小憩

第二十一話 小憩(一)

 上階へ向かう間、観光のためにわざとらしく整備されたのではない本物の「城」の内部を初めて見て、ウェスペルは始終、感嘆の溜息を漏らしていた。床に敷かれた絨毯には金糸銀糸を織り混ぜて草花が精緻に描き出されているし、壁にある照明は葉脈まで細かく彫り込まれた花の形の金細工でできており、開いた花弁に蝋燭が乗っている。天井には柔らかな色の顔料で描き出された子供たちが金箔のあしらわれた羽で優雅に飛翔し、雲の上を戯れながらこちらに向かって無邪気に笑いかけている。子供たちはさまざまな動植物や楽器などと一緒に描かれているが、廊を進むごと、階を上がるごとに彼らの持ち物は変わり、まるで物語のようだ。つい目を奪われて立ち止まりそうになるのを、ウェスペルはアウロラに急かされ急かされ、かなりの数の階層を昇ってやっとアウロラの自室に着いた。

「お客様をおもてなしするには準備がお粗末だけれど、許してね」

 そういざなわれた部屋の中は王女のものにしては簡素で、文机と化粧台など自室で必要なものしかなくすっきりと整っていた。ただ寝台は二人の人間が横になって余るほど幅広く、椅子には細密な模様編みが施されたクッションが置かれている。また文机の上には木彫りの文房具立てや銀細工の小物入れなどが並び、置いてある一つ一つが極めて質の良いものであるのは一目瞭然だった。

「ちょっとこっちに来てくれる? 消毒するから」

 アウロラは文机の引出しから清潔そうな布を取り出し、刺激臭のする液体につけてウェスペルの傷口を拭いた。冷たさが肌に痛かったが、たいして大きな傷でもない。手際よく手当てされたのち、アウロラに勧められて椅子に腰掛けると、座に敷かれたクッションがふわりと体を受け止める。落ち着いて座ったのはずいぶん前だった――そう思い出す余裕が出るほどに、ウェスペルはここに来てようやく安堵できたのだった。

「さっきも話したのだけれどね、この国の状態をもう一度整理して話しておきたいの。それから、ウェスペルがここへ来た経緯も、差し支えなければ聞きたいのだけれど」

 アウロラはそう切り出して、国に伝わる時計台のこと、その異常のこと、その上で気付いた時計台の謎のことなどを、宿で話した時よりも詳しく説明し始めた。ウェスペルにとってその内容は、一方では自分の知る世界での古い過去の生活に似て聞こえ、他方では、歴史上の出来事とも思えぬ不思議な点がいくつかあった。

 ひと通りアウロラが話し終えると、ウェスペルも自分がここに来るまでの経緯や自分が知る時計というものについて話した。旅の途中でいつの間にかこの世界に迷い込んだこと、自分の世界では機械仕掛けの時計が当たり前に存在すること、ただ残念なことに自分は作り方など分からないこと、それが発明されたのはもう遠い昔のこと――ウェスペルにとってはごく当たり前のはずのことに、逐一「嘘でしょ」「何それ」とアウロラは当惑を露わにする。

「じゃあ、ウェスペルの時計みたいなのもたくさんあるってこと?」

「ええ。あれはだいぶ古い時計だけれど――祖母の遺品なの」

 自分の腕時計は亡くなった祖母の持ち物だった。ウェスペルの生まれたところよりずっと遠方から出てきたという祖母は、嫁いでからこのかた、ついに一度も帰郷することなくこの世を去った。

「祖母は私のことをとても大切にしてくれたのだけれど、そういえば祖母自身の話ってあまり聞いたことがなかったの。彼女の親戚も皆、亡くなってしまったし」

 話を聞ける人間が一人もおらず、故郷との繋がりを知る家族もいなかった。ただ祖母が常にしていた時計が、彼女がまだ少女の頃から使っていた大切なものだと聞いたのは記憶にあった。

「この時計はね、祖母の故郷で作られたって話していたわ。歴史がすごく長くて、かつては見事な職工がいた街だったって」

 自分を深く愛してくれていた祖母がいなくなってしまった後で、ウェスペルの中に恐ろしくなるほどの空虚感が生まれた。まるで自分の一部がなくなって、自分が自分ではなくなってしまうような、えもいわれぬ不安感。

 だからだろうか。思い返してみれば、祖母のことを知れば空いてしまった穴が埋められると頭のどこかで考えたのかもしれない。いつしか祖母の足跡を辿ってみたい、彼女が日々触れていた街の古い歴史をこの身をもって知りたいという思いが募り、遺品整理の際に時計を譲り受けたのが引き金になって旅に出た。彼女がついぞ帰れなかった地へ一緒に連れて行ってあげられるような気もしたのだ。不思議なことに、時計を身につけていれば祖母が一緒にいてくれるようで、空虚感が和らいだ。

「私はあまり詳しくないけれど、時計の時間が正確なのはね、水晶が中に入っていて、そこから起こる振動が原因だったはず。祖母の時計は中の水晶や他の部品も全て、祖母の故郷に伝わる由緒ある物だって。すごく貴重な材料から作られたそうよ。といっても、祖母も確か祖母の祖母から受け継いだらしいのだけれど」

 生前、幼少の頃から繰り返し聞かされた話。説明しながら時計を撫でる祖母の、慈しむような眼差しを思い出す。

「でも、その振動を起こしたり針を動かすのには電気とかが必要なはずなのよね」

「水晶ならシレアの時計台にもそれっぽいのがついているわ。桜色に近い美しい石で、シレアの神器にも同じものが嵌っている。でも文字盤の石は針を物理的に動かしてるわけでも、そこから糸とかで操作しているわけでもなさそうね」

 アウロラは「電気っていうのがよくわからないのだけど」と困ったように言い添え、首を傾げた。そもそも電気がわからないということが、いや、動力なしに機械が動くこと自体が、ウェスペルには信じられない。

「振り子時計だって物理的な力なしで動くなんてありえないわ。鐘だって、時報なら時計台のところにシリンダーがあって、それと連動して鳴るはずよ。ロープで鐘を鳴らすハンマーが動くの」

 少なくともウェスペルの知る時計や鐘楼とはそういうものだ。しかしアウロラは、時計台の文字盤と鐘は全く別々につけられており、繋がってもいないと言う。

「うーん、何だか頭抱えたくなるわ……」

「でも、そんなに慌てること?」

 言いながら実際に頭を抱えているアウロラを、ウェスペルは怪訝に思う。

「時計が止まっただけで、そんなに大変なことかしら? 実際に時が止まったわけじゃないじゃない。いまだって夜にはなってるわけだし……」

 自然界に異常が起こっているならまだしも、モノが故障しただけで他が正常に動いているなら、何も問題はないのではないか。

 しかしアウロラはかぶりを振った。

「確かに現段階ではそうだわ。でも、シレアの時計——我が国の鐘楼は、国の秩序を守っているの。私たちが生きていく中で崩れたら怖いのは、秩序よ」

 何も気にしなくても存在していた秩序が崩れる。これが人間にとって、いかに脅威となるか。

「秩序を失って精神が安定を崩すと、今度は行動が崩れてくる。そうね、頭の混乱が行動の混乱になってしまうのよね。少しのほころびに見えたところから、段々とほつれ目が大きくなっていくんだわ」

 そして当たり前のようにあった拠り所が無くなると、支えを無くした人々が陥りやすいのが「疑心」だ。次に自分を護ってくれるものは何なのか、それを無意識に探してしまい、叶わないと――やはり無意識であれ――裏切られたと感じる人間が出てくる。そこからが怖い。

「あったものが無くなるというのは、底知れない恐ろしさがあるものだわ……」

 王と王妃だった両親も、現在、圧倒的指導力で国を率いている兄も、常に気を配っていた。組織の中で、その微々たる混乱は統率する者への不満や不信へ繋がる。小さな揺らぎは波紋を広げ、内部から崩れるか、さらに悪いことには、外部から壊されるか。

「もしかして、私を城に一緒に連れてこなかったのも城の秩序?」

 アウロラは少し眉を下げて笑った。

「城のみんなを信頼してないわけではないわ。でも言う通りよ。城という組織には様々な考え方の人間がいる。部外者に過剰な警戒心を抱く人間もいるのよ。だからまだ、ごく少数の人にしかあなたのことは伝えていない」

 自分たちと異なるものを受け入れるためには、然るべき時がある。

 ウェスペルには国を治めるということは分からないが、アウロラの方は明らかに抱えているものが大きいのだ。そして話を聞く限り、時計台はいくら謎が多かろうと、この国にとっては何にも変えられぬ神聖なもの、これまで絶対の存在だったのだ。

 その異変に危機感を感じる彼女たちをわらうのは、愚か者のすることだ。

「でもね」

 肩に背負う重みはいかほどか。それでも続ける声は、少しも揺るがない。

「国の皆に、時計台のことを隠すつもりはないわ。誤魔化したって仕方ないもの」

 上に立つ者が決して行ってはならないこと、それは誤魔化しと隠蔽だ。いずれは知れる事。無理に繕い続けるほど、いざ明るみに出た時、亀裂は大きく深く、上に対する信頼は疑念で満ち、瓦解する。上下構造のある組織が一挙に解体へ向かい、次の秩序が構築されるまで混乱が続くだろう。

「皆を支配したいとかそういう気持ちはないわ。王族は支配ではなく、皆を守る立場のものだから。でも王族の下にまとまりを得ている組織や社会が崩れたら、次の社会が出来るまで皆の『安心』が奪われてしまうでしょう」

 国の一人一人のためにこそ、王族はまず城の組織を、そして国の組織を維持せねば。責任放棄は許されない。

 アウロラが国の人たち一人一人を愛しく思い、だからこそ王族たらんと自己を律する姿勢が語り口から伝わる。街の人々が彼女を家族や近所の娘のように扱うのも、彼らがアウロラに対して身内と同じ愛情を持つからであり、それは、そうさせるほどのアウロラ自身の心根が伝わるからだろう。

「アウロラは、この国が好きなのね」

「ええ、好きよ」

 思わず口から出たウェスペルの問いに、アウロラのこたえは強い。

「シレアが好き。シレアを、この国を愛してるわ」

 一見、酷く疲れているように見えるのに、アウロラはとても美しく見えた。不思議な感覚がウェスペルを包む。自分と同じ顔。自分の顔なら美しいなどとは絶対に思わないだろうに。

 凛と声を張り、背筋を伸ばした少女。国を背負い、民を愛して微笑む。

 波乱の兆しが見えても、迷いと不安を瞳の奥に閉じ込めて。それはたまらなく美しくて、でも——

「えっ? な、なにウェスペル? どうしたの?」

 自分でも全く気づかぬうちに、ウェスペルはアウロラを抱きしめていた。なぜだかそうさせた。アウロラの橙色の瞳を見たら、知らず腕が伸びていた。

「大丈夫よ。きっと、絶対に大丈夫」

 込み上げてくる恐れを、意志で押し殺した瞳。周りに心配をかけまいと、己を律しようとする笑顔。もしかしたら他の人には気丈に見えるかもしれない。でもウェスペルには、アウロラの毅然とした姿の中に、触れたら壊れそうなもろさを感じた。自分と同じ色の瞳を見たら、その中に捉えた。

 寄り添い立つ人がたったいま、隣にいない恐怖。

「アウロラだもの。大丈夫。私も、一緒にいるから」

 根拠なんて何もない。それでも言わずにはいられなかった。理屈が通らないと理性が言うのに反して、直感が訴える。

 自分たちが出会ったことが偶然なら、こんなにも強く近く、相手を感じるわけがない。

 腕に力を込める。アウロラの体は一瞬だけ強張ったが、ほどなくしてウェスペルの背中をぎゅっと抱き返した。すぐ近くでアウロラの声が聞こえる。「ありがとう」と。

 数秒間、そうしていただろうか。どちらともなく身を離すと、二人は互いに互いの顔を覗き込む。するとウェスペルの目の前にいる「もう一人」は、すぐにくしゃりと相好を崩してよく知る顔になった。

「ウェスペル、お腹空いたでしょ。ご飯とっておいたから食べましょう。この事件で節約しようって時だから豪華じゃないけれど……気持ちだけは国賓並みの歓待ということで、どうか許してね」

 アウロラは腰を浮かして卓上の盆の蓋を外すと、果物や冷菜の乗った皿をウェスペルに勧めた。

「そう、もう少し話したいこともあるのよ。もしかしたら、このあとの動きにも関わるかもしれないし」

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