第三十八話 謀略(二)

 アウロラは途方に暮れていた。

 塔を登って聖櫃まで辿り着いたはいいのだが、目の前にある重い木箱はしっかりと閉じられたままである。開かないのだ。

 鍵穴などは見つからず、ただ蓋がひつに被さっているのみだ。蓋と本体の境を示す一本の白い線が木の間に見えるものの、かっちり合わさって枯葉一枚差し込める隙間もない。

 ごてごてとした装飾はなく、簡素で木目がそのまま剥き出しの箱。とはいえ質は最上の品だ。木版同士の繋ぎ目の部分で年輪が針一つ分もたがわずに合い、表面は絹かと思うくらいなめらかに磨き上げられている。

 その手触りはうっとりするほど心地よいのだが。

「くそう、何てことかしら。とんだ曲者がいたものだわ」

 アウロラは腕を組んで座り、目の前のを睨みつける。つい市井しせいの若者の話し言葉になってしまう。

 窓から入る陽射しはそろそろ日没が近いと知らせている。頭ばかり焦っても仕方ないとは思うのだが、手を動かそうにも手立てがない。アウロラが持って来たのは祭器を磨く布と必要最小限の針道具、小刀、多少の傷薬に水と干し葡萄くらいである。

 神器に対して無礼と遠慮を感じながらも、小刀、針、そして糸を聖櫃の蓋の間に入れてみようとしたが、頑として動かず、試みはことごとく無駄に終わった。

「お兄様に聞いておけば良かった……」

 いて今日来たのがそもそもの間違いだったか。一周忌で時間が奪われるとはいえ、豊穣祭まではまだ日があるのだから兄を待つべきだったのか。時計台の狂いや地下水のせいで、不安に煽られすぎたか。

「うーん、これを丸ごと持っていくわけにもいかないし」

 馬には乗せられないかな、と再び櫃に手をかける。そのはずみにしゃらりと金属音が鳴った。手首を滑るまだ慣れない感触は、ウェスペルの腕時計だった。

 焦る理由はもう一つあった。ウェスペルだ。彼女の話が本当なら、早く元の世界に帰さなければいけない。彼女にも家族がいるはずで、いつまでも帰ってこないとなったらどれだけ心配するか。ウェスペル自身の心境も寂しいなんてものではないだろう。

 ——それにもしかして、もしかすると、ウェスペルはきっかけの一つじゃないかしら。

 淀みなく動いていた時計と地下水の停止が想像を超えて起きた出来事だとすれば、この世とは思えぬ場所から彼女が来たというのも想像を超える話だ。しかも自分とそっくりの女の子が、時計が止まったまさにその時に、動く時計を持っていた。偶然とは思えない。

 彼女がシレアに足を踏み入れたことで、何かの歯車がずれたのではないだろうか。

 もし自分の勘が正しいとすれば、ウェスペルが帰ったら、このずれは……?

「ウェスペルと離れたいとは思わないのだけれどね」

 独り言ちながら苦笑する。自分勝手な希望だと分かっている。理解はしているけれど、失いたくはない。理由はわからない。しかし、ウェスペルは自分の中に欠けた部分を補い、支えてくれる存在に思える。

 次の為政者の一人として立たなければならない自分。だが兄ほど経験も足りず、不安に負けそうな自分。彼女はそんな自分の意を言葉にしなくても理解し、大丈夫と抱き締めた。

 安心したのだ。まだ半人前の自分が前に進めるよう、ウェスペルが力をくれるみたいに。兄不在の城で上に立たねばならない自分の前に現れ、まるで即位前の自分が一人前に近づくために、手を取りに来てくれたように。

「ウェスペルなしで立てたら一人前ってことかしら」

 とりとめのない思いが巡る。寝不足で頭が痛い。聖櫃は身をもたせかけるのにちょうどいい大きさだ。開けているのも辛かった瞼を閉じ、アウロラは重い頭を艶めく木の蓋にそっと下ろした。カツン、と母から継いだ耳飾りが蓋を小突き、静まり返っていた空気をわずかばかり揺らす。

 その音と同時だった。

 アウロラの瞼の裏がぼんやりと明るくなった。不思議に思って目を開けると、淡い柔らかな光が広がり、水晶が陽を反射するように色を変えながら部屋を満たしていく。

 光彩の中心は、アウロラ自身だった。

 仰天して頭を上げると、光も動く。首を左右に振って光の元を探せば光も共に揺れる。ふと思いついて顔にかかる髪の毛を耳へかけると、光が遮られる。

 光源は耳飾りだった。

 外してみれば、珊瑚色と碧色の宝玉の中心に強い輝きが灯っている。玉の色を透かして二つの光の輪は重なり、アウロラの身の動きとともに離れ、近づき、めくるめく色を変える。

 胸に当てた手のひらに鼓動が大きく脈打つのが伝わる。眠気も一気に吹き飛び、アウロラは震える指先で耳飾りに触ると、まさか、という思いを抱きながらもそろそろと飾りを櫃に近づけ、蓋と箱の継ぎ目に触れさせた。

 静寂が支配する部屋の中、カツーンという音が波紋のごとく拡がり、壁を照らす光彩が震える。

 櫃に変化はないように見える。勘は外れたか。そうっと蓋に手をかけ、恐る恐る指先に力を加えた。

 何の苦もなく、蓋は素直に持ち上がった。

 蓋がずれるとともに光彩は消え、部屋に明るさをもたらすのは再び壁の一片を強く照らす日暮れの光のみとなった。あかみを増した夕陽が櫃の中の白い布を染め上げる。その布に守られ、鼓と鈴が櫃の中央に納まっていた。それぞれの楽器の持ち手を飾る薄紅色の水晶が夕陽を受けてきらめくのは、毎年見ているのと同じ姿。蓋を開けるまでのこちらの苦労など素知らぬていで静かに佇む、見慣れた楽器。

 まだ鼓動がうるさく鳴り続ける。手が震えそうだ。知らずのうちに息まで詰めていた。深呼吸をひとつ。指先の神経に意識を集め、アウロラは祭器を取り上げた。

 手のひらの中で鈴がりん、と鳴る。手首にしていた腕時計の文字盤がきらりと光った気がした。

 その時だった。

「きゃっ⁉︎」

 ぐわんとうなりが起き、地面が大きく揺れてアウロラの足をすくい体まるごと床に叩きつける。どおぉんと轟音が耳を塞ぎ、塔の壁からこぼれた小石と埃が宙を舞った。

 祭器の懐かしい感触にしみじみと愛しさを覚える間も無かった。それらを胸元に強く押し当て、身を縮めて揺れに耐える。

 震動が胴から四肢の隅々までを支配し目眩が起こる。上下感覚がおかしくなりそうだ。堅固と言われた東塔だというのに、まるで高い木がしなるように塔そのものが左右に振れる。アウロラは瞼をぎゅっと閉じて歯を食いしばった。

 バタゴトッ……バタッ……

 揺れが始まっていくらも経たないうち、背後で嫌な音が聞こえた。

 目を逸らしたい予感に先とは違う理由で心臓が早鐘を打つ。聞きたくないものを聞いた恐怖にさらに身を固くする。

 長い時間だったのか、あっという間だったのか。全く時間感覚が掴めないが、じっと耐えるうちに揺れはおさまり、再び静けさが戻った。

 耳にした物音が無かったものであったらと願いながら、痺れる体をようよう起こす。幸い腕の中の祭器に傷はない。

 しかし、別のところに恐れながら振り返れば、案の定だった。

 開け放していた部屋の扉が閉じている。よろよろと近づいて手をかけると、やはり。

「今回の勘は当たって欲しくなかったわね」

 舌打ちして思い切り体当たりを食らわすが、扉にぶつかったアウロラの体は跳ね返されるだけだった。

 揺れで外側の閂がはまったらしい。

 アウロラは部屋の中に閉じ込められた。

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