第1部:第3章『ジャーヴァル三国志』

第52話「異郷の海」 第3章開始

 船酔いには慣れた。初めの頃は海の悪魔が呪いをかけてきているのだと思いたくなるほどであった。未だに暴風、高波の時は辛いが、寝転がって唸っているだけの醜態は晒さないようになった。

 酔った時は食べ易いようにとドロドロに溶けた麦粥を特別に貰ったが、調理用の石炭の浪費になっていると水夫達が話しているのを立ち聞きしてからは断っている。そんなことはないと言ってくれる者もいるが……。

 水夫でも海兵でもないので航路は仕事が無く、暇だ。

 身体が鈍らないよう体操をしようにも、あらゆる物資が貴重である海上では汗に濡れた服の洗濯程度にも気を使う。水夫達のように海水で洗ってみたが、やはり彼等と違って”陸者"なのだろうか、落ち着かない。

 鼻はもう慣れた。船というのは不潔な棺桶で、ご婦人方ならば卒倒するような臭いがする。皆が”陸者”より遥かに多くの努力を清潔に傾けていてもである。

 目的地に近づいている証拠に気温に湿度も高くなっている。日差しは目に見えて強く、雨は故郷では一年に一度降るかどうかという規模のものが定期的に降る。船全体が悪く湿っていて、乾かない時は何日も濡れそぼったまま。

 そのような状況だから疫病が流行ればあっと言う間である。自分が乗っている船ではまだそのようなことは起きていないが、疫病の蔓延ということでこの艦隊から脱落した船が二隻もある。湿地帯では疫病が流行りやすい。地下牢獄では強靭な者でもあらゆる理由で長く命が持たない。その双方の特色を併せ持つ船ならば?

 故郷では味わったことのないほどの湿気には、人のみならず金属までもが痛めつけられる。武具が錆び易く、整備が欠かせない。怠けると先祖伝来の剣が錆びクズになってしまう。油は定期的に隈なく塗る。兜にも、銃弾にも対応するという胸甲にも。頑丈さと腐り難さは釣り合わないのか。

 兜と胸甲には漆を塗ると良いと、顔が平たい東大洋出身の水夫が言っていた。目的地にそれはあるのだろうか?

 航海長に故郷の方角を教えてもらってから――島嶼間を航行中で慎重な操舵をしていた最中だったことを後になって気付いたので謝罪――そちらの青空へ視線を飛ばす。

 軍の元上官は言った。

”これは栄転だ。道程も勤務も厳しいものになるが、それ相応の見返りがある。国内では軍にいても仲間同士で足の引っ張り合いをするか、不倫相手探しに忙しいご夫人方の舞踏会に出るぐらいしか仕事が無い。歌劇でも楽しむか? 戦場を知った君には退屈だろう。サロン通いして人脈作りでもするか? 君にはまず無理だな。だから君、男なら冒険をするものだ。この冒険は誰にも出来るものでは無いし、選ばれるものでもない。より大きな男になって、この隊に復帰してくれれば良いと願っている。勿論、ここ以上の所から誘いがあったらそちらを選べ”

 当主である兄は言った。

”家の名を汚すと、先祖達の栄光の歴史に泥を塗って全てを無に帰し、彼等が積み上げてきた幾層もの膨大な名誉を全て粉砕してしまう。そしてこれから栄えていく無数の子々孫々の未来を惨めなものに変えていく。我等が家系のみならず、縁戚、そして関わる者達全てに不名誉という完治不能な悪疫が広まる。貴族として生まれたのならばその身その命は己がものではない。名誉は己の命より遥かに重いのだ。不名誉に甘んじるくらいなら死を選べ。そして名誉は簡単に得られるものではない、命を懸けろ。お前が名誉を得て帰って来ると確信はしているが、常に己を命を捨てることを忘れてはいけない”

 婚約者は言った。

”一先ずの、そして少し長いお別れになりましたね。こうなると出会った頃を思い出してしまいます。貴方は凱旋行進で胸を張り、堂々と槍を掲げておいででした。そして神様の悪戯か祝福か、わたくしの帽子が風に飛ばされ、貴方の槍先に引っかかりました。隊列を離れるわけにはいかない貴方はそのまま去ってしまいましたが、その日の内に貴方は軍装もそのままに、額に汗をかきながらわたくしのところへ帽子を返しに来てくれましたね。わたくし、あの時はつっけんどんに対応してお礼も言わなかったのはですね、実は照れていたのです。あんなに立派な貴公子を前にするのは初めてでした。気付かない内に一目惚れをしていたのです。それから貴方がわたくしに何か無礼を働いたのではないかと思って何度も謝罪に来てくれました。謝罪を何度もさせてしまってごめんなさい、貴方に会うためにわたくしはワザと怒っているフリを繰り返していたのです。気付いていましたか? そんな貴方に対する想いが愛に変わるのもあっという間のこと。両家の関係が歴史的にも良好だと、以前はあまり好きではなかった歴史の勉強もして頑張って調べ、お父様に貴方と結婚できないかとお願い――おねだりですね――をし、そして間もなくその通りになりました。そう、流れ星が現れて、すぐに消えて、その間に願ったことが本当に叶ってしまったかのようでした。此度の遠征もその流れ星のようにならないかと思っております。名誉とその健康なお身体を持って帰還されることを祈っております。そうしたら、あっという間に帰ってきますものね”

「おや、顔がニヤけてますよ」

「これは提督閣下! これは……」

 艦隊全体を指揮する、今この海上で一番偉い人に声をかけられてしまった。

「よっと」

 その提督の首がズレた? その初老の顔は柔和に微笑んだままで、冗談のようだ。そして冗談のように頭がゴロっと落ちて、顔に猛烈な、人の熱さを持った血飛沫が掛かって目が潰される。突然のことに腰が引ける。何が起きた!?

「おっと悪ぃな。お話し中だったか」

 この船上では聞き覚えの無い声。どうなっている? 服の袖で必死に目についた血を擦り取る。

「襲撃だ!」

 船楼の鐘が派手にガンガンと鳴らされる。

「海兵隊、侵入者だ!」

 轟く複数の銃声、反射的に伏せる。まだ状況が分からない。

「下手糞っ!」

「逃げたぞ!?」

「包囲されてる!? 提督は……? 代行で指揮を取る。信号旗揚げ、単縦陣維持、包囲突破!」

 今の艦長の声か? 巨大に轟く砲声が続いて響く。

 ようやく血を拭い去った。そして何時の間にか、島陰からでも出てきたのか敵船に包囲されている。我々が乗る旗艦の、三層甲板の戦列艦に比べれば小さい船ばかりだが、数が多く、船以外にも島から砲撃されている。

 艦隊は提督を代行した艦長の指揮通りに縦一列の単縦陣維持しつつ、敵船に大砲で応射しながら真っ直ぐに、帆を大きく広げ、風に硝煙を孕んで突き進む。

 大砲の砲声とは違う大きな音。何だ?

「先頭エシュフラン号、暗礁に突っ込みました!」

「何!? 信号旗揚げ、暗礁注意、艦隊各艦独自判断!」

 鈍く風を切る音、この船の帆柱に鎖に繋がれた二つの砲弾が直撃するのが目に見えた。それからその帆柱が半ば折れ、傾き、風を孕んだ帆に引っ張られて圧し折れる。艦長が指示した信号旗が途中まで上がり、帆柱の倒壊に巻き込まれて落ちる。水夫や船の部品に無数の縄が落ちてきて、甲板上にいた水夫、海兵、士官にぶつかり、血を飛ばして骨を砕く、弾き飛ばして海に落とす。それから敵の砲撃が集中し、この船から血と木片が一斉に吹き上がって悲鳴も上がる。

 旗艦が、三層甲板の巨大な戦列艦が帆柱倒壊の勢いで傾く。そして大砲とは違う大きな音と同時に船体に衝撃。

「座礁だ! 沈むぞぉ!」

 この混乱状態で冷静な誰かが叫んだ。

 老いた水夫が死んだり混乱している士官等の代わりに「飛び込め! 海に飛び込め!」と叫び、その水夫に腕を引かれ、考える間も無く傾きつつある甲板から投げ出されるように飛び下りた。

 着水、海の中に突っ込む。思ったより静かで、薄ら寒い。服が重い、息が出来ない!? 必死に足掻く。服を脱ぐ、張り付いて脱げない? 死ぬ……溺死か! 首が閉まる、やはり死ぬ?

 突然視界が明るくなる。解放感? 息が出来る、水上だ! あの老いた水夫が首根っこを掴んで引き上げてくれたのだ。水夫は海に浮く大きめの木の板に掴まっており、自分を引っ張り揚げることが出来たのだ。

「助かった、感謝する!」

 木の板に掴まりながら礼を言うと、老いた水夫はうっすら笑って脱力していった。彼の首には木片が刺さっており、おびただしい血が流れていた。

「……感謝する」

 海中に没しようとする老いた水夫を落ちないように抱きかかえる。

 今まで乗っていた船が、巨大な戦列艦がボロボロになって傾いていく。その砕けた破片がそこら中、海面に散らばっている。沈む時には周辺の物を吸い込んで沈んでいった。海に逃がれた者達の一部も巻き込み、悲鳴や無意味な命乞いも吸い込んでいった。

 艦隊の他の船は包囲を突破したり、撃沈されたり、敵船に横付けをされて拿捕されたりと散々だ。そんな光景を眺めている内に辺りは静かになり、敵船の影は消え、暗くなってくる。

 島に避難は出来そうにない。原住民が上陸した連中を槍で殺して連れ去ったのだ。噂の人食い族か。


■■■


 暗闇の海上では酷く孤独を感じる。気温が高いおかげで凍え死ぬことは無い気はするが、ずっと海に浸かっていると寒くなってくる。

 誰かが「鮫だ!」と叫んだ。これでしばらく辺りが騒がしくなったが、嘘だったのか、食われたのか、また静かになった。それから「イルカだクソッタレ!」と声が聞こえて、何人かが力弱く笑った。

 老いた水夫を抱える体力も失せてきた。改めて礼を言って、目蓋を手で閉じてやって海へ放す。

 国から連れてきた愛馬が船に乗せたまま……溺死したことに今更ながら気付いた。初めて父に貰った馬の子供だったのだ。

 故郷が酷く遠い。船で物思いに耽っていた時はまだ近いように思えたものだが。ここはやはり異郷だ。今はもう戦って死ぬどころか、土の上で死ぬことすら贅沢になっている。

 ボヤっとした灯りが見えてくる。波を掻き分ける音も。あの世へ死者を運ぶ船が迎えに来たのかと思ったが。

「生き残りはいるか! 救助に来たぞ! 声を上げろ!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る