汚れてしまった。幽地的にも不潔になってしまっている。どこかで杖を新調しないと。
薄目で確認……四人目は? あれ、人の形をしている? 目を開ける……あ、三人目の死体……目を閉じて、百人力の腕で四人目を掴み、蔦を引き千切って三人目から離して置く。もう見るのは嫌!
「うぅ……刑罰の執行は終了しました」
四人目は百人力の腕での空振り三十回で勿論死なず、声も上げずに涙と鼻水と涎を垂らしている。あとズボンが変色しているようなので失禁もしているか。
刑の執行に生き残ったので四人目を解放しないといけない。罪人を無傷で解放することに疑問を覚えたが、しかしこれは天命かとふと思った。
「あなた、名乗りなさい」
「え? 俺ですか?」
「あなたしかいません」
「ショウ・フンエです」
「ショウさんですね。年齢も教えてください」
「十四……今日で十五歳です」
一つ年下? 僻地の人間は過酷な環境のせいで早くも老いてしまうとは聞くが、ショウは三十歳手前ぐらいに見える。
「あなたは必死の刑罰を無傷で耐え切りました。これはもしや天命なのかもしれません。あなた、あの峠、あの山を越えた向こうを知っていますか?」
行く道の遥か先にある山々の峰を指す。あの先からはハイロウ地方である。天政下に入ったのも比較的最近で、あまり文明化されていないと予想できる。
「少し前までは、あの、荷物持ちで行ってました」
「では道案内の仕事で役に立てますか?」
「道案内?」
ショウの滅茶苦茶になった泣き顔が少し晴れる。
「出来ます! 出来ます、やらせて下さいお願いします!」
ショウが土下座して額を地面に擦りつける。
案内役が必要なのではないが、更正の一環として労働をさせるのだ。按察使は司法を担当するが、節度使は民政と軍令を担当する。民政においては人々を救済するのが至上目的であり、救済した上で組織的に徴税してそれを元手に人々の生活を保障するのである。ショウは救済されなくてはならない。
「あなたは罪を犯しましたね?」
「はい……はい! 死に値する大罪です!」
「今までも犯してきましたか?」
「はい! 貧しさは言い訳になりません。してきました!」
「では犯した分を償いなさい。あなたが人々を苦しめてきた分、労役にて救いなさい」
「はい! 精一杯頑張ります!」
「よろしい、ではついてきなさい」
方術で灌木から新しい杖を作成し、それを第三の足として進む。ショウも汚い格好のままついてきた。
一度どこか水源があれば立ち寄らせようか? 否、ビジャン藩鎮の人々が待っている。偶然そのような休憩場所があったら洗わせる程度に考えておこう。
■■■
山賊に襲撃されてより三日。
「節度使様ぁ……いつまで歩くんですかぁ?」
「ショウさん、情けない声を出すんじゃありません。ビジャン藩鎮の威容を損ないます。背筋を伸ばして口を閉じてください。歩き方もまるでご老人です、力を入れてください」
「二日も寝ていないんですよ!」
「達せねばならぬ使命があるのならば二日三日の不眠など障害になりえません。かの公武上帝は騎馬蛮族の奇襲に遭うも、仲間を助けるために囮になって十日も休まず走り通し、反撃の機会を得て敵を撃滅しました。その事を思えば何のことがありましょうか? 私は瞬き一つする時間すら惜しいのです。ビジャン藩鎮とその地の人々の将来がかかっているのです。耐えなさい。睡眠など直進路があったらそこで歩きながら眠ればいいのです。それに休憩は適宜取っているではありませんか」
「食事休憩が日に三度だけじゃありませんか! 人間にこれ以上は出来ませんよ」
「口答えする元気があるなら出来ます。そろそろハイロウ地方、ビジャン藩鎮が統治する中心地方に入ります。気合を入れてください」
「騾馬だってもちませんよ」
「旅の邪魔になるならば食料にするしかありませんが、あなたのように弱音は吐いていませんよ」
ショウの泣き言を聞きながら峠を越えた。これより任地である。今だに周囲は山だらけだが、やっと下り坂になる。
ハイロウ地方はランテャン高原の先にあるハイロウ盆地を中心にする地方である。この下り坂を降り切った先の広大な平野部に入り、そして藩鎮府であるダガンドゥ市を目指す。
「ショウさんはダガンドゥ市に入ったことはありますか?」
「あー……あ? はい、あると思います」
先ほどの口答えからというもの、ショウは呆けた顔をしている。
「はっきり返事をしてください」
「はい! あります」
「では案内を引き続きお願いします」
ハイロウ初の村に立ち寄る。今までの貧しい集落よりは多少豊かなところだ。湯気の立つ食事を売る露店が見えるだけでも大分文明を感じるが……ただ”共通語”が通じない。
文明圏である天政の”共通語”は天政官語などとも呼ばれる。元は官公庁役人の共通語で、次第に軍での共通語としても使われ、そこから広まって商人にも広まる。そして民間人にも広まったのも数百年前からの、この正当天政始まって以来の話。かつて度量衡を統一した前王朝があり、そして言語を統一したのは現天政である。偉大なる先人の苦労が偲ばれる。
ならばと赴任前に勉強をしたハイロウ語を試しても通じない。ショウが言うにこのあたりはバテイン語しか通じないらしい。ハイロウ語が分かるような者は稼ぎの良い他所に働きに行ってほとんど帰って来ないとも。
バテイン語とは博学を自負しながらも知らぬ言語だ。看板などの文字はハイロウ文字が使われているのだが、ハイロウ語と思って読んでも全く意味不明である。
そのショウは、母がこちらの出身なのでバテイン語を母語のように話せるので、彼に通訳をさせて食事にありつく。野菜くずの入ったお粥で、岩塩が多めに入っていて、何より湯気が立つほど温かい。腹が温まる感覚は久々だ。
ショウが寝ぼけながらの通訳だったのあやふやだが、野犬の話を聞いた。畑か家畜でも荒らされたようだが、少々喋り口調が大袈裟だ。久々の旅人に浮かれているのだろう。
旅の食料を買って騾馬に積み、次の食事用に蒸かした饅頭を買い、さて出発しようと思ったが、ショウが寝込んでしまった。杖で突いて目を覚まさせてもすぐに寝てしまう。
「全く、あなたの更正への道は遠いですね。大陸の西端まで歩かせてもどうでしょうかね」
仕方がないのでショウを騾馬に載せて出発。
■■■
平野部を目指しての緩やかな下り坂が続く。多少は人が踏み均した道なのでハイロウ地方に入る前よりは足への負担が軽い。
起こしても引っ叩いてもまだ寝ているショウは放っておき、食事休憩に入る。勿論彼の分もあるのだが、冷めるのは仕方ないとしても、蒸かした饅頭だから乾いて硬くなって不味くなってしまうのが気懸かり。どうせならば美味しく食べるべきである。
比較的平らな大岩の上に腰掛け、冷えてしまったがまだ柔らかい饅頭を一口。中は刻んだ野菜と山羊肉である。
蒼く高い空を見上げる。ビジャン藩鎮の全容を調査するのはダガンドゥ市についてからだが、その前に決めてあることがある。せめて全ての人々がこの位の食事は取れるようにしないといけないのだ。満腹ならずとも、せめて次の一歩が踏み出せるくらいの食べ物が手に入るように。
足音はしなかった。目線を地表に戻せば、目の前にはとても大きな、騾馬と同じくらいの大きさの犬がいた。毛は灰色に長く寒冷地に適しているように見える。この辺りは標高が高く、季節によっては外出も困難なほど寒くなるはずだ。環境に適応した生物なのだろうと感心する。
先の村で聞いた野犬かと思ったが、この犬は野犬という表現で済む生物であろうか?
犬が、手に持つ食べかけの饅頭に鼻を寄せる。近くで見れば頭は大きく、一口で上半身くらいは齧り取られてしまいそうだ。
「これは私のお饅頭です」
しかし犬に恵んでやる義理は無く、これは我が血肉にしていち早くダガンドゥに向かうための活力源なのである。もう一口饅頭を食べる。
ただこの犬が巨体を維持するのにどれだけの食べ物が必要なのだろうかふと思えば、人に飼われず独力で生きるに相当辛かろうと考えてしまう。貧しいのは人ばかりではないのではないか?
「半分だけあげます」
例え犬とて食べかけを渡すのは失礼である。もう一つの自分の饅頭を半分に割り、犬の口に近づける。巨体に合ったようなのっそりとした動作で半分の饅頭は一口に消えた。もう一口饅頭を食べる。
「例え犬とて分別ある生物の矜持を持って物乞いのような真似はするべきではありません。これを最後に労働を持って対価を得て、それで食べていきなさい」
饅頭を食べ終え、水筒の水をゆっくり飲み、騾馬の顔を軽く撫でて出発の合図をしてから前進する。
■■■
「ウギャァ!」
道中、突然にショウが大声を上げて騾馬から落ちた。
「イギャ!」
落下の痛みに苦しんでまた大声を上げた。
騾馬は何事も無かったようについてくる。あの犬は足掻くショウを咥えてついてくる。短い間に旅費が二口分増えたということか。
「化け物! 化け物! 助けて助けてぇ! 食われるぅ!」
これから何百万の口をどうにかしようと言うのだ。二口ごとき何のことがあろうか。
「助けて! あー! ぎゃー! わー!」
「黙らっしゃい!」
「はい! え?」
ショウの頭を杖で叩いて黙らせる。
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