第三十九話 謀略(三)

 地鳴りと揺れでウェスペルは一度目を覚ました。床から体を離せないほど激しい衝撃に臓腑が口から出そうだ。瞳を閉じると震動音がやけに大きく聞こえる。耳を塞ごうにも手がうまく動かず、ただひたすらに耐えた。

 しばらくすると揺れは止まったが、先ほど嗅がされた薬品らしきもののせいか頭はぼうっとし、四肢もだるい。そのうえ全身を大きく揺さぶられたため、瞼を開くと途端にひどい眩暈がし、またも意識が遠のいた。




 再びぼんやりと視力が戻ると、ウェスペルは色付いた樹木に囲まれているのに気がついた。眼を落としてみれば、黄金こがね色の葉の間に一人の少女が走っているのが見える。自分と同じ背格好の少女だ。

 ――あれは、アウロラ?

 少女はどこかへ向かっていて、何かを目指している。その顔はウェスペルには見えないが、不思議と息遣いきづかいが聞こえ、頭の中に声が響いた。

 ――行かなきゃ、早く、急いで……

 あたりは暗く闇に包まれ、天と地の境も分からない。それでも木々の葉の強い色が灯火のように光り輝き、少女の姿とその足元を照らし出す。

 ――向きを変えてはいけない……! 流れを元に……

 時間のことだろうか。異変が起きた水脈のことだろうか。

 ――全てを混沌からもう一度……新しい光の生まれ出づる時に……

 少女の意識が叫んだ瞬間、ウェスペルの視界が真っ白になった。




 次に気がついたとき、どのくらいの時間が経っていたのか分からなかった。瞼を上げて目に入ったのは剥き出しの石の床であり、視線の先に扉が見えた。薬はもうあらかた効果が切れたのだろう。頭の方は比較的明瞭である。

 半身を起こしてぐるりと見回せば、白い石壁が四方を丸く取り囲んでいる。ひどいひび割れや汚れも見えず、床の清潔さも牢には似つかわしくない。居室とまではいかないながら、城の物置ほど埃っぽくもなかった。もっとも、いまいる部屋は物置と正反対のがらんどうだが。

 壁の片面にある扉は閉まっている。ただ、その向こうに気配がする。すると案の定、無音を破り扉の外でかたりと何かが動いた。

 ――人がいる。

「誰かいるの? 開けて!」

 ウェスペルは扉へ駆け寄り思い切り拳で叩いた。すると反対側から冷ややかな返事がある。

「姫様にはじっとしていていただこうか」 

 情のかけらも無い声色を聞いた途端、扉の向こうにいるのが先ほど自分とシードゥスを囲んだ武装集団の一人だと悟る。唾を飲み込み、唇を噛んで震えを殺す。息を一つ深く吐き、出来る限り口調を厳しくして問う。

「ここは、どこなの」

「姫様だというのに分からんかね。西塔だ。城に戻ってもいまは無駄だろう。身を守りたいなら口を閉じるんだな」

 牢に入れられていないだけましだと思え、と男は吐き捨てる――冗談ではない。ウェスペルは食い下がった。

「お城の人たちは無事なんでしょうね? 手出ししたら承知しないから」

 アウロラは城まで戻ってきたのだろうか。いま一体、城はどんな状況なのか。それに、それに何よりも。

「シードゥス、は……?」

「腹黒の裏切り者が憎いか姫様よ、それともなにか? お年頃のお嬢さんは、まさかあの外面そとづらだけはいい優男にたぶらかされたか?」

 下卑た笑いに、ウェスペルの体全体に熱が走った。

「……下衆野郎」

「そこまで王女の気をひけるとはあいつもうまくやったもんだな。褒美もんだ」

 嘲りの露わな笑声に激しい嫌悪を感じ、ウェスペルはあらん限りの力で扉を蹴った。どぉん、と物のない空間に反響が木霊したが、扉はウェスペルを跳ね返し、足の裏から胴にびりびりと衝撃が走るだけである。

 あまりの痛みに足を抱えてうずくまると、俯いた目から生暖かい雫が頬をつたった。

 騙されていたのか、シードゥスに。

 頭に浮かんだ考えから目を背けたい。しかし男の言う事を信じれば、そういうことになる。シレアのかつての友好国でありながら、いまは国を狙う南の大国、テハイザ。海洋業や貿易を主要産業とする船乗りの国。アウロラの推測では、漁業の安定から考えると今すぐに戦乱に陥る危険性は低いとのことだったが、現実は甘くなかったということか。そうならば、外遊に赴いている兄王子は? テハイザも訪問国に含まれているはずでは。それなら王子の身も危険だ。

 膝をついた床が冷たい。もう日が落ち、盛秋の宵は石造りの間をすっかり冷やしてしまった。

 ――シードゥスが、間諜。

 彼がどれほどシューザリーンで下働きをしていたのかは知らないけれど、城や城下の人との親しみ具合からそこまで短い歳月ではないだろう。テハイザはそんなに長く、じわじわと手を進めていたということか。そんなに長いこと、シードゥスは皆を欺き続けていた……?

 頬から落ちた雫が床にしみを作る。抑えようもなく嗚咽が込み上げる。舌を思い切り噛んだ。泣いてどうする。泣いたところで何も起きないのに。

 馬鹿みたいだ。なんでこんなに、惹かれてしまったんだろう。

 思い返せば、シードゥスは海を知っているような言い方をしていた。耳飾りを見たときの自分の質問に答えなかったのは、口を滑らせたと思ったのか。それに彼の身ごなしは常人にしては優れて軽かった。現れる時には足音も聞こえなかったし、山道も難なく、息も切らさずにかなりの速度で進んでいたじゃないか。城に入る時だって、なぜ城に仕える下男が忍び入る方法を知っている必要があるだろう。

 城の中へ走り込んだ時の感覚が全身に甦る。自分を軽々と抱き上げたその体躯。部屋に駆け込んだとき、衝撃から庇って自分の体をしっかりと抱き締めた腕。

 華奢な見た目のくせに、がっしりしていた。

 どきどきと胸を打つものはそれまで知らなかったほど速くて強くて、体中が熱くなって、いまだってすぐにでも肌に感じるくらい憶えているのに?

 ――間諜として、鍛えてた……?

 ウェスペルは自分のいまの気持ちが何なのか分からなかった。それなのにそのわけのわからないものは止まらなくて、胸の中で渦を巻いて込み上げて、喉元まで来る。声なんて出すもんかと口を引き結べば、代わりに視界が滲む。

 自分の肩をどんなに自分の腕で抱いても、シードゥスが触れたあの感触が体から消えてくれない。足の痛みはとうに収まったくせに、起き上がることもできない。

 あの温かな瞳は、さりげなく見せる優しさは、嘘だったというのか。

 知らずのうちに嗚咽すらなくなり、無音の空気に鼓膜が圧迫されるようだ。しかしいくらも経たずして、その空気に揺れが生じた。耳を澄ますと、階段を誰かが上がってくる小さな足音が聞こえる。すると、扉の向こうで男が動く気配を感じた。

「おう、どうした」

「見張りの交代。夜番、任された」

 男の低い声に応えたのは、少し高めの若い声。

「向こうは」

「まだ始まってないけど、そろそろだろ」

 じゃあ任せたぜ、と男の足音が遠のいていき、階下で扉が開閉する音がした。

 その残響が完全に消え、静寂が戻る。

 再び数十秒ほど守られた沈黙を、扉の向こうの吐息が破った。

「ウェスペル」

 シードゥスだった。

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