第二十話 結集(四)
自室に戻ってきたアウロラは、扉を閉めるやそのまま寝台の上に身を投げた。帰ってから城中を走り回り指示を出していたのでへとへとになってしまった。
昼から何も進歩が無かったら、きっと焦燥と緊張で眠気すら起こらないに違いない。けれども幸い、気がかりの一つだった時間の管理については解決策が得られた。市から帰って真っ先にウェスペルの時計を砂時計に代わる新しい指針として担当官に預け、当座はそれを使い時計台の鐘を手動で鳴らす。これで一時的ではあれ、民の日常生活の安定は保つことができるだろう。
しかしウェスペルの時計をいつまでも借りるわけにはいかないし、国を閉じていられるのも一周忌が期限だ。新月までの間に何とかして状況を打開しなければ。
現在、父である国王の崩御と母后の死が続いたにも関わらず、兄王子の
——それだけは避けないと。シレアの人も、他の国の人も、誰の血も流してはいけないのよ。
戦になったら犠牲になるのは民だ。王族たるもの、自国であれ他国であれ、民が傷つく結果になることほど為政者としての責務を果たさない行為はない。
——もう何代もかけて築いてきたシレアの平和よ。お父様とお母様、そしてお兄様が守ってきたのだもの。それを私が壊しては……
寝台の布に皺ができる。それを見て、知らずのうちに布団を握りしめていたのに気がついた。目を閉じ、息を深く吸い込む。
——大丈夫よ。落ち着きなさい。まだ地下水はいつも通りよ。
自分で自分に言い聞かせる。だが言葉にしたら鼓動はむしろ逆に速くなり、懸念がじわじわと這って広がるかのように肌が粟立つ。どうしても地下水の存在が時計台と無関係とは思えないのだ。
時計台と同じく、建国以来、気づいたら当たり前のように記録に現れている地下水。この国が持つもう一つの神秘。
両者はともに、王族をはじめ国民の意思の届かないところにある存在ではないか。国が日照りに見舞われた時も、大雨で洪水が起きた時も、地下水の水量や流れの強さには何も異変はなかったらしい。そのため異時に水を確保できるものとして、城に流れ出る水は大きな安心材料なのだ。
伝わるところによれば、水路の源は国を南北に流れるシューザリエ大河と繋がる。古い伝承に、大河は北の山々から流れ出で土を動かし、国土を固めて国を作ったとある。単なる架空の言い伝えに過ぎないかもしれない。しかしもしそれが本当なら、いわば国の発祥がこの大河と言える。同じく国の宝であり、人為の及ばぬ存在である時計が止まるという大事が起きたとあっては、この地下水についても憂慮せずにいられなかった。
そんな思いに鬱々と沈んでいたところ、何の前触れも無く自室の扉が開いた。仰天して寝台から飛び起きる。駆け込んできたのはシードゥスだった。
「うっわびっくりしたぁ……全然気がつかなかったわ。ウェスペルは?」
「下の倉庫で待ってもらってます……」
肩で息をしつつ報告する顔は、この飄々とした青年には珍しく
「どうしたの、顔、真っ赤じゃない。もしかしてすごく急いでくれたの? それとも熱あるなら私、一人で倉庫行くわよ?」
「いっ、いや、大丈夫ですっ! 鍵かけちゃったし鍵持ってるの自分だし、一緒に行きます!」
自分では気づいていなかったのか、無理をしているのか、シードゥスはそうすれば顔の色が変わるとでもいうように顔面を思い切り袖で擦り、「行きますよっ」とアウロラを廊下に促した。人気のない廊を早足で行き何階分もの階段を降りる途中で、シードゥスが何度も「くぁー」とか異声を発しては目に手のひらを当てたり、「ああ」と溜息をついたりするので、ほんとに大丈夫かな、とアウロラは心配になったのだが。
「宿の様子はどうだった? ご主人、何か言ってたかしら。あのこと話していない?」
「もちろん言いつけ通りです。特に怪しんでるふうもなかったし、何もないような感じにすっとぼけておきました」
事を円滑に処理するため、城に常駐の者たちには時計台の異常について話しておいた。一方、一般国民にはまだ全面的に知らせるには至っていない。国民に隠すつもりなどないし、妙に思った者が一人もいないということはないだろう。だが、少なくとも今夜の間に具体的な方策が取れるという目星はつかないのだ。まだ時計の他に大事が起きたわけではない。それならむしろ今晩だけでも、民には和やかな夕餉と眠りを取って欲しかった。
アウロラの部屋が位置する上層部から最下層まで、早朝に城を抜け出す時に使うお馴染みの道筋を通って倉庫に着く。庭師用の土や、下人が徒歩で物を運ぶ時の荷押し台、門衛用の防寒具などが置いてあり、城の下働きの者たちの通用口にもなっているところだ。
鍵を回して扉を開けると、ウェスペルは所在なさげに布袋にちょこんと腰掛けていた。
「ウェスペル! 良かったぁ無事に着いて!」
アウロラは駆け寄り、真正面からウェスペルに飛びついて抱きしめた。本人の顔が硬直しているのには気づかず、ウェスペルの肩を持って話し続ける。
「ごめんねぇ、あとから来させることになっちゃって。大丈夫だった? あっやだウェスペル、いろんなとこ怪我してるじゃないの」
「あ、気づかなかった……」
木から落ちた時に枝や何かが引っ掻いたに違いない。体は服で守られたが、顔と手に小さな傷がいくつか出来ていた。
「でも大丈夫よ、このくらい」
むしろ精神的に全然大丈夫ではないんだけど、というのが本音だが、口には出せない。
「本当にごめんね。不安だったでしょう? 知らない街でいきなり連れ回されて。でもウェスペルにどうしても、そばにいて欲しくて」
アウロラが優しくウェスペルの手を取った。指が触れ、その言葉を聞いて、その顔を見たら、ウェスペルの内で何かが灯った。
「ありがとう——大変なのはアウロラでしょう。大丈夫?」
自分と同じ声と顔。アウロラの心境は手に取るように分かった。アウロラは目を丸くしてきょとんとしたが、それも一瞬で、小さく礼を言いながら気恥ずかしそうに微笑んだ。
「シードゥスも無理言ってごめんなさいね。問題なかった……って何見てるのよ」
ウェスペルも横からの視線を感じ、意識したくないのについさっきのことが思い出されてまた体が熱くなってくる。こわごわ扉の方に顔を向けると、シードゥスは「あ、いや」と口ごもり、すぐに宿屋で会った時の調子に戻った。
「ほらなんて言うか。こうして見るとほんとに姫さまが二人いるんだけど、なんて言うかなぁ。全然違うからなんか妙だなぁー……」
間の抜けた返事にウェスペルは肩から力が抜けた。人の動揺にはお構いなしなのか。同時に、何を期待していたのか彼の言葉に落胆している自分に焦りを感じ、さらには飄々と見える青年の
一方のアウロラは両者の様子など意に介さずで、「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」と
「ウェスペル、部屋で手当てするから一緒に来て」
三人揃って倉庫から廊へ出てしばらく共に進む。廊が二股に分かれたところで、「ありがとう、もういいわ、休んで」とアウロラはシードゥスを労い、自室に下がるよう言った。シードゥスはすんなり就寝の挨拶を述べると、二人とは別の方へ廊下を折れる。
少女たちから見えるうちは、靴音が夜遅くの城内に下手に響き渡らないよう緩やかな速度を保ち、一つ先の角を曲がった。二人の足音が壁のおかげで少し小さくなる。
途端、シードゥスの上体は前方へ傾く。耐えきれずに一気に駆け足になった。
「……やっば……」
戸惑いの答えに目を逸らそうと、何だこれ、とか口に出してみるが、火照りの戻る頬と全身の熱さは無視できない。
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