第四十話 謀略(四)

「ウェスペル、起きてるか?」

 扉の向こうに聞こえるシードゥスの声は、出会ってから彼がいつも感じさせたのと同じで、落ち着いていて優しい。城の中で声を掛けられたら、いつも知らず知らず胸がとくとくと打って、それでいてほっとする声だった。なのに今は、それが自分の名前を呼ぶのを聞きたくない。

 黙りこくって身じろぎしないでいると、ひと呼吸おいてまた声がする。

「寝てるか、ウェスペル……入るよ」

 錠が外れ、扉が外に開かれた。

「って……」

 シードゥスの姿が扉の間に現れるや否や、破裂音が壁に跳ね返る。ウェスペルの体は瞬発的に動いていた。取手に手をかけたままの姿勢でシードゥスは思い切り頬に平手打ちを喰らってよろけ、頭が開きかけの扉の縁にぶつかった。頭頂部と顔面に走る痛みのあまり、両手で頭を覆って間口にしゃがみ込み、痛ぇ、と呻く。しかしウェスペルの方はそんなことになど構っていられない。

「殴ってやりたいと思ったんだから仕方ないじゃない!」

「だからってこっちからは見えないところに不意打ちかよ」

「何よこっちが」

 どんな思いで、と言ったつもりだったのだが、後の方は嗚咽が混じって言葉になってくれなかった。思い切り罵倒してやりたいのにしゃくりあげる声が止まらない。ひとりで部屋にいたさっきよりも大粒の涙がぼたぼたと目から溢れ出すが、自制が効かない。

「……それはこっちの台詞だよ……」

「なっ……」

 どんな反応が返ってきたって構うもんかと思ったが、シードゥスの一言は心外もいいところだ。反射的に拳を作る手指にぐっと力が加わる。

「何言うのよ、みんな騙して、アウロラに嘘ついてアウロラ一人で出かけさせて」

「余計なことしやがってもう少しだったところでお前が」

「何よ全部思い通りじゃないの! 私も騙して連れ出してこんなとこ閉じ込めて」

「だからお前が予想外の行動を」

「私は単にいい駒だったって言うの? 都合良かっただけで、私はいつも顔見たら、あんっ、安心したの……思っ……たら、こん……こっ怖かっ……」

 勢いを増して溢れてくる涙で滲んだ視界の向こうに、シードゥスが目を歪ませるのが見えた。その次の瞬間、ウェスペルの目の前が暗くなる。

「……ごめん」

 頭のすぐ上に温かい吐息を感じた。ぎゅうと自分を包む腕に力がこもる。抱きすくめられた驚きが刹那、ウェスペルの呼吸を奪った。頭の上に落ちた声色があまりにも哀しくて辛そうで、喉がまた詰まる。

 何にここまで気持ちが抑えられないのかももう分からない。ただ触れているシードゥスの温もりに体の緊張が不思議と緩んで、伝わってくる鼓動を肌に感じながら、とめどなく涙が流れるのに任せた。




「ウェスペルを、逃がそうと思ったんだ」

 嗚咽がすんすんと小さく鼻を啜る音に変わり、涙も全て出きったと思う頃、シードゥスは静かに話し出した。

「ウェスペルの存在は城でも皆が知るわけじゃない。知れれば外へ漏れるのも時間の問題だ。こっちの計画が始まってしまえばもう遅い。少なくとも、城の中が騒ぎになる前なら逃がせると思った……シューザリエ上流の流れなんて人間ひとが見に行ったってどうなるものでもない。それはどうでも良かった」

 その調子は自分自身に語るようで、囁きに近い。

「社に行くのは……口実?」

 シードゥスが頷いたらしく、彼の首筋に触れていたウェスペルの前髪が軽く額を撫でる。

「口実だよ。あと少しでうまくいくところだったんだ」

 何でこの人は、こんなに後悔した声なんだろう。

「そもそもウェスペルが来たのが計算外だった」

「何よ……それっ」

 あまりの言い分にウェスペルは体を引こうと身を捩った。だがシードゥスはウェスペルの腕を強く掴んだまま、乱暴に吐き出す。

「アウロラ様を逃がせばこっちのものだったんだっ」

「え……?」

 ウェスペルを抱く力がきつくなり、それからそっと緩んで、大きな手がそっと肩を包む。

「ウェスペルが察してる通りだ。はテハイザから命を受けて来た。城で動向を見つつ機を狙い、密書を飛ばして侵略を準備しろ、それが上の指示だ。親なしと言えば城に入るのは簡単だったさ。人の良い王族は辺境の私生児を放っておけずに、自国がそんな子供を出すのを恥じまでして、俺を城の奉公人に雇ったよ。シレアは領土で言えば小国だけど懐の広い国だ……テハイザに戻る気も……失せるくらい」

 身の上話をしているはずなのに、感情の薄い口ぶりはどこか他人の話を語るようだ。

「王妃様も亡くなった。兄王子殿下も御不在でアウロラ様お一人だ。狙うなら今だ。今だからこそ……」

 ひと呼吸置いてシードゥスは顔を上げた。濃紺の双眸が鋭くなる。

「アウロラ様は城から出して、暴動には巻き込ませない」

 思いつくところがある。

「アウロラが東塔へ出かけたのは……」

「俺が勧めた。いくら男まさりの王女でも、うちの精鋭は女に敵う相手じゃない。ただ姫さまだったら一人で行かせてもこの国の土地のことはよく知ってる」

 シードゥスの声がさらに低くなる。

「アウロラ様だけ逃がしたらあとは城で俺が立ち回れば良かった。それくらい出来る算段もテハイザにいる間につけてきたし、あとは奴らが動く機を待てば――でもウェスペルを逃がすには……」

 そこまで聞けば、ウェスペルが理解するには十分だった。怒りももう消え去り、いま胸の内に新たに生まれた不安はむしろ、東塔だ。

「アウロラは」

「まだ奴らは東塔には行かないだろ。ウェスペルが別人とばれなけれ……」

 シードゥスの言葉が途切れる。今度はウェスペルの耳にも聞こえた。石造りの塔の冷たい壁に物音はよく響く。

 荒々しい足音が階段を近づいてくる音――それと合わせて大きくなるのは金属、恐らく武具。

 抱いていた腕を緩めてシードゥスは階段の方へ振り返った。ウェスペルの鼓動が瞬く間に速くなる。下から上がってくる音は反響して空間を埋め、不穏な響きに体全体が包み込まれて耳を塞ごうにも腕が動かない。

 硬直したウェスペルの手を、シードゥスが強く握った。

 それとほぼ同時か。足音が間近で止まり、怒号と共に巨漢が扉を塞ぐ。

「どういうことだシードゥス、それがアウロラ王女でないとは⁉︎」

 天井と壁に殺気を帯びた声が木霊こだまし、剣呑な視線がシードゥスとウェスペルを睨む。右手には抜き身のはがね。相手は殺しも躊躇ためらわない。それを表情に読み取ったウェスペルは、シードゥスの袖をぎゅ、と握って彼を見上げた。

 切れ長の目は真っ直ぐに男を見据え、端正な横顔に不敵な笑みが浮かんでいた。

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