結集

第十七話 結集(一)

「嬢ちゃん、起きてるかい? 迎えだよ」

 主人が扉を叩く音でウェスペルは目を覚ました。いつの間にか眠ってしまったらしい。アウロラが出て行ったあと、混乱も動揺も冷え切り、途方もない疲労感と虚無感で横になっていたのだった。扉越しに呼び続ける声に段々と頭も醒めてきて、ウェスペルは身を起こしながら返事をした。

「急がなくていいからな。支度できたら食堂においで」

 無闇に部屋に入らず、扉を閉めたままそう言ってくれる主人の気遣いが嬉しかった。

 乱れた髪を整え、上着を直して文机に置いた帽子を取る。外に出るならアウロラと間違われないようにまたかぶって行ったほうがいいだろう。

 板張りの狭い廊を通って食堂へ行くと、待っていたのはウェスペルと同じ歳の頃と思われる青年だった。細身で四肢が長く、長い睫毛が濃紺の瞳にかかって影を作っている。髪はここまで来る中ではあまり見なかったような黒に近い色で、やや無造作に短めに切られたさまがさっぱりとした性格を思わせた。格別に美麗とまではいかないが、美青年の部類である。

「ウェスペルさんですね。姫さまの使いです。僕はシードゥスと言って、一応、城勤めしてます。まだ雑用ばっかやってる下っですけどね」

 穏やかな口調に人の良さが滲み出る好青年だ。どんな人が迎えに来るのかとウェスペルは胸をざわつかせていたが、柔和な微笑みに緊張が少しほどけた。

「ウェスペルです。アウロラは?」

「城でなんかもう、いつも以上に落ち着きな……おっと。忙しそうに走り回ってますよ。今朝も勝手に抜け出したし、そろそろ罰でも受けてんじゃないかな」

 街には僕が買い出し行くって言うのにねぇ、とシードゥスは手を上げ、芝居がかってやれやれと頭を振ってみせる。シードゥスの話ぶりからすると、まだ時計台の異常は城の重鎮以外には伏せてあるのかもしれない。

「本当はうちに泊まってってもらいてぇんだけどなぁ」

「姫さまには珍しい我がままだから聞いてやってくださいよ」

 馴染みなのだろうか。至極残念そうな主人をシードゥスは面白そうに宥めた。しょうがねえなぁ、と主人を納得させたところで、シードゥスは再びウェスペルに向き直る。

「それじゃウェスペルさん、行きましょう。城まで少し歩きますけど、そんなに遠くないですから」

 嬢ちゃんも坊主もまた来いよ、と主人に見送られ、二人は街路に出た。秋の陽はもう落ち、地平線に沈んだその名残りが山の稜線を薄紫に彩っている。頭上には紺碧の夜空が東から広がり、ぽつぽつと星が瞬き始めていた。

 道の両脇に立つランタンには火が灯され、夕闇の中に山吹色の光がぼんやりと広がる。人通りは少なく昼の活気は消えてしまったが、代わりに家々から夕餉ゆうげの香りや談笑が漏れて、日中とはまた違う優しい空気が漂っていた。

「旅の途中なんでしょう? 姫さまが迷惑かけてないといいんですけどね。道に迷ってしまったと聞いていますが、シレア自体、来るのは初めてですか?」

 気遣ってくれているのだろうか。シードゥスの語調は明るいが決してうるさくはなく、夜空に光る星を連想させた。周りがわからない暗闇で光を見つけるみたいに、ウェスペルは不安が少しずつ和らぐのを感じる。それに気付いているからなのか、シードゥスは長閑のどかに話を続けた。

「豊穣祭までいられるといいですね。見事な祭りなんですよ。神事と奉納の舞曲があって、その隊列が大通りを行くんです」

 ほら、とシードゥスは、夕闇の中で時計台の右、街の中心よりやや離れたところを指す。伸ばされた指の先を辿ると、時計台と同じくらいの高さの細い塔が見えた。

「あの東塔から楽隊と踊り子が出発するんです。普段はあそこに神器の鼓と鈴が保管されてるんですけれど、その鼓の拍子に合わせて舞が舞われるんだ。姫さまも舞うんだよ。社交の場での舞踏以外なら踊りは大好きな人だし。好きが長じたとやら何とやら、かな。それは美しいから」

 自分と同じ姿のアウロラの舞。自分の姿が舞うと考えると非常に奇妙だし、自分自身が舞う姿を頭に浮かべてみようと試みても、恥ずかしさと共に非現実的過ぎてどうしても想像できない。だがアウロラの舞う様子ならウェスペルにもごく自然に想い描けた。堂々と広場で民衆を相手に話し、服の裾がふわりと風に乗るような優雅な礼をした彼女なら、それは美しく芯があり、それでいて繊細な舞を見せる気がする。

「それにしても、あの祭りをもっと他の国の人にも見てもらいたいよな。豪勢だけど、けばくはなくて、あたたかくって優しくてさ。国中の人の性格が現れてるなって思うよ」

 そしたら国同士のいがみ合いだ牽制だなんてなくなると思うのになぁ、と誰に言うでもなくシードゥスはひとちた。楽観的にも聞こえる言い回しだが、ウェスペルにはその声音がなぜか、心の深いところにあるうれいを含んでいるように聞こえた。

「良い国なんですね」

「そう思うよ。知らない人間に対してもみんなが家族や友人みたいに話しかける。警戒心剥き出しの迷子の猫にも近寄って抱き上げてさ」

「確かにそうかも。こんな帽子までくれたり」

 するりと同意の言葉が出た。これまでに会った材木屋の夫婦や宿屋の主人の応対を思い返すと胸が軽くなるようだ。そういえば転んだ自分を助け起こした時、アウロラも自分が裸足なのにも構わず、真っ先にウェスペルに怪我や服の汚れがないかを確かめてくれた。

「どうなるか分からない迷い猫も、警戒心や不安が薄れちゃいますね」

 シードゥスの言葉があまりにぴったりで、ウェスペルの口からふふ、と笑みがこぼれた。

 秋の夜風は頬を冷やして通り過ぎていく。道沿いに連なるランタンの光は、不安な気持ちを抱いたウェスペルを包んで守ってくれているようで、この街の人々が持つ温かさとどこか似ている。ランタンを支える木彫りの柄が暗闇の中で照らされると、そこに施された植物模様が灯火を透かし、昼に見るよりさらに美しい。

「……君は、笑うんだな」

 しばらく沈黙が続いていたが、視線を感じたと思ったら、すぐ横で聞こえるか聞こえないかの呟きがした。ウェスペルは「え?」と顔を横へ回したが、並んで歩いていたシードゥスはウェスペルの視線を躱すように天空を見上げた。

 シードゥスの表情はよく分からない。ただ深い紺の瞳が天の遥か先を見つめるようにじっと動かず、「良い国だよ、本当に」と吐息する。ウェスペルも彼に倣って頭を上げると、空に残っていた黄昏の色はすっかり濃紺に塗り変わり、星々が螺鈿らでん細工のように闇を飾っていた。

「しかし姫さまの顔で大人しい対応されると奇妙だな」

 またいくらか黙って歩いていたところ、不意にさっきと同じ調子に戻ってシードゥスが切り出した。

「奇妙ってどうして?」

「そりゃ、もしこれが姫さまだったら病気なんじゃないかって心配になる」

 アウロラに対するあまりの物言いに、ウェスペルは思わず吹き出してしまった。

「そんなにアウロラは失礼なのですか?」

「ほらそれ。『なのですか?』とかね。失礼っていうわけでもないんだけど。人に無礼なことしたりする方ではないよ。でもいっつも、『ごっめん、これよろしくできる?』とか、『お愛想言ってかしこまって座ってるなんて私には無理!』とか愚痴ってるし。あの人、姫さまっぽい言い方しないもんなぁ」

 言葉は呆れ調子だが、シードゥスの声も顔も、親しい友人や妹について話すのと同じ気兼ねのなさがある。一国の姫君をあの人呼ばわりとは普通に考えれば失礼千万だが、軽蔑は微塵も感じられず、むしろ信愛の情が滲み出ていた。その様子が微笑ましくてウェスペルが思わず声を出して笑うと、今度はしっかりとウェスペルの目を見て、シードゥスが悪戯いたずらっぽく笑った。

「さて、ある程度は元気出たみたいかな。もう少しで城の門に着くけど、ここからが大変だからね。僕の言う通りに動いて。面倒は僕も嫌だから」

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