第十六話 交錯(四)
歩いていた時に止まっていたはずのウェスペルの腕時計の針はいま、規則的な拍を刻みながら文字盤の上を進んでいた。
「それ、時計ね……時計なのね……!」
アウロラが鐘楼以外の時計を見たのは初めてだった。堂々と威厳あり、鐘を鳴らし国を見守るシューザリーンの時計台とは正反対に、なんて小さく、だがなんて繊細で美しいのだろう。指先ほどの盤の上には星座の模様が描かれ、文字盤の数字の並ぶところには星型の石が打ってある。
「でもおかしいわ。これ、さっき止まってたのよ」
奇妙なことばかり続く。一度電池の切れた時計がひとりでに回り始めるはずがない。太陽光で動く仕組みでもあれば別だが、これはそんな発明よりもずっと前に作られたもののはずだ。
「ウェスペル、本当に図々しいとは思うのだけれど、これ、貸してもらってもいい? とりあえず時間の指標が得られれば、時計台の代わりになる。砂時計より断然いいわ」
砂時計ではつきっきりで見張る人間が必要だし、操作の際に誤差が生じる危険性も高い。だが時計となれば効率も正確性も全く違う。いつもどおりの時報があれば、民の生活に必要な秩序は保たれる。混乱は緩和されるはずだ。
「正しい時間を指しているとは限らないわ。さっき止まっていたし」
「どうやって合わせたらいいの?」
本当にこんな調整もやったことがないのかと、ウェスペルは改めて驚いた。先にアウロラから聞いた奇妙な時計台の説明が本当だったと確認される。自分のいた世界なら、少なくともこの城下町のように栄えたところに住んでいて、この年齢まで時計の針を回して合わせる機会が無いなど難しいだろう。
ウェスペルが腕時計を外してアウロラに時刻の合わせ方を説明していると、短く戸を叩く音のあと、返事を待たずに客室の扉が開いた。
「お転婆娘さんよ、お迎えだ。早く戻れって馬が来てるぜ」
宿屋の主人は湯気を立てる茶碗と菓子が載った盆を文机の上に置いた。
「せっかく淹れたんだけどな。やっぱり窮屈なもんだなぁ、遊べないのも。少し待ってやれって言ってあるから、早めに支度してやんな」
うわぁと小さな呻きをあげて、アウロラは腕の中に頭を埋めた。
「ったあ……あの頭のかったい爺さん集団がいきなりこの顔二人見て納得するわけないわ……」
「嬢ちゃん? うちに泊まってくんじゃいかんのか」
「あぁっごめんなさい。そうよねこの宿のお客様よね。でもウェスペルは城にいて欲しいのよ。あぁどうしよう」
「嬢ちゃんさえ良けりゃうちは構わないけど、まあお偉いさんは度肝抜かれるわな」
二人共うちにいればいいのに、と主人は少し残念そうな表情を見せたが、すぐに再び顔を明るくして提案する。
「こっちの嬢ちゃん、あとで城まで乗っけてってやろうか」
「いや、駄目。馬だと正門でしょ。目立つ。門前払い食う」
唸るアウロラにしばし空を眺めて考える主人。ウェスペルは状況も状況であって自分に発言できることもないし、二人を交互に見るしかない。
「んだなぁ、じゃ誰か迎えによこせば。目立たなそうなやつ」
「んー……ああ……そうねぇ……」
アウロラは気怠そうに腿に肘をついていたが、「そうだっ」と叫んで顔を上げる。
「彼に頼むわ! 城の裏から入ってもらおうそうしよう! 門衛誤魔化すなり通用門使うなり、きっと何かしら上手くやってくれるわ」
途端に瞳に力を取り戻すと、アウロラは宿の主人に向かって手を合わせる。
「いつもの彼よ。来たら入れてあげてくれる?」
「ほいよ、他には?」
「彼が来るのを待っててもらえば。あとは……そうね、あとから公式に伝達するけれど、今日は国外客はいないはずなの。誰か来ても今日は泊めないで。来たら役所に連絡してお引き取り願って」
「なんだそりゃ」
「納得いくよう説明はきちんとするつもり。収入がちょっと減っちゃって悪いけれども」
それじゃ、とアウロラは寝台から立ち上がり、軽く服の皺をはたく。
「ウェスペル、あとで私が城の人にここまで迎えをお願いするから、そうしたら一緒に城まで来てくれる? 無理を言って悪いのだけれど、お願い」
言葉の調子こそこちらを気遣っていても、その瞳には切羽詰まった心境が露わだ。橙色の眼に映る感情の揺れをウェスペルはよく知っている。だからこそ、アウロラがどれだけ必死か切に感じ取れた。
そしていま、自分の方も他に何をしたらいいのかわからない。
首を縦に振ると、アウロラは力強く「ありがとう」と返し、主人にも礼を述べて宿の入り口へ廊下を駆けていった。
主人も旅途中というウェスペルに同情したのだろう。困ったような笑みを作って、ウェスペルに温かな視線を向けた。
「嬢ちゃん、寝てたら起こしてやるから、ゆっくりしてな。腹減ったり欲しいもんあれば遠慮なく言えばいいよ。今日は奢っちゃるから」
そうして軽くウェスペルの頭を撫でると、静かに扉を閉めていく。
客室に残されたウェスペルは、さっきまでアウロラの座っていた寝台へぱたっと身を投げた。他に何も掴めるものがなくて、枕の端に触れる指にぎゅっと力がこもる。
――私はどうなるのか。
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