第十四話 交錯(二)

「おや、こりゃまあ珍客だ」

 雪崩なだれ込んだアウロラとウェスペルは、ちょうど間口の掃除をしていた宿屋の若主人にぶつかった。ぶつかられた方は怒るでも心配するでもなく、さも面白そうに二人を見比べる。

「失礼、でもちょっと間借りさせてちょうだい。あなたの宿で助かったわ。こちらの方のお部屋はどちら?」

「なんだ、今度は何やらかした? 言っとくがお偉いさんに叱られるのを代わりに請け負ってはやんねえよ? まぁ若いうちしかなかなか真正面から怒られたりもできねえからしっかり怒られな」

「もう、そんなにいつも怒られてもいないし今回も不可抗力の緊急事態よ。ともかくまず落ち着けるところが必要なの」

「大臣さんも心配で言うだけだ……ってああ、嬢ちゃんの部屋か、そっちの奥だよ」

 廊下の隅の扉を示され、茶でも持ってくか、と問う主人に礼を言って、二人は慌ただしく部屋に入った。客室の幅は狭くいかにも一人用といった風情で、調度品も寝台のほかは小さな文机と椅子があるばかりの質素なものである。しかしきちんと畳まれた布団は清潔感があり、壁には主人の趣味なのか、少し色褪せた絵が掛かっていた。額縁の中には海の上に陸が描かれ、どちらかというと地図のように見える。

 アウロラはウェスペルに椅子を勧め、自分は寝台の端に腰掛けた。酷く消耗しているのか、座りこむなり目を瞑り、深呼吸を繰り返している。

「あの、アウロラ様……」

「あら」

 すぅはぁと息をするのを止めて、アウロラが顔を上げた。

「同じ歳の頃とお見受けします。どうぞ、アウロラと」

「でも、お偉い方なのでしょう?」

 この人はさきほど第一王女と言ってはいなかったか。宿の主人の対応はそういう偉い人へのものとは思えなかったけれど。

 しかし戸惑うウェスペルを、紅葉の瞳がまっすぐに見つめる。

「確かにわたくしはこの国の人々にとっては王女で、敬称をつけて呼ばれています。でも、だからといって偉いわけではないのです。毎日の食べ物や住むところを作ってくださる方々の方がよほど偉いと思いますもの」

 大きくはないが芯のある響きは、間違いなく市場で群衆を前に朗々と述べた声と同じだった。

「皆がわたくしたちを呼ぶのに敬称を付けるのは、王族が国の一切の責任を引き受ける……自分の不祥事でなくても。そういう責を代わりに背負うから、そして皆を統べて国の安定を担わなければならないからですわ。代表として上に立つ者を立てないと崩れる秩序もありますし」

 アウロラの態度は飄々としていて、謙遜も虚飾もまるでない。

「でも、国民以外の方にわたくしが何かをして差し上げているのではありません。様付けで呼んでいただく理由はないのですもの」

 そうして緊張に張り詰めていた頬を笑みに崩した。

「それでは、私の方も様付けはいりません、アウロラ。ウェスペルと」

「本当? 嬉しい! 同年代の女の子で気軽に話してくれる人、城の中にはいないのだもの。街の人は砕けて話してくれるからいいけど、城では特に老中やら女官長やらしゃっちょこばってかたっ苦しいったら。疲れるのよね。中には小生意気な小娘って顔に書いてあるくせに言葉だけ丁寧なのまでいるんだもの。もう普通に名前で呼んでくれるなんてお兄様のほかいなかったのよ」

 明るく言い放ち眼をきらきらさせる表情は、ウェスペルと何も変わらない、好奇心強く、友人と話したり食事をしたり街を歩くだけで笑いの止まらない年頃の女の子の顔だった。

「それでウェスペル、私にも何が起こっているのかさっぱり分からないの。あなた、つまり自分自身としか思えない人が自分と違う人みたいに目の前にいるのは、もしかしたら千人に一人くらいにはあることなのかもしれない。でも今の事態にこんなことって、まさか偶然だなんてとてもじゃないけれど思えないわ。そして今ね……」

 次の一瞬、紅葉色の瞳に影と鋭い光がほぼ同時に差したように見え、息急いきせき切って口から出ていた言葉が途切れる。そして一呼吸おき、アウロラは「あなたのお国はどちら」と尋ねた。

 ウェスペルの方はといえば、電源の入った機械のように勢いよく喋るアウロラに圧倒されており、急に水を向けられて考えるより前に故郷の国の名が口からついて出ていた。

 耳にしたばかりの国名を繰り返し、アウロラは、聞いたことがない、と首を傾げる。

「少なくともシレア国に近い国々にも、国際会議に参加している国にもそんな名前はないわね。でも海の向こう側のずーっと向こうに何があるかって確証もないし……」

 言いながら、アウロラは内心で自分を恥じていた。ウェスペルにした質問は、口を滑らせて自国の状況を下手に外国の旅人に告げてはまずいという、脳に咄嗟に響いた警鐘から発した問いではあった。だが初めから、ウェスペルが間諜の類でないという強い直感があったのだ。それがなぜだか分からない――分からないのだが、目の前にいる「自分」は、何においても自己を委ねて良い相手。それを信じず疑うのは、自分を否定するのと同じこと。理性や理屈を通り越したところで、そう確信めいた思いがする。

「あなたにこの状況を話したい。ごめんなさい、あなたに何か具体的にして欲しいことがあるというのでは……差し当たり緊急でそういうことはないのだけれど、今の状況をあなたに言わないと私がどうにかなってしまいそう」

 今日これまでに起きた事実の衝撃が強すぎて、王女としての体面も何もかも気にせずに吐露しないとはち切れて身が粉々になりそうだった。普段は理性が平静を保つよう己を制御するはずなのに、今は衝動の方が強くて抑えが効かない。アウロラはこの国の時計が止まってしまったこと、そもそもこの時計が持つ不思議のこと、他に時を知る術がなく国の秩序にとって決定的な危機であること、そして――そんな不可解な状況でウェスペルに出会ったことを一気に語った。ウェスペルに話すのはまるで自分に向かって話すようで、もはや躊躇とまどいなど微塵も無かった。それに我慢せずに口に出すにつれ、頭の中で一連の出来事が改めて整理されていくのが感じられて、暗闇の中をもがいていたような感覚が薄れてくる気がするのだ。

 次第に喋りが闊達になってくるのを自覚しつつも勢いに任せ、あらかたのところを話し終える。そこでアウロラは初めて、眼前の「自分」の様子がおかしいのに気が付いた。

「ウェスペル?」

 ウェスペルの顔色からは血の気が引いていた。唇は半開きになり、瞳がアウロラを見つめて動かない。

 違う、動かないのではない。アウロラは自分で知っている。この瞳を。のだ。

 紅葉の色が、驚愕と恐怖に凍りついている。

「ウェスペル? どうしたの」 

 問いかける声は、ウェスペルの耳にほとんど入ってこない。

 ――自分の生まれた時にはもう、地球儀があった。海の向こう側の国が分からない? この国は……

「ここは……どこなの」

「え? シレア国首都、シューザリーンの城下よ?」

 そんな国も街も、ウェスペルの知る世界地図にはない。荷馬車もランタンも、地方の村で見ることはあるが、多くの都市では非日常的に懐古的な気分を味わわせるという一興に過ぎない。人はもう、大きな翼のある乗り物で空を飛ぶ時代である。なのに、時計すら、一つしかない? 時計の機構を知らない?

「今は、いつなの……?」

 震え声の問いに不安を誘われながら、アウロラは答えた。

「朝からこれ以上、時間が変なことになっていなければ……月海暦げっかいれきで一四九八年秋の豊穣祭の十日前よ」

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