第十五話 交錯(三)

 年――その数字に、ウェスペルは五感全てを失った気がした。自分がいたはずの時代から五百年以上も隔たっている。そんなことは、物語のように人間が頭の中で想像する以外、ありえないはずではなかったか? それとも自分はまだ夜行列車の布団の中にいるのか?

「どうしたの? 真っ青よ、ウェスペル」

 気遣わしげなアウロラの声も、ウェスペルには遥か遠くに聞こえる。

「ここは、どこなの……」

 困惑と恐怖の混じった声音はアウロラにも不安を伝染させた。内奥からくるそこはかとない恐れからしか生まれない震えた声。そして目の前にある強張ったの表情が、心から恐いと感じた時しか現れないのをアウロラは知っている。

 そして、そこで周りが狼狽うろたえればその恐れを増長させることも。

 意識的に声に芯を与え、一語一語、はっきりと音にする。

「ここはシレア国の城下町、シューザリーン。ウェスペルの目的地ではないのかしら。そうね、地図では」

 動揺に気づかれないよう、アウロラはウェスペルの視線を直に受け止めるのを避け、壁にかかる絵の方を向いた。指でその中央より少し上を押さえる。

「ここ。南側にテハイザ。シューザリエ川の上流に雪峰せきほう山脈を挟んで北側にクルーエ国。黄珊瑚おうさんごと風見鶏の港に囲まれてここから三日月みかづき湾。地図にはないけど……三日月湾から星空海ほしぞらかいの向こうはまだ途中までしか探索されていないかな」

 ウェスペルは、地図の上を辿るアウロラの指を追う。その地図に描き出された陸の形自体はウェスペルも十二分に見慣れたものだ。青い天空に白の神殿が美しい半島、海と山の美味を誇り建築が壮麗な、長靴型に突き出した国、夏でも白化粧に目を見張る山脈、どれも知っている。地図で何度も見たし、家族と訪れたところもある。そうやって知っているはずなのに、アウロラの示す地図でそれらの形はどこか微妙に記憶と違うのだ。そして彼女の口から出る名前は、なに一つとして聞いたことがなかった。

 しかもアウロラは言わなかったか、と。

「アウロラ……ここは違う……私がいたのは、西暦の二〇二十年代のはず」

「せいれき? どこかの国の暦?」

「この地図はどこのなの……」

 故郷を、行ったことのある国を、学校で習ったところと対応する場所を地図上で示しながら、ウェスペルは次々と名前を挙げる。しかしどれもアウロラの記憶にはない。歴史書を読んで時代ごとに名前を変える国があるのも知っているが、そのどれにも当てはまらない。

「一四九八年っていうのはルネサンス時代ということなの? まだ宗教改革の頃ならこの辺りの国は混乱状態じゃあないの? 私の時代にはもう、世界地図も完全な地球儀もある……私は、私は過去に来たってことなの?」

「ちょ、ちょっと待ってウェスペル」

 話しながら涙目になるウェスペルに、アウロラもこれ以上、当惑を抑えられなかった。

「せいれきもるねさんす時代もそれなに? しゅうきょうかいかく?」

 大海の向こうに誰も行き着けていないから世界地図など無理だし、「ちきゅうぎ」なんてアウロラは見たことも聞いたこともない。

 ウェスペルは、アウロラが冗談ではなく本当に何も解らないのをその表情から読み取った。もうウェスペルには、アウロラの言を疑うという希望すら残っていない。

「私は、ただ過去に戻っただけじゃなくて、別のどこかに来てしまったんだわ……」

 五百年ほど前の城の跡地へ足を運んでいたはずだった。それなのに、なんてところへ来てしまったんだろう。しかもここでは、自分が知っている時間軸すら存在しない……。

「ウェスペル……あなたは、この世界の人じゃないの……?」

 アウロラも他の世界から人がやって来るなど、神話や作り話めいた伝説でしか知らない。本で読むのは大好きで心踊ったが、現実にはない出来事だと盲目的に信じていた。

 ——ウェスペルはこの世のものでない、神話や伝説から出てきた存在なの? 

 目の前にいる「自分」の涙目の奥にある、絶望と当惑とすがる思いとが、アウロラを掴む。掴んで、放さない。それは――

「しっかりして、ウェスペル」

 それは、自我が崩れる瀬戸際の叫びだ。

 アウロラは自分に言い聞かせながら、ウェスペルの肩に置いた手に力を込めた。

「あなたはここに来た。ここにいる」

 神話? 伝説? 何を馬鹿なこと。現実ですって? 何が現実を保証するのか。ウェスペルのいた世界を自分は知らない。もしかしたら自分の方が現実でないのかもしれない。そうではないと、誰が言える? 

 いま触れている感触を誰が疑う?

「私と会って一緒に走って私の前にいて私に話しかけてる。あなたは私の知らないどこかから私のところまで来たのだから、私のところからあなたの大事な何処かにだって、行けないなんて誰も知らない」

 どれが「真実」かなんて知らない。でも、眼の前にあるのが「現実」だ。今朝、自分が城を抜け出して市場に行ったのが見つかったのも、時計が止まってしまったのも嘘じゃない――こんな時に最も大事な兄がいないのも、そして「自分」と同じとしか思えない女の子がどこかから来たのも――すべて同じように現実なのだ。起こったことが現実で、本当で、自分の手で触れていることだ。いま自分が肌で感じている相手の生々しい不安と恐怖は、現実以外の何ものでもない。

 アウロラは、目の前の少女も、自分自身も、両方を奮い立たせようと声を張った。

「あなたはここにいるんだもの、ウェスペル。鐘楼の時計が止まってあなたと会ったのは絶対偶然なんかじゃない。解決策を探すの。探すのよ。そうすれば……」

 必死で選び出す強い言葉に、ひた、とこちらを見つめ返す少女の腕を取る。

 その手に硬い何かがぶつかった。

「え……これ……」

 アウロラは今しがた掴んだウェスペルの腕の時計に目が釘付けになり、ぐいっと自分の顔の高さまで引き上げる。

「いたっ」

「あ、ごめんっ! でも、これ……」

 アウロラの視線はウェスペルの腕時計から離れない。

「ああ、でもこれ、さっき止まって……」

 腕時計を外そうとしたウェスペルの言葉が途中で切れた。

「動いてる……」

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