激流
第三十三話 激流(一)
「さて」
アウロラに借りたドレスの代わりに洗濯された自分の服に袖を通し、運動靴の紐をしっかりと結ぶ。鏡の前にいるのは王城の姫ではなく、そのあたりにいるただの少女だ。美しく揺れるドレスの長い裾や
昨日の晩は湯を使わせてもらい、一日中広い城の中を走り回ってかいた汗を洗い流した。秋の夜の冷えた空気の中で熱い湯を浴びると体も心も癒され、ウェスペルは布団に入るなりすぐに寝入ってしまった。アウロラはウェスペルより後に部屋に戻ったはずだが、目覚めたときにはもう部屋におらず、布団の上に寝間着だけがきちんと畳んで置いてあった。
上着の合わせを留めながら、窓に近づいて外を見る。真っ青な、どこまでも突き抜けるような秋の空。山の方まで行くのにはちょうど良い天気だ。
昨日、衣装部屋で話が出たすぐ後のことだ。シューザリエ川を
「いいの本当に? 社まで結構な山道よ」
うず高く積まれた書類の間からアウロラは首を伸ばした。外出許可を求めに行くと、アウロラの方も王女である自分が城から出掛けられるようにするため、不在中の全ての指示書に署名している最中だったのだ。
「うん。王宮のお仕事だと私は大したことが出来ないし。何もしないでここにいさせてもらうのも落ち着かないし。社や池に行って何ができるわけでもないかもしれないけど」
皆が城から離れられないなら、自分はその代わりの足くらいにはなれるはずだ。体力には自信もある。
「確かに私も明日は東塔に行かなくてはならないし、城中がてんやわんやだから、代わりに見て来てくれたらそれは有難いけど……」
アウロラも、本心を言えばずっと水脈の源を気にしていた。地下水だけ見ていても何も解決しないというのが自分と大臣両方の意見であり、早々に誰かを山の方まで様子見に回さねばと思っていた。しかし適任と思う者は皆、他の仕事で手が塞がっていたのだ。ウェスペルの申し出は正直言って願ってもないことだった。
ただ相手がウェスペルであっても、出会ったばかりの人物に疲れる仕事を頼むのにはやはり遠慮を感じてしまう。
「そんなにウェスペルに甘えてもいいのかしら」
「うん、任せてくれたら嬉しい」
アウロラはまだ瞳に不安げな色を浮かべてウェスペルをもう一度見たが、もう反論はしなかった。了承の印だ。黙って相手を見つめてしまうのは、口に出しては言いにくいことを頼みたい時にウェスペル自身がやる癖だった。
「大丈夫ですよ姫さま」
机に座ってぷらぷらと足を泳がせながら二人を眺めていたシードゥスが、あっけらかんと声をかける。
「僕、一緒についていきますし。姫さまの方こそ東塔行きなんだから、自分のいない城にウェスペル残してくなんて心配でしょうがないでしょ?」
「そうねぇ……」
アウロラは羽根ペンを置くと、瞼を閉じてこめかみを押さえた。寝ていないので眼が痛い。確かに、このうえさらに城内の心配事が増えたら胃を壊してしまいそうだ。城の面々を統べるべき自分が今倒れるのはさすがに笑えない。
「わかった、任せたわ。でも早く帰ってね」
相手にはそう言ったものの、実はアウロラの方こそ自分の仕事がいっぱいいっぱいで、明日どのくらい早くに城を出られるのか見当がつかなかった。出発が遅れたら、それこそ社から帰ったウェスペルを長時間待たせることになってしまう。城にはできるだけ一緒にいた方がいい。
「それなら二人とも、今日はもういいから早めに休んで」
アウロラはソナーレの用意してくれた茶をごくりと飲み干すと、書類の山との格闘を再開した。
ウェスペルが身支度を終え、昨日と同じように階下の食堂へ降りると、ちょうどアウロラとシードゥスが揃って食事を取っていた。
「おはよう、眠れた?」
「おひゃよう」
「シードゥス、口に入れたまま喋らないの。ウェスペル様、はい。寒いからまずこれで暖まって」
母親のように嗜めるソナーレに苦笑しつつ、ウェスペルは礼を言って温かい湯気の上がる椀を受け取り、アウロラの隣の席に着いた。
「ありがとう、大丈夫。ぐっすり寝ちゃった。アウロラこそちゃんと寝たの?」
白眼を真っ赤にしているのを見れば答えは明らかだったが、アウロラは不調も弾き飛ばす勢いで声を高くする。
「私なら平気よう。それよりウェスペル、いーい? シードゥスに誘われたからって、嫌だったら外まで行くの、断ってもいいのよ? あなた絶対、嫌でも嫌とは言わない性格、人任せに出来ない
眉を釣り上げ唇をすぼめて言うさまに、シードゥスとソナーレが同時に吹き出した。
「なに言ってんだ姫さま」
「アウロラ様のことでしょう、それは」
くすくす笑われている当の本人は、目をぱっちり開けて首を傾げた。ソナーレはしばし笑い続けると、浮かんだ涙を拭きつつ主人に諭す。
「城の雑用も、御自身の身辺のことも、お任せ下さいと言ってもお聞きにならないでしょう。睡眠時間までわずかになさって」
ぴたりと言い当てられてアウロラの顔がみるみる赤くなる。そんなアウロラを見るのはここに来て初めてだったので、ウェスペルも気づけば笑っていた。初めて市場で会った時からずっと、不安を一瞬覗かせても、毅然として背中をぴしりと伸ばしていた姿ばかりを見ていたのだ。
——やっぱり、少しでもアウロラの力になりたい。
アウロラが挙げた自分の性格には図星の部分もあったけれど、これまで生きてきた中で自分が我慢したことなど、一国を背負う王女とは比較にならないだろう。でも自分と同じ年頃の少女なら――ウェスペルが育った世界で考えれば――もっと人に頼って、弱音を言ってもいいはずだ。
なかなか収まらない笑い声は、朝の陽が射し込む食堂の石壁にはね返り、澄んだ秋の空気の中に
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